橿原日記 平成16年1月27 日

キトラ古墳壁画の保存処理のための発掘調査始まる


覆い屋が建設され、すっかり様相を一変したキトラ古墳の前面

キトラ古墳に築かれた覆い屋
キトラ古墳に築かれた覆い屋 (04/01/27 撮影)

標識
キトラ古墳の標識
 キトラ古墳で壁画を保存処理するための発掘調査がいよいよ始まり、昨日のマスコミは調査開始を大々的に伝えた。昨年の8月に調査が開始される予定だった。ところが、発掘で石室とつながる墳丘南側で白いカビの発生が確認された。そのため、カビが石室内に侵入しないように徹底した処理が必要になり、調査開始の日程が5ヶ月ほど遅れた。昨日は、石室に通じるガイドパイプからチューブを入れて空気採取を行い、酸素濃度の測定や浮遊菌の有無を調べたという。

 テレビの報道に刺激されて、久方ぶりに檜隈(ひのくま)の地を訪れた。近鉄飛鳥駅前の交差点を渡ると、県道210号線(平田・安部山線)の坂道が一直線に南に延びている。その坂道を登り切るきると、左に続く村道の脇にキトラ古墳の標識が立っている。古墳は村道を少し入ったところに位置している。しかし、見慣れた古墳のある辺りに、エアコンの外部装置をいくつか取り付けた新築の2階建ての建物が建っていた。前回訪れたときは、このあたりの山の斜面に青いシートで覆われていた。こんな場所にいつ民家が建てられたのかといぶかったが、それがキトラ古墳の覆い屋だった。

覆い屋
キトラ古墳の覆い屋
 NHKの他に民放2社のテレビ中継車が近くに駐車しており、その周りにクルーが手持ちぶさた気味にたむろしていた。本日は2年ぶりにガイドパイプからデジタルカメラを石室内入れて内部の様子を調査する。作業は覆い屋の中で続行しているのだろうが、報道関係者はシャットアウトされているようだ。



檜隈の地の景観に、在りし日の渡来人たちの活動を思い描く

 ひょっとして発掘調査の報告があるかもしれない。そう思って、報道関係者とは少し距離をおいて覆い屋の近くをウロウロしていた。しかし、何事も起こりそうもない。仕方なく、県道210号線を飛鳥駅方面に引き返すことにした。来たときとは逆に、一直線に北に向かって下る坂道である。左右に展開する檜隈の地に目線をやりながら、この道の歩道をゆっくりと下るのは、実に楽しい。

特別老人ホーム「あまがし園」
特別老人ホーム「あまがし園」
 右手には、丘陵の先端に社会福祉法甘樫会の特別老人ホーム「あまがし園」がそびえている。老人ホームから視線を左に移すと、高松塚のある丘陵がゆったりと東からせりだしている。その先端で丘陵が切れた先に橿原市の市街が広がり、畝傍山が市街地を覆うようにそびえている。坂道の左に視線を移すと、谷間の向こうの丘陵の上に杉や竹の大木が生い茂った箇所がある。そこに於美阿志神社が鎮座している。

 雄略天皇の時代、天皇の寵臣だった身狭村主青(むさのすぐりあお)や檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)は、大陸や朝鮮半島から織機などの技術集団を連れてきて、この地に住まわせた。彼らのほとんどは朝鮮半島の南にあった「安羅」出身であったといわれている。最初は居住地の名を集団の名に冠していたが、そのうち、”大和に住む安羅出身者”であることを表す「東漢(やまとのあや)」を集団の総称として用いて結束し、祖神として阿智使主を祀るようになったものと推測される。阿智使主を祀る神社が於美阿志神社である。

於美阿志神社
於美阿志神社
 東漢氏の中に以前から気になっている人物が一人いる。その名を東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)という。『日本書紀』には、崇峻天皇を刺殺した下手人として、その名を留めている。西暦592年の旧暦11月3日、倉橋の宮で東国からの貢ぎ物を献上する儀式が行われた。その儀式の最中に、蘇我馬子に指示を受けた駒が崇峻天皇を刺殺したと伝えられている。

 だが、東国の使節や多くの朝廷の要人が出席している重要な儀式で、白昼堂々と天皇を殺すことなどできるのだろうか。私は、『日本書紀』編纂者たちが、『史記』の中の荊軻(けいか)による始皇帝暗殺未遂事件や、645年の飛鳥板蓋宮での蘇我入鹿刺殺事件にヒントを得て創作した記述だと推測している。

 いずれにせよ、天皇を刺殺した駒は、追っ手を逃れて、生まれ育った檜隈に立ち戻ったはずである。彼は、思いを寄せていた蘇我の河上娘(かわかみのいらつめ)を我が家にかくまっていたと思う。遠国に逃れる前に、彼女にはどうしても会わなければならない。できれば、一緒に逃げてほしい。だが、大罪を犯した身では、一族の誰とも顔をあわすことはできない。

 旧暦11月3日は、現在の暦では12月の半ばである。厳冬の寒さに身を震わせながら駒が人目を避けていたのは、あの丘陵の竹林あたりか、それとも深く切り込んだ谷底の枯れ草の陰だったのか。しかし、駒の命運は既に尽きていた。結局は追っ手に捕まり、河上娘を汚したことが露見して、蘇我馬子によって殺されることになる。亀井勝一郎氏はその著書『聖徳太子』の中で、駒の罪状を一つ一つ数え上げながら、大木に縛られた駒に向かって馬子が矢を射かける凄惨な場面を描いている。



