多胡碑
国道を左折して進み、最初の交差点「川内」で県道71号線に入ると、道はまっすぐ北へ延びている。3つ目の交差点「池」を過ぎてそのまま進めば、鏑川(かぶらがわ)にぶつかる。鏑川は長野県境の矢川峠付近に源を発し、東に流れて高崎市阿久津で烏川に合流する。全長約54kmの鏑川の中・下流域は群馬県下でも有数の古墳密集地帯として知られている。
お目当ての「多胡碑」は、記念館裏の広場の一画にあるコンクリート製の覆屋の中に建っている。残念ながら覆屋は施錠されているため、石碑は扉のガラス越しにしか見ることができない。気が付くと覆屋の前で案内板をシゲシゲと見入る一人の老紳士がいた。話しかけると、20年ぶりに多胡碑を見に立ち寄ったとのことだ。以前は、もっと身近に見れたものだと、当時の様子を懐かしそうに話してくれた。 多胡碑に興味を抱いた理由多胡碑は和銅4年(711)3月に、上毛野国(かみつけぬのくに)の片岡郡、緑野郡、甘良(から)郡の3つの郡(こおり)から300戸を割いて新たに多胡郡(たごのこおり)を創ったことを記念して建てられた碑である。私が興味を持ったのは、新設の郡の名称が、なぜ”多胡”だったのかということである。多胡の"胡"は、胡椒や胡人の例を示すまでもなく、古代の中国人が西域地方を呼んだ呼称だ。したがって、多胡郡とは胡人の多い郡の意味で解することができる。実際の西域からの渡来人でなくても、朝鮮半島からの渡来人が多く住んでいたため、この名称が採用されたと思われる。では、渡来人たちはいつの時代に上野国(こうずけのくに)に入植してきたのだろうか。
上毛野国を統括していたのは、上毛野君(かみつけぬのきみ)と呼ばれた豪族である。上毛野君は崇神天皇の時代に東国を治めるために派遣されてきた皇子の豊城命の子孫とされている。その子孫の中に、崇神天皇の4世の孫にあたるとされる荒田別(あらたわけ)と鹿我別(かがわけ)がいる。2人と朝鮮半島との関係は深い。
こうした『日本書紀』の記述がどこまで史実を反映しているか不明であるが、我が国と朝鮮半島諸国との通交が開始された4世紀後半、なぜか上毛野君一族が軍事・外交で活躍している。紀元400年前後に、高句麗の広開土王の南下政策に抗して倭国から半島南部に派遣された軍隊もおそらく上毛野君を中核とする武装集団ではなかったか。彼らが帰国するとき、新羅や加耶地方の住民を朝鮮半島から半ば強制的に渡来させ、上野国に住み着かせたことがあったのかもしれない。
仁徳天皇以後、上毛野君一族に関する記述は安閑天皇元年(534)まで『日本書紀』には現れない。その頃、隣の武蔵国では、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)が国造の地位をめぐって争っていたが、長年決着しなかった。そこで、小杵は密かに上毛野君小熊(かみつけののきみ・おくま)に助力を求め、挟み撃ちで使主を殺そうとした。劣勢を免れない使主は、命からがら逃げ出して大和政権に助けを求めた。そこで朝廷は彼を助けて小杵を殺し、使主を武蔵国造にしてやった。しかし、両者の武力衝突が実際に生じたのは、安閑天皇時代ではなく5世紀の後半と想定れている。 いずれにしても、この事件は当時の上毛野氏が絶大な力を持っていたことを証明している。その権力の源は渡来人たちがもたらした先進の技術であったことは容易に想像できる。当時の上野国は関東における先進地帯だったのである。大和朝廷は、上毛野氏が武蔵国造を支援した懲罰として、上毛野の緑野屯倉(群馬県藤岡市付近)を設置した。また、高崎市付近にも佐野屯倉を設置して東国経略の拠点としている。 多胡碑の碑文の意味と価値
実物の多胡碑は、近くでとれる通称「天引石(あまびきいし)」とか「多胡石」と呼ばれている軟質の牛伏砂岩(うしぶせさがん)で、碑は幅2尺(60cm)、高さ4尺2寸(126cm)の四角い柱状である。その上に幅3尺(90cm)四方、厚さ5寸(15cm)の笠石が乗っている。これらの寸法は、8世紀初めのころ我が国で採用されていた唐尺をベースにしているとのことだ。
