紀路(きじ)について今回のバスツアーは随分早くから申し込んだ。その最大の理由は、古代の紀路を旅した人々の目にした風景を、車窓から確認したいとの思いが、以前からあったためである。本来なら、徒歩かまたは愛用のチャリンコで踏破してみたいと思うのだが、残念ながらその体力はもうない。 紀路は、弥生時代の昔から大和の磐余や飛鳥地方と紀ノ川河口を結ぶ重要な道だった。5世紀頃には、大和王権と朝鮮三国との交渉に密接に関わったとされている。高句麗の広開土王と直接交戦した倭の軍隊は、大和から紀ノ川の河口に下り、そこから朝鮮半島に渡ったと推測されている。逆に、大和の檜隈や飛鳥地方に定住した最初の頃の渡来人たちは、難波からではなく、紀ノ川をさかのぼってやって来たとされている。 紀路のうち、飛鳥から宇智郡五条(現在の五条市)を経て紀伊国に至る古道は、曽我川の支流である重阪(へいさか)川によって刻まれた巨勢谷を通るところから、「巨勢道」とも呼ばれた。この古道は、下ツ道の南端にある欽明天皇陵付近から、佐田・森・戸毛・古瀬より巨勢川(曽我川上流)を過ぎ、重坂(へいさか)峠を経て宇智郡真土(まつち)峠に続いていた。現在のJR和歌山線の一部がこのルートと重なる。この巨勢道を通って、持統天皇はしばしば吉野へ行幸した。 吉野川は、紀州に入ると名前が変わり、真土(まつち)山より下流では紀ノ川となる。真土山は、奈良県五條市相谷と和歌山県橋本市隅田(すだ)町真土の間に位置している。たかだか標高100m程度の丘陵であるが、金剛山からの山裾が紀ノ川に直角に伸びてきて、川岸まで迫っている。丘陵は落合川で二分されていて、ここが県境になっている。 紀ノ川の河谷に入った道は、その北岸を西に向かってひた走り河口に向かう。近世には、この紀路は「大和街道」と呼ばれた。名称が変わったばかりでなく道筋も変わった。和歌山が一方の起点となったことで、和歌山から出た道はまず紀ノ川の南岸を東行し、岩出町に至って北岸に渡った。(現在のJRと同じ所で渡河) 。また、五条から北を指して御所・高田を経由している。 |
五條市上野運動公園から紀和国境・真土(まつち)山を遠望
かっての「大和街道」に重なる国道24号線を、バスは一路南に向かってひた走った。風の森峠を越えて五條市に入った頃、バスのフロントグラスに小さな飛沫が付きだした。最初の休憩地は、五條市の上野運動公園である。ここでバスを降りると、駐車場脇の広場で、坂本教授が真土山に係わる万葉歌を説明された。説明が後半にかかる頃には、傘を開いて講義に聞きいる参加者が増えてきた。雨粒が少しずつ大きさを増してきていた。 運動公園の南西方向に小高い山が霞んで見える。万葉の昔から真土山として知られる山である。
646年に発せられた大化改新の詔によると、畿内の南限は紀伊の兄山(せのやま)とされた。兄山は和歌山県伊都郡かつらぎ町にある現在の背の山である。しかし、奈良・平安時代になると、大和と紀伊の境は、背山からおよそ20km東に遷され、北から紀ノ川に流れ込む落合川と、南から流れ込む東の川の線に移された。現在の県境はこれを踏襲している。落合川が真土山の西麓を穿って紀ノ川に注ぐあたりは、両岸が急な崖になっている。古代の交通路は、この河岸を通過することができず、山よりの真土の集落がある小盆地を通った。当時は、真土山付近に柵か関が設けられていたらしく、木戸(きのと)という地名が残っている。
万葉集には、紀伊国にちなむ歌が130首以上あるといわれている。その中でも、特に多く詠まれているのが真土山(8首)と背山(14首)である。真土山を読み込んだ歌をいくつか以下に示しておこう。
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ゆったりとした眺めの紀ノ川
バスが落合川を渡ると和歌山県に入り、橋本市内を通り抜けて行く。市内の隅田(すだ)町垂井には、古代史上有名な神社がある。現在は東京国立博物館に保管されている国宝「人物画像鏡」を所蔵していたことで知られる隅田八幡神社である。 人物画像鏡は、直径21cmの古墳時代の鏡で、裏面に48の文字が刻まれている。銘文の読み方や製造年代については諸説があるが、福岡県江田船山古墳から出土した太刀銘、あるいは埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘とともに、我が国最古の漢字使用例を示す重要な遺物とされている。 鏡を出土した古墳は明らかでない。一説には、橋本市妻にある妻古墳から、刀剣などとともに江戸時代後期に出土したものと言われている。今回のバスツアーでは、万葉集に直接関係がないのか、この神社の前を素通りしてしまった。
昼食休憩をとるために、バスは紀ノ川沿いにある「道の駅 紀ノ川万葉の里」に立ち寄った。駐車場から堤に登ればゆったりと東から西に流れる紀ノ川を眺めることができる。残念ながら、梅雨空の下では、紀ノ川を両岸から見下ろしている山々はモヤっていて山の形がはっきり見えない。よく晴れて風の強い日にこの堤防に立てば、すばらしい眺めが満喫できるものをと、少し残念だった。 目をこらすと、川下の対岸に台形の山が霞んで見えた。それが紀ノ川中流左岸に位置する海抜124mの妹山(いもやま)、通称「長者屋敷」だった。紀ノ川を隔てて背山(せのやま)と対峙しており、『紀伊続風土記』には、「兄山(せのやま)に対するを以て古人妹山と号つく」と記されている。 |
