陳列室に展示された巨大な3種類の拓本
石碑には、四つの面すべてに、一辺11〜15cmほどの文字が、大振りで古拙な隷書体で刻まれている。その数は1802字にも達する。これらの文字を一辺数十センチの紙で写し取り、その紙を貼り合わせて一幅の拓本に仕上げるのだから、作業も大変である。 よく見ると、原石拓本、墨水廓填本(ぼくすいかくてんぼん、あるいは双鈎加墨本ともいう)、臨書本の3種類が展示してある。 原石拓本は、文字通り碑面に墨汁を塗り紙を押し当てて碑面から直接採択したものだが、不鮮明な文字はその周囲に石灰を塗って鮮明にしたという。そのため、誤った文字が作られたこともあるらしい。展示してある拓本は、石灰がかなり剥げ落ちた段階のもので、碑の本来の姿に近いとのことだが、素人目にはいずれの文字も判然としない。
臨書本は、絹に筆で好太王碑の銘文を書き写したものである。明治16年(1883)に日本陸軍の酒匂影信将校が持ち帰った墨水廓填本を臨写したものと推定されている。よく見ると、墨水廓填本を比較的忠実に写した文字と、楷書風に表した文字が見られ複数の人物が、臨写に関与したようだ。 これらの拓本の中で、是非見ておきたかったのは、酒匂本(さかわぼん)と呼ばれている墨水廓填本である。酒匂影信は、明治15年(1882)に集安を訪れ、1辺数10cmチほどの紙に数文字から10数文字を表わした碑文の墨水廓填本131枚一式を入手し、翌明治16年に日本へ持ち帰った。しかし、本来の配列がわからなくなってしまったため、日本の学者が研究し推定復元して、四幅に仕立てられた。その墨水廓填本が明治23年(1890)に東京国立博物館に納められた。これを一般に酒匂本と呼びならわしている。
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好太王の時代好太王碑は、大きく3つの部分から構成されている。まず、高句麗の建国説話と好太王の碑を建てた事情を述べ、その後に好太王の軍事面での功績を列挙し、最後に王の陵墓の墓守制度を記して、違反する者は処罰すると記して全文を締めくくっている。
■永楽5年(395)、王は西北の俾麗(契丹の一部族)に親征し、無数の牛・馬・羊を獲得した。 このように、好太王は自ら軍隊を率いて、北方だけでなく、朝鮮半島の南下によって百済領を切り裂き、百済と結ぶ倭・加耶南部を撃ち破り、新羅を高句麗の勢力圏に引き戻した。その22年の治世は戦いに明け戦いに暮れ、その贈り名の通り領土拡大に捧げたすさましい一生だったと言って良い。
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旧日本軍による碑文すり替え説と隠蔽するための「石灰塗布作戦」
ところで、上に述べた戦績から分かるように、高句麗軍の南面方面の最大の敵は、倭と呼ばれていた当時の日本からの派遣軍である。当時の倭は百済と新羅を配下に押さえ、その派遣軍は新羅の王都・慶州を占拠したり、帯方軍の故地まで侵入して高句麗軍と戦っている。しかるに、この時期に日本が朝鮮半島に軍を派遣したというのは事実ではなく、碑文の解釈、さらには碑の文字になんらかの問題があるとする説がある。
特に、碑文の解釈で問題になっているのは、次の箇所だ。 ところが、1972年、在日朝鮮人学者・李進熙(リシンヒ)氏は、酒匂景信は双鉤本(墨水廓填本)をつくるとき碑文をすり替えたとする説を発表した。さらに、1900年前後には、酒匂景信の碑文すり替えを隠蔽するために、参謀本部が「石灰塗布作戦」を行った、と主張した。当然のことながら、この説は当時の歴史学会に一大センセーションを巻き起こした。李進熙氏がその主張のために徹底調査したのが、今回展示されている東京国立館所蔵の墨水廓填本である。 その後の日本、韓国、中国の歴史学者の熱い論戦の結果、李進熙の説は最終的には退けられたが、基本史料を厳密な考証なしに無批判で使用してきた歴史学会に警鐘を鳴らした意義は大きい。現在も、碑文の解釈については、おさまざまな説が出されていて、決着をみていない。 最大の関心事は、当時の我が国が朝鮮半島に多くの軍隊を派遣できるほど、強力な国家だったかどうかである。倭の軍隊は列島から派遣されたのではなく、半島南部に住み着いていた倭人が傭兵として百済に雇われたのだという説すらある。しかし、当時の倭と百済が同盟関係にあったことを記す証拠が、『日本書紀』の中にある。神功皇后52年9月に、百済からこの七支刀が倭国に送られてきたという記載である。神功皇后52年は、西暦に修正すると372年にあたる。
当時の百済は、倭と軍事同盟を結ばざるを得なかった事情がある。建国間もない百済は、370年前後には北の強国・高句麗と毎年のように軍事衝突を繰り返していた。百済としては、北の高句麗に対抗するには、どうしても強力な軍事支援を必要とした。『日本書紀』は、367年に百済が初めてヤマト朝廷に朝貢してきたと記す。七支刀を送られてくる5年前のことである。以来、毎年のように使節を遣わしてきている。372年には、倭から派遣された千熊長彦と百済王は百済の古沙山に登り、磐の上で同盟の誓いを立てたとしている。七支刀はこの同盟を記念して作られたことになる。 当時の朝鮮半島の緊張状態を勘案した場合、軍事同盟に基づく軍隊の派遣は当然あり得た。『日本書紀』によれば、369年に現在の群馬県にあたる上毛野の豪族の荒田別(あらたわけ)と鹿我別(かがわけ)の2人が将軍として朝鮮半島に渡り、新羅を服属させたという。『日本書紀』の記述がどこまで史実を反映しているか分からないが、すくなくともこの時期、日本からの派兵の事実はあったと考えてよい。しかも、九州からだけでなく東国の上毛野国あたりからも派遣されていたのが事実なら、いろいろ考えさせられることがある。 |