【コース】吉野駅…金峯山寺・蔵王堂…稚児松地蔵…喜佐谷…象の小川…桜木神社…宮滝・吉野川河原…バスで近鉄大和上市駅 徒歩約8キロ
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吉野という所集合地に指定された「吉野」駅は、近鉄電車吉野線の終点である。その駅前広場の片隅に、有名な万葉歌を刻んだ犬養孝氏揮毫(きごう)の歌碑が建っている。 ●よき人の よしとよく見て よしと言ひし 芳野よく見よ よき人よく見 天武天皇(巻1−27)
この歌は、天武天皇が在位8年目(西暦680年)の旧暦5月5日、吉野宮(よしののみや)に行幸したときに作った歌とされている。講師の大森亮尚氏は、出発前の挨拶でこの歌に言及して、単なる風景賛美の歌ではなく、山河の神霊のこもる聖なる地への国ほめの呪詞であると解説された。その上で、吉野を訪れるハイカーたちに対する強烈なメッセージがこの歌には込められていると、謎かけをされた。そして、それが何であるかは散策の最後に明かにするが、各自で考えながら、山歩きを楽しんでくださいと話を結ばれた。 今でこそ「吉野」と言えば、桜の名所として全国に知られ、知名度は抜群に高い。春にはシロヤマザクラを中心に、3万本とも言われる桜が吉野山を埋めつくす。吉野の桜は標高に従って下千本から順次中、上、奥と咲いていく。しかし、吉野は桜だけではない。役行者を開祖とする修験道の寺・金峰山寺や南朝ゆかりの遺跡なども多い。さらに、吉野宮滝は、大海人皇子(おおあまのみこ)が天智天皇の譲位を断って吉野に逃れ、この地から壬申(じんしん)の乱を旗上げした場所である。天武天皇の後を継いだ持統天皇も、在位中になんと31回も吉野に行幸したことが記録されている。 吉野は芳野とも表記され、記紀や『万葉集』ではヨシノ、エシノと読まれ、吉(よ)い野を意味した。ところで、万葉歌には、「み吉野」と接頭辞”み”をつけて詠まれている歌が散見する。大森氏によれば、古代の人々は”み”という接頭辞で神が宿る神聖な霊的な空間を表した。つまり、山は人間の領域ではなく、神の領域だった。したがって、山の中に入ると霊的変身ができると考えられていた。しかし、どの山でもよいという訳ではない。神聖視されたのは、山の形がよい、川が山裾を洗いながら湾曲して流れる地形に限られた。その意味では、吉野川が裾を巡りながら流れている秀峰吉野山は、まさに聖なる山であった。 日本独自の民俗宗教である修験道を開いた役行者小角(えんのぎょうじゃおずぬ)
修験道の根本道場・金峰山寺(きんぷせんじ)の開祖とされる役小角(えんのおずぬ)は、我が国の正史『続日本紀』にも登場する人物である。舒明天皇6年(634)、現在の御所市茅原で誕生したというが、伝説の色が濃く信頼性が薄い。幼少の頃から葛城山で修行するなど山林修行や苦行の末、金峯山で金剛蔵王権現の姿を感じ、これを本尊として修験道を開いたと伝えられる。 修験道とは、日本古来の山岳信仰に、神道や外来思想の仏教・道教などが混合して成立した、我が国独特の民族宗教である。修行得験とか実修実験とか表現されるように、その中心は実践にある。霊山幽谷に分け入って、命がけの修行をして、霊力、験力を開発する道が修験道である。「修行は難苦をもって第一とす。身の苦によって心乱れざれば証果自ずから至る」という小角の言葉に、その神髄が伝えられている。 強固な精神力で煩悩を克服し悟りの境地に達した小角の名声は、呪術家として天下に鳴り響いた。しかし、文武天皇3年(699)、韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の謗言で、伊豆大島に流された。罪状は「鬼神たちを思うままにあやつり、世間を惑わせた」というものだった。2年後の大宝元年(701)、無罪が判明し、許されて都に戻ったが、同年6月7日、箕面の天井ヶ岳で入寂したと伝えられている。享年68歳。 小角に関しては、「前鬼と後鬼という夫婦の鬼を使役した」、「葛城山に祭られている一言主(ひことぬし)を使役した」、「仙人になって大空に飛び去った」、あるいは「母親とともに唐に渡った」など、多くの不可思議な逸話を残っている。