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午前中に行われたのは、樫原考古学研究所(橿考研)が大和郡山市八条町で実施している八条北遺跡(B地区)の発掘調査の現説。橿考研は郡山ジャンクション建設に伴う事前調査を昨年から実施しており、今回新たに弥生時代の方形周溝墓の跡を46基も発掘した。 午後は1時半から平城宮で、奈良文化財研究所(奈文研)が行っている平城第367調査の現説があった。今回の調査では、称徳天皇(在位 764〜770)が天平神護元年(765)11月22日に行った大嘗祭で使用した建物跡と、大和盆地を南北に走る古代の幹線道路の一つ下ツ道の両側溝が、その建物跡の下層から見つかった。 |
橿考研、八条北遺跡から弥生時代の方形周溝墓跡46基を発掘
近鉄天理線の「二階堂」駅から一直線に北へ延びる道がある。大和郡山市と天理市の境界になっている県道193号(筒井二階堂線)だ。県道といえば聞こえは良いが、車がすれ違いないほど狭い。だが、この道路の下には、奈良盆地を一直線に南北に走っていた古代の幹線道路の一つ「下ツ道」が埋まっている。半年前の10月4日の朝、やはりこの道を通って発掘調査の現地説明会を聴きに行った。季節は違うが、発掘現場は同じ「八条北遺跡」だ。ただし、今回は昨年の調査対象A地区の南西隣接部にあたる場所で、B地区と呼ばれている。 前回の出土数と合わせると50基の方形周溝墓が作られていた
今までに奈良盆地で検出された弥生時代の墓が一番多いのは、橿原市土橋遺跡で24基である。したがって、その倍以上の大規模な方形周溝墓群が発見されたことになり、勿論その数は県内最高である。 墓の大きさと築造時期
方形周溝墓とは、盛り土をした墳丘の周りに溝を巡らした弥生時代の墓である。墓の形は長方形が主であるが、大きさにはばらつきがある。周溝内法で測定して長辺は7〜12m、短辺4〜10mで、最大規模の7号墓の面積は約130平米、最小の20号墓は約40平米であるという。墓にお供えをするために使った土器が周溝から見つかっている。これらの土器の年代から推定して、これらの墓は弥生時代中期、すなわち紀元前後に作られたものであるという。 墳丘上部の土は削られたり流出したりして無くなっているため、埋葬施設は発見されていない。しかし、7号墓の周溝から甕棺が1つ見つかっている。周溝に穴を掘り、甕の口を上にして垂直に埋めて蓋をしたものと思われる。ただし、蓋として使われた壺は粉砕されていて、大きさなど詳しいことは分からないとのことだ。
方形周溝墓の奇妙な分布
これらの周濠墓のグループを取り巻くようにして、東辺と西辺が北西方向を向くグループと北北西を向くグループがある。つまり、方位を異にする方形周溝墓のまとまりが3群を構成しているのである。 この奇妙な分布は何を意味するのか。各グループの墓に造営時期の差があるのだろうか。しかし。説明員の解説では、周溝から出土した土器にはそれほど年代差はないとのことだ。そうであれば、異なる造営集団がこの地域を共同墓地として、それぞれの集団独自の判断に基づいて墓の方位を決めていたのであろうか。 郡山ジャンクションのための橋脚建設がすぐ近くまで進んできている。おそらく来年あたりは、この調査地域はアクセス用のループの下に消えてしまい保存されることまあるまい。この方形周溝墓群を造営した弥生集落遺跡は、現在のところ周辺で確認されていない。 |
奈文研、中央区朝堂院跡から称徳天皇の大嘗宮を発掘
奈文研が平城第367次調査の対象として発掘を行ったのは、中央区朝堂院の一画である。中央区朝堂院とは耳慣れない言葉だが、実は藤原宮には二つの大極殿とそれに付属する二つの朝堂院があった。 聖武天皇は天平12年(740)年、太宰府で起きた藤原広嗣の乱をきっかけに恭仁京に都を遷し、天平17年(745)に再び平城京に都を戻すまで紫香楽京や難波京を転々としている。恭仁遷都では、平城宮の大極殿や朝堂院の建物は恭仁京に移築され、平城還都の際は、あらたに以前の敷地の東に新築されている。このため便宜上、大極殿は第一次と第二次という呼称で大極殿を区別している。同様に、恭仁遷都以前の朝堂院を「中央区朝堂院」、平城還都以後の朝堂院を「東区朝堂院」と呼んでいる。 平城還都後に、第一次大極殿の跡地には、西宮と呼ばれる宮殿が建てられた。中央区朝堂院にも新たな建物が建築され、奈良時代末まで使われたという。つまり、現代同様、役人の数が増え続けたため東区朝堂院だけでは収容仕切れず、旧敷地に新たに役所を増やしたというわけだ。 意外な場所から出土した数棟の掘立柱建物の跡
