橿原日記 平成16年04月13日

上野三碑(多胡碑、金井沢碑、山ノ上碑)を訪ねる



上野三碑の所在
上野三碑の所在
馬県の吉井町にある「多胡碑」と高崎市にある「金井沢碑」および「山ノ上碑」を合わせて、群馬県の旧称である”上野(こうずけ)”を冠し「上野三碑(こうずけさんぴ)」あるいは「上毛三碑(じょうもうさんぴ)」と呼んでいる。多胡碑は建郡を記念して建てられた碑、金井沢は供養碑、山ノ上は墓碑であり、碑の性格はそれぞれ異なり特に共通するものはない。

かし、いずれの碑も、古代の多胡(たご)郡に含まれる狭い範囲に存在する金石文である。建立された時期も7世紀から8世紀初頭と互いに接近している。古代の日本では石碑は極めて希な存在であり、この地に住んだ多くの渡来人が故地の文化を持ち込んだ具体的な現れと見られている。資料の少ない地方の古代史を語る上できわめて貴重な生の史料と言える。  

る雑誌で、知人のK.S女史が渡来人の足跡を探訪する連載レポートの中に上野三碑を取り上げておられるのを読んで、自分も一度訪れてみたいと思った。4月の半ばともなると、さすがに陽気も良くなり史跡探訪には絶好の季節である。桜の時期は過ぎたが、春風に誘われて群馬県まで足をのばした。

胡碑から山ノ上碑までは車で10〜15分、山ノ上碑から金井沢碑までもほぼ同じ時間で行くことができる。自転車でも半日あれば三碑を見て回ることができるので、サイクリングコースとしても格好のポイントである。 さらに、多胡碑から山ノ上碑を経て金井沢碑まで「関東ふれあいの道」の遊歩道も完備している。



多胡碑(たごのひ)

 メ  モ

所在地 : 群馬県多野郡吉井町大字池
建立時期: 711年(和銅4)
史跡指定: 1954年(昭和29)、国の特別史跡に指定される。
アクセス: 【車】上信越自動車道吉井IC下車、北に高崎方向に向かい約10分。【電車】上信電鉄「吉井駅」下車、北東方向に約1.5km


多湖碑を収蔵する覆屋
多湖碑を収蔵する覆屋

多胡碑記念館多胡碑記念館
吉井町の多胡碑記念館
信越自動車道の吉井ICから一般道に降りて北進すると、すぐに国道254号線にぶつかる。かっての中山道の裏街道的存在だった追分街道が、現在の国道254号線である。追分街道は中山道よりも厳しい関所が少なく、道も険しくないことから、商人や女性が多く通行し、姫街道とも呼ばれた。吉井は追分街道の宿場町として栄えたと言われている。

道を左折して進み、最初の交差点「川内」で県道71号線に入ると、道はまっすぐ北へ延びている。3つ目の交差点「池」を過ぎてそのまま進めば、鏑川(かぶらがわ)にぶつかる。鏑川は長野県境の矢川峠付近に源を発し、東に流れて高崎市阿久津で烏川に合流する。全長約54kmの鏑川の中・下流域は群馬県下でも有数の古墳密集地帯として知られている。

昭和初期の頃の多胡碑
昭和初期の頃の多胡碑(案内板より)
川に架かる橋のすこし手前で、標識に従って河川敷の吉井町運動公園の方へ右折すれば、すぐのところに「多胡碑記念館」がある。この記念館は、国指定特別史跡の多胡碑に関する資料や中国古代の拓本などを展示する目的に設立された建物で、「吉井いしぶみの里公園」の中にある。吉井ICからいずれの交差点にも多胡碑記念館方面の標識が出ているので、道に迷うこともなく記念館に到着することができた。

目当ての「多胡碑」は、記念館裏の広場の一画にあるコンクリート製の覆屋の中に建っている。残念ながら覆屋は施錠されているため、石碑は扉のガラス越しにしか見ることができない。気が付くと覆屋の前で案内板をシゲシゲと見入る一人の老紳士がいた。話しかけると、20年ぶりに多胡碑を見に立ち寄ったとのことだ。以前は、もっと身近に見れたものだと、当時の様子を懐かしそうに話してくれた。

