橿原日記 平成16年8月10 日

東京国立博物館の東洋館で好太王碑の拓本を観る


東京国立博物館で好太王碑の拓本を特集陳列中

句麗第19代好太王(こうたいおう)(在位391〜412)は、死後、「国岡上広開土境平安好太王」と贈り名された。その諡号が示すように、領土を拡大し、高句麗の最盛期の基礎を築いた偉大な王である。父・故国壌王の死で、王は18歳の若さで即位すると、39歳で没するまで、西北は燕、南方は百済,およびこれと結ぶ倭人と戦って領土的発展につとめた。
東洋館
東京国立博物館内の東洋館

後2年目の414年、第20代長寿王の手で王の功績を称えた高さ6m余の顕彰碑が建立された。後世、好太王碑の名で知られるこの巨大なモニュメントが、現在の中国吉林省輯安県の鴨緑江の河岸に建っている。

太王碑は、当時の東アジア史を語る上で第一級の金石史料である。いつか実際の石碑を我が目で見てみたいと思いながら、未だ望みを果たしていない。ところが、昨年の9月、韓国西海岸を旅行したとき、思いがけず好太王碑の実物大のレプリカに遭遇した。場所は、仁川の松巌美術館。玄関を入ると、左手に圧倒的な大きさを誇示するように黒ずんだ岩肌のレプリカは聳えていた。

月、中国・蘇州で開かれた第28回ユネスコ世界遺産委員会で、北朝鮮の「高句麗古墳群」、中国の「高句麗の古代都市と王族・貴族の古墳群」の世界遺産登録が決まった。それを記念して、東京国立博物館は「好太王碑」の拓本と碑の周辺から出土した資料をあわせて特別展示している。本日都心に出かける用事があったので、ついでに博物館に寄ってみた。



陳列室に展示された巨大な3種類の拓本

好太王碑
好太王碑
別陳列は東洋館2階の第8室で行われていた。陳列室に入ると、部屋の壁3面に設けられたガラスケースの中に、拓本が何枚も展示してあった。なにしろ石碑は6.3m、断面が1.5〜2mもある四辺形の角閃凝灰岩の巨大な柱である。当然の事ながら、その碑面の拓本も巨大とならざるをえない。

碑には、四つの面すべてに、一辺11〜15cmほどの文字が、大振りで古拙な隷書体で刻まれている。その数は1802字にも達する。これらの文字を一辺数十センチの紙で写し取り、その紙を貼り合わせて一幅の拓本に仕上げるのだから、作業も大変である。

く見ると、原石拓本墨水廓填本(ぼくすいかくてんぼん、あるいは双鈎加墨本ともいう)、臨書本の3種類が展示してある。

石拓本は、文字通り碑面に墨汁を塗り紙を押し当てて碑面から直接採択したものだが、不鮮明な文字はその周囲に石灰を塗って鮮明にしたという。そのため、誤った文字が作られたこともあるらしい。展示してある拓本は、石灰がかなり剥げ落ちた段階のもので、碑の本来の姿に近いとのことだが、素人目にはいずれの文字も判然としない。

碑文第一面
酒匂本 碑文第一面(部分)
水廓填本(ぼくすいかくてんぼん)というのは、まず碑面から直接採択した原石拓本を資料として、それを淡墨による点描ふうの細密な筆使いで別紙に写し取り、その後に荒い筆致の濃墨で字画をなぞり,文字の周囲を墨汁で塗りつぶして拓本のような体裁に仕立てたものである。このため、黒地に白字がくっきりと浮かび上がり、文面は読みやすい。

書本は、絹に筆で好太王碑の銘文を書き写したものである。明治16年(1883)に日本陸軍の酒匂影信将校が持ち帰った墨水廓填本を臨写したものと推定されている。よく見ると、墨水廓填本を比較的忠実に写した文字と、楷書風に表した文字が見られ複数の人物が、臨写に関与したようだ。