そのため、宗教家ではなく呪術者や妖術使いのようにも言われてきた。だが、小角の名声は後世ますます高まり、平安時代には“行者”の尊称を贈られ、以来「役行者」と呼ばれるようになった。寛政11年(1799)、役小角の1100年忌にあたり、光格天皇は神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号(しごう)が贈った。 足利高氏に対抗して吉野の山中に南朝を開きながら、失意のうちに崩御した後醍醐天皇後醍醐天皇(1288〜1339)は、後宇多天皇の第二皇子として誕生した。文保2年(1318)3月29日、第96代天皇として即位し、幾度か鎌倉幕府討幕計画を立て、発覚して元弘2年(1332)には隠岐へ流された。翌年の元弘3年(1333)、流罪地を脱出し、足利高氏(尊氏)や新田義貞らとともに、ついに鎌倉幕府を滅ぼし、建武中興の理想を手中にした。 しかし、武士の時代に復活した建武の新政は時代に合わず、武将・貴族の反発を招き、京都を制圧した足利尊氏らは光厳天皇の弟である豊仁親王を新たに天皇に擁立、光明天皇として後醍醐天皇に退位を迫ったため、新政は2年間で崩壊する。後醍醐天皇は南方の吉野の山中に逃れ、皇位の正統が自分にあることを主張し、吉野の朝廷(南朝)開く。これにより、吉野の朝廷と京都の朝廷(光明天皇派:北朝)が、それぞれ異なった年号を用い、60年間続く持明院統と大覚寺統の争いとも言える南北朝動乱時代が始まる。 こうして、吉野の山中にこもった後醍醐天皇であるが、相次ぐ南朝の敗報の中、延元4年(1339)、失意のうちに52歳で悲運の生涯を閉じた。その陵墓の塔尾陵(とうのおのみささぎ) は 如意輪寺の裏山にある。あたりは常磐木(ときわぎ)の美林におおわれて清々しい雰囲気を醸し出している。山陵は円墳で、天皇の無念を象徴するように北方の京都に向かって築かれている。 吉野宮滝で旗揚げした大海人皇子(おおあまのみこ)671年の旧暦10月19日、頭髪を落として出家姿となった大海人皇子は、志賀大津京を辞すると、逃げるように吉野宮へ旅発った。皇子に従ったのは、后の鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ、後の持統天皇)と二人の皇子(草壁皇子、忍壁皇子)、それにわずかばかりの舎人と侍女たちにすぎなかった。彼らはその日の内に80kmの道を踏破して明日香に到着し、翌日には芋峠越えで吉野に入っている。いかに強行軍だったかが分かる。しかも、みぞれ混じりの雨が降りしきる雨中行軍だった。吉野に入った一行は、現在の宮滝付近にあったとされる吉野の行宮に落ち着いた。その年の12月3日、天智天皇が大津京で崩御し、子息の大友皇子(当時25歳)が近江朝廷を引き継いだ(明治時代になって、大友皇子に弘文天皇という名が追諡(ついし)された)。
翌672年5月 吉野の大海人皇子のもとへ、緊急事態を知らせる者がやってきた。近江の朝廷が天智天皇陵を造るという名目で美濃と尾張の農民を集めて、武器も持たせているというのだ。さらに、大津京から飛鳥にかけて朝廷の見張りが置かれ、吉野への食料を運ぶ道を閉ざそうとする動きも伝わってきた。 自分の身に危険が迫っており,今こそ決断の時と考えた大海人皇子は、挙兵を決意した。6月24日、自分の私領地がある美濃への脱出を決行すべく、子の草壁皇子、忍壁皇子、鵜野讃良皇女や20人ほどの舎人、そして侍女たち10数人を連れて吉野宮を発った。事が急だったので、乗り物もなく徒歩で出発したという。 吉野脱出に先立って、舎人たちに命じて東国(現在の三重県東部・岐阜県・愛知県・長野県)の豪族たちを味方にするよう準備を進めた。一行は、翌日には伊賀を抜け、加太(かぶと)峠を越えて伊勢に入った。伊勢では、甲賀を越えて近江朝廷から脱出して来た高市皇子(たけちのみこ)と合流した。鈴鹿(すずか)道と不破(ふわ)道は都と東国を結ぶ交通の要所である。大海人皇子に味方した兵たちでこの2か所を完全に確保し、不破関の近くに前線本部を置くと、その最高司令官に高市皇子を任命した。 6月26日には、大海人皇子は三重郡家(みえのこおり)と朝明郡(あさけのこおり)を経て桑名郡家(くわなのこおりのみやけ−桑名郡の役所)にたどり着き、翌日には前線本部のある不破(岐阜県不破郡関ヶ原)に到着した。そして、7月2日、大海人皇子は兵士達を大きく二手に分けて、出陣を命じた。こうして、後に壬申の乱と呼ばれる我が国の古代史最大の内乱は、火ぶたを切って落とされた