 多胡碑に興味を抱いた理由

胡碑は和銅4年(711)3月に、上毛野国(かみつけぬのくに)の片岡郡、緑野郡、甘良(から)郡の3つの郡(こおり)から300戸を割いて新たに多胡郡(たごのこおり)を創ったことを記念して建てられた碑である。私が興味を持ったのは、新設の郡の名称が、なぜ”多胡”だったのかということである。多胡の"胡"は、胡椒や胡人の例を示すまでもなく、古代の中国人が西域地方を呼んだ呼称だ。したがって、多胡郡とは胡人の多い郡の意味で解することができる。実際の西域からの渡来人でなくても、朝鮮半島からの渡来人が多く住んでいたため、この名称が採用されたと思われる。では、渡来人たちはいつの時代に上野国(こうずけのくに)に入植してきたのだろうか。

鏑川(かぶらがわ)
「多胡碑記念館」の前を流れる鏑川
馬県を含む北関東一帯は、古くは毛(け)の国とか毛野(けぬ)の国と呼ばれていた。その国が仁徳天皇の頃に上・下2カ国に分けられ、群馬県付近は上毛野(かみつけぬ)となり、さらに6世紀頃大和朝廷が地方行政組織として国造制を採用したとき、上毛野地方が上毛野国となった。その後、和銅6年(713)に諸国の郡・郷の名を好字で表せとの詔勅が出たため、国の名前も上毛野から"毛”の字を取り去り2字で表す上野(こうずけ)に改められた。

毛野国を統括していたのは、上毛野君(かみつけぬのきみ)と呼ばれた豪族である。上毛野君は崇神天皇の時代に東国を治めるために派遣されてきた皇子の豊城命の子孫とされている。その子孫の中に、崇神天皇の4世の孫にあたるとされる荒田別(あらたわけ)と鹿我別(かがわけ)がいる。2人と朝鮮半島との関係は深い。

案内板
「多胡碑」の前にある案内板
『日本書紀』によれば、2人は将軍として朝鮮半島に渡り、新羅を服属させたという(神功摂政49年(369)条)。また、荒田別が百済に派遣され、王仁(わに)を連れてきている(応神天皇15年条)。荒田別の子の竹葉瀬は、新羅が朝貢を欠いたのを責める問責使として新羅に派遣されたが、途中で白鹿を捕らえて天皇に献上、日を改めて弟の田道を同行させ新羅を破って4村の民を連れ帰ったという(仁徳天皇53年条)

うした『日本書紀』の記述がどこまで史実を反映しているか不明であるが、我が国と朝鮮半島諸国との通交が開始された4世紀後半、なぜか上毛野君一族が軍事・外交で活躍している。紀元400年前後に、高句麗の広開土王の南下政策に抗して倭国から半島南部に派遣された軍隊もおそらく上毛野君を中核とする武装集団ではなかったか。彼らが帰国するとき、新羅や加耶地方の住民を朝鮮半島から半ば強制的に渡来させ、上野国に住み着かせたことがあったのかもしれない。

復元古墳
「吉井いしぶみの里公園」の中の復元古墳
世紀のはじめ、上野国には13の郡があった。和銅4年3月、6郷300戸で新たに多胡郡が建置され14郡となった。1戸あたりの当時の平均人口を20人とすれば、6000人で一郡を構成したことになる。全てが渡来人の子孫とは言わないが、かなり多くの渡来人系が居たことは確かだろう。なお、『続日本紀』によれば、多胡碑が建てられた約半世紀後の天平神護2年(766) に、上野国の新羅人 ・ 子午足(こうまたり) など193名に 吉井連(よしいのむらじ) の姓が与えられた。

徳天皇以後、上毛野君一族に関する記述は安閑天皇元年(534)まで『日本書紀』には現れない。その頃、隣の武蔵国では、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)が国造の地位をめぐって争っていたが、長年決着しなかった。そこで、小杵は密かに上毛野君小熊(かみつけののきみ・おくま)に助力を求め、挟み撃ちで使主を殺そうとした。劣勢を免れない使主は、命からがら逃げ出して大和政権に助けを求めた。そこで朝廷は彼を助けて小杵を殺し、使主を武蔵国造にしてやった。しかし、両者の武力衝突が実際に生じたのは、安閑天皇時代ではなく5世紀の後半と想定れている。

