檜隈の地の景観に、在りし日の渡来人たちの活動を思い描くひょっとして発掘調査の報告があるかもしれない。そう思って、報道関係者とは少し距離をおいて覆い屋の近くをウロウロしていた。しかし、何事も起こりそうもない。仕方なく、県道210号線を飛鳥駅方面に引き返すことにした。来たときとは逆に、一直線に北に向かって下る坂道である。左右に展開する檜隈の地に目線をやりながら、この道の歩道をゆっくりと下るのは、実に楽しい。
雄略天皇の時代、天皇の寵臣だった身狭村主青(むさのすぐりあお)や檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)は、大陸や朝鮮半島から織機などの技術集団を連れてきて、この地に住まわせた。彼らのほとんどは朝鮮半島の南にあった「安羅」出身であったといわれている。最初は居住地の名を集団の名に冠していたが、そのうち、”大和に住む安羅出身者”であることを表す「東漢(やまとのあや)」を集団の総称として用いて結束し、祖神として阿智使主を祀るようになったものと推測される。阿智使主を祀る神社が於美阿志神社である。
だが、東国の使節や多くの朝廷の要人が出席している重要な儀式で、白昼堂々と天皇を殺すことなどできるのだろうか。私は、『日本書紀』編纂者たちが、『史記』の中の荊軻(けいか)による始皇帝暗殺未遂事件や、645年の飛鳥板蓋宮での蘇我入鹿刺殺事件にヒントを得て創作した記述だと推測している。 いずれにせよ、天皇を刺殺した駒は、追っ手を逃れて、生まれ育った檜隈に立ち戻ったはずである。彼は、思いを寄せていた蘇我の河上娘(かわかみのいらつめ)を我が家にかくまっていたと思う。遠国に逃れる前に、彼女にはどうしても会わなければならない。できれば、一緒に逃げてほしい。だが、大罪を犯した身では、一族の誰とも顔をあわすことはできない。 旧暦11月3日は、現在の暦では12月の半ばである。厳冬の寒さに身を震わせながら駒が人目を避けていたのは、あの丘陵の竹林あたりか、それとも深く切り込んだ谷底の枯れ草の陰だったのか。しかし、駒の命運は既に尽きていた。結局は追っ手に捕まり、河上娘を汚したことが露見して、蘇我馬子によって殺されることになる。亀井勝一郎氏はその著書『聖徳太子』の中で、駒の罪状を一つ一つ数え上げながら、大木に縛られた駒に向かって馬子が矢を射かける凄惨な場面を描いている。 |
キトラ古墳の発掘の歴史を振り返る
キトラ古墳は高松塚古墳から南へ約1.2kmの明日香村大字阿部山に位置する二段築成の円墳である。直径は上段が9.4m、テラス状下段が約14mで、高さは約3.3mにすぎない。この古墳を一躍有名にしたのは、墳丘内の石槨の壁に四神の霊獣や世界最古の天文図が描かれていることが確認されたためである。こうした極彩色の壁画が描かれた古墳の発見は、我が国では高松塚古墳に次いで2つ目だった。近鉄飛鳥駅の前を流れる高取川には、高松橋が架かっていて、キトラ古墳の四神図の絵柄が橋のたもとに填め込まれている。
■昭和58年(1983) 11月 、NHKが墳丘の外側から石槨内にファイバースコ ープを挿入。北壁に「玄武(げんぶ)」の絵を確認。(1次調査) ■平成10年(1998)3月、小型カメラで青竜、白虎、天井に星宿図を確認 (2次調査) ■平成12年(2000)3月、デジタルカメラで朱雀を確認 (3次調査) ■平成12年(2000)7月、 国史跡に指定 ■平成12年(2000)11月、 特別史跡に指定 ■平成12年(2000)12月、天井の星は金ぱくを張り付けていることを確認 (4次調査) ■平成13年(2001)3月、石槨内にデジタルカメラを入れ,内部を写真撮影。南壁で「朱雀(すざく)」の絵を発見 ■平成14年(2002)1月、十二支の寅とみられる獣頭人身像を確認 ■平成14年(2002)6月、覆屋建設に伴う発掘調査で墓道を発見
なお、平成12年度に策定された「キトラ古墳周辺地区基本構想」に基づいて専門家からなる「キトラ古墳周辺地区基本計画委員会」を設置され、 施設計画や管理運営計画などについて現在検討が加えられている。古墳および周辺環境保全エリアとして整備が予定されている地域を、上の図に示す。 |
帰路、植山古墳に立ち寄る
夕暮れまでにはまだ時間があったので、橿原市の五条野町に立ち寄ってみることにした。五条野には保存作業中の植山古墳がある。平成12年(2000)8月17日に発掘現場が一般公開され、推古天皇と竹田皇子を一時葬った御陵ということで、マスコミに大きく報じられた古墳である。 大規模な宅地分譲開発地の真ん中に取り残された丘の上に、古墳は位置している。橿原市は当初、この丘を分譲地内の公園にする予定でいた。思わぬ大発見に驚いた市の教育委員会は、植山古墳保存整備検討委員会を設置して保存に乗り出した。平成13年(2001)の11月には、遺跡の重要性と進行中の区画整理事業を総合的に判断して、文化審議会も異例の早さで国の史跡として指定することを答申した。さらに、平成14年(2002)5月16日、北側斜面の山林約200平米を追加し、整備面積を計約1万2400平米とすることを答申した。
実は、昨年の2月にも保存作業の状態を確認したくて、当地を訪れている。隣接する墓地から見下ろす光景は、見かけ上は当時も現在もあまり変化があるようには見えない。相変わらず青いシートが全面を覆っていて、その下でどんな作業が行われているのか部外者には分からない。 |