橿原日記 平成15年9月7日

県道建設計画で破壊の危機に瀕しているノムギ古墳


 関東地方とは違って、関西地方では、9月に入っても35度近い猛烈な残暑が連日続いている。それを承知で、昨日深夜高速バスを利用してまた橿原のアパートにやってきた。 ノムギ古墳の発掘調査を実施している奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が、本日の午前10時半から現地説明会を開くと聞いたからだ。

 去る9月2日、橿考研は発掘調査で得られた知見を公表した。それによると、今まで前方後円墳とされてきたノムギ古墳が全長63mの前方後方墳であることが確認でき、しかも、周濠から出土した大量の土器片から3世紀後半に築造された可能性が高いという。ノムギ古墳は、大和(おおやまと)古墳群の北端に位置し、萱生(かよう)支群の中の一つである。この古墳が3世紀後半に築かれた前方後方墳ならば、今後の考古学で特異な存在となるはずである。その所在地を自分の目で確かめておきたい衝動に後押しされて、気づいたときはJR桜井線に飛び乗っていた。


ノムギ古墳と呼ばれてきた古代の墓とは

ノムギ古墳遠望
ノムギ古墳遠望 (03/09/07 古墳の南から撮す)

 奈良盆地の東南部、天理市から桜井市にかけての南北4km、東西1.5kmの範囲に、約60基の古墳が南北に分布している。これらの古墳は、眼下に大和盆地を見下ろす山麓の丘陵の尾根を利用して、3世紀前半から次々と築かれてきた。そのため、オオヤマト古墳群と総称される我が国の代表的な古墳群を構成している。さらに、付近一帯は古代ヤマト政権成立の歴史的舞台となった重要な地域でもある。オオヤマト古墳群は、言うならば古代ヤマト政権の奥津城であったと見なしてよい。

オオヤマト古墳群
オオヤマト古墳群の中の大和古墳群と柳本古墳群)
 オオヤマト古墳群は、北から大和(おおやまと)古墳群、柳本(やなぎもと)古墳群、箸中(はしなか)古墳群の3つに分かれる (注:以下では、3つの古墳群の総称を”オオヤマト古墳群”で表し、オオヤマト古墳群の中で最も北に位置する大和(おおやまと)古墳群はそのまま漢字で表して区別する。考古学会も、紛らわしい名称に対して呼称変更の対策を考えるべきである)。

 箸中古墳群には、全長278m、古い様式の壮大な前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳が位置している。柳本古墳群では、巨大な二つの前方後円墳、全長300mの景行天皇陵(渋谷向山古墳)と240mの崇神天皇陵(行燈山古墳)が盟主的存在だ。大和古墳群は、中山支群と萱生(かよう)支群に大別され、全長220mの西殿塚古墳(衾田(ふすまだ)陵)、中山大塚古墳、下池山古墳など前方後円墳12基、前方後方墳5基、円墳7基が含まれる。

 ノムギ古墳は、萱生支群の中の小さな古墳で、天理市佐保庄字ノムギ塚に所在する。長野県の女工哀史を思い起こさせるような名前を持つが、それほど著名な墓ではない。周囲を蜜柑や柿の果樹園、水田などに囲まれて、丘陵の尾根にひっそりとたたずんでいる。

 以前は、前方部を西に向けた、全長63m、後円部径40mの前方後円墳とされてきた。このノムギ古墳の東には、全長130mのヒエ塚古墳と呼ばれる前方後円墳が、やはり前方部を西に向けて、キビスを接するように築かれている。

 今から7年前の平成8年に、実はノムギ古墳の北側で発掘調査が実施されている。古墳の北を東西に走る農道建設に伴う事前調査だった。その調査で、ほぼ直角に曲がる周濠コーナーが検出された。そのため、それまで前方後円墳とされてきた墳形が前方後方墳である可能性が高まった。さらに、円筒埴輪や鰭付円筒埴輪がまとまって出土したため、この古墳の築造時期は古墳時代前期後半(4世紀半ば〜後半)であると推定された。

ノムギ古墳の発掘現場
ノムギ古墳の発掘現場
 ノムギ古墳が一躍脚光を浴びるようになったのは、奈良県が県道バイパス天理環状線の建設を計画していることが明らかになった頃からである。このバイパス道路は、ヒエ塚古墳とノムギ古墳の間を南北に貫き、マバカ古墳の前方部西をかすめる。県側の説明によれば、この道路建設は墳丘そのものを破壊するものではないという。

