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関東地方とは違って、関西地方では、9月に入っても35度近い猛烈な残暑が連日続いている。それを承知で、昨日深夜高速バスを利用してまた橿原のアパートにやってきた。 ノムギ古墳の発掘調査を実施している奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が、本日の午前10時半から現地説明会を開くと聞いたからだ。 去る9月2日、橿考研は発掘調査で得られた知見を公表した。それによると、今まで前方後円墳とされてきたノムギ古墳が全長63mの前方後方墳であることが確認でき、しかも、周濠から出土した大量の土器片から3世紀後半に築造された可能性が高いという。ノムギ古墳は、大和(おおやまと)古墳群の北端に位置し、萱生(かよう)支群の中の一つである。この古墳が3世紀後半に築かれた前方後方墳ならば、今後の考古学で特異な存在となるはずである。その所在地を自分の目で確かめておきたい衝動に後押しされて、気づいたときはJR桜井線に飛び乗っていた。 |
発掘調査の成果発掘現場は、JR桜井線の長柄駅から東へ徒歩15分のところにあると聞いていた。説明会は午前10時半から始まるというので、すこし余裕をみて9時49分に長柄駅に着いた。晴れ渡った青空から照りつける太陽で白く乾いた道が東に延びている。大和(おおやまと)神社の参道脇に立ち並ぶ巨木が、右手遠方に続いている。
会場入り口で配布された現地説明会資料と、調査を担当した近江俊秀主任研究員の説明から、今回の調査の成果を要約すると、以下のようになる。 (1) 前方後方墳であることを確定平成8年に古墳の北側で実施された発掘調査で、ほぼ直角に曲がる周濠の角が検出されたため、前方後方墳の可能性が指摘されていた。今回の調査では、周濠の南東の角のみならず、墳丘の南東の角も検出された。これによって、墳丘が前方後方墳であることが確定した。ちなみに、ノムギ古墳の墳丘の測量値は全長約63m、前方部の長さ約20m、後方部一辺の長さ約35m、後方部の高さ約4mである。 (2) 検出された周濠はノムギ古墳のもののみ
しかし、今回の調査で検出された周濠はノムギ古墳のものだけで、ヒエ塚古墳の周濠は検出されなかった。その理由として、ヒエ塚古墳の周濠が今回の調査区まで及んでいないか、あるいは浅い周濠だったのですでに削平されてしまった可能性があるとのことだ。 (3) 6世紀後半までに何度も改変されたノムギ古墳の周濠ノムギ古墳の周濠の中で、土器を大量に投棄したり積み土を入れて埋め戻したり、周濠を掘り直したりする行為が何回も繰り返された形跡がある。こうした行為は、古代の祭祀に伴うものかどうか、現段階では断定できないという。 (4) 築造年代は古墳時代前期前半か?
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"前方後方墳"雑感
3世紀中葉といえば、邪馬台国の卑弥呼が死んだころである。『魏志』倭人伝の記述から、卑弥呼は247年か248年に死んだと推定されている。卑弥呼が死亡したとき、倭人は直径百余歩もある大きな塚を作り、奴稗百余人が殉葬したという。だが、築かれた墓が前方後円墳の形をしていたとは想定されていない。 一方、前方後方墳は、方形の主丘に長方形の前方部が敷設された古墳であるが、数が少なく、全国で約200基が発見されているにすぎない。また、その規模も前方後円墳に比べて、一回りも二回りも小さい。ちなみに、巨大古墳100選の中に名を連ねているのは、第47位の天理市西山古墳(墳丘長180m)、第76位の天理市波多子塚(はたごづか)古墳(144m)、第99位の奈良県広陵町新山古墳(137m)のわずか三基にすぎない。その他はすべて前方後円墳だ。このため、前方後方墳はランクが一段低い墳丘形式として、古墳時代の人々には認識されていたようだ。 しかし、最近の考古学会では、前方後方墳に関する報告が次々と発表されている。それらを総合すると、弥生時代終末期には、前方後方墳の祖形である大型の墳丘墓が濃尾平野で営まれていた。そして、3世紀前半になると、東海、北陸、関東など東日本各地で前方後方墳が盛んに築かれるようになった。特に大規模なものは、尾西市の西上免遺跡など濃尾平野に見られるとのことだ。そのため、少なくとも古墳時代前期前半(3世紀後半)の段階では、西日本の前方後円墳の世界に対して、東日本には前方後方墳の世界があったという。