ずれにしても、この事件は当時の上毛野氏が絶大な力を持っていたことを証明している。その権力の源は渡来人たちがもたらした先進の技術であったことは容易に想像できる。当時の上野国は関東における先進地帯だったのである。大和朝廷は、上毛野氏が武蔵国造を支援した懲罰として、上毛野の緑野屯倉(群馬県藤岡市付近)を設置した。また、高崎市付近にも佐野屯倉を設置して東国経略の拠点としている。

 多胡碑の碑文の意味と価値

多胡碑
多胡碑
胡碑の実物は覆屋の中にあって実見できないが、「多胡碑記念館」の2階では身近に眺めることができる。碑のレプリカが置かれた多胡碑の室が2階にある。良くできたレプリカで、照明を当てれば碑文を一字一字はっきりと確認できる。そのレプリカの碑の前で、ボランティアのガイドが実に懇切丁寧な説明をしてくれた。

物の多胡碑は、近くでとれる通称「天引石(あまびきいし)」とか「多胡石」と呼ばれている軟質の牛伏砂岩(うしぶせさがん)で、碑は幅2尺(60cm)、高さ4尺2寸(126cm)の四角い柱状である。その上に幅3尺(90cm)四方、厚さ5寸(15cm)の笠石が乗っている。これらの寸法は、8世紀初めのころ我が国で採用されていた唐尺をベースにしているとのことだ。

の前面には、次のような80文字の碑文が6行に薬研彫り(やげんぼり、断面がV字型になる彫り方)で刻まれている。書体は力強い楷書体で、広開土王碑のそれに似ているとされている。

弁官符上野国片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成羊給
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左大臣正二
位石上尊右大臣正二位藤原尊

碑文の読み方はまだ定説がない。一例として、東野治之氏が『群馬県史』で示した読み方を以下に示す。
「弁官符((ふ)す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡并せて三郡の内、三百戸を郡と成し羊に給いて多胡郡と成せ。和銅四年三月九日甲寅に宣(の)る。左中弁・正五位下多治比真人。太政官・二品穂積親王、左大臣・正二位石上尊、右大臣・正二位藤原尊」

多胡碑の拓本
多胡碑の拓本
約すれば、朝廷では上野国の三郡のうちから300戸を割いて一郡をつくり、羊という人物に給して多胡郡と命名した、和銅四年三月九日のことである。さらに命令書に関係した左弁官の担当者と、朝廷の大官の名が添えてある。

の碑文の中の「給羊」、とりわけ「羊」については、方角説、動物説、人名説など諸説があるが、今日では人名説に定着している。当時のこの地域のありさまを今日に伝える、全国的にも珍しい石碑であることから、多胡碑は国の特別史跡に指定されている。地元ではこの碑を「ひつじさま」と呼んで信仰の対象としてきた。また、文面に見える「羊」にちなんだ「羊太夫」の伝説は、古くから語り継がれて親しまれている。

の碑を有名にしているもう一つの理由は、刻まれた文字の書体である。文字は江戸時代以来、書道上から貴重なものとされてきた。清国の金石文学者にも取り上げられ、特に楊守敬の『楷法溯源』には唐の部に39文字が採録され、古体楷字の模範とされている。


 羊太夫伝説

太夫(ひつじだゆう)の伝説は10種類ほどあるという。その中から、江戸時代に書かれた『羊太夫栄枯記』によって、その概要を示しておこう。

野国多胡郡八束山の城主を八束羊太夫宗勝といった。大識冠・藤原鎌足の5代の孫・藤原将監勝定の嫡男である。羊の日羊の刻に生まれたので、羊太夫と名付けられた。成長すると学問にも武術にも優れ、身長が7尺5寸(2.5m)もあった。18歳のとき、父が亡くなったため、その後を継いで多胡郡の郡司となった。

羊太夫伝説
るとき、権田の長者から駿馬を寄進され、羊太夫はこの馬で南都の内裏へ毎日出仕するようになった。馬は稲妻のように早く走ることができた。それは小脛(こはぎ)という伴を連れていたためである。ある暑い日、二人は木陰で休んだとき、羊太夫は居眠りをしている小脛の両脇にトビの羽が生えているのを見て、それを抜いてしまった。その羽は太夫のための守り神だったので、小脛はもはや稲妻のように駿馬を走らせて供をすることができなくなった。

