奈良国立博物館で「七支刀と石上神宮の神宝」を実見する
奈良国立博物館の「七支刀と石上神宮の神宝」と題する特別陳列は、普段は公開されることのない禁足地出土品を中心に、石上神宮に伝わる神宝類の展示を目的としたものである。禁足地とは、拝殿後方の石製瑞垣で囲われた東西約44.5m南北約29.5mの区画をいう。神宮の宮司だった菅政友(かんまさとも)は明治7年(1874)に禁足地から玉類や刀、鏡などを掘り出した。それらの品々が禁足地出土品として今回陳列されている。しかし、陳列品の中のハイライトは、なんと言っても伝世品の2枚の鉄盾(重文)と七支刀(国宝)だ。
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| 重要文化財の鉄盾(てつたて) |
まるで見学者の侵入を妨げるように、2枚の鉄の盾は、東新館展示場入口の正面に置かれていた。とにかく巨大である。1号盾は全長143.32cm、上幅83.63cm、2号盾は全長139.38cm、上幅71.21cmもある。いずれの盾も赤さびた鍛鉄の板を重ね合わせ、鋲で留めてある。5世紀の古墳時代に用いられた三角板鋲留短甲の製作技術に似た方法で造られているとのことだ。
側面に見ると、盾の面が緩やかに内側に湾曲しているのがよく分かる。裏面には支柱を固定するのに用いられたと思われる突起が付いている。おそらく戦闘で実際に使われたものではなく、儀式の際に置盾として用いられたのであろう。
古墳から出土する鉄製の鎧や兜などの武具は、博物館などでよく見かける。しかし、盾の遺品は見かけたという記憶はあまりない。実戦で使用した盾は木製品や皮製品だっため、長い歳月の間に腐ってしまい発掘されないのであろう。石上神宮に伝わったこれらの鉄盾は実用の盾を実物大に模倣した儀仗用のもので、5世紀代に我が国で作られたものと推測されている。
エリザベス・テーラー主演の映画「クレオパトラ」の中で、シーザーは前後左右および上部に大きな盾を並べて亀甲形の陣を組ませ、敵の襲撃を防いでいた場面があった。ローマ時代の戦法の一つだろうが、我が国でも矢戦はあっただろうし、そうであれば似たような戦法が用いられた可能性がないとは言えない。
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| 金象嵌を施した刀身(”博物館だより”より) |
七支刀は、展示場の一角にガラスケースに収められて陳列してある。刀身の両面が見学できるようにとの配慮である。ほとんどの見学者のお目当てもこの刀に集中しているようで、ガラスケースに回りは常に人垣があった。
全長74.8cmの七支刀を有名にしているのは、その特異な形状もさることながら、刀身の両面に金象嵌された61文字の銘文である。ガラスを通した位置からは、肉眼で金象嵌を確認することはほとんどできないが、近くの壁に拡大文字が貼り付けてあった。それによれば、銘文は次のように読めるとのことだ。
泰□四年□月十六日丙午正陽造百錬鋼七支刀□辟百兵宜供供候王□□□□作 (表)
先世以来未有此刀百済□世□奇生聖音故為倭王旨造□□□世 (裏)
象嵌の一部が剥落していることもあり、銘文の解釈についてはさまざまな説がだされてきた。最初の2文字については、中国の東晋の年号である「太和」と音が共通することから「泰和」と見て、西暦369年にあてる説が有力である。銘文の大意は、泰和4年に百済王の太子が倭王のためにこの七支刀を作ったというものである。
七支刀は、石上神宮に古くから「六叉刀」の呼び名で伝えられた神宝である。明治9年(1876)、当時宮司だった管政友(かんまさとも)が、この刀に金象嵌で文字が刻まれていることを発見し、明治20年(1887)に『任那考』で解読文を発表したことで、この事実が世に出た。しかし、戦前は七支刀が金石文資料として取り上げられることはあっても、銘文の解読はそれほど進展しなかった。銘文の徹底した研究を行ない、その成果を世に問うたのは、福山敏夫氏や榧本杜人氏である。両氏は昭和26年から27年にかけて、銘文解読の決定版とも言うべき論文を発表された。
実は、歴史家があまり信用していない『日本書紀』に、神功皇后52年9月、百済からこの七支刀が献上されたと記載されている。神功皇后52年は、西暦に修正すると372年になり、刀が製作されて3年後には我が国に伝えられたことになる。
以前は、『日本書紀』の内容から、日本の歴史学者は七支刀は属国の百済から倭国に”献上”されたと解釈してきた。しかし、韓国の歴史学者はこの解釈に猛反発し、百済から属国の倭に「下賜」したものだと唱えた。歴史的事件に現在のナショナリズムを持ち込んだ誠に意味のない論争が続いた。現在では、対等の独立国である両国が一種の軍事同盟を結んだ記念に百済から倭国に贈呈されたものとして、一応落ち着いている。
問題は、百済が倭と軍事同盟を結ばざるを得なかった背景である。建国間もない百済は、370年前後には北の強国・高句麗と毎年のように軍事衝突を繰り返していた。七支刀を作ったとされる369年9月、高句麗の故国原王は歩兵・騎兵合わせて2万の大軍を率いて百済領に侵入し、民家を侵し掠奪した。百済の近肖古王は太子(後の近仇首王)を派遣して、これを破っている。371年にも高句麗兵が攻めてきたので、百済は待ち伏せして大敗させている。さらに、百済王は太子とともに敗走する高句麗軍を追撃し、高句麗の平壌城を攻めて故国原王を戦士させている。375年にも高句麗が北辺の城を攻めてきたので、将兵を派遣してこれを防いだが、この時は勝てなかった。王は大軍を起こして報復しようとしたが、その年の11月死亡してしまった。その後を嗣いだのが、七支刀を作らせたとされる近仇首王である。
百済としては、北の高句麗に対抗するには、どうしても強力な軍事支援を必要とした。『日本書紀』は、神功皇后47年に百済が初めてヤマト朝廷に朝貢してきたと記す。七支刀を送られた年から5年前のことである。以来、毎年のように使節を遣わしてきている。『日本書紀』は神功皇后52年に、倭から派遣された千熊長彦と百済王は百済の古沙山に登り、磐の上で同盟の誓いを立てたとしている。七支刀はこの同盟を記念して作られたことになる。
そして、倭国はこの同盟がきっかけで、それから30年後、高句麗を相手に壮絶な戦闘を繰り広げることになる。そのことは、故国原王の跡を継いだ広開土王の輝かしい戦績を記録した碑に詳しい。現代の日本が、軍事同盟という足かせのために、海外まで派兵しなければならなくなった現状とどこか似ている。
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