藤原京跡北西部の側溝から出土した木簡
先月21日に現地説明会があった藤原京東四坊大路(中ツ道)の発掘現場で、大路の東側溝の底から36点の木簡が出土していた。その中に「穂積親王宮」(ほずみしんのうのみや)と記されたものがあると、橿原教育委員会はマスコミに発表した。7月17日のことである。木簡は長さが26センチ、幅1・3センチで、裁断された痕跡があり、左右が欠けていた。しかし残った文字から「穂積親王宮」と判読できたという。 同時に出土した木簡に、「和銅二年十月七日」と年紀を記すものもあった。和銅二年は、西暦で言えば709年である。この木簡の日付から半年後には、藤原京から平城京への遷都が行われている。したがって、出土した木簡や木簡割材は、なんらかの理由で遷都前に捨てられたものと推測されている。あるいは、親王宮の移転が遷都に先立って行われ、引っ越しの際に不要となった木簡の一部が近くの側溝に廃棄処分されたのかもしれない。
資料館に入ると、藤原京東四坊大路(中ツ道)発掘現場から出土した遺物展示コーナが左手にあり、木簡はその入り口に陳列されていた。出土した木簡のほとんどは、縦方向に故意に割ったり、表面を薄く削って文字を消した形跡があり、現在までに判読できた6点だけが展示されていた。いずれも墨の痕跡が変化しないように浅い水槽に浸してあり、その横に拡大したカラー写真コピーが置かれていた。 この小さな木簡が注目される理由
第二の理由は、『万葉集』の研究などから推測されてきた「皇子宮」論争に、具体的な考古学的資料が加わったためである。古代でも、天皇の皇子は天皇が住む宮殿とは別の所に居を構えるのが一般的だった。飛鳥時代から藤原京の時代にかけて、皇子の居所は「皇子宮」と呼ばれていた。藤原京では、香久山周辺に主要な皇子宮が営まれたらしいが、その所在は判明していない。判っているのは、高市皇子の宮は「香具山宮」と呼ばれ、どうも香久山の麓にあったらしいという程度である。 ところが、今回出土した木簡は、墨で書かれた文字や板材の表面がほとんど摩耗していなかった。このことは、流水や砂にもまれながら上流から流れてきたものではなく、出土地点の近くで投棄されたことの証である。その出土地点は、藤原京の東四坊大路(中ツ道)と一条大路との交差点近くの側溝だった。したがって、穂積皇子の邸宅が付近にあったと推定してよい。 親王宮とは大宝令が成立した701年以降、皇子は「親王」と呼ばれるようになる。このため、「皇子宮」と呼ばれてきた皇子の邸宅も、呼称が「親王宮」に変わった。だが、親王宮という言葉は、親王の邸宅そのものだけを意味したのではない。親王の邸宅に付属する家政機関のような組織や集団もその中に含まれていた。当時は、親王や内親王(皇女)の位に応じて、「家令(かれい)」とか「帳内(ちょうない、とねり)」と呼ばれる専属の職員があてがわれた。こうした人々も「親王宮」を構成していたことになる。 和銅2年の時点で、穂積親王は二品という地位にあった。したがって、家令として6人(文学(ふみはかせ)1人、家令(いえのかみ)1人、扶(すけ)1人、従(じょう)1人、大書吏(だいさかん)1人、詔書吏(しょうさかん)1人、帳内140人、合計146人が与えられていたことになる。 「穂積親王宮」と書かれた木簡の裏には、複数の□□万呂という名前が記されていた。穂積親王宮で働く帳内の名前ではないかと、推測されている。 穂積親王という皇子の人物像
正確な出生時期は伝わっていないが、天武2年(673)ごろと推定されている。当時は天武親政の時代であり、場合によっては次期天皇の候補にもなれる立場にあった。 持統天皇5年(691)には、封500戸が加増されている。673年の生まれであれば、この時はまだ数え年の19才にすぎない青年だが、すでに浄広弐(じょうこうに)の位にあった。 その後、持統天皇と文武天皇の時代にどのような要職を歴任したのかは、よく分からない。だが、慶雲2年(705)9月に知太政官事(ちだじょうかんじ)に就任している。知太政官事とは、奈良時代に設置された令外官である。天武天皇系の皇子により政務を統括し、皇親政治の実現することを目的とした職とされている。歴代この職に就任していたのは、天武天皇系の4皇子(忍壁皇子、穂積皇子、舎人皇子、鈴鹿王)に限定されている。 知太政官事の職務は、太政大臣と同様であり、政局の混乱に対処するため任命された。忍壁親王が最初の知太政官事に就任したのは大宝3年(703)正月20日、すなわち持統太上天皇の崩御して一ヶ月後であり、政局の混乱を避け文武天皇を補佐する目的だった。