では、毎日出仕していた羊太夫が来なくなったため、謀反の疑いがかけられ、元正天皇から羊太夫誅討の宣旨が広島宿禰長利(ひろしまのすくね・ながとし)下された。罪なくして討伐軍を向けられた羊太夫はやむを得ず官軍と戦うことになり、敵陣へ夜襲をかけたり、酒やご飯に毒を入れたりして抗戦した。しかし、次第に大軍に追いつめられ八束山の城を囲まれると、羊太夫は家来に命じて奥方と子供をどこかに逃がした。

闘で家来たちがみな戦死したのを見届けると、羊太夫は金色の蝶に変身して雨曳山(あまびきやま)の方へ舞い上がり、急にトビとなって池村を指して飛び去った。官軍がその方を探すと、羊太夫と小脛が自殺しているのを発見した。輿に乗って逃げた奥方たちも官軍に追いつめられて皆自殺してしまった。遺体は近くの寺の僧によって手厚く葬られた。現在藤岡市下落合にある七輿山(ななこしやま)古墳はその墓であると伝えられている。

に、羊太夫は何の罪もなくまた謀反の意志もなかったことが判明し、朝廷によく仕えた手柄によって、手厚く葬られた。この土地の人たちは多胡碑を「ひつじさま」と呼び、羊太夫の墓と信じて、今でも神として祀っているという。

識冠・藤原鎌足が亡くなったのは天智天皇8年(669)。一方、元正天皇が在位したのは霊亀元年(715)から神亀元年(724)までである。少し冷静に考えてみると、半世紀で5世代の世代交代があるとは思えない。年代的に羊太夫を鎌足の五世の孫とするのは、いささか不自然な気がする。ちなみに、鎌足の次男である藤原不比等の生没年は、斉明5年(659)〜養老4年(720)とされている。さらに、郡司が毎日平城宮に出仕することも、制度的にあり得ない。管見にして羊太夫が実在の人物だったかどうか知らないが、実在だったとすれば、何らかの理由で時の政府に糾弾されて自殺に追いやられる事件があったのかもしれない。無実の罪を得て死亡した地方長官を哀れんで、地元の人々がこのような伝承を作ったのであろう。



山ノ上碑(やまのうえひ)

 メ  モ

所在地 : 群馬県高崎市山名町字山神谷2104
建立時期: 681年(天武天皇9年)
史跡指定: 1954年(昭和29)国指定特別史跡


山ノ上碑を収蔵する覆屋
山ノ上碑を収蔵する覆屋

山ノ上碑へ続く石段
山ノ上碑へ続く石段

「多胡碑記念館」の受付嬢に「山ノ上碑」までの道を聞くと、吉井町ロードマップという地図をくれて、その上、親切にも道順を地図上にマークしてくれた。「山ノ上碑」もその後訪れる予定の「金井沢碑」も吉井町ではなく、隣の高崎市に属する。しかし、ロードマップには両方の石碑の位置も示してあり、車でアクセスするのに助かった。

女が水性ペンで記してくれたマーキングに従って、再び県道71号線に戻り、鏑(かぶら)川を渡った。橋のたもとに「岩崎」交差点がある。そこを右折して、鏑川沿いの県道200号線をしばらくに東に進んだ。やがて鏑川は遠のいて見えなくなったが、その代わり上信電鉄の線路が近づいてきた。

路脇を走っていくと、まもなく駅が見えてきた。「西山名」という無人駅である。県道200号線は駅のそばの無人踏切を渡って続いていくが、「山ノ上碑」への道は、踏切の所を左折して山の方へ上っていく。そこから先はほぼ一本道である。山を一つ越えて谷の方へ下り、集落の中の道を谷川に沿って上流へ向かうと、「山ノ上碑」の標識があり、その先に駐車場があった。

でに見学を終えたハイカーが車を駐車していたので、石碑までの道のりを聞いてみた。「なぁに、石段を百段ほど登ったところにありますよ」と気軽な返事が返ってきた。石碑は谷川を挟んで駐車場とは反対側の山の上にある。実際に階段を上ってみるとかなり急な坂で、気軽なアクセスとは言えなかった。それに階段の数も100段以上あるような気がした。帰りに実際に数えてみたら173段もあった。

