橿原日記 平成16年1月11日

石上神宮の神宝・七支刀と若草山の山焼きを見る



 日本の古代史で”謎の4世紀”とされる300年代、当時の朝鮮半島との外交を考える上で非常に貴重な銘文が、石上神宮で伝世されてきた七支刀に刻まれている。昨年、さきたま資料館で赤さびた「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」を実見した。そのときから機会があれば、七支刀も実際にこの眼で見てみたいと思っていた。

 その機会が意外に早く来た。奈良国立博物館では、今月4日から「七支刀と石上神宮の神宝」と題する特別陳列を行っている。刀身の左右に3つづつの枝が互い違いに出ている異様な形の七支刀に対面するために、今日の午後わざわざ奈良市まで出かけた。奈良の冬の風物詩である若草山の山焼きが、本日の午後6時から行われると聞いていた。ついでに、炎の祭典も近くで見学したいというのも、今日を選んで博物館に出かけた理由の一つだ。山焼きは知人と落ち合って見学する予定だった。だが、行き違いがあって、残念ながら知人とは同行できなかった。
七支刀
刀身の左右に各3本の枝刃と段違いに作り出した特異な形状の七支刀


奈良国立博物館で「七支刀と石上神宮の神宝」を実見する

 奈良国立博物館の「七支刀と石上神宮の神宝」と題する特別陳列は、普段は公開されることのない禁足地出土品を中心に、石上神宮に伝わる神宝類の展示を目的としたものである。禁足地とは、拝殿後方の石製瑞垣で囲われた東西約44.5m南北約29.5mの区画をいう。神宮の宮司だった菅政友(かんまさとも)は明治7年(1874)に禁足地から玉類や刀、鏡などを掘り出した。それらの品々が禁足地出土品として今回陳列されている。しかし、陳列品の中のハイライトは、なんと言っても伝世品の2枚の鉄盾(重文)と七支刀(国宝)だ。


鉄盾
重要文化財の鉄盾(てつたて)

 まるで見学者の侵入を妨げるように、2枚の鉄の盾は、東新館展示場入口の正面に置かれていた。とにかく巨大である。1号盾は全長143.32cm、上幅83.63cm、2号盾は全長139.38cm、上幅71.21cmもある。いずれの盾も赤さびた鍛鉄の板を重ね合わせ、鋲で留めてある。5世紀の古墳時代に用いられた三角板鋲留短甲の製作技術に似た方法で造られているとのことだ。

 側面に見ると、盾の面が緩やかに内側に湾曲しているのがよく分かる。裏面には支柱を固定するのに用いられたと思われる突起が付いている。おそらく戦闘で実際に使われたものではなく、儀式の際に置盾として用いられたのであろう。

古墳から出土する鉄製の鎧や兜などの武具は、博物館などでよく見かける。しかし、盾の遺品は見かけたという記憶はあまりない。実戦で使用した盾は木製品や皮製品だっため、長い歳月の間に腐ってしまい発掘されないのであろう。石上神宮に伝わったこれらの鉄盾は実用の盾を実物大に模倣した儀仗用のもので、5世紀代に我が国で作られたものと推測されている。

 エリザベス・テーラー主演の映画「クレオパトラ」の中で、シーザーは前後左右および上部に大きな盾を並べて亀甲形の陣を組ませ、敵の襲撃を防いでいた場面があった。ローマ時代の戦法の一つだろうが、我が国でも矢戦はあっただろうし、そうであれば似たような戦法が用いられた可能性がないとは言えない。


金象嵌
金象嵌を施した刀身(”博物館だより”より)
 七支刀は、展示場の一角にガラスケースに収められて陳列してある。刀身の両面が見学できるようにとの配慮である。ほとんどの見学者のお目当てもこの刀に集中しているようで、ガラスケースに回りは常に人垣があった。

 全長74.8cmの七支刀を有名にしているのは、その特異な形状もさることながら、刀身の両面に金象嵌された61文字の銘文である。ガラスを通した位置からは、肉眼で金象嵌を確認することはほとんどできないが、近くの壁に拡大文字が貼り付けてあった。それによれば、銘文は次のように読めるとのことだ。
泰□四年□月十六日丙午正陽造百錬鋼七支刀□辟百兵宜供供候王□□□□作 (表)
先世以来未有此刀百済□世□奇生聖音故為倭王旨造□□□世 (裏)

 象嵌の一部が剥落していることもあり、銘文の解釈についてはさまざまな説がだされてきた。最初の2文字については、中国の東晋の年号である「太和」と音が共通することから「泰和」と見て、西暦369年にあてる説が有力である。銘文の大意は、泰和4年に百済王の太子が倭王のためにこの七支刀を作ったというものである。

 七支刀は、石上神宮に古くから「六叉刀」の呼び名で伝えられた神宝である。明治9年(1876)、当時宮司だった管政友(かんまさとも)が、この刀に金象嵌で文字が刻まれていることを発見し、明治20年(1887)に『任那考』で解読文を発表したことで、この事実が世に出た。しかし、戦前は七支刀が金石文資料として取り上げられることはあっても、銘文の解読はそれほど進展しなかった。銘文の徹底した研究を行ない、その成果を世に問うたのは、福山敏夫氏や榧本杜人氏である。両氏は昭和26年から27年にかけて、銘文解読の決定版とも言うべき論文を発表された。

 実は、歴史家があまり信用していない『日本書紀』に、神功皇后52年9月、百済からこの七支刀が献上されたと記載されている。神功皇后52年は、西暦に修正すると372年になり、刀が製作されて3年後には我が国に伝えられたことになる。

