橿原日記 平成16年7月11 日

万葉の大和路を歩く会 「せせらぎ響む飛鳥川・島の宮」に参加


講師の園田学園女子大学・影山尚之教授
講師の園田学園女子大学・影山尚之教授
葉の大和路を歩く会は第309回目のコースとして「せせらぎ響む飛鳥川・島の宮、犬養万葉記念館へ」を企画した。集合場所は近鉄橿原神宮前駅中央口。講師は園田学園女子大学の影山尚之教授。バスで栢森(かやのもり)まで行き、そこから飛鳥川に沿って下りながら、それぞれのスポットで万葉歌を解説して貰うことになっている。久しぶりにこの「歩く会」に参加した。

回のコースは、飛鳥川の源流を歩く企画と言ってよい。第285回「せせらぎ響む飛鳥川・檜隈」の時とほぼ同じである。だが、講師の影山氏は今回が初お目見えとのこと。どんな講義をされるのか興味が湧いた。

今回のコース hspace=
日の飛鳥地方の天気予報は、午前中は曇り、午後からは晴れ、降水確率は10%。 ところが、バスで出発する前からスコールのような雨に見舞われた。10%の確率がもろに的中した。

前9時30分、約150人近い参加者が4台のバスに分乗して予定通り栢森(かやのもり)へ向かう。幸いにも、栢森の集落に着くころは雨は小降りになった。

【コース】 橿原神宮前駅→(バス)→加夜奈留美命神社→宇須多伎比売命神社→南淵請安墓→万葉の石橋・歌碑→坂田寺跡・歌碑→稲淵宮殿跡・歌碑→石舞台公園→犬養万葉記念館→(バス)→橿原神宮前駅。徒歩区間約7km


飛鳥の甘南備とされる加夜奈留美命(かやなるみのみこと)神社

加夜奈留美命神社
スが栢森(かやのもり)集落の南の端で止まった。ここから先は民家はない。県道とは名ばかりの15号線が、杉木立の間を縫って芋峠(いもとうげ)に続いている。栢森の集落は、V字谷が深く切り込んだわずかばかりの空間に位置する山村である。飛鳥川の源流に近い。その集落の一角に、加夜奈留美命(かやなるみのみこと)を祀る旧村社が鎮座している。

夜奈留美命はまことに不思議な神で、知名度はそれほど高くない。我が国の神話を扱った『古事記』にも『日本書紀』にも登場しない。『延喜式』(927に編纂)の神名帳に引用された『出雲國造神賀詞』(いずものくにのみやつこのかむよごと)の中で、初めて登場する神である。この神賀詞とは、出雲国造が代替わりする時に、新任の国造(くのみやつこ)が朝廷に出向いて奏上する祝詞(のりと)の一種である。それにによれば、国譲り神話で有名な大穴持命(おおなもちのみこと、大国主命)は、国土を天孫に譲って出雲の杵築へ去るにあたって、自らの和魂と子女の御魂をそれぞれ大和の4カ所に鎮座させ”皇室の近き守り神”とした。

栢森の集落遠望
栢森の集落遠望
拝殿
加夜奈留美命神社の拝殿
本殿
加夜奈留美命神社の本殿
の中にあって、飛鳥の神奈備(かんなび、神が鎮座する山や森)に鎮座させたのが、賀夜奈流美命の御魂とされている。「延喜式」神名帳では、この甘南備を高市郡「加夜奈留美命神社」としている。高市郡のどこに甘南備あったのかは不明であるが、『日本紀略』には天長6年(829)、高市郡賀美郷甘南備山の飛鳥社を、神の託言によって同郷の鳥形山に移したと記録している。飛鳥大仏で有名な飛鳥寺の山号は、鳥形山である。あるいは甘樫丘(あまかしのおか)の北側の豊浦展望台があるあたりが、鳥形山と呼ばれていたのかもしれない。

