橿原日記 平成16年1月17日

小雪が舞い散る飛鳥を行く



阪神大震災から9年目の朝、奈良地方は早朝から雪

 9年前の1月17日午前5時46分、巨大地震が阪神地方を襲い未曾有の災害をもたらした。その日の朝の記憶は今でも生々しい。テレビのスイッチを入れると、上空のヘリコプターから神戸の市街地の様子を報道していた。テレビに映し出される光景はまさに地獄絵だった。それは、ハリウッドの特撮映画とまごうばかりの光景だった。あちこちで火災が倒壊した民家をメラメラと燃やし続け、煙が上空高く舞い上がっていた。

 今朝、窓のカーテンを開けると、一面が白銀の世界だった。低気圧が列島の南に発生し、そのため夜明け前から近畿地方は雪になったらしい。今日は飛鳥へ出かける予定があったが、降りしきる雪を見て少し躊躇した。だが、雪の飛鳥はいつもの見慣れた風景を一変させているにちがいない。今朝は自転車ではなく徒歩で出かけることにした。

 降りしきる雪は、見慣れた景色を白一色の世界に変えるだけでない。周囲の騒音もすべて消してくれる。新雪を踏みしめる時のキュッ、キュッという音以外、週末の朝の田舎道は物音一つしない。だが、視線を遠くに投げても、見慣れた山が見えない。灰色の空から落ちてくる小雪が視界を効かなくし、モノクロの世界に変えてしまっている。

 後日の回想のために、所々で飛鳥の史跡をデジカメで撮影した。雪空の下では、色彩も失われるらしい。カメラが写し取った景色は、以下に示すように完全にモノクロの世界である。雪空が青空に変われば、これらの景色も色づくのかもしれないが、今日はどうやら無理なようだ。
(以下の写真は、クリックすると拡大表示して見ることができる。元のサイズに戻すにはブラウザの「戻る」アイコンを用いる)

本薬師寺跡 飛鳥川&甘樫丘
本薬師寺跡 飛鳥川&甘樫丘
雷丘 飛鳥寺
雷丘 飛鳥寺
亀形石槽 伝飛鳥板蓋宮跡"
亀形石槽 伝飛鳥板蓋宮跡
川原寺 橘寺"
川原寺 橘寺
遊歩道 飛鳥川"
遊歩道 飛鳥川
石舞台 亀石"
石舞台 亀石
天武・持統合葬陵 高松塚古墳"
天武・持統合葬陵 高松塚古墳


あすか塾で「飛鳥の諸宮と藤原京の成立」の講義を聴く

祝戸荘
「あすか塾」が開かれた祝戸荘

 今日の飛鳥行きの目的は、実は飛鳥保存財団研修宿泊所の祝戸荘で行われる第126回「あすか塾」に参加することだった。橿考研調査第一課の主任研究員・林部均氏が『飛鳥の諸宮と藤原京の成立』と題する講義をされるというので参加することにした。

 初めての参加だったが、常連の参加者が多く、雪の週末にもかかわらず講義室はいっぱいになった。「あすか塾」では午前11時20分から午後2時40分までの講座の間に、昼の昼食が用意される。本日のメニューは混ぜご飯と天ぷらそばだった。

 林部氏の講義には、”飛鳥の「首都」化、すなわち飛鳥の整備・荘厳化はいかに達成されたか”というサブタイトルが付いていた。7世紀代に飛鳥に宮居を築いた各天皇が飛鳥の地の荘厳化に腐心した理由も目的も、説得力がある説明だった。ただ、荘厳化のために宮居や寺院などの建物を正方位、すなわち南北軸を重視するようになった契機を、氏は西暦600年の遣隋使に求め、「天子南面」の思想や天円地方の思想をもたらしたとされたが、小生の考えは少し違う。蘇我馬子が建立した飛鳥寺では、すでに南北軸を主軸に伽藍が配置されている。飛鳥寺の着工は588年である。その頃までには南北軸を重視する思想が朝鮮半島から伝わっていたと見なすべきであろう。

講義室
「あすか塾」の講義室
 今一つ、林部氏と見解が異なる点があった。氏は、蘇我蝦夷・入鹿父子の邸宅跡が甘樫丘東麓遺跡であるとした場合、蘇我氏の勢力が狭義の飛鳥から排除する力が働いた結果であると推定された。だが、蝦夷・入鹿の頃は蘇我氏の絶頂期であり、甘樫丘の東麓は飛鳥を眼下に臨む恰好の場所だったはずである。飛鳥から排除されたのではなく、逆に飛鳥全域が蘇我氏の監視下に置かれたと見なすべきであろう。

 飛鳥の諸京も藤原京も南北線を主軸に造営されたのは事実だろう。だが、飛鳥の地形を考えた場合、四神相応の地でもないところになぜ都が築かれたのかという疑問は、相変わらず残った。韓国や中国では、都は北、東、西を山に囲まれ、一方が開けていて、南方に川や池など「水」をたたえ得るような地形環境に築くのが最も良いとされている。だが、飛鳥の地も藤原の地も南が北より土地が高い。水は南から北へ流れる。さらに、土地も北に開いている。まさに風水の説と逆の地形なのである。




2004/01/17作成by n-ohsei@bell.jp return