 以前は、『日本書紀』の内容から、日本の歴史学者は七支刀は属国の百済から倭国に”献上”されたと解釈してきた。しかし、韓国の歴史学者はこの解釈に猛反発し、百済から属国の倭に「下賜」したものだと唱えた。歴史的事件に現在のナショナリズムを持ち込んだ誠に意味のない論争が続いた。現在では、対等の独立国である両国が一種の軍事同盟を結んだ記念に百済から倭国に贈呈されたものとして、一応落ち着いている。

 問題は、百済が倭と軍事同盟を結ばざるを得なかった背景である。建国間もない百済は、370年前後には北の強国・高句麗と毎年のように軍事衝突を繰り返していた。七支刀を作ったとされる369年9月、高句麗の故国原王は歩兵・騎兵合わせて2万の大軍を率いて百済領に侵入し、民家を侵し掠奪した。百済の近肖古王は太子(後の近仇首王)を派遣して、これを破っている。371年にも高句麗兵が攻めてきたので、百済は待ち伏せして大敗させている。さらに、百済王は太子とともに敗走する高句麗軍を追撃し、高句麗の平壌城を攻めて故国原王を戦士させている。375年にも高句麗が北辺の城を攻めてきたので、将兵を派遣してこれを防いだが、この時は勝てなかった。王は大軍を起こして報復しようとしたが、その年の11月死亡してしまった。その後を嗣いだのが、七支刀を作らせたとされる近仇首王である。

 百済としては、北の高句麗に対抗するには、どうしても強力な軍事支援を必要とした。『日本書紀』は、神功皇后47年に百済が初めてヤマト朝廷に朝貢してきたと記す。七支刀を送られた年から5年前のことである。以来、毎年のように使節を遣わしてきている。『日本書紀』は神功皇后52年に、倭から派遣された千熊長彦と百済王は百済の古沙山に登り、磐の上で同盟の誓いを立てたとしている。七支刀はこの同盟を記念して作られたことになる。

 そして、倭国はこの同盟がきっかけで、それから30年後、高句麗を相手に壮絶な戦闘を繰り広げることになる。そのことは、故国原王の跡を継いだ広開土王の輝かしい戦績を記録した碑に詳しい。現代の日本が、軍事同盟という足かせのために、海外まで派兵しなければならなくなった現状とどこか似ている。



午後6時の点火で一斉に燃え上がる若草山

一斉に点火された若草山
一斉に点火された若草山

 若草山の山焼き行事は、冬の奈良の風物詩だ。今までは、残念ながらテレビの報道でしか見たことがなかった。今年は博物館で石上神宮の神宝を見た後、実際に間近で見る機会を得た。

 若草山の山焼きの起源については、さまざまな説がある。一般に信じられているのは、春日・興福寺と東大寺の領地争いとされている。そこで、双方の境界争いが表面化した宝暦10年(1760)、奈良奉行がこの事件を5万日預かると仲裁し、関係者立会いで山を焼いたのが始まりと言われている。以前は1月15日(成人の日)に山焼きが行われてきた。平成12年に祝日三連休化を目的とした祝日法の改正が行われたため、それ以後は「成人の日(1月の第2月曜日)」の前日の日曜日に行われるようになった。

夜空を彩る花火
夜空を彩る花火
 山焼きは単純に山を焼くだけだと思っていたが、実際はそうではない。山焼きの祭典は、若草山と御蓋山(みかさやま)の谷を流れる吉城川沿いの水谷橋のたもとから始まる。午後5時15分、橋のたもとで春日大社の聖火から松明(たいまつ)に火を移し、若草山山麓の野上神社まで約700mの道のりを、15分かけて10名の奈良法師が松明を運ぶ。野上神社では、奈良法師が運んできた松明からかがり火に点火され、5時30分から山焼きの無事を祈る祭典がとり行われる。その祭典の後、5時50分に春日大社、興福寺、東大寺の三社寺により大松明に点火される。それと同時に約200発の花火が始まる。

燃え上がる炎
燃え上がる炎
 花火が夜空を彩った後、午後6時丁度に号令のラッパと共に、まず興福寺、東大寺、春日大社の大松明が先頭で若草山に火をつける。そしてすぐに、消防団約300名や県の職員が点火を開始する。このようにして、面積33ヘクタール、周囲3.8kmの山が一斉に燃え上がる。

 山焼きの炎は、若草山に登らなくても、奈良市内のどこからでも見学することができる。奈良公園の飛火野や新公会堂前の広場での見学者も多い。近鉄奈良駅ビルの「なら奈良館」からもよく見える。西の京の薬師寺の先にある大池辺りも、知る人ぞ知る隠れたスポットらしい。だが、若草山の一重目近くで見る炎の勢いは、さすがに壮観だ。できるだけ近くで見学しようと、大勢の人の波が山麓に押しかけた。

新公会堂前
新公会堂前から眺めた若草山
 今晩の奈良市内の温度は3.6度。それでも13万人の人出があったと、帰宅したらテレビのニュースが報じていた。山焼きのハイライトは、午後6時に点火して猛烈な火炎が夜空を焦がす一瞬である。その時間はせいぜい10分に満たない。ハイライトの瞬間を見終えた人々は山麓を下り始める。ときどき振り返ってみると、幾筋もの火の帯が若草山を取り巻いている。だが、点火した当時の火勢はもはや感じられない。




2004/01/11作成by n-ohsei@bell.jp return