橿原日記 平成16年8月13 日

法隆寺宝物館で飛鳥時代の金銅仏を観る


飛鳥仏像彫刻の主流:止利様式

近、故あって飛鳥時代の仏像彫刻をもう一度勉強し直したいと思っている。我が国の史書は538年あるいは552年に百済から初めて仏教が公式に伝えられたとしている。しかし、本格的な寺院建築が始まるのは500年代の末になってからだ。寺院が建立されれば、その本堂に安置する仏像の制作も必要だ。我が国の最初の仏教寺院は596年に創建された飛鳥寺(法興寺)であるとされている。それから28年間に46の寺が造られたという。と言うことは、それに見合うだけの、あるいはそれ以上の仏像が作られたことになる。

の時代の仏像をはじめとするさまざまな仏教芸術は、朝鮮半島を経由してもたらされた中国六朝時代の美術の影響を受けている。さらに言えば、当時の中国は、北魏時代から東・西両魏の時代にかけての北朝美術と、同じ時代の南朝美術という二つの大きな流れがあった。その流れを受けて、我が国ではさまざまな様式の仏像が造られたと思われるが、その中で主流を占めたのは止利派と呼ばれる仏像制作集団だった。

飛鳥大仏
飛鳥大仏
釈迦三尊像
法隆寺金堂の釈迦如来像
利派とは、言うまでもなく鞍作止利(鳥ともいう)を中心とする工房をいう。彼が制作したとされる2つの仏像が現存している。明日香村にある飛鳥寺の釈迦如来像(=飛鳥大仏)と法隆寺金堂の釈迦三尊像だ。止利様式と呼ばれる仏像は、北魏の仏像様式の影響を強く受けていて、次のような独特な特徴を持つ。
●奥行きがなく、正面観照を重視している
●衣文や服飾が左右対称である
●面長で古拙な微笑を浮かべている
●抽象化した衣文を裳懸座(もかけざ)としている

かし、建久7年(1196)に飛鳥寺が落雷で全焼したとき、本尊の飛鳥仏も焼け落ちてしまい、わずかに仏頭と指などが残されただけだった。現在の仏像はその後大修理されたものだが、とても原形に復したものとは言えない。原形を留めている箇所は、わずかに頭部の額・両眉・両眼・鼻梁の部分、左手の掌の一部、右膝上にはめ込まれる左足裏と足指、右手中指・薬指・人差指だけといわれている。

利様式を完全な形で現代に伝えている遺品に、法隆寺金堂の釈迦三尊像がある。ところが、この仏像を拝観しようと思って何回も法隆寺を訪れてきたが、未だにその全像をまともに見たことがない。この金堂は、昭和24(1949)年1月、壁画の模写をしていた作業員が保温用に使っていた電気座布団のスイッチの切り忘れが原因で国宝の十二面壁画の大半が焼損した悲しい過去を持つ。「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」の例えではないが、堂内では現在でも電気照明をいっさい使用していない。したがって、ライトペンでもあらかじめ用意していかなければ、この仏像を拝観できない。

ころが、止利様式の仏像を身近で実見できる場所がある。東京国立博物館の敷地内に建っている法隆寺宝物館だ。一昨日は高句麗好太王の拓本を見るために、この博物館の東洋館を訪れたが、今日は法隆寺献納宝物の中の金銅仏を見るために、法隆寺宝物館を訪れることにした。相変わらず暑い日差しが降り注ぎ、上野公園に植えられた木々からは、暑さを一層つのらせる蝉時雨がうるさいほどだった。



第二室の展示ケースに納められた数々の金銅仏

法隆寺宝物館
法隆寺宝物館
物館の正面玄関を入ってすぐに左へ続く道を進むと、筑前福岡藩主黒田家の建物の棟を飾った巨大な鬼瓦と、もと因州池田家江戸屋敷の表門だった黒門が左手に並んでいる。その先の水をたたえた池の中に、前面が総ガラス張りの直方体の建物が浮かび上がっている。それが建築家・谷口吉生氏設計の法隆寺宝物館だ。

倉院宝物とならぶ古代美術の宝庫として知られる法隆寺宝物館は、明治時代の初めに法隆寺から献納された宝物319点を保存する建物として昭和39年(1964)に開館した。その当時は、公開日は週一日に限られていたが、開館日の増加を求める声が高まったため、同じ場所に、規模を拡大し保存と展示公開の両方ができる建物として、平成11年(1999)7月に建て替えられた。

