無惨な姿をさらして巨勢谷を見下ろす巨勢山
巨勢谷を通るところから、紀路は巨勢道とも呼ばれた。巨勢谷は、曽我川の支流である重阪(へいさか)川によって刻まれた峡谷である。この谷筋に弥生遺跡が分布しており、巨勢道は弥生時代以来、奈良盆地と紀ノ川河口を結ぶ重要な道だった。
巨勢谷の最も狭い部分に、JR和歌山線と近鉄吉野線に共通の「吉野口」駅がある。今回の万葉紀行の集合場所として、この場所が指定された。改札を出て駅前広場に立つと、線路を挟んだ向こう側の山が半分近く切り崩されている。高社の山である。赤茶けた山肌が見る目にもいたわしい。万葉歌に詠まれた巨勢山」はこの付近の山の総称だそうだが、今日では高社の山として理解されているという。万葉集の「山を詠む」と題する歌の中に、巨勢山を詠んだ次の歌がある。 |
両端をJR和歌山線と近鉄吉野線に挟まれた狭い巨勢寺跡
巨勢氏は、葛城氏とともに御所市域を本拠とした大和朝廷の豪族で、天皇家の外戚・大臣として権勢を誇った。巨勢氏の氏寺として、近隣に偉容を誇った寺院がこの地にそびえていたに違いない。しかし、案内板によれば、平安時代には奈良興福寺の末寺となり、延慶元年(1308)にはそれまで所有していた財産を春日大社に寄進している。その頃にはすでに荒廃の一途をたどっていたようだ。 かっての巨勢寺の中心に、現在小さな大日堂が建っている。その近くに塔心柱の礎石が元の位置のまま残されている。約1.3m角の大きさのこの礎石の表面は特異な構造をしている。石の表面に直径88cm深さ12cmの円柱の穴があり、さらにその中央に直径13cm深さ6cmの舎利納孔がうがってある。舎利納孔の周りには、同心円状に三重の溝が切ってあり、これらの溝を結ぶ排水溝が掘られている。 塔心礎以外の礎石はどうなったのか気になったが、そのいくつかは現存していた。古瀬の集落の中ほどに、浄土真宗の正福寺がある。その境内には、巨勢寺跡から移した礎石がいたるところに配されている。
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椿の花に彩られた玉椿山阿吽寺
阿吽寺(あうんじ)は巨勢寺跡からすこし南に位置し、国道309号線の登り勾配の坂道に崩れかかってきそうな石垣の上に建っている。坂道の参道の上に植えられた椿が、今を盛りに咲き誇って参道を覆い、花のトンネルを作っていた。そのトンネルを抜けると、質素な山門が立っている。山門を一歩入ると、巨勢の集落を一望できる眺めのよい境内が本堂の前に広がっていた。 山門の内側に案内板が立っていて、この寺の由来を次のように説明している。平安時代に巨勢川が氾濫して、里人が避難に窮したときのことである。一人の阿吽(あうん)という名の法師がこの地にやって来て里人を救済したので、里人はこの法師をあがめて玉椿精舎に請い住まわせたという。玉椿精舎とは巨勢寺のことある。現在地に建っている寺は巨勢寺の一子院で、法師の名に因んで阿吽寺と名付けられた。 貞治元年(1362)の火災で寺の建物が全焼し、それ以来荒廃したままになっていたが、江戸時代のはじめに一度再建され、高野山真言宗の末寺になった。しかし、その後も衰退を重ね明治の初めごろには、無住のまま放置され廃寺になってしまった。明治13年(1880)になって、信仰心の厚い地元の人々が仮堂を建て、正福寺に預けてあった仏像を迎え、さらに昭和60年(1985)4月には、仮堂に代わって現在の本堂を再建された。 現在はいずれの宗派にも属さず、霊験あらたかな観音様の寺として信仰を集めているという。本堂には三体の仏像が並んで配置されている。中央に十一面観音菩薩像、向かって左に不動明如来像、向かって右に薬師如来像である。
●巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢の春野を (巻1−54) 【意味】巨勢山の多くの椿よ。今は秋景色として見ているが、春の椿の満開の巨勢野を賞美したいものだ。 おそらく万葉の昔から、この付近一帯は椿の名所として知られていたのであろう。境内の一画に、この歌を刻んだ犬養孝氏揮毫(きごう)の歌碑が建っている。 |
奈良・平安の時代には、大和と紀伊の国境だった「まつち山」
吉野口駅から真土山(まつちやま)に向かうのに、JR和歌山線を利用した。2両編成のワンマン列車は250人もの見学者を飲み込めば満杯になる。このJR和歌山線はかっての紀路をなぞるように敷かれている。ただ重阪峠(へいさかとうげ)を越えるわけにはいかないので、山裾を迂回して進むことになる。やがて御所(ごせ)市内から南下してくる国道24号線にぶつかると、あとは互いに寄り添うように吉野川の右岸を下っていく。 「五条」駅の次の「大和二見」駅で下車すると、旧の大和街道を歩いて「犬飼山転法輪寺」に向かった。大和街道とは近世における紀路の呼称である。名称が変わったばかりでなく道筋も変わった。和歌山から出た道はまず紀ノ川の南岸を東行し、岩出町に至って北岸に渡った。また五条からは、飛鳥ではなく北を指して御所・高田を経由していた。「転法輪寺」は、その大和街道沿いにある。
転法輪寺で昼食と取った後、真土山の山頂を目指して歩き出した。真土山は五條市上野町と橋本市墨田町との間に横たわる小高い山である。万葉集では、真土は「亦打」「又打」「信土」などとも表記された。奈良・平安の時代、真土山が大和と紀伊の国境だった。現在は真土山の西の山麓から紀ノ川に流れ込む落合川(境川、真土山)が県境になっている。吉野川もこの県境で紀ノ川に名称を変える。 紀ノ川に流れ込む落合川の両岸は急な崖になっていて、古来の交通路は河岸を通過することができず、山よりの真土の集落がある小盆地を通った。上古、真土山のあたりを木戸(きのと)と名付けた。柵か関が設けられたのであろう。 『続日本紀』は、神亀元年(724)に聖武天皇が紀伊の玉津島(和歌浦)に行幸したときの日程を記録している。それによると、旧暦の10月5日に平城京を発った一行は、明日香、真土山、粉河でそれぞれ一泊して10月8日に玉津島に到着している。明日香から紀路を旅する者にとって、真土山までは一日の行程だった。そして真土山を過ぎて落合川を渡れば、そこは紀伊国だった。
真土山は小っぽけな山だが、大和と紀伊の国境を越える旅人たちには、ひとしお深い感慨を与えたのであろう。万葉集には真土山を詠み込んだ多くの歌が収められている。そのいくつかを下記に示す。それぞれの歌を刻んだ歌碑は、真土山の周辺に建っている。
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落合川・神代の渡り場
JR橋本駅前広場に建てられた「紀ノ川の万葉歌碑」には、故犬養孝氏の次のような一文が刻まれている。 真土山山頂からいったん国道24号線まで下り、落合川の手前で草ぼうぼうになった古い小道に入った。柿の木畑を過ぎたあたりから、小道は急な崖を下って川底へと続いている。濡れた岩肌に何回も足を取られ横転しそうになった。古来の交通路が吉野川の河岸を通過することができなかったわけが理解できた。川底には大きな石が二つ流れをせき止めるように置かれている。この飛び石のことを、以前は「神代の渡り場」と称していたのであろう。 飛び石を渡ると、隣町の橋本市である。上り坂が続く小道の傍らに、万葉歌碑が建っている。橋本市は万葉愛好家が多い土地柄と聞いていたが、どうやら本当のようだ。解散場所となった市の浄水場の近くにも、犬養孝揮毫の真土山歌碑や文学碑が建っていた。
【注】上に記した万葉歌の現代語訳は、岩波書店刊 日本古典文学大系 万葉集による。 |