平成15年7月20日

読者を愚弄する奈良新聞の発掘報道


坂田寺跡近辺には、最近の発掘の形跡なし

標識
坂田寺跡を示す標識

 平成15年7月20日午後1時40分。現在、明日香村阪田にある坂田寺跡に来ている。この時期、明日香は何処を見ても緑一色だ。花の季節が過ぎた周囲の山々は深い緑で覆われている。つい一ヶ月ほど前に植え付けられた早苗の背丈もずいぶんと伸びて来た。この緑一色の景観に変化をつけているものがあるとすれば、それは眼下に見える民家の灰色の屋根だけである。

 梅雨時の天候は変わりやすい。先ほどまで薄日がさしていた飛鳥川沿いの集落に、西の仏頭山の上から張り出してきた雨雲が、驟雨をまき散らし始めた。民家の屋根が大粒の雨に打たれて、乾いた瓦が瞬く間に濡れていく。

 激しい雨粒を傘で受けながら、坂田寺跡の前でボンヤリたたずんでいるのは、5日前の奈良新聞一面トップに記載された発掘報道のせいである。7月15日付けの奈良新聞は、一面のトップを「回廊北に掘っ立て柱建物跡」という見出しで飾り、明日香村の坂田寺跡で、奈良時代の掘っ立て柱建物跡や墨書土器が村教委の調査で見つかった、と報じた。新聞と同じ内容の記事は、奈良新聞のインターネットホームページの「News考古学関連」でも配信された。

奈良新聞
一面トップに坂田寺跡の発掘を伝える奈良新聞

 新聞の読者の中には、我が国の成り立ちや民族の起源に関心を抱き、”古代史ファン”を自称する人々が多い。そういう人たちは、どんな小さな史跡発掘ニュースでも敏感に反応する。特に奈良県は我が国の創生期に都が置かれた土地柄だけに、古代史ファンは多い。報道する側も、そのことを意識してか、新しい発掘や発見があるたびに、歴史的な評価も定まらぬうちからセンセーショナルな見出しで、あたかも世紀の大発見であるかのような報道記事をばらまく。「最古の...」「最大の...」といった常套句は発掘報道にはお決まりの表現だ。

 今回の奈良新聞の発掘報道には、センセーショナルな見出しはついていないが、一面のトップに、写真入りで掘っ立て柱の建物跡が見つかったと伝えている。しかも、他の全国紙には坂田寺跡の発掘に関する報道がなされていない。この記事を眼にしたら誰しも、これは奈良新聞独自のスクープ報道と解するであろう。古代史ファンならば、さらに、自分の目で発掘現場を見ておきたいと思うであろう。坂田寺とは我が国の古代史にとって、非常に重要な意味を持つ寺だからである。

 『扶桑略記』は、6世紀に渡来した鞍作村主司馬達等(くらつくりのすぐりしめのたちど)は、坂田原に草堂を結び、本尊を安置して帰依礼拝したと伝えている。我が国における仏教礼拝の初見である。坂田原とは現在の坂田寺跡がある付近を指す。その子の鞍部多須奈 (くらつくりのたすな) は、用明天皇の病気平癒を祈願して丈六仏像と寺を作ることを願い出た。さらに、飛鳥寺の本尊を鋳造したことで知られる多須奈の子の鞍作鳥 (くらつくりのとり)は、推古天皇から祖父・達等以来の仏法興隆に尽くした功を褒められ、近江国坂田郡の水田二十町を賜った。鳥はこの田を以て天皇のために金剛寺を造った。このように、鞍作三代に渡ってこの地で営々と築かれてきた寺は、飛鳥における重要な寺院であり、天武天皇(672 - 686)の時代には、五大寺の一つに数えられていた。奈良時代の初め頃には、この寺は「南淵坂田尼寺」と呼ばれていたことが分かっている。

 古代史ファンを自称する筆者も、この程度の基礎知識は持っている。そのため、発掘現場の様子を確認したくて、わざわざ坂田寺跡まで出向いてきた。ところが、である。周囲の何処を見渡しても、発掘が行われている様子はない。目に入るのは、緑一色に包まれた静かな日曜日の農村風景ばかりだ。まったく狐に馬鹿にされたようで、しばらく茫然自失としていた。念のために、近くの住人に最近発掘調査が行われたか聞いてみた。返ってきた答えは意外だった、昨年の10月末頃に発掘調査が行われていたが、それ以後実施されていない、とのことだ。


紙面の穴埋めに利用される発掘調査報告

 住民の話を聞いた瞬間、腹の底からこみ上げてくる激しい怒りを感じた。奈良新聞の編集責任者に対する怒りである。最近は年のせいで我ながら性格も円くなった気でいたが、人間の性格など簡単に変わるものではないらしい。

 9ヶ月も前に実施され、現場はすでに埋め戻されてしまっている発掘調査が、なぜ一面トップを飾るほどニュースバリューがあるのか、常人には理解できない。それとも、スクープに値するほどの特別な発見がその後にあったというのか。だが、記事を読む限りでは、発掘調査では掘っ立て柱建物跡や墨守土器などが出土していたにすぎない。そのことが、新聞という公器の一面トップを飾らなければならないほど重要なことなのか。スクープ報道と誤解させるような記事で、読者を愚弄するにも程がある。奈良新聞の報道を見て、わざわざこの地まで足を運んだ古代史ファンは筆者一人ではあるまい。

奈良新聞
昨年3月3日付け奈良新聞の記事
 実は、奈良新聞の報道で発掘現場に駆けつけて、狐に馬鹿にされた思いをしたのは、今回が二回目である。1年半前に同じ経験をしている。昨年3月3日付けの奈良新聞の社会面には、予想もしない記事が載っていた。タイトルに「植山古墳に匹敵」とあり、蘇我蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)親子を葬った可能性が極めて高い古墳が、2日までに見つかった、というのである。