 だが、地表で観察できる墳丘は古墳の一部にすぎない。周濠や周堤、葺石、墳丘内外に置かれた埴輪・供献土器等の遺構・遺物などが、一体となって墓域を構成されている。こうした認識に立って、いくつかの市民団体が路線の変更を求める運動を展開してきた。

 例えば、文化財保存全国協議会(文全協)は2002年5月、オオヤマト古墳群(ヒエ塚古墳・ノムギ古墳・マバカ古墳)の保存と県道「天理環状線」計画の計画変更を求める大会決議を行ない、周辺地域を含めた総合的な学術調査と保存のための施策を訴えている。だが、奈良県は今年度にバイパス道路を着工する方針を固め、事前の発掘調査を橿考研に依託した。

 橿考研が4月半ばから発掘調査を開始した区域は、ヒエ塚古墳とノムギ古墳に挟まれた狭い場所である。ヒエ塚古墳の前方部西端とノムギ古墳の後方部東端のわずか20mほどの幅をもつ空間にすぎない。すでに発掘現場の北端までバイパス道路は延びてきている。



発掘調査の成果

 発掘現場は、JR桜井線の長柄駅から東へ徒歩15分のところにあると聞いていた。説明会は午前10時半から始まるというので、すこし余裕をみて9時49分に長柄駅に着いた。晴れ渡った青空から照りつける太陽で白く乾いた道が東に延びている。大和(おおやまと)神社の参道脇に立ち並ぶ巨木が、右手遠方に続いている。

発掘現場
発掘現場(北側から撮す)
 その並木を眺めながら集落の中の道を進むと、道はやがて北に折れ、国道169号線とぶつかる。ノムギ古墳は国道を横断して緩やかな坂道を東に向かう村道の途中にあった。現場には10時少しすぎに到着したが、すでに見学者の長蛇の列ができていた。10時半までには、まだ時間があったが、見学者が多いため第一回目の説明会が前倒しで始まっていた。後で知ったのだが、本日の説明会には約1200人の考古学ファンが訪れたとのことだ。

 会場入り口で配布された現地説明会資料と、調査を担当した近江俊秀主任研究員の説明から、今回の調査の成果を要約すると、以下のようになる。


 (1) 前方後方墳であることを確定

 平成8年に古墳の北側で実施された発掘調査で、ほぼ直角に曲がる周濠の角が検出されたため、前方後方墳の可能性が指摘されていた。今回の調査では、周濠の南東の角のみならず、墳丘の南東の角も検出された。これによって、墳丘が前方後方墳であることが確定した。ちなみに、ノムギ古墳の墳丘の測量値は全長約63m、前方部の長さ約20m、後方部一辺の長さ約35m、後方部の高さ約4mである。

 (2) 検出された周濠はノムギ古墳のもののみ

発掘現場
発掘現場(南側から撮す)
 ノムギ古墳の東に位置するヒエ塚古墳は全長130mの前方後円墳である。周辺の地形および平成14年の発掘調査の結果、幅30mほどの周濠を有する可能性が指摘された。一方、ノムギ古墳に関しては、幅10mほどの周濠の存在がすでに確認されている。だが、現状では両古墳の間隔は約20mにすぎず、それぞれの古墳の周濠がどのような形になっているか注目された。

 しかし、今回の調査で検出された周濠はノムギ古墳のものだけで、ヒエ塚古墳の周濠は検出されなかった。その理由として、ヒエ塚古墳の周濠が今回の調査区まで及んでいないか、あるいは浅い周濠だったのですでに削平されてしまった可能性があるとのことだ。

 (3) 6世紀後半までに何度も改変されたノムギ古墳の周濠

 ノムギ古墳の周濠の中で、土器を大量に投棄したり積み土を入れて埋め戻したり、周濠を掘り直したりする行為が何回も繰り返された形跡がある。こうした行為は、古代の祭祀に伴うものかどうか、現段階では断定できないという。

 (4) 築造年代は古墳時代前期前半か?

土器群
周濠内に投棄された土器群
 上記のように、平成8年に実施された発掘調査で、円筒埴輪や鰭付円筒埴輪がまとまって出土したため、この古墳の築造時期は古墳時代前期後半であると推定された。しかし、今回の調査では、当初の周濠埋土から、「布留0式」と呼ばれる3世紀後半ごろの土器がまとまって出土した。この土器の年代をベースにすれば、築造時期は古墳時代前期前代(3世紀後半)までさかのぼることになる。ただし、橿考研では、古墳時代前期後半の円筒埴輪がすでに出土しているため、築造時期の決定に関しては慎重に対処したいとしている(発掘調査は今後も南側の周濠や墳丘に対して実施する予定であり、さらに詳しいことが分かれば、その時点で最終的な築造時期が決まるかもしれない)。


