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今週の火曜日(9/30)、橿原考古学研究所(橿考研)は、大和郡山市八条町の「八条北遺跡」で、奈良時代から平安時代の掘立柱建物跡22棟がまとまって見つかったと発表した。同じ日、橿考研は天理市南六条町で、方形の溝で区画された4世紀後半の墓と見られる遺跡が見つかり、この遺跡を「南六条北ミノ遺跡」と命名したと発表した。
近鉄天理線の二階堂駅の西を南北に貫く一本の細い道がある。対向車がすれ違うこともできないような狭い県道193号線(筒井二階堂線)だ。だが、この道の地下には路面幅18mと推定されている古代の幹線道路「下ツ道」が埋まっている。天理市中町の静かな集落を縫って北に延びるこの道を一人また一人、見るからに古代史ファンと思われるイデタチの年寄りが北を目指して歩いていく。現地説明会がある時の、いつもの見慣れた光景だ。 一カ月前の35度を超す猛暑の日々がまるで嘘だったように、奈良地方はここしばらく秋晴れの乾燥した日が続いている。大陸から張り出した高気圧の影響で、本日の気温も最高25度と予想され、行楽にはもってこいの気候である。現場説明会がある「八条北遺跡」は、二階堂駅から約1km、ゆっくり歩いても15分ほどの距離にある。 その道のりの間にも、秋の気配を感じ取ることができた。道路沿いの民家の庭からキンモクセイの香りが漂ってくる。集落のはずれまで来ると、黄色く色づいた稲田が刈り取りを待っている。その畦道に群生している彼岸花は、すでに盛りを過ぎていたが、それでもまだ赤の彩りを稲田に添えている。稲田の上を見上げると、上空は秋の澄みきった青空である。その空をまるで刷毛で掃いたように飛行機雲が西から東の空へなびいていた。 |
八条北遺跡: 建物群跡は古代の「下ツ道」に面する公的施設か?
「八条北遺跡」とその東の「南六条北ミノ遺跡」では、西名阪自動車道と京名和自動車道をつなぐ郡山ジャンクション建設にともなう事前の発掘調査が行われてきた。いずれも発掘が完了した訳ではない。したがって、本日の現場説明会では、現時点での出土遺構と出土遺物を公開するために行われた。
この発掘現場は、奈良の都だった平城京の羅城門から下つ道を南に4km下った場所で、下つ道に面して掘立柱建物22棟および柵、それに伴うと思われる井戸10基と溝が見つかった。一緒に出土した軒丸瓦や磚(せん)、硯(すずり)、三彩小壺などから、奈良時代から平安時代にかけて存在した建物群の跡と思われる。 ただし、これらの建物群は主軸が正方位から若干東に振れるもの(12棟)と、主軸が正南北方位に近いもの(10棟)に大別できるという。両グループの前後関係は現時点では判断できないが、多く検出している井戸の調査が進めば、建物群が機能していた時期を知る手がかりが得られるかもしれないとのことだ。 建物群の性格についても、現時点では確定的なことは言えないらしい。ただ、間口5間以上の大型建物が複数存在すること、三彩小壺、円面硯(すずり)など役所や寺院などでよく使う高級な出土品も目立つことから、下つ道沿いに展開する公的な施設だった可能性があるという。 現場を見た限りの印象では、公的な施設だったことは否定できない。問題は何の施設だったかである。筆者は2つの点に着目して、下つ道沿いに置かれた駅家(うまや)ではなかったかと推察したい。まず、建物には間口6間の建物が4棟、間口7間のものも1棟ある。これだけを指摘されれば、確かに大型の建物のように見えるが、しかし、すべての建物跡は奥行きが1間または2間しかない。民家や役所と考えるには、いささか不自然な横長の建物である。しかし、駅馬をつないでおいた厩舎と考えるならば、適当な大きさである。
我が国の駅制は7世紀に始まったとされ、律令制国家の充実とともに発展した。約30里(約12.4km)ごとに駅をおき、駅長・駅子が駅馬を運営していたという。下つ道から南への駅制の起点となる施設が、この付近に設置されていても不合理ではない。平城京の羅城門からはちょうど10里の位置にある。 「八条北遺跡」では、奈良時代以前の遺構として、古墳時代前期の溝や弥生時代の方形周溝墓7基も見つかっている。しかし、これらに冠する説明はほとんどなかった。「八条北遺跡」では、現在遺跡の東縁にある道路を他の場所につけ直して、今後下つ道とその東側の発掘調査を続行するという。また、新しい発見があるかもしれない。
【参考:下ツ道の道幅】
【参考:駅制】 駅制に似たシステムに伝馬制がある。これは郡家に置かれた伝馬を乗り継いでいくシステムで、地方豪族の固有の交通制度を再編成したものである。伝道の幅は6m程度のものが多かった。 このように、奈良時代の初めには駅路は9m〜12mの道幅だったが、平安時代には6m程度になった。時代がくだって、江戸時代の街道に道幅は2間、すなわち3.6m程度だったという。 |
南六条北ミノ遺跡:溝の4隅に置かれた木製農具は何を語るか?