れらの拓本の中で、是非見ておきたかったのは、酒匂本(さかわぼん)と呼ばれている墨水廓填本である。酒匂影信は、明治15年(1882)に集安を訪れ、1辺数10cmチほどの紙に数文字から10数文字を表わした碑文の墨水廓填本131枚一式を入手し、翌明治16年に日本へ持ち帰った。しかし、本来の配列がわからなくなってしまったため、日本の学者が研究し推定復元して、四幅に仕立てられた。その墨水廓填本が明治23年(1890)に東京国立博物館に納められた。これを一般に酒匂本と呼びならわしている。


好太王の時代

太王碑は、大きく3つの部分から構成されている。まず、高句麗の建国説話と好太王の碑を建てた事情を述べ、その後に好太王の軍事面での功績を列挙し、最後に王の陵墓の墓守制度を記して、違反する者は処罰すると記して全文を締めくくっている。

将軍塚
好太王の墓の可能性が指摘されている将軍塚
の好太王碑は、資料が少ない高句麗の歴史を知る上できわめて貴重な史料であることは論を待たない。広開土の功績を顕彰する目的で建てられた碑であるから、もちろん誇大化されてい部分もある。その分を差し引いても、広開土は偉大な王であったことが分かる。その輝かしい功績を、碑文に従って整理してみよう。

■永楽5年(395)、王は西北の俾麗(契丹の一部族)に親征し、無数の牛・馬・羊を獲得した。
■百済と新羅は高句麗の臣民だったが、辛卯の年(391)に倭がやってきて、百済・新羅を臣民としてしまった。そこで、永楽6年(396)、王は百済に親征した。この時、百済の王都漢城にせまり、百済王に忠誠を誓わせ、王子らを人質とし、58城邑の700村を奪取して凱旋した。
■永楽8年(398)年、東北の粛真に軍を派遣し、300余りの捕虜を獲得し、朝貢を促した。
■永楽9年(399)年、百済は誓約したにもかかわらず、ふたたび倭と和通したため、それを再攻撃するため平壌まで進軍した。そのとき、新羅王が使者を遣わして「倭人が多数押し寄せている」と言ってきた
■永楽10年(400)年、新羅から救援の要請をうけ、王は5万の歩兵・騎兵を派遣して新羅を救援した。高句麗軍は新羅王都にいた倭軍を駆逐し、さらにそれを追って任那加羅(金海)まで進み、安羅(咸安)人の守備兵とも戦い、勝利した。倭におさえられていた新羅はこの結果朝貢するようになった。
■永楽14年(404)年、倭は無道にも帯方界に侵入してきた。王は兵を率いて倭と戦った。倭は大敗し、惨殺された者は数え切れなかった。
■永楽17年(407)、5万の軍をおそらくは百済(? 派遣先の文字読めず)、6城を奪取した。
■永楽20年(410)、王は東方の東夫餘(北沃沮)に親征し、その王都にせまり慕化する民を引きつれて凱旋した。

のように、好太王は自ら軍隊を率いて、北方だけでなく、朝鮮半島の南下によって百済領を切り裂き、百済と結ぶ倭・加耶南部を撃ち破り、新羅を高句麗の勢力圏に引き戻した。その22年の治世は戦いに明け戦いに暮れ、その贈り名の通り領土拡大に捧げたすさましい一生だったと言って良い。


旧日本軍による碑文すり替え説と隠蔽するための「石灰塗布作戦」

碑文の問題箇所
碑文の問題箇所

ころで、上に述べた戦績から分かるように、高句麗軍の南面方面の最大の敵は、倭と呼ばれていた当時の日本からの派遣軍である。当時の倭は百済と新羅を配下に押さえ、その派遣軍は新羅の王都・慶州を占拠したり、帯方軍の故地まで侵入して高句麗軍と戦っている。しかるに、この時期に日本が朝鮮半島に軍を派遣したというのは事実ではなく、碑文の解釈、さらには碑の文字になんらかの問題があるとする説がある。