碑の前面には、次のような80文字の碑文が6行に薬研彫り(やげんぼり、断面がV字型になる彫り方)で刻まれている。書体は力強い楷書体で、広開土王碑のそれに似ているとされている。
この碑文の中の「給羊」、とりわけ「羊」については、方角説、動物説、人名説など諸説があるが、今日では人名説に定着している。当時のこの地域のありさまを今日に伝える、全国的にも珍しい石碑であることから、多胡碑は国の特別史跡に指定されている。地元ではこの碑を「ひつじさま」と呼んで信仰の対象としてきた。また、文面に見える「羊」にちなんだ「羊太夫」の伝説は、古くから語り継がれて親しまれている。 この碑を有名にしているもう一つの理由は、刻まれた文字の書体である。文字は江戸時代以来、書道上から貴重なものとされてきた。清国の金石文学者にも取り上げられ、特に楊守敬の『楷法溯源』には唐の部に39文字が採録され、古体楷字の模範とされている。 羊太夫伝説羊太夫(ひつじだゆう)の伝説は10種類ほどあるという。その中から、江戸時代に書かれた『羊太夫栄枯記』によって、その概要を示しておこう。 上野国多胡郡八束山の城主を八束羊太夫宗勝といった。大識冠・藤原鎌足の5代の孫・藤原将監勝定の嫡男である。羊の日羊の刻に生まれたので、羊太夫と名付けられた。成長すると学問にも武術にも優れ、身長が7尺5寸(2.5m)もあった。18歳のとき、父が亡くなったため、その後を継いで多胡郡の郡司となった。
都では、毎日出仕していた羊太夫が来なくなったため、謀反の疑いがかけられ、元正天皇から羊太夫誅討の宣旨が広島宿禰長利(ひろしまのすくね・ながとし)下された。罪なくして討伐軍を向けられた羊太夫はやむを得ず官軍と戦うことになり、敵陣へ夜襲をかけたり、酒やご飯に毒を入れたりして抗戦した。しかし、次第に大軍に追いつめられ八束山の城を囲まれると、羊太夫は家来に命じて奥方と子供をどこかに逃がした。 戦闘で家来たちがみな戦死したのを見届けると、羊太夫は金色の蝶に変身して雨曳山(あまびきやま)の方へ舞い上がり、急にトビとなって池村を指して飛び去った。官軍がその方を探すと、羊太夫と小脛が自殺しているのを発見した。輿に乗って逃げた奥方たちも官軍に追いつめられて皆自殺してしまった。遺体は近くの寺の僧によって手厚く葬られた。現在藤岡市下落合にある七輿山(ななこしやま)古墳はその墓であると伝えられている。 後に、羊太夫は何の罪もなくまた謀反の意志もなかったことが判明し、朝廷によく仕えた手柄によって、手厚く葬られた。この土地の人たちは多胡碑を「ひつじさま」と呼び、羊太夫の墓と信じて、今でも神として祀っているという。
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山ノ上碑
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所在地 : 群馬県高崎市山名町字山神谷2104 |
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| 山ノ上碑を収蔵する覆屋 |
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| 山ノ上碑へ続く石段 |
「多胡碑記念館」の受付嬢に「山ノ上碑」までの道を聞くと、吉井町ロードマップという地図をくれて、その上、親切にも道順を地図上にマークしてくれた。「山ノ上碑」もその後訪れる予定の「金井沢碑」も吉井町ではなく、隣の高崎市に属する。しかし、ロードマップには両方の石碑の位置も示してあり、車でアクセスするのに助かった。
彼女が水性ペンで記してくれたマーキングに従って、再び県道71号線に戻り、鏑(かぶら)川を渡った。橋のたもとに「岩崎」交差点がある。そこを右折して、鏑川沿いの県道200号線をしばらくに東に進んだ。やがて鏑川は遠のいて見えなくなったが、その代わり上信電鉄の線路が近づいてきた。