壬申の乱で最大の決戦地となったのは瀬田橋である。東側に村国男依(むらくにのおより)の軍が布陣し、大友皇子率いる朝廷軍は橋の西で構えた。その軍の後が見えないほどの兵の数だったという。橋での決戦で、村国男依らは朝廷軍を破り、敗残兵を追って瀬田川を渡り大津京へ向かった。大友皇子は、山前(やまさき)へ逃亡したが、逃げ切れないと悟って自害した(享年25歳だった)。その首は関ヶ原にある野上の本営へ運ばれ,大海人皇子の前へ差し出された。 壬申の乱に勝利した大海人皇子は9月8日に不破を出発し、吉野からの道を逆にたどり飛鳥に向かった。翌673年2月27日、皇子は飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位し、15年間にわたって親政政治を行なった。 天武天皇8年(680)5月5日、天皇は皇后と諸皇子を連れて、吉野宮に行幸された。目的は、皇子間で後継者争いが生じるのを避けるため盟約を誓わせることにあった。その裏には我が子・草壁皇子を次期天皇にと画策する皇后の暗い陰謀があったと言われている。 |
金峰山寺・蔵王堂
金峰山というのは、吉野山から大峰山に至る峰続きの山々のことで、かつては修験道の寺院塔頭がいくつも山中に並んでいた。そうした寺院の総門にあたるのが、現在は商店街の中にある黒門と通称されている門だった。城郭建築によく見られる高麗門で、昔は公家、大名といえどもこの門から先は槍を伏せ下馬して通ったといわれるほど格式のある門だった。「七曲がり坂」またはロープウエイを利用して登ってくれば、黒門の脇を通るのだが、今回のルートはそこから外れていた。
仁王門と蔵王堂は背中合わせに建っている。仁王門は下界から参拝に訪れる者を迎え入れ、蔵王堂は山上ケ岳から巡礼してきた者を迎えてくれるように配置されているという。 金峰山寺の歴史金峯山寺は吉野山のシンボルであり、修験道の総本山である。役行者(えんのぎょうじゃ)は、7世紀後半に金峯山に入って修行し、修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得した。その姿を桜の木に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)で祭祀した。これが金峯山寺の開創と伝えられている。その後平安時代に、聖宝理源大師(しょうぽうりげんだいし)が蔵王像、観音像を造立して、この寺に納めた。平安時代中期になると、御岳精進(みたけそうじ)という言葉が流行し、参詣するものが多くなり、漸次寺観も整備、寺勢も強大化した。藤原道長や白河上皇の参詣は有名である。 南北朝時代、天険の利と僧兵を有した金峯山寺は、後醍醐天皇の南朝の拠点となった。そのため、正平3年/貞和4年(1348)には、足利方の高師直(こうのもろなお)に攻められ、本堂の蔵王堂などが戦火で焼亡した。 その後も何度も火災にあっている。天文3年(1534)には、 飯貝本善寺の僧徒が金峰山上に討ち入り、36坊を焼いた。天正16年(1588)には蔵王堂および大塔などが焼失した。現在の蔵王堂は天正19年(1591)に再建された室町末期を代表する建造物である。文禄4年(1595)には、豊臣秀吉が、豊臣秀次、徳川家康、前田利家、伊達政宗らを引き連れて、吉野で大花見を催した。 明治7年(1874)に明治政府は修験道を禁止した。このため、金峯山寺は一時期、廃寺となった。しかし、明治19年(1186)に天台宗末の仏寺として復興した。昭和23年(1948)には、蔵王堂(国宝)を中心に、金峯山修験本宗を立宗し、修験道の総本山として今日に至っている。 上記のように、現在の蔵王堂は天正19年に再建された建造物である。内部は内陣と礼堂からなり、松や杉など自然木のままの柱68本が林立していて、その様は豪壮である。また、内陣の2本の金箔張り化粧柱や須弥檀(しゅみだん)は、桃山時代に太閤秀吉が寄進したものといわれている。蔵王権現像(重文)3体が祀られ、本尊は高さ7mにも及ぶとのことだ。 |