 山上古墳(やまのうえこふん)

(かぶら)川左岸の山名(やまな)一帯は、山名古墳群があることで知られている。山上谷(やまがみだに)地区には、その中の一つの山上古墳がある。石の階段を上り詰めたところに待ち受けていたのは、この古墳だった。

 山上古墳
 山上古墳
上古墳は、南にのびる丘陵尾根の先端頂上近くを「コ」字形に掘りこみ、全長6mほどの横穴式石室が築かれている。このような古墳を一般に”山寄せ古墳”と呼んでいる。正面から見ると直径15m前後、高さ5m前後の円墳に見える。

穴式石室が南南西に口を開いていて、蒼ケから玄室に入ると部屋の幅が広がる。それと同時に天井も高くなる。蒼ケと玄室の境界部分には、左右の壁に柱状の石が立ててあり、玄室の天井を一段高くし玄門を形作っている。玄室の奥には、鎌倉後期の馬頭観音座像が安置されている。

の古墳の構築年代は7世紀後半と考えられている。年代推定の根拠となったのは、山上古墳の横に建てられた山ノ上碑に刻まれた年月日のせいである。後述するように、この石碑には、天武9年(681)10月3日に放光寺の僧・長利が母・黒売刀自(くろめとじ)の名誉を末永く伝えるため建碑したとある。

上古墳と山ノ上碑が一つのものであり、碑が墓誌であるならば、被葬者と年代が記録として残されている希有の例であり、関東の古墳編年の基準となる。しかし、碑が原位置にないこと、古墳の築造時期が考古学的に詳細に把握されていないことなどもあって、両者の関連にはなお検討の余地があるとされている。

 覆屋の中に建つ山ノ上碑

山ノ上碑の正面
ガラス越しに見た山ノ上碑の正面
山ノ上碑の側面
山ノ上碑の側面
胡碑と同じように、山ノ上碑も現在は覆屋の中に置かれていて、見学者は正面のスイッチで室内の電灯をつけて、ガラス窓越しに石碑の様子を眺めるだけである。資料によれば、平たい自然石の台石に細長い自然石の碑身が差し込まれていて、高さは102cm、幅47cm、厚さ52cmとのこと。台石も碑身も輝石安山岩を用いている。

文には53文字が4行に分けて書かれている。文字は楷体の薬研彫(やげんぼり)で、文体は完全な漢文である。
辛己歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此
新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児
長利僧母為記定文也   放光寺僧

(訓読)辛巳の歳集(十)月三日記す。佐野の三家(みやけ)を定め賜える健守命(たけもりのみこと)の孫・黒売刀自(くろめとじ)、此れ新川臣(にいかわのおみ)の児・斯多々彌足尼(したたみのすくね)の孫・大児臣(おおごのおみ)と娶いて生める児・長利の僧、母の為に記し定むる文也。放光寺僧

まり、この碑は放光寺の僧の長利が、母の黒売刀自を顕彰した碑である。母の佐野屯倉に連なる系譜を示し、その母が新川臣に連なる父・大児臣と婚姻関係を持ったこと、さらにその子である自分自身が、現在放光寺の僧であることを記している。

橋市総社2408で、大正10年(1921)に塔心礎が発見され、ここが古い時期の寺院跡であることがわかり、地名にちなんで「山王廃寺跡」と 名付けられた。その寺跡から「放光寺」とヘラ書きした瓦が出土していて、碑文の「放光寺」はこの「山王廃寺」と見なす説がある。



金井沢碑(かないざわひ)

 メ  モ

所在地 : 群馬県高崎市山名町字金井沢2334
建立時期: 726年(神亀3)
史跡指定: 1954年(昭和29)、国の特別史跡に指定される。


金井沢碑を収蔵する覆屋
金井沢碑を収蔵する覆屋

信電鉄の「西山名」駅まで戻ると、踏切を渡って再び県道200号線を車を走らせた。この県道は「山名町南」交差点で県道30号線と交差する。交差点を左折して県道30号線をどんどん西北に進むと、やがて「城山団地入口」と書かれた標識が見えてくる。金井沢碑は城山団地へのアクセス道路の途中にある。
金井沢碑にアクセスする道
金井沢碑にアクセスする道