ントランスホールから第一室に入ると、そこには法隆寺献納宝物を代表する名品の灌頂幡(かんじょうばん)と金銅小幡を展示してある。本堂の荘厳さを演出するために天井からつり下げられた垂れ飾りで、7世紀後半の白鳳期に制作された可能性が高いとされている。

銅仏や光背、押出仏を陳列している第二室は、第一室の奥にある。この部屋に一歩足を踏み入れると、まことに不思議な光景が目に飛び込んでくる。横7本縦4本の展示ケースがまるで復元遺跡に建てられた列柱のように並んでいる。金銅仏が四方から鑑賞できるようにとの配慮から、この展示方法が採用されたとのことだ。そのうち2本は建物の柱なので、実際の展示ケースは26個ある、それぞれに金銅製の観音菩薩立像が展示してある。

第2展示室
金銅仏の展示ケースがならぶ第二室
銅仏とは、銅で鋳造し、金メッキを施して仕上げた仏像で、日本では7世紀ごろに盛んに造られた。列柱形式の展示ケースに納められているのは、ほとんどが20cm〜30cmほどの大きさの観音菩薩立像である。一見したところ、同じ造形のように見えるが、そうではない。順番に見ていくと、それぞれの顔が違っていて、それなりに楽しい。飛鳥時代の終わり頃には、貴族の家ごとに仏舎を造ることが義務づけられたので,そこに納める仏像として小型の金銅の仏像が多く造られた。すでにメッキがはがれて、地金の銅が黒光りしている小金銅仏を見ると、物言わぬ仏像を前にして喜怒哀楽を示したであろう古代人の姿が目に浮かぶようである。

柱の奥に横長の衝立が設けられ、その向こうに三尊像や如来座像、如来倚像、菩薩半跏像などが、壁に面した展示ケースの中に陳列してある。その中に、止利工房で造られたと思われる3体の金銅仏があった。N145、N149、N155と識別番号が付されたこれらの仏像は、左右対称的な構成をしており、特にN145などは抽象化した衣文を裳懸座(もかけざ)としているなど、止利様式の特徴をよく伝えている。

如来座像 N145 如来立像 N149 菩薩半跏像 N155
如来座像 N145 如来立像 N149 菩薩半跏像 N155

鳥時代から後の世に造られた仏像を見慣れている我々には、止利様式の仏像は一種異様なものに感じる。左右対称の造形、面長な顔、杏仁形の目、それに唇に浮かべたアルカイックスマイル。こうした造形から受ける印象は、抽象的であり神秘的ですらある。そこには慈愛に満ちた眼差しはない。まるで、止利個人の精神性を仏の形に表したのでは、との疑念すら覚えてくる。彼が生まれ育った時代に、こうした研ぎ澄まされた造形感覚を彼に与えたものはなんだったのだろうか。



法隆寺の宝物が献納された背景

十八体仏の48という数は、実数を表したものではない。阿弥陀の48願に懸けたもので、第二室に陳列されているのは、法隆寺に伝わった飛鳥時代から天平時代にわたる小金銅仏59体である。その中には寺運が傾いて、承暦2年(1078)に橘寺から移されたものも含まれている。これらの金銅仏が皇室に献納され宝物館に陳列されるようになった経緯を、お恥ずかしいことにほとんど知らなかった。気になったので、中二階にある資料室で少し調べてみた。そしたら、いろいろと面白い背景が見えてきた。

は明治初年までさかのぼる。慶応4年(1868)の3月、明治政府は神仏混淆を禁止し、寺院と神社を分離するように命じた神仏判然令を出した。この通達は、復古神道の影響下で天皇の神聖化をはかるために、手始めとして先ず寺と神社を明確に分離し、中世以来の神仏習合の状態を改める意図で出されたものである。ところが、この通達が全国的な廃仏毀釈運動の引き金となった。人々は寺を急襲してぶち壊し、仏像をはじめ大切な寺宝を破壊したり盗みさった。