桜本坊(さくらもとぼう)
吉野に逃れてきた大海人皇子は、ある日「桜本坊」の前身である日雄(ひのお)離宮に滞在して、桜が咲き誇っている夢を見た。そこで、役行者の高弟・日雄角乗(ひのおのかくじょう)に占わせると、「桜の花は花の王と云われており、夢は皇子が必ず皇位に着くとの知らせです」と答えたという。 壬申の乱に勝利して、皇位に着いた天武天皇は、日雄角乗に命じて桜の花が咲いていた所に寺院を建立し、勅願寺として名を「桜本坊」とした。これが桜本坊の開創説話である。桜本坊は、元は金峯山寺満堂派の寺院で、蔵王堂の前に在って密乗院と称していた。明治8年、現在地に移り「桜本坊」と改称した。なお、明治初年の神仏分離では、廃寺になった諸寺院の諸仏がこの寺に集められたので、「諸仏堂」と呼ばれ、また、役行者が感得した聖天(大聖歓喜天)を併祀しているので「吉野の聖天さん」とも呼ばれている。
この寺には、天武天皇ゆかりの日雄(ひのお)殿と呼ばれている宿坊の大広間がある。寺の好意で、その大広間を利用して昼食をとることができた。天井を見上げると、そこには、巨大な竜が描かれている。この部屋に宿泊したとき、竜に襲われる恐怖感を巡礼者が味わうのではと、余計な心配をした。 |
稚児松地蔵堂
12時40分に「桜本坊」を出発するころ、本降りの雨となった。大森講師は、今朝出かける前に龍神様に雨を降らさぬよう祈ってきたから大丈夫と大見得を切っていたが、どうやら逆目となったようだ。途中までは舗装された車道の下り坂だったが、脇道にそれて民家の間を通り抜けるころから、道幅が狭くなり、小道は右へ左へと曲がりながら、ゆっくりとした上りになっている。周囲には桜の木に混じって楓の木もあり、春や秋の晴れた日であれば、見晴らしのよい小道の散策だろうが、残念ながら、山肌を霧が立ち上り視界はあまり効かない。 山道は、ところどころ急な坂道のところが石畳になっているが、ほとんどは狭い自然歩道だ。参加者の色とりどりの傘が一列になって、その山道を登っていく。約1kmも歩いたと思う頃、右手に小さな祠が見えてくる。「稚児松地蔵堂」である。
サポータの女性に確認すると、喜佐谷の集落を経て宮滝までは、稚児松地蔵堂から約4kmの道のりだという。そのうちの半分は、谷を埋め尽くすばかりの吉野杉の林を縫って続く山道とのことだ。この山道は、材木を運び出すために作られた、かっての「木場道(きんまみち)」の面影を残しているらしい。 枯れた杉の葉が散乱し、雨水が作ったぬかるみの山道は果てしなく続く。足元に気が取られて、周囲の杉の美林を愛でたり、森の香りを胸一杯に吸い込む余裕などない。「左 御園 右 宮滝」の道標が立っているところで、道は二手に分かれる。宮滝方面の山道はここから下り坂になる。だが、雨の日の下りの山道は、上り道以上に神経を使う。 |
象(きさ)の小川と喜佐谷
象の小川は、山道に沿って流れ、何カ所かで山道と交差する。交差地点には、今にも壊れそうな木の橋が架けられている。雨で滑りやすくなっているため、ほとんどカニの横歩きで渡らなければならない。この象の小川に沿う山道がは、吉野山と喜佐谷、宮滝を結ぶ道である。昔は、西吉野や天川、黒滝地方からの人達が伊勢参宮に往還した信仰の道だった。今は『万葉集』や古代史に心を寄せる人に親しまれ、「吉野宮滝万葉の道」と呼ばれている。
下り道の途中に祠があった。象の小川はその祠の後ろを流れていて、落差約10mほどの滝で清洌な飛沫を上げている。「高滝」と呼ばれる滝である。本居宣長は、明和9年(1772)に旅の途中でこの地を訪れている。その菅笠日記には、「喜佐谷村を過ぎて山路にかかる。少し上がりて高滝といふ滝あり、よろしき程の滝なるを、ひと続きにはあらで次々に刻まれ落ちる様、またいと面白し・・」と記している。 『万葉集』に詠われた大伴旅人の吉野賛歌『万葉集』の巻3には、神亀元年(724)頃、大伴旅人(おおとものたびと)が聖武天皇の命を受けて詠んだ長歌と反歌が収録されている。