上のようは背景を勘案すると、加夜奈留美命神社を飛鳥の甘南備とするには、いささか抵抗を感じる。後代に皇居がいくつか営まれた飛鳥の地からずいぶんと離れているためだ。聞くところによると、江戸時代まではこの神社は、葛神を祀っていたという。ところが、文人画家の富岡鉄斎(1836〜1924)が当地に来て、土地柄からしてここに飛鳥の甘南備を移すべきだと主張した。カヤノモリとカヤナルミが似ているため、『大和志』では「延喜式」神名帳の高市郡「加夜奈留美命神社」を当社にあて、それ以来、式内社として現社名で呼ばれるようになったという。


社の故事来歴はともかく、この神社の境内に立つと、いつものことながら気持ちが洗われる。神社の下を流れる飛鳥川の支流から、かすかな水音とともに、ヒンヤリした冷気が木々の間を立ち上ってきて、汗ばんだ肌に心地よい。ツアーの参加者がいなければ、体が押しつぶされるほどの霊気があたりを埋め尽くしているはずだ。いかにも山村の鎮守の森という雰囲気が、古代の有り様を表しているようだ。

在の飛鳥地方を開拓したのは、6世紀頃朝鮮半島南部地域から移住してきた渡来人だったと言われている。飛鳥の中心部はもとより、それぞれの山間に深く分け入り生活空間を切り開いただろうことは、容易に想像できる。栢森の集落も、当初はそうした渡来人によって築かれたのだろう。栢森の”カヤ”とは、半島南部にあった「加耶」に通じる。あるいは、この地に住み着いたのは加耶地域からの渡来人だったかもしれない。

森から南は、芋峠を越えて吉野につながる。芋峠の”芋”は古くは”疱瘡”のことを意味したそうだ。峠を越えて南から侵入してくる疫病神を村の入り口で防ごうと、古代人は神を祀った。そうした古代信仰の原型がこの加夜奈留美命神社にあるのかもしれない。王城鎮護とは、もっと後の時代の観念の所産のような気がする。



飛鳥川流域の聖域を示す勧請縄(かんじょうなわ)

勧請縄−女綱
勧請縄−女綱
勧請縄−男綱
勧請縄−男綱
飛鳥川の源流
飛鳥川の源流
森(かやのもり)集落を抜けて、飛鳥川沿いの県道15線を北に向かって下っていくと、川を挟んで山と山の間に、長さ50mほどの綱が張られている。そして、綱の中央には蜂の巣に似た縄の編み物が吊してあり、聖域を表す御幣も巻き付いている。地元では、これを「栢森の勧請縄」または「女綱」と呼んでいる。勧請縄とは、神仏を迎えて(=勧請して)村の外から災いが入って来ないようにするために、村の入り口や氏神の境内などに吊るした大きなシメナワ(注連縄)の一種だ。綱の中央にぶら下がった蜂の巣に似た編み物は、女性のシンボルだそうだ。

の場所から1kmほど川下の稲淵(いなぶち)集落に入る手前に、勧請橋と呼ばれる橋が飛鳥川に架かっている。その橋の近くにも、勧請縄が渡してある。こちらは、「稲淵の勧請縄」または「男綱」と呼ばれているもので、中央からぶら下がる縄の編み物は男性のシンボルを表している。二本の勧請縄はもともと、疫病の侵入を防ぎ聖域を示すために張られたのだろうが、いつの頃からか子孫繁栄や五穀豊穣を期待する素朴な民俗信仰が加わり、男女のシンボルを吊すようになったのであろう。

請縄を吊るすことを、カンジョウツリ(勧請吊り)あるいはオツナカケといい、神事として行われる。カンジョウツリの起源ははっきりしないが、14世紀頃に始まったと考えられている。飛鳥では、この神事を「カンジョ掛神事」と呼び、毎年旧暦の1月11日に行なっている。ただし、稲渕で行なう神事と栢森で行なう神事は、それぞれ特徴がある。稲淵のそれは神式であり、飛鳥川の上に「男綱」を掛け渡し、神所橋に祭壇を設け、神職が御祓いをする。栢森では仏式で行われ、福石(陰物ともいう)と呼ばれる石の上に祭壇を設け、僧侶の法要の後、飛鳥川の上に女綱を掛け渡す。