今回の調査区で出土したのは、4棟の建物跡であるが、完全な平面として検出されたのは1棟だけで、残りの3棟は建物跡の一部だけである。今後調査区域を広げることで建物跡の全容が明らかになるはずだが、奈文研は現在の時点でこれらの建物跡を、称徳天皇の大嘗祭(だいじょうさい)のために仮設された大嘗宮の遺構であると特定した。 大嘗祭の祭場・大嘗宮(だいじょうきゅう)とは
大嘗祭を祭場として、東の悠紀院(ゆきいん)と西の主基院(すきいん)からなる大嘗宮が、朝堂院の朝庭に仮説された。悠紀院と主基院は東西対照の空間で、それぞれ正殿(大嘗殿)、御厠、臼屋、膳屋などの建物で構成され、周囲に柴垣を巡らす。臼屋は大嘗祭に供する稲を臼でひいて精白する建物、膳屋は臼屋でひいた米を炊飯し、お膳とともに配膳する建物である。 これらの建物とは別に、大嘗宮の北側の東西中軸上に廻立殿(かいりゅうでん)という建物が建てられる。天皇が湯を浴びて潔斎を行なうとともに、大嘗の儀の間に御斎所とする建物で、東二間の御湯殿と西三間の御所に仕切られている。 大嘗祭の祭場となるこれらの建物は、大嘗の儀が行われる7日前に地鎮祭が行われ、5日間で造営される。大嘗の儀が終了すると、鎮祭の儀式を行ない解体される。 称徳天皇の大嘗宮と特定された理由
まず、中央区朝堂院の東側に存在する東区朝堂院で、5時期の大嘗宮と考えられる建物群が、今までの発掘調査で確認されていた点である。その時代的上下関係はぼと特定できていたが、いずれの天皇の大嘗祭のものかは不明だった。 平城宮で即位した天皇は、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳、光仁、桓武の7代である(称徳は孝謙の重祚)が、このうち孝謙、淳仁、光仁、桓武の各天皇については、文献で大嘗祭を行った場所が知られている。孝謙天皇は南薬園新宮で大嘗祭を行ったが他の3天皇はいずれも東区朝堂院朝庭で大嘗祭を行ったことが記録されている。したがって、東区朝堂院で発掘された残り2時期の大嘗宮は、元正、聖武および称徳の中の2天皇に関係するものとの推論がなりたつ。 文献上のこうした推論にプラスして、考古学的知見が最終的な決め手になった。実は、今回発掘された建物の柱穴には多くの瓦破片が埋めてあった。地盤が軟弱なため柱を建てる際に埋め込んだものと思われる。これらの瓦の年代は、奈良時代後半、つまり恭仁遷都による第一次大極殿解体後のものだった。このことは、孝謙天皇以後の大嘗祭の祭場跡であることを意味する。 上記のように、孝謙、淳仁、光仁、桓武の各天皇が大嘗祭を行った場所は、文献からも特定できる。このため、消去法により、今回の発掘現場は称徳天皇の大嘗宮跡であると推定されるにいたった。この特定の意義を大きい。今まで東区朝堂院で発掘されながら、どの天皇に関わるものか不明だった5時期の大嘗宮遺構も、それぞれ特定することが可能になった。 大嘗祭の式次第
大嘗祭の式次第は、平安時代に成立した『延喜儀式』に示されているという。現説で配布された資料に要領よくまとめてあるので、それをもとに儀式の次第を再現してみよう。
(*)大嘗の儀では、女官がご飯を入れた器と、御綱柏(みつながしわ)の葉で作った杯に酒を入れて、天皇に渡す。天皇はご飯の上に酒をかけ、柏の葉を開いて覆い、箸を突き刺して供える。これが神に対する新穀の供え方で、こうして神と共食することで、今年の収穫に感謝するとともに来年の豊作を願うとされている。 もう一つの成果、下ツ道の確認
下ツ道は平城宮内では拡張されてメインストリートである朱雀大路と呼ばれた。しかし、平城宮内では埋め戻されたため、直線道路がどこまで延びているのかは明らかでなかった。朱雀門の基盤下や中央区朝堂院の南門下でその遺構が発見されていたので、北へ延びていることはある程度予測されていた。 この下ツ道の幅を調査区南端で測定すると、側溝中心間で22.1mだった。気になる発見は、両側溝が東よりに徐々に曲がりつつあるということだった。直線で延びてきた下ツ道がこのあたりでカーブし始め、東寄りに想定されている歌姫越えに向かっていたのかもしれない。ちなみに、歌姫越えは般若寺の前を通り平城山を越えるため、「般若寺坂」「奈良坂」とも呼ばれてきた。 |