●み吉野の 芳野の宮は 山からし 貴(たふと)あらし 川からし さやけくあらし 天地(あめつち)と 長く久しく 万代(よろずよ)に 変らずあらむ 行幸(いでまし)の宮 大伴旅人 (巻3-315) 大伴旅人はこの歌を詠んだのち、大宰府の長官として赴任するため奈良を去っていった。大伴氏は、代々武門の家柄として朝廷で重きをなしてきたが、旅人は大陸の文芸や思想に明るい、いわば当時の都会的知識人だった。『万葉集』には約70首の歌が収録されているが、長歌はこの一首だけとのことだ。 光明子を皇后に立てようとする藤原氏の野望にとっては、武門の棟梁である旅人は邪魔な存在だった。そこで、神亀5年(727)ごろ旅人を太宰帥(だざいのそち、太宰府の長官)に任命して九州に追いやった。時に、旅人63歳だった。
● わが命も 常にあらぬか 昔見し 象の小河を 行きて見むため (巻3-332) 【意味】私の命は、永遠であってくれないものか。昔見たあの象の小川に再び行ってみるために ●わが行きは 久にはあらじ 夢(いめ)のわだ 瀬にはならずて 淵にしありこそ (巻3-335) 【意味】私の旅は長いことないであろう。吉野の夢のわだよ、浅瀬になることなく淵のままであって欲しい。 ちなみにに、この歌の中の「夢のわだ」とは、象の小川の水が吉野川に白い滝となって流れ落ちるところをいう。巨岩に囲まれた淵であり、その美しさは多くの万葉人の憧れで『万葉集』にもよく詠まれている。 |
喜佐谷の集落に鎮座する桜木神社
日浦橋で喜佐川を渡り、川を右手にしばらく歩いて行くと、右手前方に森が見えてくる。大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名(すくなひこな)、および天武天皇を合祀している桜木神社である。この神社の横を流れる喜佐川には屋形橋がかかっている。橋の上から見る小川の流れは、万葉の時代の面影をそのまま今に伝えている。
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宮滝・吉野川河原
おだやかに流れ下ってきた吉野川が、この付近でその表情を一変させ、宮滝という名がぴったりと当てはまる景観を呈している。流れがU字形に大きく蛇行し、大岩盤の連なりが両岸からせりだして見事な峡谷を作っている。その右岸は標高188m前後の河岸段丘になっていて、そこに縄文時代から歴史時代まで続く遺跡が埋もれていた。「吉野宮」や「吉野離宮」など、歴代天皇の行幸先としても有名な宮跡もその河岸段丘の上に築かれていた。 吉野宮や吉野離宮が築かれていた宮滝遺跡
大海人皇子が近江朝廷の迫害を避けて隠れ住んだのは吉野宮である。壬申の乱に勝利した後、天武天皇8年には諸皇子を引き連れてこの地にやってきて、吉野の盟約を成立させている。持統天皇はいずれの吉野行きにも夫に同行していた。さらに、夫の死後皇位を継ぐと、在位10年間になんと31回も訪れている。持統天皇の宮滝への傾倒ぶりが分かろうというものだ。 持統天皇を宮滝に駆り立てたものは何か。単に山紫水明の豊かな自然の景勝地というだけでは、納得の行く説明にはならない。おそらく当時もてはやされた神仙思想に影響されたのであろう。神仙思想とは、いうまでもなく不老不死の神仙郷を東海の蓬莱山などに信じる、一種の神秘思想である。天武・持統朝には、吉野山が仙境と考えられていたようだ。持統女帝には、仙境で仙草を食べ、不老長寿の効能を得たいという切実が願いがあったのではなかろうか。だが、大森氏は後述のように別の理由をあげられた。 中岩の松
柴橋からの景観