森の勧請縄の近くから、飛鳥川の川岸に降りて、次の見学場所である宇須多伎比売命(うすたきひめのみこと)神社近くまで川沿いの道を歩いた。道というにはほど遠く、田んぼのあぜ道と大差がない。地元では、このあたりの飛鳥川を稲淵川と呼んでいる。川幅は狭く、いかにも源流に近いという気がするが、昨日から付近の山々に降った雨水が集まってくるのか、それなりに水量は多い。



原始の山岳崇拝の形態を今に伝える宇須多伎比売命(うすたきひめのみこと)神社

宇須多伎比売命神社の拝殿
宇須多伎比売命神社の拝殿
神社の本殿は甘南備山
神社の本殿は甘南備山
神として、宇須多伎比売命(うすたきひめのみこと)を祀る神社は、県道脇の宮山中腹に鎮座する旧村社である。境内まで到達するには、200段近い急な階段がを登らなければならない。だが、階段を登りきったとしても、そこは参道の途中にすぎない。境内はさらにその上にある。

を弾ませながら、やっとの思いで境内にたどり着くと、旧村社にしては立派な拝殿が正面に建っている。祭神の宇須多伎比売命は、加夜奈留美命と共に飛鳥坐神社の裔神(御子神)とされている。飛鳥川が巻きつ瀬となっている様を神格化した女神のため”ウスタキヒメ”と呼ばれているが、詳しいことはよく分からない。

の神社には、本殿が無い。拝殿は遥拝造りの建物で、後方の山を拝するようになっている。拝殿の後ろにまわると、確かに鳥居がありその先は瑞垣で囲ってある。そこには社殿はなく、生い茂った樹木を山頂に戴いた小山がある。こうした古代山岳崇拝の形態を残す神社は、飛鳥地方では珍しい。


社の前を流れる飛鳥川の河辺は、皇極天皇が雨乞いをしたところとして知られている。『日本書紀』は次のような話を伝えている。皇極天皇元年(642)は6月から日照りが続いた。牛馬を殺してあちこちの神社に祭ったり、市場を他の場所に移して雨乞いを行なったが、効果は全くなかった。大臣(おおおみ)の蘇我蝦夷(そがのえみし)は、百済大寺の南庭に菩薩像と四天王像を飾り、僧に大雲経を読ませ、蝦夷は自ら香炉に香を焚いて雨乞いをした。わずかに小雨がぱらついた程度で、ほとんど効果がなかった。

月に入ると、女帝・皇極天皇は南淵の川上に出向き、跪いて四方を拝んだ。すると、雷が鳴って大雨が降り出し、雨は5日も降り続いた。このため天下の百姓たちは天皇の徳を称えたという。女帝が雨乞いをした場所は飛鳥川の河原とされているが、あるいは、この神社の境内だったかもしれない。現在でも、すさまじい霊力を持つ神々が林立する巨木の間から、息を殺して参拝者を見下ろしているような錯覚を覚える。



在唐32年の留学を終えて帰国した南淵請安の墓(みなみぶちのじょうあんのはか)

南淵請安を祀る神社
南淵請安を祀る神社
南淵請安の墓
南淵請安の墓
講義
南淵請安墓での講義
淵集落の背後にある山の先端部分に、南淵請安(みなみぶちのじょうあん))を祀る小さな祠があり、その祠の脇に請安の墓が建っている。この見晴らしの良い高台に築かれた墓を訪れる度に、一族の期待を一身に背負って玄界灘の波濤を越えていった若き留学生の姿が彷彿として浮かび上がってくる。