"前方後方墳"雑感

前方後方墳のイメージ
前方後方墳のイメージ
 「前方後円」墳という名称は、享和元年(1801)に蒲生君平が『山稜志』の中で最初に用いた。それが現代まで踏襲されてきている。だが、この名称の付け方には誤りがある。前方後円墳の墳形は、弥生時代末期に西日本各地で営まれてきた円丘に突出部が付いて成立したとされている。円丘には被葬者が埋葬され、埋葬の儀式などの祭祀は突出部で行われたはずである。あくまで墳丘の主体は円丘にあるのであれば、本来は「前円後方」墳と呼ぶべきだった。

西山古墳
西山古墳
波多子塚古墳
波多子塚古墳
新山古墳
新山古墳
 それはともかく、前方後円墳の成立時期は3世紀中葉まで遡る可能性が、最近では強くなってきている。たとえば、箸墓古墳の近くにホケノ山古墳があるが、この古墳から出土したコウヤマキ製のくりぬき式木棺の破片を、放射性炭素(C14)年代測定法で分析した結果、築造時期が3世紀第2四半期(225〜250)ごろと判明した。

 3世紀中葉といえば、邪馬台国の卑弥呼が死んだころである。『魏志』倭人伝の記述から、卑弥呼は247年か248年に死んだと推定されている。卑弥呼が死亡したとき、倭人は直径百余歩もある大きな塚を作り、奴稗百余人が殉葬したという。だが、築かれた墓が前方後円墳の形をしていたとは想定されていない。

 一方、前方後方墳は、方形の主丘に長方形の前方部が敷設された古墳であるが、数が少なく、全国で約200基が発見されているにすぎない。また、その規模も前方後円墳に比べて、一回りも二回りも小さい。ちなみに、巨大古墳100選の中に名を連ねているのは、第47位の天理市西山古墳(墳丘長180m)、第76位の天理市波多子塚(はたごづか)古墳(144m)、第99位の奈良県広陵町新山古墳(137m)のわずか三基にすぎない。その他はすべて前方後円墳だ。このため、前方後方墳はランクが一段低い墳丘形式として、古墳時代の人々には認識されていたようだ。

 しかし、最近の考古学会では、前方後方墳に関する報告が次々と発表されている。それらを総合すると、弥生時代終末期には、前方後方墳の祖形である大型の墳丘墓が濃尾平野で営まれていた。そして、3世紀前半になると、東海、北陸、関東など東日本各地で前方後方墳が盛んに築かれるようになった。特に大規模なものは、尾西市の西上免遺跡など濃尾平野に見られるとのことだ。そのため、少なくとも古墳時代前期前半(3世紀後半)の段階では、西日本の前方後円墳の世界に対して、東日本には前方後方墳の世界があったという。

下池山古墳 フサギ塚古墳
下池山古墳 フサギ塚古墳
 このように、西日本と東日本で墳形の違いがあることは、それぞれ文化の違う政治勢力が併存したことを意味する。であるならば、前方後円墳が主流のオオヤマト古墳群の中に、なぜノムギ古墳のような前方後方墳が築かれたかが、当然問われてくる。さらに、萱生支群に前方後方墳が多いのも謎だ。ノムギ古墳の近くには、波多子塚古墳(墳丘長さ144m)、下池山古墳(120m)、フサギ塚古墳(110m以上)と3基の前方後方墳が築かれている。




検証できるか? 初期ヤマト政権成立の壮大な歴史ロマン

 こうした謎を追求してゆくと、初期ヤマト政権成立の事情まで踏み込むことになる。その点に関して、平成時代になって脚光を浴びている一つの仮説がある。愛知県埋蔵文化センターの赤塚次郎氏や国立歴史民族博物館長の白石太一郎氏などが提唱する狗奴(くな)国=濃尾平野説だ。

魏志倭人伝
魏志倭人伝
 狗奴國は『魏志』倭人伝に登場する。女王・卑弥呼が君臨する邪馬台国の南にあって、「卑弥弓呼」という男王をいただき、邪馬台国に唯一対抗していた国である。卑弥呼はこの国との抗争の最中の248年に死んだとされている。

 狗奴国=濃尾平野説では、邪馬台国畿内説をベースとし、倭人伝が記述する女王国の「南」を「東」と読み替えて、狗奴国が濃尾平野にあったと考える。つまり、弥生時代終末期には、ヤマトを中心とする広域の政治連合と敵対する別の政治連合が、東日本に存在したというのだ。