線路脇を走っていくと、まもなく駅が見えてきた。「西山名」という無人駅である。県道200号線は駅のそばの無人踏切を渡って続いていくが、「山ノ上碑」への道は、踏切の所を左折して山の方へ上っていく。そこから先はほぼ一本道である。山を一つ越えて谷の方へ下り、集落の中の道を谷川に沿って上流へ向かうと、「山ノ上碑」の標識があり、その先に駐車場があった。
すでに見学を終えたハイカーが車を駐車していたので、石碑までの道のりを聞いてみた。「なぁに、石段を百段ほど登ったところにありますよ」と気軽な返事が返ってきた。石碑は谷川を挟んで駐車場とは反対側の山の上にある。実際に階段を上ってみるとかなり急な坂で、気軽なアクセスとは言えなかった。それに階段の数も100段以上あるような気がした。帰りに実際に数えてみたら173段もあった。
鏑(かぶら)川左岸の山名(やまな)一帯は、山名古墳群があることで知られている。山上谷(やまがみだに)地区には、その中の一つの山上古墳がある。石の階段を上り詰めたところに待ち受けていたのは、この古墳だった。
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| 山上古墳 |
横穴式石室が南南西に口を開いていて、蒼ケから玄室に入ると部屋の幅が広がる。それと同時に天井も高くなる。蒼ケと玄室の境界部分には、左右の壁に柱状の石が立ててあり、玄室の天井を一段高くし玄門を形作っている。玄室の奥には、鎌倉後期の馬頭観音座像が安置されている。
この古墳の構築年代は7世紀後半と考えられている。年代推定の根拠となったのは、山上古墳の横に建てられた山ノ上碑に刻まれた年月日のせいである。後述するように、この石碑には、天武9年(681)10月3日に放光寺の僧・長利が母・黒売刀自(くろめとじ)の名誉を末永く伝えるため建碑したとある。
山上古墳と山ノ上碑が一つのものであり、碑が墓誌であるならば、被葬者と年代が記録として残されている希有の例であり、関東の古墳編年の基準となる。しかし、碑が原位置にないこと、古墳の築造時期が考古学的に詳細に把握されていないことなどもあって、両者の関連にはなお検討の余地があるとされている。
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| ガラス越しに見た山ノ上碑の正面 |
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| 山ノ上碑の側面 |
碑文には53文字が4行に分けて書かれている。文字は楷体の薬研彫(やげんぼり)で、文体は完全な漢文である。
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辛己歳集月三日記 佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此 新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児 長利僧母為記定文也 放光寺僧 |
| (訓読)辛巳の歳集(十)月三日記す。佐野の三家(みやけ)を定め賜える健守命(たけもりのみこと)の孫・黒売刀自(くろめとじ)、此れ新川臣(にいかわのおみ)の児・斯多々彌足尼(したたみのすくね)の孫・大児臣(おおごのおみ)と娶いて生める児・長利の僧、母の為に記し定むる文也。放光寺僧 |
つまり、この碑は放光寺の僧の長利が、母の黒売刀自を顕彰した碑である。母の佐野屯倉に連なる系譜を示し、その母が新川臣に連なる父・大児臣と婚姻関係を持ったこと、さらにその子である自分自身が、現在放光寺の僧であることを記している。
前橋市総社2408で、大正10年(1921)に塔心礎が発見され、ここが古い時期の寺院跡であることがわかり、地名にちなんで「山王廃寺跡」と 名付けられた。その寺跡から「放光寺」とヘラ書きした瓦が出土していて、碑文の「放光寺」はこの「山王廃寺」と見なす説がある。
金井沢碑