でこそ、稲淵の棚田は飛鳥の観光名所の一つに数えられるほど有名だが、7世紀前後の山間の渡来人部落は決して豊かだったとは思えない。その部落に抜群に頭脳明晰は子供がいた。彼の存在は、当時小墾田宮で政務を執っていた聖徳太子の耳に入ったと思われる。太子に呼び出され、斑鳩に建設された学問寺に入れられると、高句麗から隋の捕虜として献上された人物について、猛烈な語学研修をさせられた。その目的は、来るべき時に大陸にわたり、中国仏教を学ぶことにあった。一家はもとより一族の栄誉を、この青年が一身に背負うことになったことは言うまでもない。

西暦608年、隋使・裴世清(はいせいせい)の一行を送って再び渡隋する小野妹子(おののいもこ)に従って、8人の留学生・留学僧が大陸に渡った。その中に南淵漢人請安の名があった。彼はやっと20歳に達したばかりの向学心に燃える青年だった。しかし、請安がどこの寺院で、何の勉学にいそしんだかは一切不明である。ただ、分かっているのは、留学生活が32年の長きにわたったということだけだ。

安が大陸に滞在している間に、栄華を極めた隋王朝は、度重なる高句麗遠征で疲弊し、代わって唐王朝が興った。626年には太宗・李世民が即位し、後世「貞観の治」と称される華やかな律令時代を迎えた。請安は唐の都・長安で直接その繁栄ぶりを目撃した。仏教を学ぶことよりも、中国の根幹を支える儒教や律令政治により大きな興味を抱いたとしても不思議ではない。彼が帰国したのは西暦640年、大化の改新の5年前だった。

国した請安が、中央の寺院で活躍したという記録はない。彼の才能に期待して大陸に送り込んだ聖徳太子は、すでに18年前に他界していた。請安自身も50歳の高齢を超えていた。郷里の稲淵に居を構えて私塾のような学問所を開いて、唐の都・長安で学んだことを、氏族の子弟に教えることにしたのであろう。

教を学びために、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が請安の私塾に通い始めるのは、644年からである。その行き帰りに、二人は蘇我氏追い落としの策を練ったという。話に夢中になって、川向こうの丘陵地帯に展開する棚田の美しさなど、彼らの目には入らなかったであろう。若い愛弟子が大願を成就したのを見届けて、請安が他界したかどうかは分からない。大化の改新後に発表された新政府のスタッフには、請安と一緒に大陸に渡った新漢人日文(いまきのあやひとにちもん)やた高向漢人玄理(たかむこあやひとげんり)の名はあるが、請安の名はない。だが、隋唐帝国に見習って、当時の氏族社会を変革し律令国家を建設するという聖徳太子の夢を、中大兄皇子や中臣鎌足の若い指導者に引き継いだ功労者であったことは、忘れてはならない。

稲淵の棚田
中大兄皇子や中臣鎌足も目にしたであろう稲淵の棚田



万葉のころ、ロマンチックな歌が詠まれた石橋(いわはし/いしはし)

万葉の石橋
万葉の石橋
歌碑
犬養孝氏揮毫の歌碑
淵集落の入口にある神所橋(かんじょばし)から少し上流に、万葉集の歌にも詠まれている石橋(いわはし/いしはし)」がある。石橋は、川に置いた飛び石のことで、川の中に大きな石を並べ、橋として交通に利用していた。古い時代には、石橋を石から石へ渡る様子を「石走る(いわはしる)」とも表現している。

葉集には、石橋を詠み込んだ歌が、長歌を含め5首ほど収録されている。その中の次の一首が、万葉学者・犬養孝氏揮毫(きごう)の万葉歌碑として、石橋の側に刻まれている。

明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも  (巻11−2701) 
【意味】明日香川を明日も渡って逢いに行きます。私の心は石橋のように飛び飛びじゃなくて、ず〜っとあなたを思っていますよ。

とより、この歌に歌われた石橋が現在のものであるという保証はない。明日香村地域を流れる飛鳥川は、現在でも決して川幅が広いわけではない。途中に大きな石を連ねた石橋は、当時もあちこちに見られたことだろう。