「南六条北ミノ遺跡」は「八条北遺跡」から200mほど東にある。北ミノというのは発掘現場内の小字の名称だそうだ。ここでも、郡山ジャンクション建設にともなう事前調査として、約6300平方メートルを発掘が行われている。 昨年の試掘調査で開けたトレンチで、溝の東側が検出された。そこで、方形周溝墓が埋まっているのではないかとの予測のもとに本格的な調査が行われた。その結果、発掘現場の4分の1を占める広さのところに、一辺約20mの溝がほぼ正方形に掘られている区画が検出された。
人々の注意を呼んだのは、この溝の4隅から出土した多数の木製品の農具である。具体的には、北西の隅から鋤が1点、北東の隅から鋤が1点・鍬の柄が1点、南西の隅から鋤が2点、南東の隅からナスビ形の鍬が2点、鋤が4点、合計13本の農具が出土した。留意すべきは、これらの農具は溝にうち捨てられていたのではなく、4隅に据え置かれたものであり、しかも据え置かれた時の状態のままで出土した点である。こうした状態での出土は全国でも初めてのケースである。 さらに東側の溝からは、土を運んだとみられる11個の篭と天秤棒も出土している。上記の鋤や鍬と一緒に篭や天秤棒も同時に出土したことで、これらの農具は溝の掘削に使用した道具としてセットで埋められたと考えられる。では、なぜ農具を溝に納めたのか。 考えられるのは、古代人の死穢に対する宗教観であろう。死体を埋蔵するた墓の造営に使用した農具は、死穢で汚されてしまっている。それを我が家に持ち帰る訳にはいかない。そこで、墓の造営が終わった後で何らかの儀式を行い、濠に埋めたと見なすことができる。 であるならば、溝に囲まれた方形区画は方形周溝墓なのかというと、橿考研側の説明は非常に歯切れが悪い。墓とみられる部分は盛り土が削られ、埋葬施設が確認できなかったためである。出土した土器の年代観から、おおむね4世紀後半頃(布留2式)に構築された遺構であることは分かっている。だが、溝を周濠と見なすには幅が1.6〜2.7mと狭く、幅に比較して深さは0.7〜1.2mと深い。溝の立ち上がり角度が急であるため、方形周溝墓として評価できないという意見が強いらしい。 では、豪族の居館かあるいは祭祀関連施設かというと、そうでもないらしい。溝に橋を掛けた形跡がない上に、生活感のある出土遺物が極端に少ない。このため、方形区画は特別な空間として意識されていたことは間違いない。 中央に墓穴を掘り、墓域を溝で方形に区画した方形周溝墓は、弥生時代から古墳時代にかけて行われた墓制の一形態である。溝に農具を納めた例は、愛知県清洲町の朝日遺跡でも見つかっている。この遺跡でも溝の底にクワやスキを埋納している。そこで、橿考研の説明員は方形周溝墓とは言わず「方形周溝墓の伝統を受け継ついだ墓である」と苦しい言い方をした。現地説明会のために用意された資料でも、「方形周溝墓」ではなく「方形区画」と表記し、溝を方形区画溝と呼んでいる。
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