山団地に向かって車を走らせていると、突然、進行方向右側に金井沢碑の標識が現れ、標識通りに右折して細い田舎道に入ると、すぐの所に駐車場がわりの空き地がある。金井沢碑は駐車場とは反対にある畑の縁に沿って山道をすこし上らなければならない。

と竹藪の間を縫って続く道を進むと、右手にコンクリートで囲われた一画が姿を現す。そこに、平成3年(1991)に新築された覆屋が建っている。



 覆屋の中に建つ金井沢碑

金井沢碑
金井沢碑
碑文
金井沢碑の碑文
胡碑や山ノ上碑と同様に、金井沢碑も覆屋の真ん中に据えられて、見学者は窓越しにこれを眺めるだけである。碑石に発生した亀裂の進行と文字の摩滅を防ぐために、こうした処置が施されたのは理解できるが、これだけご大層な覆屋を作るのであれば、ついでにレプリカを作り自由に見学できるスペースも作ってほしかった。これでは牢屋につながれた囚人か完全に空調させた檻の中の珍獣を見るおもいだ。

の金井沢碑は、輝石安山岩の碑身(高さ110cm、幅70cm、厚さ65cm)を台石に穿かれた穴にはめ込まれたもので、角の丸い扁平な形をしている。ガラス窓越しの肉眼では見えないが、平らな自然面に9行112字が楷体の薬研彫(やげんぼり)で彫られている。その拡大写真が覆屋の正面に示してある。

上野国群馬郡下賛郷高田里
三家子孫為七世父母現在父母
現在侍家刀自池田君目頬刀自又児加
那刀自孫物部君午足次ひづめ※刀自乙ひづめ※
刀自合六口又知識所結人三家毛人
次知万呂鍛師礒ァ君身麻呂合三口
如是知識結而天地誓願仕奉
石文
   神亀三年丙寅二月廿九日

(訓読)上野国(かみつけのくに群馬郡下賛郷(しもさぬのごう)高田の里の三家(みやけ)の子孫、七世の父母・現在の父母の為に、現在侍る(はべる)家刀自(いえとじ)・他田君目頬(めつら)刀自・又児の加那(かな)刀自・孫の物部君午足(もののべのきみ・うまたり)・次にひづめ刀自、次に乙(おと)ひづめ刀自の合わせて六口(むたり)、また知識(ほとけ)に結べる三家の毛人(えみし)・次に知万呂(ちまろ)・鍛師磯部(かぬちいそべ)の君身麻呂(きみまろ)の合せて三口(みたり)、かく知識(ほとけ)に結びて、天地に誓願(のみこ)い仕え奉(まつ)る石文。

   神亀三年丙寅二月廿九日

文の意味は、群馬郡下賛郷高田里に住む、三家子孫と他田君目頬刀自夫婦とその娘・加那刀自に物部君午足ほか3名を加えた計6名が行なう先祖供養のための誓願に、願主と同族3名の寄進者を加えた合計9名の人々が、神亀3年(726)2月29日に石碑を建てて神仏に誓った、というものである。つまり、佐野の屯倉の子孫が祖先の菩提を弔うために仏に供養したことを、建碑することで証しとしたものである。

面には、「知識」、「七世父母」「現在父母」「誓願」「如是」といった仏教用語が多く見られる。神亀3年は平城遷都からそれほど年月が経っていない。金井沢碑は、その頃にはすでに北関東の有力者層に仏教が深く浸透していたことを示している。地方豪族の家族形態や婚姻形態も具体的に示していて、当時の様子を知るための貴重な史料とされている。

の石碑は、江戸時代中頃に土中から発見され、その後は農家の庭先で洗濯石(きぬた)として使われていたという。そのため、出土地や出土状況ははっきりしていない。そうした不幸な時代を経た石碑であるが、現在は人里離れたこの地に遷して、国の特別史跡として厳重に安置されている。



【参考・引用文献】
多胡碑記念館パンフレット、多胡碑記念館作成「国特別史跡 多胡碑」、「多胡碑・碑文の読み方」、「上野三碑」、「羊太夫伝説鑑賞ガイド」

2004/04/15作成by n_ohsei2002@bell.jp return