仏教史上異彩を放つ渡来氏族・鞍作(くらつくり)氏が建立した坂田寺跡

舞台古墳がある島庄(しまのしょう)集落の南に位置する坂田には、坂田寺跡という史跡がある。この寺は金剛寺とも、南淵坂田尼寺とも、あるいは小墾田坂田寺とも呼ばれた。日本の初期仏教を語るとき、飛鳥寺や四天王寺、法隆寺などにとかく視線を奪われがちだが、忘れてならないのが坂田寺の存在である。
案内板
坂田寺跡に立つ案内板
回廊跡
発掘された回廊跡

一の理由は、仏教公伝以前に、現在の坂田寺跡がある付近で、すでに私的に仏教が崇拝されていたとする伝承があることである。『扶桑略記』は、継体天皇16年(522)2月に渡来した鞍作村主司馬達等(くらつくりのすぐりしめのたちど)は、坂田原に草堂を結び、本尊を安置して帰依礼拝したと伝えている。我が国における仏教礼拝の初見である。『扶桑略記』は達等を南梁の人としているが、実際は百済からの渡来人と見られている。

由の第二は、司馬達等の子孫たちが初期飛鳥仏教の定着に寄与した功績である。子の鞍部多須奈 (くらつくりのたすな) は、用明天皇の病気平癒を祈願して丈六仏像と寺を作ることを願い出た。実際、彼は出家して法名を徳斉法師と称した。寺を造ることはなかったが、木彫りの丈六仏像や挾侍菩薩を造り、天皇の病気平癒を祈った。奈良時代の初め、これらの仏像は南淵坂田寺に安置されていたという。

馬達等には、敏達13年(584)に17歳で出家して善信尼と称したという娘がいた。我が国における尼僧第一号である。それから4年後、彼女は学問尼として百済に留学し、2年間百済の王都で仏教を学んでいる。さらに、飛鳥寺の本尊を鋳造したことで知られる多須奈の子の鞍作鳥 (くらつくりのとり)は、推古天皇から祖父・達等以来の仏法興隆に尽くした功を褒められ、近江国坂田郡の水田二十町を賜った。鳥はこの田を以て天皇のために金剛寺を造った。

のように、鞍作三代に渡ってこの地で営々と築かれてきた寺は、飛鳥における重要な寺院だった。天武天皇(672 - 686)の時代には、大官大寺、飛鳥寺、川原寺、小墾田豊浦寺と並んで五大寺の一つに数えられていた。奈良時代の初め頃、この寺は「南淵坂田尼寺」と呼ばれていた。 天平9年(737)には、坂田尼寺の信勝尼が経典を内裏に献上し、また天平勝宝元年(749)には東大寺大仏殿の東脇侍を献納したことが記録に残されている。

和47年(1972)から繰り返し実施されてきた発掘調査で、これらの記事と前後する時期の伽藍配置が判明している。寺域は、山側から飛鳥川へ向かっての傾斜地をひな壇上に造成して平坦面を作り出すと、そこに東西63m、南北56mのほぼ正方形の回廊を巡らせてあった。金堂または講堂と考えられる二重基壇の建物は東面回廊に取り付いていた。その規模は桁行7間梁間5間で、5間x2間の身舎に4面に庇が付いていた。中門は金堂の対面である西面回廊にはなく、北面にあったと推定されている。

坂田寺跡の万葉歌碑
坂田寺跡の万葉歌碑
廊の内部には、その他にも二棟の基壇建物が配されていたが、その規模や性格は現在のところ不明である。回廊は梁間一間の単廊式で、南4間分で隅となり、そこから西に折れていた。平安時代以降の坂田寺については、10世紀の後半に背後からの土砂崩れで伽藍は倒壊し、以後再建・修復される事はなかったようだ。現在マラ石のある国営公園周辺も、かっての坂田寺の寺域だった。周辺では、7世紀から8世紀にかけての井戸・溝・池・掘立柱列・倒壊したまま状態の回廊の柱や連子窓が出土している。