 この場合、北九州勢力との関係が問題となる。弥生時代の鉄器や中国鏡は、北部九州を中心に分布している。北部九州の勢力は、中国鏡に象徴される先進的文物や鉄器文化、あるいは技術の受容において、日本列島の他の地域に対して圧倒的に有利な立場にあったことは疑いない。それ故に、邪馬台国北九州説は現在でも有力な仮説とされてきる。だが、その後の日本列島の古代国家は、近畿の勢力を中心に形成されている。

 この矛盾をどのように理解したらよいのであろうか。白石太一郎氏は、畿内ヤマトの勢力による先進的文物輸入ルートの支配権奪取にその原因を求めておられる。すなわち、北九州勢力に先進的文物輸入ルートの支配権を握られて、鉄資源や先進的文物をスムーズに入手できなかった畿内ヤマトの勢力は、瀬戸内海沿岸各地の勢力と連合して、先進的文物の入手ルートの支配権を奪取したというのだ。

 その証拠に、2世紀代まで北部九州を中心に分布していた中国鏡が、3世紀になると近畿のヤマトを中心とする分布に一変するという。この事実は、入手ルートの支配権の争いで、近畿・瀬戸内連合の勝利を裏付ける。氏は、この広域の政治連合の成立こそ、とりもなおさず邪馬台国連合の成立に他ならないという。そして、この争いこそが、『魏志』倭人伝や『後漢書』にみられる「倭国乱」ないし「倭国大乱」にあたるものかも知れないと推測される。

 卑弥呼の晩年、邪馬台国と狗奴国の間に争いが始まる。『魏志』倭人伝は、この争いの帰結を伝えていない。しかし、その後の状況から邪馬台国側の勝利に終わったと推測できる。その結果、狗奴国を中心とする東日本の広大な地域が、ヤマトを中心とする連合に加わることになった。邪馬台国連合から初期ヤマト政権への転換である。

 東日本地域が西日本の政治連合に参加した結果、初期ヤマト政権の版図が著しく拡大した。そのために政治秩序の革新が求められた。白石氏は、その際新しい政治秩序のシンボルとして、墳形による「秩序」を採択したと推測される。すなわち、この政治連合に元から加わっていた第1次メンバーには、前方後円墳の築造が認められた。だが、新しくこの連合に参加した2次的メンバーに造ることを認めたのは、狗奴国連合で盛んに造営されていた前方後方形墳丘墓の流れを引く前方後方墳であった。このため、西日本各地でも、新しくこの首長連合に加わった新メンバーや、近畿のヤマトにあっても東日本の旧狗奴国の勢力と密接な関係をもつ首長には、前方後方墳を造営させた、というのだ。

 白石氏が言われるように、初期ヤマト政権の成立に東海地方の勢力が密接にかかわっていたと理解することで、大和古墳群の萱生支群に、ノムギ古墳を始めとして前方後方墳が集中する理由も納得できる。これらの古墳の被葬者がかって狗奴国連合の首長たちであったと想定すればよい。

 『古事記』や『日本書紀』によると、東日本の広大な地域が西日本に成立したヤマト政権に組み込まれていく過程は、四道将軍やヤマトタケルをはじめとするヤマトの将軍達の度重なる軍事遠征で、次第にヤマトの版図が拡大したことになっている。だが、考古学的知見は、濃尾平野やその東方の東日本には、すでに邪馬台国と並行する時代に、狗奴国を中心とする狗奴国連合ともいうべき政治的世界が形成されていた可能性がきわめて大きいことを示している。

考古学ファン
ノムギ古墳現地説明会に訪れた考古学ファン
 この場合、初期ヤマト政権の成立を、従来のように邪馬台国畿内説と邪馬台国北九州説の2極対立だけの構造から検討するだけでは不十分である。東日本も加えた三極からの視点で見直す必要がある。そのとき、今までとは違った壮大な歴史ドラマを想定することが可能となるであろう。だが、問題はそのドラマの実態を考古学的にどこまで検証できるかである。

 なお、初期ヤマト政権が、新しい政治秩序を墳形でシンボル化したとする上記の説は現段階ではあくまで一つの仮説である。3世紀後半の段階では、前方後円墳が大和の墓制として定着しておらず、初期ヤマト政権を誕生させた豪族たちが、各地の墓制をそのまま採用していたと推測する専門家もいる(置田雅昭・天理大教授)。また、ヤマト政権の全国制覇までは『後円』と『後方』が対等の関係にあったのではと推測する専門家もいる(石野博信・徳島文理大教授)。




2003/09/07作成by n.ohsei@bell.jp return