良の諸大寺も例外ではない。聖徳太子の寺として親しまれてきた法隆寺も寺宝流出の危機に瀕していた。事態を重く見た明治政府は、明治4年(1871)に「古器旧物保存令」を出し、翌明治5年には、調査官を法隆寺に派遣して寺宝を徹底的に調査した。明治8年(1875)、奈良博覧会が東大寺大仏殿と回廊を利用して開催された。このとき、正倉院の御物とともに、「法隆寺所蔵の聖徳太子御物」157点が展示されおおいに人気を呼んだという。明けて明治9年(1876)にも、7月から同様な博覧会が東大寺大仏殿で開催された。

題はその後である。二回目の奈良博覧会が終わったにもかかわらず、法隆寺の宝物は法隆寺に返されずそのまま東大寺尊勝院に保管されたままだった。その理由が面白い。宝物が宮中に献納しようという計画が持ち上がったため、あえて法隆寺に戻さなかったと説明されている。

の年の11月に法隆寺から宮内省へ寺宝の献納願いが出されたという。その時の宝物リストの項目は、明治5年に行われた寺宝調査の際に作られた検査宝物のリストと項目がほぼ一致し、二回の博覧会に出品された品目とも合致しているという。実は、奈良博覧会を発案し実行したのは、明治5年の寺宝調査行なった宮内庁の役人たちである。

「聖徳太子二王像」(唐本御影)
「聖徳太子二王像」(唐本御影)
たがって、少しうがった見方をすれば、奈良博を計画した段階で、その目玉として聖徳太子御物を法隆寺から出品させる目的で、宝物の調査を行ったとも考えられる。少なくとも法隆寺の意志とは関係のないところで、宝物のリストが作られ、その献納が要請されたというのが実情であろう。その証拠に、寺宝の献納願いが受理されてもいないうちに、法隆寺はその一部の返却願いを提出している。いかにも権威を笠に着た役人のやりそうなことである。

にはともあれ、明治11年(1878)2月、献納の裁可が下されて、伽藍の修理等に充当する名目で金一万円が下賜された。こうして、献納宝物は帝室御物となって、3月に東大寺尊勝院から正倉院倉庫に遷された。その中には、「聖徳太子二王像」(唐本御影)や「法華義疏」、「細字法華経」など法隆寺における太子信仰の根幹をなすものが含まれていた。

白い逸話が残されている。上に述べた「聖徳太子二王像」や「法華義疏」など12点だけは、明治11年5月には、”宮内省へお持ち帰り品」として、早々と東京に運ばれたらしい。残りの献納宝物は、明治15年(1882)に12月に堺から海路東京へ運ばれた。その際に櫃(ひつ)の取り違えが生じ、一部の宝物が正倉院に残り、逆に正倉院御物の一部が混じって東京に送られたという。

町に陸揚げされた300余点の宝物はすべて皇居に運ばれ、明治天皇の御覧に供してから、「聖徳太子二王像」や「法華義疏」など10数点は天皇の手元にとどめ置かれ、侍従職の保管となった。その他は、上野公園に新たに建設された内務省の博物館に保管された。

二次大戦後、マッカーサーの指令で、皇室財産の整理が行われ、法隆寺の宝物は国家の保管とする方針が立てられた。このとき、法隆寺側から「宝物は皇室に献上したもので、国家に差し出したものではない。皇室で保管できないなら返却願いたい」との申し出がなされた。そこで、博物館と法隆寺が協議して、将来専用の宝庫をつくること、および明治10年に返却を却下した品々を返すことを条件に、献納宝物は国有財産となり、国立博物館に所属することになった。

従職が保管していた宝物のうち7点は、戦後の財産処理のとき、皇室関係のものだからということで、天皇の御物として皇室に残された。その中には、「聖徳太子二王像」や「法華義疏」などが含まれる。こうして、法隆寺献納宝物と袂を分かつことになった品々は、ますます国民の目から隔てられた存在になってしまった。今年の奈良国立博物館の「特別展・法隆寺」で、「聖徳太子二王像」や「法華義疏」が出品されると聞いて、胸を膨らませながらでかけた。だが、展示されていたのはレプリカだった。


【本項の参考・引用文献】東野治之著『法隆寺献納宝物の銘文』(東京国立博物館編『法隆寺献納宝物銘文集成』所収)、法隆寺宝物館作成ガイド『法隆寺宝物館』、武田佐知子著『信仰の王権 聖徳太子』(中公新書1165)


2004/08/13作成by n_ohsei2002@bell.jp return