飛鳥時代の宮殿が重層で埋まっている飛鳥京跡
昨年の秋に出版された京都教育大学教授・和田萃氏の『飛鳥』(岩波新書)は、飛鳥の歴史と風土を知る上での好著である。その出だしは、”飛鳥は、周囲を山々や丘陵に囲まれた小盆地。わずかに西北に開ける。およそ南北3キロメートル、東西700メートルの範囲にすぎない”と、飛鳥の定義から始まっている。 古代の飛鳥はもっと狭い範囲だった。歴史学者の岸俊男氏は、飛鳥川の右岸(東側)で、北は香具山、南は橘寺付近、東の丘陵に限られた範囲を古代の飛鳥と定義され、一般にも受け入れられてきた。だが、最近は発掘成果によってその範囲がさらに狭まった。飛鳥の北限は香具山ではなく、小墾田(おはりだ)やその南に位置する飛鳥寺(あすかでら)一帯とされている。
なぜ、この史跡に「伝」という文字が付きまとうのか、以前から気になっていた。おそらく、この場所に飛鳥板蓋宮が埋まっているという伝承が長く語り続けられて来たからであろう。しかし、近年の発掘調査は次々と新しい事実を掘り出していて、もはや「伝飛鳥板蓋宮跡」という名称は実情にそぐわなくなっている。
7世紀は飛鳥の時代であると言われる。推古天皇(すいこてんのう)の小墾田宮の後、歴代天皇の宮殿はほとんどこの地に営まれた(難波長柄豊碕宮や近江大津宮への遷都の時期を除く)。次の年表が示すように、西暦629年に舒明天皇(じょめいてんのう)が飛鳥岡のほとりに「飛鳥岡本宮」を営んだのが最初である。以来、持統天皇(じとうてんのう)が藤原京に遷都する694年までの66年間、この地には宮殿が建っていた。ただし、その間二回の火災で建物が焼失したため、その都度整地し直して新しい宮殿を建てたり、宮居の範囲を拡大してきた。
長年にわたって続けられてきた飛鳥京発掘調査は、この『日本書紀』の記述が正しいことを証明した。史跡・伝飛鳥板蓋宮跡の地下には、最下層に舒明天皇の「飛鳥岡本宮」、中層に皇極天皇の「飛鳥板蓋宮」、そして最上層に斉明天皇の「後飛鳥岡本宮」と、それを整備した天武天皇の「飛鳥浄御原宮」の廃墟が埋まっていることがすでに確認されている。そのため、最近では、”伝飛鳥板蓋宮跡”ではなく”飛鳥京跡”という名称が一般化してきた。飛鳥京跡とは、明日香村岡の地に営まれた古代の宮殿跡に対する総称である。
これらの宮殿跡は層をなして埋まっているため、発掘には慎重の上にも慎重さが求められている。下層の遺跡を発掘するために上層の土を剥いでしまえば、その層は永久に復元できなくなるためだ。今回発掘調査を行ったのは、伝飛鳥板蓋宮跡の西側部分にあたる。
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1300年前の宮殿跡は水田の地下わずか50cmにあった
橿考研が飛鳥京跡第151次調査で対象としたのは、内郭(ないかく)の中枢部である。内郭とは、斉明天皇が宮殿として使用した後飛鳥岡本宮の建物群をいう。飛鳥浄御原宮は、この後飛鳥岡本宮(内郭)にエビノコ郭と呼ばれる宮殿を加えて完成したとされている。内郭は南北197m、東西152〜158mの広さを占め、周囲を掘立柱塀で区画されていた。すでに1979年度と1980年度の調査で、内郭の前殿跡と南門跡が見つかっている。 飛鳥浄御原宮には、朝庭や朝堂、大極殿などの施設があったことが『日本書紀』の記述から分かっている。エビノコ郭を大極殿とすれば、内郭は天皇の生活空間「内裏」だったことになるという。今回の調査の対象は、内郭のうちの広さ約600平米の範囲だった。そこには、斉明天皇や天武天皇が日常的な執務や生活に使った「正殿(せいでん)」が建っていたと、ある程度予測されていた。 驚いたことに、1300年の時間が経過しているにもかかわらず、建物跡はわずか土地を50cm剥いだだけで見つかった。