キトラ古墳の発掘の歴史を振り返る

青龍
高松橋を飾る青龍
 夜のニュース番組で、本日の調査結果を報じていた。デジカメで確認した範囲では、石室内にはカビは発生しておらず、壁画の四神図も剥落していないとのことだった。墳丘の墓道は平成14年の調査で、石室の約1.5m手前まで発掘が終わっている。今後は残りの土を取り除き、来月には石室南壁の盗掘坑から壁画を肉眼で観察することになっている。石室に人が入って壁画の描かれたしっくいを保存処理するのは4月以降になるとのことだ。

 キトラ古墳は高松塚古墳から南へ約1.2kmの明日香村大字阿部山に位置する二段築成の円墳である。直径は上段が9.4m、テラス状下段が約14mで、高さは約3.3mにすぎない。この古墳を一躍有名にしたのは、墳丘内の石槨の壁に四神の霊獣や世界最古の天文図が描かれていることが確認されたためである。こうした極彩色の壁画が描かれた古墳の発見は、我が国では高松塚古墳に次いで2つ目だった。近鉄飛鳥駅の前を流れる高取川には、高松橋が架かっていて、キトラ古墳の四神図の絵柄が橋のたもとに填め込まれている。

白虎
高松橋を飾る白虎
  この古墳は、平安時代末から鎌倉時代に盗掘されている。最初に行われた内部調査で、壁画が描かれた漆喰が剥がれそうになっていることが判明した。そのため、調査は時間をかけて慎重に行われている。1983年にはファイバースコープで、1998年には超小型カメラで、そして2001年にはデジタルカメラで石槨の内部撮影が行われた。 今後の参考のために、キトラ古墳発掘調査の履歴をここで整理しておこう。

■昭和58年(1983) 11月 、NHKが墳丘の外側から石槨内にファイバースコ ープを挿入。北壁に「玄武(げんぶ)」の絵を確認。(1次調査)
■平成10年(1998)3月、小型カメラで青竜、白虎、天井に星宿図を確認 (2次調査)
■平成12年(2000)3月、デジタルカメラで朱雀を確認 (3次調査)
■平成12年(2000)7月、 国史跡に指定
■平成12年(2000)11月、 特別史跡に指定
■平成12年(2000)12月、天井の星は金ぱくを張り付けていることを確認 (4次調査)
■平成13年(2001)3月、石槨内にデジタルカメラを入れ,内部を写真撮影。南壁で「朱雀(すざく)」の絵を発見
■平成14年(2002)1月、十二支の寅とみられる獣頭人身像を確認
■平成14年(2002)6月、覆屋建設に伴う発掘調査で墓道を発見


古墳および周辺環境保全エリア
古墳および周辺環境保全エリア
 キトラ古墳の築造時期は、高松塚と同様に7世紀末から8世紀初めと推定され、被葬者も高位の皇族か貴族の墓との見方が出ている。しかし、最近発見された獣頭人身像が十二神像であるとすれば、築造時期はもう少し下るとする見解もあり、必ずしも築造時期や被葬者が特定されている訳ではない。実際に石室に入り詳細な調査が可能になれば、また新しい発見があるだろう。当分の間、キトラ古墳は目の離せない注目の古墳となるに違いない。

 なお、平成12年度に策定された「キトラ古墳周辺地区基本構想」に基づいて専門家からなる「キトラ古墳周辺地区基本計画委員会」を設置され、 施設計画や管理運営計画などについて現在検討が加えられている。古墳および周辺環境保全エリアとして整備が予定されている地域を、上の図に示す。



帰路、植山古墳に立ち寄る

植山古墳
シートに覆われた保存作業中の植山古墳 (04/01/27 撮影)


 夕暮れまでにはまだ時間があったので、橿原市の五条野町に立ち寄ってみることにした。五条野には保存作業中の植山古墳がある。平成12年(2000)8月17日に発掘現場が一般公開され、推古天皇と竹田皇子を一時葬った御陵ということで、マスコミに大きく報じられた古墳である。

 大規模な宅地分譲開発地の真ん中に取り残された丘の上に、古墳は位置している。橿原市は当初、この丘を分譲地内の公園にする予定でいた。思わぬ大発見に驚いた市の教育委員会は、植山古墳保存整備検討委員会を設置して保存に乗り出した。平成13年(2001)の11月には、遺跡の重要性と進行中の区画整理事業を総合的に判断して、文化審議会も異例の早さで国の史跡として指定することを答申した。さらに、平成14年(2002)5月16日、北側斜面の山林約200平米を追加し、整備面積を計約1万2400平米とすることを答申した。

植山古墳の保存現場
植山古墳の保存現場(北側より撮影)
 植山古墳の東側石室からは、馬具の飾りとして用いられた歩揺(ほよう)付飾り金具が33個も出土していた。橿原市の教育委員会が飾り金具の断面に電子線を当てて調べたところ、台座などの表面に金と銀を重ねた部分があることが判明した。平成14年5月のことである。銅板に金を塗った後、銀ぱくか粒子状の銀を重ねた可能性が強いという。銀の発色をよくする技術と考えられるが、過去に例はなく、確認されたのは初めてとのことだ。

 実は、昨年の2月にも保存作業の状態を確認したくて、当地を訪れている。隣接する墓地から見下ろす光景は、見かけ上は当時も現在もあまり変化があるようには見えない。相変わらず青いシートが全面を覆っていて、その下でどんな作業が行われているのか部外者には分からない。




2004/01/27作成by n-ohsei@bell.jp return