田寺跡には、犬養孝氏揮毫(きごう)の万葉歌碑碑が建てられていて、次の歌が刻まれている。柿本人麻呂歌集の中の一首であり、弓削皇子に献上した一首とされている。
御食向(みけむ)かふ 南淵山の 巌(いはほ)には 降りしはだれか 消え残りたる  (巻9−1709) 
【意味】(御食向かふ)南淵山の岩が白いのは、前に降ったはだれ(斑雪)まだらゆきだろうか、消え残っているよ



飛鳥河辺行宮に推定されている稲淵宮殿跡(いなぶちきゅうでんあと)

『日本書紀』は白雉4年(653)にひどい話を載せている。この年、皇太子の中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は孝徳天皇に奏上して「倭(やまと)の京へ遷りたいと思います」と言われた。大化の改新で都を難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に遷して8年、革新政治がようやく軌道に乗ってきた時期だけに、還都の理由など特に見あたらなかった。このため、天皇は還都を許さなかった。
稲淵宮殿跡
稲淵宮殿跡
万葉歌碑
万葉歌碑

ころが、皇太子は皇極上皇間人(はしひと)皇后大海人(おおあま)皇子らを率いて、さっさと豊碕宮を引き払い、飛鳥河辺行宮(あすかのかわべのかりみや)に移ってしまった。公卿大夫(まえつきみ)や百官たちも皆付き従ったという。時の実力者が中大兄皇子であり、孝徳天皇は傀儡にすぎなかったとは言え、ひどい話である。

后まで去られて一人豊碕宮に残された天皇は、これを恨んで退位を決意し、隠居所を現在の京都府大山崎に造らせた。そして、皇后に次の歌を送られた。
鉗(かなぎ)付け 吾が飼ふ駒は 引き出せず 吾が飼ふ駒を 人みつらむか   
【意味】(逃げないように首に)鉗を付けて私が飼っている駒はどうしたのであろう。厩から引き出さずに大事に飼っている駒をどうして他人が見たのだろう

時は「見る」という言葉は、「男女相会う」という意味にも用いられた。妻である皇后の間人(はしひと)皇女を、その実の兄である中大兄皇子に寝取られた孝徳天皇は、失意のうちに翌年の10月他界している。その原因となった飛鳥還都先の飛鳥河辺行宮として推定されているのが、現在の稲淵宮殿跡である。

は埋め戻されて、国営飛鳥歴史公園(祝戸地区)内の飛鳥研修宿泊所・祝戸荘(いわいどそう) の駐車場になっているが、昭和51年(1976)から52年にかけてこの地区の発掘調査が行われた。そして、東西二棟、南北二棟の掘立柱建物の一部と石敷きが見つかった。中央の建物は推定桁行9間(24.6m)、梁間4間(10.2m)と巨大で、四面に庇が付いていた。7世紀中頃に造営され、7世紀末には火災で廃絶したことが判明している。

の史跡を飛鳥河辺行宮の跡とするには、疑問の声もある。建物の配置が斑鳩宮のそれに類似していることから、いずれかの皇子の宮か、あるいは近くになった島の宮の関連施設の可能性も指摘されている。ここにも犬養孝氏揮毫(きごう)の万葉歌碑碑が建てられていて、次の歌が刻まれている。
飛鳥川 七瀬の淀に 住む鳥も 心あれこそ 波たてざらめ  (巻7−1366) 
【意味】飛鳥川の七瀬の淀に住んでいる鳥も心があるからこそ波を立てずにじっとしているのでしょうに(あなたは私が静かにしているのを、気持ちがないかのようにお責めになります)



蘇我馬子を埋葬した桃源墓に比定されている石舞台古墳

石舞台古墳
石舞台古墳(北西部より撮影)
石舞台古墳 (南から撮影)
石舞台古墳 (南から撮影)
玄室の内部
玄室の内部
鳥巡りの観光の名所の一つは、なんと言っても石舞台古墳であろう。早くから上部の封土を失い、花崗岩の巨石を積んだ横穴式石室を露出している方形墳は、昔狐が女性に化けて石の上で舞を見せたとか、この地にやってきた旅芸人が大石を舞台にしたという話から石舞台の名で親しまれてきた。