柴橋の上から上流を見やると、巨大な岩の間を流れが蛇行しながら下ってくる。上流の方は水が渦巻き、あちらこちらで白い波を立てているが、両岸に迫る岸壁の間では深くよどんでいる。この付近は、古来から奇勝とされ、万葉歌にもたびたび詠まれている。だが、絶景であるがゆえに難所でもあった。人工的に切り開かれた岸壁は筏道である。そこには南無阿弥陀仏と刻まれた名号岩もあり、いかに多くの筏師が亡くなったり怪我をしたかを伺うことができる。また、岩原の所々に見られる大小の穴は、甌穴(おうけつ)といって、かっての激しい水流が開けたものだという。また、ここは岩飛びの名所としても知られ、水練の達者な里人が岩頭から水中に飛び込む技を旅人に見せたところだ。 周囲の山々吉野川の南には、狭い喜佐谷を挟んで、東側に三船山(487m)、西側に象山(きさやま、400m)が向かい合っている。いずれも優しげな形をした山である。雨が降りしきる中では、山肌に沿って立ち上る霧のために山頂付近が見えないのが残念だ。『万葉集』には、これらの山を詠み込んだ歌が収録されている。そのうちのいくつかを以下に示す。
●滝の上の 三船の山に いる雲の 常にあらむと わが思はなくに 弓削皇子 (巻3−242)
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雨中夢の如し
今回の散策の最後に、講師の大森氏は、藤原定家が後鳥羽上皇の熊野詣に扈従したときの日記『後鳥羽院御幸記』の一節を引用して、雨の山中を黙々と歩く参加者の姿が、まるで”雨中夢の如し”だったと揶揄された。熊野詣には「大雲取越え、小雲取越え」と呼ばれる難所がある。山中で土砂降りの雨に見舞われながら、定家たちはこの難所を越えていった。そのときの様子を、 天武天皇が万葉歌に託したメッセージは”良く見よ”古代民俗学を専攻される大森氏は、古代宗教に関しても豊富な知識をお持ちだ。古代の人々は、山を神の領域と考え、山の中へ入ると霊的変身ができると考えていたと言われる。これは、日本の風土で生まれた日本独自の考えである。修行僧が山に入って修行するというのも、そうした考えに基づく。また、人間が死んだら、いったん山に入り、そこからあの世へ渡ると信じていた。亡くなった人の魂を山へ探しに行く柿本人麻呂の歌は、当時の宗教観念によって読み解くことができる。
いずれも再起を期し逃亡先として吉野を選んでいるのは、故なしとしない。この地が深山幽谷のため、追っ手から逃れやすかったことが唯一の理由ではあるまい。この地では、霊気は動くものの形をして現れる。白く泡だって流れる川の水、山肌を立ち上る山霧、木立の枝を揺らして通り抜ける風、空を行く雲、さえずりながら谷を渡る小鳥たち、.....。これらの動くものを己の眼でしっかりと見ることで、人は外在魂を己の内に取り込むことができると、大森氏はいう。 ここで、大森氏は冒頭に示した天武天皇の「よき人の よしとよく見て.....」の歌に込められたメッセージを明らかにした。それは「よく見よ」という命令であるという。周囲のものを漫然と見るのではなく、動くものをしっかりと見よと、天武天皇は言っているのだ。何故か。大森氏はその理由を次のように説明された。 生きとし生けるものは、自分の中に霊魂を持っている。これを内在魂という。だが、内在魂は、じっとしていると弱まり腐っていく。それを防ぐには時々揺り動かしてやらなければならない。そのためには、動くものをジーッと見て、その外在魂を眼から自分の中に取り込み、内在魂と衝突させ、振動させればよい。これにより、内在魂が活性化される。これが古代人の言う「タマフリ」である。あるいは魂を揺らすことから「タマユラ」とも言う。 つまり、自然のリズムを感じ、それを取り入れることで、人は自分の内なる霊をリフレッシュすることができる。持統天皇が異常なほど吉野行幸を繰り返した理由も、定期的に吉野宮に来て、自分の内なる天皇霊を外在魂によって豊かに膨らませる必要があったためだと推論されて、大森氏は説明を終わられた。面白い考え方である。 |
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注記:上に引用した万葉歌の現代語訳は、岩波書店版 日本古典文学大系4 『万葉集』(1)(2)による。 |