今回の調査では建物跡全体が発掘されたわけではなく、南西部分1/4が見つかっただけで、東西12m、南北6mの建物跡が確認されたにすぎない。それでも、正殿は宮殿の中心線上にある建物であることから、全体は24m、南北9〜12mの巨大な建物だったと推定されている。建物は南に庇(ひさし)を持ち、周囲を石敷を巡らしてあり、さらに西側には床を張りだした形跡があった。いずれ発掘調査が進めば、より正確な輪郭が得られるであろう。 建物の南正面には、予想に反して南北12m幅で人頭大の川原石が敷き詰めた広場があった。わずかに石を抜き取られた箇所はあるものの、ほぼ完全な形で石敷きが残っているのは、まさに驚異だ。儀式用の広場と想定されているが、現在のようにむき出しのままでは歩行は困難だったと思われる。おそらく上部は砂か何かが敷いてあったのではないか。
石敷き広場の南の端で、東西方向に三重の塀跡が見つかった。内郭の正殿とその南にあった公的行事用の前殿とは、三重の塀で仕切られていたことになる。正殿側を神聖、重要視して特に厳重に守ったためだという。また、正殿の西には砂利を敷いた池跡も一部見つかった。正殿の西側で床が張りだしているのは、池を眺めるためだったのだろうか。いずれにしても、正殿クラスの建物に隣接して池が見つかったのは初めてのことだという。
古代史最大の内乱と言われる「壬申の乱」で勝利した大海人皇子は、672年9月8日に不破(ふわ)を出発し、途中で桑名、鈴鹿、阿閉、名張にそれぞれ一泊し、9月12日に飛鳥京に凱旋した。彼は先ず飛鳥嶋宮に入り、15日に後飛鳥岡本宮に移った。そして、翌年の2月27日に天武天皇として即位し、以後15年間に渡る天武親政を開始した。 天武天皇は、母の斉明天皇が築いた宮殿をそのまま利用し、必要に応じて建物を増やして飛鳥浄御原宮と呼んだ。しかし、新しい宮殿建設の意志がなかったわけではない。むしろ逆である。壬申の乱に勝利し、律令国家の建設を目指す天武天皇には一つの悲願があった。従来型の宮殿とは違って、大陸の超大国・唐の都をモデルにした都城の造営である。だが、場所選びまで計画を押し進めた段階で、天武天皇はこの世を去ってしまう。彼の悲願を受け継いだのは皇后である。天武皇后の称制を止めて正式に天皇として即位した690年、持統天皇は藤原京の造営に着手し、その4年後の694年、藤原宮の完成を待って、飛鳥浄御原から藤原京へ遷都した。以後、飛鳥に再び宮殿が築かれることはなかった。 |
飛鳥京跡で最大級の排水路が出土
飛鳥京の「正殿」とみられる大型建物跡の発掘現場から北へおよそ600m、飛鳥寺の南南西約300mの地点では、橿考研は別の発掘調査も行ってきた。この発掘現場はそれほど広くない。せいぜい100平米程度の水田である。 水田の表土を剥がしたら、7世紀頃の大規模な排水路とみられる石組みの溝と、塀の柱跡が見つかった。さらに、溝からは国内最古級の定規や、「岡本」と刻まれた土器片、「水」と墨で書かれた土器片なども出土した。 調査面積が小さいため、石組みの溝は南北約10mが出土しただけである。溝の深さは0.8m、幅は上面で1.8m、底面で1.1mであるという。側面には最大で60cmほどの花崗岩が、3段または4段に積み上げられている。 説明員の話では、この排水路の大きさは、飛鳥京跡で見つかった中では最大級のもので、飛鳥京の外郭に巡らした主要な排水路の一部と推測されている。実は、飛鳥京跡の範囲は、北側が全く分かっていない。この溝を北に掘り進め、西に折れ曲がる位置が特定できれば、そこが飛鳥京の北限となる。
石組みの溝から出土した定規は、ほぼほぼ完全に近い形のものだった。長さ24.5cm、幅1.9cm。両面両側の計4辺に、7〜114mmの間隔で5、6カ所の切り込みを入れた目盛りがついているという。現場の約500mほど北にある石神遺跡でも昨年11月、7世紀後半の定規が見つかっている。今回の定規もほぼ同時期の天武天皇の時代のものとみられる。飛鳥浄御原宮から藤原宮へ移るとき、排水路に廃棄されたのかもしれない。 |