『日本書紀』は、推古34年(626)の条で、夏5月20日大臣(おおおみ)蘇我馬子が死亡し、桃原墓(ももはらのはか)に葬ったとある。明治末年、喜田貞吉博士によって、石舞台古墳が桃原墓に比定されて以来、蘇我馬子の墓とする説が一般的だ。しかし、異説がない訳ではない。近くに築かれた都塚古墳とのセットで、蘇我蝦夷(そがのえみし)が国中の民を発して今木に造った蝦夷・入鹿の寿陵ではないかと疑う考古学者もいる(例えば、橿原考古学研究所 附属博物館館長・河上邦彦氏)。

説どおり、この古墳が蘇我馬子の墓だとしても、何時完成したのかは不明である。石室の形式が馬子の没年(626年)よりやや遡る可能性があり、寿墓だったとする説がある。しかし、『日本書紀』は馬子の死後2年たってもまだ完成していなかった事実を示している。推古天皇没後の皇位継承者争いで、蘇我蝦夷と同族の境部摩理勢(さかいべのまりせ)が対立し、摩理勢は墓所の近くに作った庵を打ち壊して自分の私有地に退出し、以後墓作りを手伝わなかったという。

舞台古墳の玄室は長さ7.57m、幅3.48m、高さ4.8mと巨大である。さらに、玄室の天井石の重さは約77トンと計算されている。この玄室に一歩足を踏み入れてみれば、馬子がいかに巨大な権力を握っていたか実感できる。人間一人の石棺を安置するには、石室は大きすぎる。さぞかし多くの副葬品に周りを囲まれて被葬者は黄泉の旅路についたであろう。しかし、その後の盗掘ですべての埋葬品は消滅した。埋葬品だけではない。石室を覆った封土も、自然に流出したのではなく、人為的に破壊されてしまったという。あるいは蘇我本宗家に恨みを抱いた民衆によって壊されたのかもしれない。早ければ645年の大化の改新の直後のことである。そうであれば、蘇我馬子はこの墓で20年も安眠できなかったことになる。



万葉学者・故犬養孝氏の業績を顕彰する犬養万葉記念館

犬養万葉記念館
犬養万葉記念館
犬養万葉記念館の内部
犬養万葉記念館の内部

回の「歩く会」の終着点は明日香村岡にある犬養万葉記念館である。この記念館は万葉集の研究の第1人者で、明日香村名誉村民でもあった故犬養孝氏の業績を顕彰するため、平成12年(2000)4月1日に建てられた。旧南都銀行明日香支店の店舗蔵造り風の外観を残したとあって、とても落ち着いた記念館である。

に入ると、1階ホール正面は展示・ビデオコーナーになっていて、犬養氏が生涯愛してやまなかった明日香村との関わりが展示され、さらに各種のビデオを上映している。その奥には、犬養氏の遺愛の品を集めた「先生の部屋」や愛弟子だった故清原和義氏寄贈の蔵書を中心とした「万葉風土図書室」、来館者が憩う喫茶サロンがある。

養孝氏は明治40年(1907)4月、東京に生まれ、東京帝国大学文学部を卒業後、横浜第一中学校、台北高等学校、大阪高等学校などを歴任された。大阪女子大学や甲南女子大学の名誉教授でもあられたが、平成10年(1998)10月逝去、享年91歳だった。日本全国の万葉の故地を生涯を通して歩き、万葉風土学を提唱されたことは有名である。氏が約5年の歳月をかけて全国の万葉故地をまとめられた労作「万葉の旅」全三巻は、今でも多くの万葉ファンのバイブルとなっている。

国万葉協会会長で「万葉の大和路を歩く会」の代表でもある富田敏子氏は、犬養孝氏の教え子であり、新聞社に入社した後も犬養氏に師事してこられた。「歩く会」で毎月歩くコースは、犬養氏が選定した「万葉の大和路コース」がベースになっている。



2004/07/13作成by n_ohsei2002@bell.jp return