穂積親王は、2年後にその要職を引き継いだことになる。 慶雲3年(706)2月7日には、右大臣に准じて季禄を賜っている。右大臣とは時の権力者・藤原不比等であり、文武天皇の義父として、また大宝律令の制定者として絶大な権力を行使していた人物である。穂積親王は、この権力者と肩を並べる存在として朝野に認められていたことになる。2年後の和銅元年(708)7月には、左大臣・石上朝臣麻呂、右大臣藤原不比等らと共に、元明(げんめい)天皇から、これまでと変わらず百寮に率先して努めるようにと詔を受けている。 和銅八年(715)正月、穂積親王は元日の朝賀の式で遂に一品に叙せられた。だが『続日本紀』にはその年の7月27日、薨ずとある。673年の生まれと仮定した場合、行年は43才の若さだったことになる。
穂積親王は、『万葉集』から大伴坂上郎女を妻としたことが知られているが、正妃が誰であったかは分かっていない。同母妹に紀皇女と田形皇女がいた。また実子には上道王と境部王の名が知られている。孫にあたる広河女王も『万葉集』の4−694と4−695に二首の歌を載せている。 穂積親王が恋愛関係にあった但馬皇女は、和銅元年(708)に亡くなっている。その頃は「穂積親王宮」が木簡の出土した付近にあった。高市皇子の邸宅が香具山の麓にあったとするなら、二人の邸宅は思いの外近かい場所にあったことになる。 悲恋に身を焦がした但馬皇女(たじまのひめみこ)上の系図に示したように、但馬皇女は天武天皇と氷上娘(ひかみのいらつめ、中臣鎌足の娘)との間に生まれた内親王である。彼女が結婚した相手は異母兄の高市皇子。天武天皇の諸皇子中最年長であり、壬申の乱では大海皇子軍の総大将として活躍した功労者である。だが、母が尼子娘(あまこのいらつめ、胸形君徳善の娘)で身分が低かったため、皇位継承権は低かった。後に藤原氏の陰謀で自殺に追いやられる長屋王は、高市皇子の子である。高市皇子は持統10年(696)7月に43歳で亡くなっている。一説には42歳で亡くなったとされている。 『万葉集』巻2には、但馬皇女の作とされる次の歌が収められている。
但馬皇女の高市皇子の宮に在(いま)す時、穂積皇子を思ひて作らす歌
穂積皇子に勅(みことのり)して、近江の志賀の山寺に遣はさるる時、但馬皇女の作らす歌
但馬皇女の、高市皇子の宮に在(いま)す時、穂積皇子に竊(ひそ)かに接(あ)ひ、事すでに形(あらは)れて後に作らす歌 これらの歌の題詞を見る限り、但馬皇女は夫である高市皇子の「香具山宮」に住みながら、別の異母兄の穂積皇子を恋い慕ったり、皇子の邸宅である「穂積親王宮」に押しかけて朝帰りのようなことまでしているように理解できる。また、巻2-115の歌は、但馬皇女との恋愛事件が公になったため、穂積皇子が大津の崇福寺へ送られて僧にされるので、恋人を追いかけて行く心情を詠ったとの解釈もされている。しかし、穂積皇子の経歴からみて恋愛事件で罰せられたとは思われない。 これらの歌から浮かび上がる但馬皇女の女性像は、女としての熱い血をもてあまして身を焦がしている世間知らずのお姫様である。あるいは、夫の高市皇子とは年齢が離れていて、満たされぬ思いを、若い異母兄の穂積皇子に向けたのかもしれない。いずれにしても、これらの『禁断の恋』を詠った歌が作られたのは、高市皇子が亡くなる持統10年(696)7月以前であったはずである。当時は、シングルの異母兄弟・姉妹の恋愛や結婚はタブーではなかった。高市皇子没後であれば、禁断の恋ではなく、世間一般の恋として話題にもならなかったはずである。
不思議なことに、恋い慕われた穂積皇子が返したはずの恋歌が一首も『万葉集』には記されていない。皇子としては、但馬皇女の積極さが煩わしかったのであろうか。どうもそうではないようだ。皇女は和銅元年(708)6月25日に亡くなって、「吉隠の猪養の岡」に葬られた。その年の冬、穂積皇子が遥かに皇女の墓を望み、悲傷流涕して詠った悲傷歌が『万葉集』に載っている。 千塚資料館で、木簡を覗き込みながらしきりに説明書きに見入っている老人がいた。雑談しているうちに、老人は長谷寺の近くに住んでいて、わざわざ木簡を見るために出かけて来たという。但馬皇女を埋葬したとされる「吉隠の猪養の岡」の所在が分かるようなヒントが得られることを期待していたようだった。通説では、猪養の岡は奈良県桜井市初瀬の東北の山だろうとされている。だが、埋葬箇所は特定されていない。 |