蘇我馬子の邸宅と、その後に建てられた嶋宮の建物跡が出土
古代豪族蘇我氏の総帥・蘇我馬子(そがのうまこ、?〜626年)は、さまざまな顔を持つ。敏達、用明、崇峻、推古の4代の朝廷で54年の長きにわたり最高位の大臣(おおおみ)の地位を独占し続けた大政治家。仏教の興隆に熱心で、排仏派のライバル物部氏を破り、日本最初の飛鳥寺を建立した仏教信者。自ら擁立した崇峻天皇を暗殺して推古天皇を推すなど政権に深く介在したキングメーカ。その馬子は、晩年には「嶋の大臣(しまのおとど)」と呼ばれた。飛鳥川のほとりに邸宅を建て、その庭に当時としては珍しい小さな島のある池を造ったことによる。 一部の歴史学者の中には、蘇我馬子を過大評価して、聖徳太子の名前で行われた冠位12階や17条憲法の制定や遣隋使節派遣といった改革も、実は馬子が実施したとする人がいる。だが、これらの改革はいずれも律令制度の導入による新しい国家作りを意図したものである。氏族制度の頂点に立ち意のままに大和朝廷を動かすことができた男が、自分の足下を切り崩すような政策を推し進めたとは、とても思えない。 以前から、馬子がなぜこの位置に邸宅を構えたのか気になっていた。だが、この位置に立ってみれば、彼の意図が読めるような気がする。己の権力のシンボルとして造営した飛鳥寺も、己の意のままに操ることができる推古女帝の小墾田宮も、この地の眼下に位置しているのだ。その優越感に浸るために、ただそれだけのために、馬子はこの地の整地を命じ、宮殿にも匹敵する大邸宅を築いたにちがいない。
研究者たちはこの池跡を馬子の邸宅にあった人工池「勾(まがり)の池」と推定した。したがって、邸宅の建物跡の発見も時間の問題とされてきた。その建物跡がようやく見つかった。場所は石舞台古墳の西側にある、現在駐車場として使われている広場で、以前ここには高市小学校があった。
このうち、7世紀前期の建物跡は3個見つかった。最大の建物跡は、東西13m以上、南北7.2m以上で、直径約40cmの柱が2.4m間隔で、縦に4本、横に6本以上並んでいた。同時期のもう1棟は東西6.5m以上、南北5.3m以上で、柱も同じくらいの太さである。小規模なもう一棟を含め、これらの建物は北から約30度振れる方向に建てられている。この方位は北約40mに位置する人工池「勾(まがり)の池」の方位と同じである。こうしたことから、日本書紀に度々登場する馬子の邸宅跡の可能性が高いという。 一方、青色で表示された建物跡は正確に南北を軸として建てられ、しかも黄色で表示された建物跡と重なっている。ということは、馬子の邸宅は撤去され、その後に嶋宮が新しく造営されたことを意味しているとのことだ。 旧暦671年10月19日、近江大津宮を朝早く出発した大海人皇子(おおあまのみこ)たちの一行は、その日の夕方飛鳥に到着し、一夜を嶋宮で過ごした。「壬申の乱」の序幕となる最初の日のことで、当時の人々は「虎に翼を着けて野に放った」と評したという。大海人皇子の吉野行きに同行したのは、鵜野讃良皇女(うののささらひめみこ、後の持統天皇)、草壁皇子(くさかべのみこ)、忍壁皇子(おさかべのみこ)、および40人余りの朴井連雄君(えのいのむらじ・おきみ)をはじめとする舎人(とねり)と10人余りの侍女であるとされている。 兄の天智天皇はいつ追っ手を差し向けてくるかも知れない。その不安と戦いながら、大海人皇子はまんじりともせずに夜明けを迎えたはずである。翌日は雪交じりの雨が降りしきる寒い日だった。一行は、追っ手を気にしながらあわただしく芋峠(いもとうげ)を越えて吉野に向かった。翌年の7月、壬申の乱で勝利して意気揚々と飛鳥に凱旋した大海人皇子は、まず嶋宮に入り長い流浪生活の疲れを癒した。 |