 皇極天皇元年、西暦でいえば642年に、蘇我蝦夷・入鹿親子は豪族の私有民を使役して、自分たちの寿陵を今来(いまき)に造り、これを双墓(ならびのはか)と呼んだと、『日本書紀』は伝えている。従来は古瀬にある水泥(みどろ)双墓古墳が当てられてきたが、残念ながら考古学的にはこの推定は否定されている。したがって、蝦夷・入鹿の墓と思われる古墳が見つかったとなると、これは世紀の大発見だ。早速発掘現場に駆けつけてみると、意外な光景がそこにあった。付近一帯は大規模な宅地造成が完了していて、発掘が行われた地区にはすでに住宅が建ち始めていたのである。

 調べてみると、平成12年度にすでに発掘調査が行われ、調査報告も平成13年3月に発行された「橿原考古学研究所紀要 考古学論攷 第24冊」の中の竹田政敬氏の論文『五条野古墳群の形成とその被葬者についての憶測』ですでになされている。さらに、平成13年11月6日から12月23にかけて橿原千塚資料館で開催された「かしはらの歴史をさぐる9〜平成12年度埋蔵文化財発掘調査成果展」の展示解説書の中でも、竹田氏は「五条野宮ケ原1・2号墳の調査」と題する一文を寄せておられる。

 にもかかわらず、平成14年3月3日付けの新聞記事は、「 二つの大型横穴式石室が二日までに市教委の調査でみつかった。」と、いかにも最近発見されたような印象を与える書き出しでリード部分が始まっている。今回と同じように、似非スクープ報道が1年前にも行われていたのだ。当時は、なぜこのような報道がされたのかよく理解できなかった。(捏造された世紀の大発見参照)。

 甘樫丘(あまかしのおか)の麓を飛鳥川が流れている。飛鳥川にかかる甘樫橋の近くに、今は廃校となった小学校が、明日香村埋蔵文化財展示室として利用されている。その展示室の一角に、坂田寺の最近の調査で検出した遺構の写真パネルや墨書土器などの遺物が展示されている。そして、企画展示資料No.1として、村教委の文化財課が今月に編集・発行した調査のレジメが置いてある。そのレジメを読んで驚いた。

 なんと、奈良新聞の坂田寺発掘の”スクープ”報道はレジメの内容を適宜アレンジして記事にしてあるだけなのだ。気になって、新聞記事をもう一度読み直してみた。そして重大な文章の欠陥に気づいた。明日香村教育委員会が、いつ発掘調査を行い、調査結果をいつ公表したかが明記されていない。新聞の報道記事の書き方は、「5W1H]の原則を基本とすることくらいは小学生でも知っている。そのWhenがないのである。

 こうした欠陥記事から見えてくるものは簡単だ。飛鳥地方を担当している記者が、たまたま立ち寄った文化財展示室で企画展示資料を眼にして、その内容から原稿を作成した。7月15日の朝刊一面に配置すべきニュースが無かったため、編集責任者が苦慮していたところ、この発掘記事の原稿が眼にとまった。そこで、後から読者からの苦情を受けても対処できるように、肝心なところは手直しして、この記事を割り付けた。そう勘ぐられても仕方がないであろう。発掘調査報告書がこのような方法で新聞紙の穴埋めに利用されることがあるとは知らなかった。

 奈良新聞は奈良県民を対象読者とする地方紙である。古代史の宝庫ともいうべき土地柄のせいか、遺跡発掘の報道が多く、全国紙には載らないような発掘もこまめに拾って記事にしている。また、遺跡に関するさまざまな企画記事なども充実していて、他紙にはない紙面作りで、筆者もずいぶんと評価してきた。しかし、上記のようなでっち上げに近いスクープ報道が繰り返されるようであれば、評価点を下げざるを得ない。まことに残念である。

展示資料−1あ 展示資料−2
文化財課編集・発行の展示資料−1 文化財課編集・発行の展示資料−2


追記 (7月26日記す)

 昨年10月に坂田寺跡で発掘調査が行われていたのなら、当時の新聞に何らかの報道があったのでは、という疑問が沸いた。そこで、橿原考古学研究所付属博物館内にある資料室に足を運んだ。ここの資料室では、受付の女子職員が発掘や古代史に関する新聞報道を実に几帳面に切り抜いて整理してくれている。彼女に当時の切り抜きの閲覧を求めると、即座に、発掘当時の新聞発表はなされなかったとの返事が戻ってきた。

 その理由をたずねると、意外なことが判明した。遺跡の発掘調査がすべてマスコミに公表される訳ではないそうだ。むしろ、私有地で行われる発掘などでは、公表されないことが多いらしい。なまじマスコミが報道すると、見学者が大勢押しかけて、周囲の田畑が荒らされて困るということだ。そこで、発掘前に公表ないことを地主が要求し、発掘する側はそれを受け入れ、報道機関に対して記事にしないことを約束させる。言ってみれば、一種の報道統制が引くようなものである。

 したがって、調査が完了し、発掘した箇所が埋め戻され、調査報告書が公開されてからはじめて、マスコミが発掘の事実を取り上げる。こうした裏事情があるなら、調査報告書が出された後に、新聞報道されるのもやむを得ないかもしれない。しかし、その報道姿勢にはやはり一定のルールがあるであろう。少なくとも、発掘が現在進行形であるような印象を読者に与える書き方は止めた方がよい。



2003/07/15作成by n.ohsei@bell.jp return