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所在地 : 群馬県高崎市山名町字金井沢2334 |
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| 金井沢碑を収蔵する覆屋 |
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| 金井沢碑にアクセスする道 |
城山団地に向かって車を走らせていると、突然、進行方向右側に金井沢碑の標識が現れ、標識通りに右折して細い田舎道に入ると、すぐの所に駐車場がわりの空き地がある。金井沢碑は駐車場とは反対にある畑の縁に沿って山道をすこし上らなければならない。
畑と竹藪の間を縫って続く道を進むと、右手にコンクリートで囲われた一画が姿を現す。そこに、平成3年(1991)に新築された覆屋が建っている。
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| 金井沢碑 |
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| 金井沢碑の碑文 |
この金井沢碑は、輝石安山岩の碑身(高さ110cm、幅70cm、厚さ65cm)を台石に穿かれた穴にはめ込まれたもので、角の丸い扁平な形をしている。ガラス窓越しの肉眼では見えないが、平らな自然面に9行112字が楷体の薬研彫(やげんぼり)で彫られている。その拡大写真が覆屋の正面に示してある。
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上野国群馬郡下賛郷高田里 三家子孫為七世父母現在父母 現在侍家刀自池田君目頬刀自又児加 那刀自孫物部君午足次ひづめ※刀自乙ひづめ※ 刀自合六口又知識所結人三家毛人 次知万呂鍛師礒ァ君身麻呂合三口 如是知識結而天地誓願仕奉 石文 神亀三年丙寅二月廿九日 |
| (訓読)上野国(かみつけのくに群馬郡下賛郷(しもさぬのごう)高田の里の三家(みやけ)の子孫、七世の父母・現在の父母の為に、現在侍る(はべる)家刀自(いえとじ)・他田君目頬(めつら)刀自・又児の加那(かな)刀自・孫の物部君午足(もののべのきみ・うまたり)・次にひづめ刀自、次に乙(おと)ひづめ刀自の合わせて六口(むたり)、また知識(ほとけ)に結べる三家の毛人(えみし)・次に知万呂(ちまろ)・鍛師磯部(かぬちいそべ)の君身麻呂(きみまろ)の合せて三口(みたり)、かく知識(ほとけ)に結びて、天地に誓願(のみこ)い仕え奉(まつ)る石文。 神亀三年丙寅二月廿九日 |
碑文の意味は、群馬郡下賛郷高田里に住む、三家子孫と他田君目頬刀自夫婦とその娘・加那刀自に物部君午足ほか3名を加えた計6名が行なう先祖供養のための誓願に、願主と同族3名の寄進者を加えた合計9名の人々が、神亀3年(726)2月29日に石碑を建てて神仏に誓った、というものである。つまり、佐野の屯倉の子孫が祖先の菩提を弔うために仏に供養したことを、建碑することで証しとしたものである。
文面には、「知識」、「七世父母」「現在父母」「誓願」「如是」といった仏教用語が多く見られる。神亀3年は平城遷都からそれほど年月が経っていない。金井沢碑は、その頃にはすでに北関東の有力者層に仏教が深く浸透していたことを示している。地方豪族の家族形態や婚姻形態も具体的に示していて、当時の様子を知るための貴重な史料とされている。
この石碑は、江戸時代中頃に土中から発見され、その後は農家の庭先で洗濯石(きぬた)として使われていたという。そのため、出土地や出土状況ははっきりしていない。そうした不幸な時代を経た石碑であるが、現在は人里離れたこの地に遷して、国の特別史跡として厳重に安置されている。
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【参考・引用文献】 多胡碑記念館パンフレット、多胡碑記念館作成「国特別史跡 多胡碑」、「多胡碑・碑文の読み方」、「上野三碑」、「羊太夫伝説鑑賞ガイド」 |