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検証できるか? 初期ヤマト政権成立の壮大な歴史ロマンこうした謎を追求してゆくと、初期ヤマト政権成立の事情まで踏み込むことになる。その点に関して、平成時代になって脚光を浴びている一つの仮説がある。愛知県埋蔵文化センターの赤塚次郎氏や国立歴史民族博物館長の白石太一郎氏などが提唱する狗奴(くな)国=濃尾平野説だ。
狗奴国=濃尾平野説では、邪馬台国畿内説をベースとし、倭人伝が記述する女王国の「南」を「東」と読み替えて、狗奴国が濃尾平野にあったと考える。つまり、弥生時代終末期には、ヤマトを中心とする広域の政治連合と敵対する別の政治連合が、東日本に存在したというのだ。 この場合、北九州勢力との関係が問題となる。弥生時代の鉄器や中国鏡は、北部九州を中心に分布している。北部九州の勢力は、中国鏡に象徴される先進的文物や鉄器文化、あるいは技術の受容において、日本列島の他の地域に対して圧倒的に有利な立場にあったことは疑いない。それ故に、邪馬台国北九州説は現在でも有力な仮説とされてきる。だが、その後の日本列島の古代国家は、近畿の勢力を中心に形成されている。 この矛盾をどのように理解したらよいのであろうか。白石太一郎氏は、畿内ヤマトの勢力による先進的文物輸入ルートの支配権奪取にその原因を求めておられる。すなわち、北九州勢力に先進的文物輸入ルートの支配権を握られて、鉄資源や先進的文物をスムーズに入手できなかった畿内ヤマトの勢力は、瀬戸内海沿岸各地の勢力と連合して、先進的文物の入手ルートの支配権を奪取したというのだ。 その証拠に、2世紀代まで北部九州を中心に分布していた中国鏡が、3世紀になると近畿のヤマトを中心とする分布に一変するという。この事実は、入手ルートの支配権の争いで、近畿・瀬戸内連合の勝利を裏付ける。氏は、この広域の政治連合の成立こそ、とりもなおさず邪馬台国連合の成立に他ならないという。そして、この争いこそが、『魏志』倭人伝や『後漢書』にみられる「倭国乱」ないし「倭国大乱」にあたるものかも知れないと推測される。 卑弥呼の晩年、邪馬台国と狗奴国の間に争いが始まる。『魏志』倭人伝は、この争いの帰結を伝えていない。しかし、その後の状況から邪馬台国側の勝利に終わったと推測できる。その結果、狗奴国を中心とする東日本の広大な地域が、ヤマトを中心とする連合に加わることになった。邪馬台国連合から初期ヤマト政権への転換である。 東日本地域が西日本の政治連合に参加した結果、初期ヤマト政権の版図が著しく拡大した。そのために政治秩序の革新が求められた。白石氏は、その際新しい政治秩序のシンボルとして、墳形による「秩序」を採択したと推測される。すなわち、この政治連合に元から加わっていた第1次メンバーには、前方後円墳の築造が認められた。だが、新しくこの連合に参加した2次的メンバーに造ることを認めたのは、狗奴国連合で盛んに造営されていた前方後方形墳丘墓の流れを引く前方後方墳であった。このため、西日本各地でも、新しくこの首長連合に加わった新メンバーや、近畿のヤマトにあっても東日本の旧狗奴国の勢力と密接な関係をもつ首長には、前方後方墳を造営させた、というのだ。 白石氏が言われるように、初期ヤマト政権の成立に東海地方の勢力が密接にかかわっていたと理解することで、大和古墳群の萱生支群に、ノムギ古墳を始めとして前方後方墳が集中する理由も納得できる。これらの古墳の被葬者がかって狗奴国連合の首長たちであったと想定すればよい。 『古事記』や『日本書紀』によると、東日本の広大な地域が西日本に成立したヤマト政権に組み込まれていく過程は、四道将軍やヤマトタケルをはじめとするヤマトの将軍達の度重なる軍事遠征で、次第にヤマトの版図が拡大したことになっている。だが、考古学的知見は、濃尾平野やその東方の東日本には、すでに邪馬台国と並行する時代に、狗奴国を中心とする狗奴国連合ともいうべき政治的世界が形成されていた可能性がきわめて大きいことを示している。
なお、初期ヤマト政権が、新しい政治秩序を墳形でシンボル化したとする上記の説は現段階ではあくまで一つの仮説である。3世紀後半の段階では、前方後円墳が大和の墓制として定着しておらず、初期ヤマト政権を誕生させた豪族たちが、各地の墓制をそのまま採用していたと推測する専門家もいる(置田雅昭・天理大教授)。また、ヤマト政権の全国制覇までは『後円』と『後方』が対等の関係にあったのではと推測する専門家もいる(石野博信・徳島文理大教授)。 |