に、碑文の解釈で問題になっているのは、次の箇所だ。
百残新羅旧(原文は古い字体)是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡□破百残□□新羅以臣民以六年丙申王躬率□軍討滅・・・・・
の意味は、通説では、「百済と新羅はもと(高句麗)の属民で、ずっと高句麗に朝貢してきた。しかるに、辛卯年(391年)に倭が海を渡ってやって来て百済や新羅などを破って臣民とした。そこで丙申年(396年)に王は自ら軍を率いて・・・・」であった。

ころが、1972年、在日朝鮮人学者・李進熙(リシンヒ)氏は、酒匂景信は双鉤本(墨水廓填本)をつくるとき碑文をすり替えたとする説を発表した。さらに、1900年前後には、酒匂景信の碑文すり替えを隠蔽するために、参謀本部が「石灰塗布作戦」を行った、と主張した。当然のことながら、この説は当時の歴史学会に一大センセーションを巻き起こした。李進熙氏がその主張のために徹底調査したのが、今回展示されている東京国立館所蔵の墨水廓填本である。

の後の日本、韓国、中国の歴史学者の熱い論戦の結果、李進熙の説は最終的には退けられたが、基本史料を厳密な考証なしに無批判で使用してきた歴史学会に警鐘を鳴らした意義は大きい。現在も、碑文の解釈については、おさまざまな説が出されていて、決着をみていない。

大の関心事は、当時の我が国が朝鮮半島に多くの軍隊を派遣できるほど、強力な国家だったかどうかである。倭の軍隊は列島から派遣されたのではなく、半島南部に住み着いていた倭人が傭兵として百済に雇われたのだという説すらある。しかし、当時の倭と百済が同盟関係にあったことを記す証拠が、『日本書紀』の中にある。神功皇后52年9月に、百済からこの七支刀が倭国に送られてきたという記載である。神功皇后52年は、西暦に修正すると372年にあたる。

七支刀
刀身の左右に各3本の枝刃と段違いに作り出した特異な形状の七支刀
支刀とは、石上神宮に古くから伝わる神宝である 以前は百済からの「献上」品か「下賜」品かで、歴史的事件に現在のナショナリズムを持ち込んだ誠に意味のない論争が、日韓の歴史学者の間で続いた。現在では、対等の独立国である両国が一種の軍事同盟を結んだ記念に百済から倭国に贈呈されたものとして、一応落ち着いている。

時の百済は、倭と軍事同盟を結ばざるを得なかった事情がある。建国間もない百済は、370年前後には北の強国・高句麗と毎年のように軍事衝突を繰り返していた。百済としては、北の高句麗に対抗するには、どうしても強力な軍事支援を必要とした。『日本書紀』は、367年に百済が初めてヤマト朝廷に朝貢してきたと記す。七支刀を送られてくる5年前のことである。以来、毎年のように使節を遣わしてきている。372年には、倭から派遣された千熊長彦と百済王は百済の古沙山に登り、磐の上で同盟の誓いを立てたとしている。七支刀はこの同盟を記念して作られたことになる。

時の朝鮮半島の緊張状態を勘案した場合、軍事同盟に基づく軍隊の派遣は当然あり得た。『日本書紀』によれば、369年に現在の群馬県にあたる上毛野の豪族の荒田別(あらたわけ)と鹿我別(かがわけ)の2人が将軍として朝鮮半島に渡り、新羅を服属させたという。『日本書紀』の記述がどこまで史実を反映しているか分からないが、すくなくともこの時期、日本からの派兵の事実はあったと考えてよい。しかも、九州からだけでなく東国の上毛野国あたりからも派遣されていたのが事実なら、いろいろ考えさせられることがある。



2004/08/11作成by n_ohsei2002@bell.jp return