背山と妹山の間に横たわる船岡山
「道の駅」から眺めた限りでは分からないが、「長者屋敷」と通称される妹山の手前に、船岡山という島がある。実際は、かつらぎ町の穴伏川が紀ノ川と合流する地点にできた中州である。この付近は北から背の山(兄山とも書く)が、また南から妹山が迫り、紀ノ川が一番狭くなっている。その中間に割って入ったような島が船岡山である。この付近が飛鳥時代には畿内の南限と見なされていた。ここから先は”畿外”である。 船岡山には厳島神社が祀られている。それに加えて、鬱蒼と茂る照葉樹で山全体がおおわれていて、なかなか風光明媚な場所である。島の南側に吊り橋が架けられていて、簡単に島に渡ることができる。吊り橋のおかげで、厳島神社に参詣したり、遊歩道を散策して自然と風景を満喫できるようになった。
吊り橋の近くでバスを降りると、まず目に付くのは、船岡山の護岸のコンクリートに大書された次の万葉歌である。
吊り橋を渡ると、正面に厳島神社への階段が続き、階段手前の遊歩道の入り口に、次の歌を刻んだ万葉碑が建っている。 船岡山の遊歩道一周が、今回のツアーのハイキングコースに組み込まれていた。地肌が雨に濡れて滑りやすい上に、雨傘をさしての周遊である。照葉樹の枯れ葉が散乱する小道を足早に歩くのに、20分ほど要した。平安時代、関白藤原頼通は永承3年(1048)10月、高野山参詣の帰途この紀ノ川の紺碧の水に映える紅葉と風景を愛で、船遊びを楽しんだという。しかし、雨に濡れた広葉樹の枝の間から見下ろす紀ノ川は、濁った水が蕩々と流れ下る濁流だった。 ところで、遊歩道を歩きながら不思議に思ったのは、船岡山を読み込んだ万葉歌が見あたらないようだ。この付近は畿内の南の端にあたり、大和望郷の心情を詠んだ歌や、妹山・背山の遠くから眺めると、二つの山が仲良く並んで見えるため、背(夫)・妹(妻)を恋う心情などを詠った歌が、『万葉集』に15首も載せられているという。だが、その中には、船岡山を読み込んだ歌はない。おそらく、万葉の時代には船岡山そのものが存在しなかったのではないだろうか。聞くところによると、治水の為に妹山の端を切り離したために船岡山ができたとする伝承もあるそうだ。 |
妹山(いもやま)と背山(せのやま)か?、それとも妹背の山か?
定説では、かつらぎ町背の山地区の「背の山」が「背山」であり、紀の川と船岡山を挟んで南岸に対峙する通称「長者屋敷」が「妹山」であるとされている。上に述べたように、妹山と背の山の遠くから眺めると、二つの山が仲良く並んで見え、背(夫)・妹(妻)を恋う心情などを、これらの山に託して詠った歌が万葉集には多い。上記では、2首を引用したが、その他にも次のような歌がある。
●後(おく)れ居て 恋ひつつあらずは 紀伊(き)の国の 妹背の山に あらましものを (巻4-544)
ところが、定説に対して疑問を投げかけている地元の万葉研究者がいるという。疑問の理由は、万葉歌の中には「妹背の山」と詠んだ歌が数首も存在する点である。実際の山は、妹山と背山とがそれぞれ独立した山ではなく、二上山のように2つのこぶを持つ山が妹背の山ではなかったかと考える。現在「背の山」と呼ばれている紀ノ川北岸の山は、「城山」と「鉢伏山」という2つのこぶを持つ。したがって、これら2つのこぶを、それぞれ背(夫)と妹(妻)になぞらえ、現在の「背の山」を当時は「妹背の山」と呼んでいたと見なす。このように理解した方が、妹背の山という語感から受ける感じにピッタリするというのだが、果たしてどうであろうか。 |
大和街道と古南海道(推定)を歩くバスは再び「道の駅」近くに戻り、「下水道伊都浄化センター」脇の田んぼの中でバスを降ろされた。田植えを終わった稲田の間を、細い舗装道路が東北方向に続いている。現在の国道24号線に平行して走る道だが、これがかっての「大和街道」であると説明された。道はやがてJR和歌山線の線路をまたぎ、北に延びている。その先には宝来山神社の境内があった。
宝来山神社は旧郷社である。社伝によれば、光仁天皇の宝亀4年(773)、和気清麻呂がは八幡宮を勧請し、八幡山と称したことが始まりとされ、近世には宝来山大明神社と称したという。現在の本殿は4棟あり、すべて慶長19年に造営された一間社春日造りである。向かって右から第三殿、第一殿、第二殿、第四殿となっており、大山祗(おおやまずみ)大神、八幡大神、菅原大神、猿田彦大神をそれぞれ祀っている。 上記のように、かっての紀ノ川は暴れ川だった。洪水のたびに川道が大幅に変化し、この付近の地形を大きく浸食していたことは、すでに地質学的に証明されている。大和街道が造られる以前には、南海道と呼ばれる古道がこの付近を通っていた。紀ノ川の浸食を考えれば、現在の紀ノ川沿いの国道24号線や、かっての大和街道よりかなり北に位置していたと思われる。 『紀伊続風土記』という書には、「今の街道(注:大和街道)よりは少し北にあり、古道は村中宝来山明神の社前を過ぎて兄山の北の方を越えたりという。今明神の境内に船繋松といひて往古舟を繋きし古松とひ傳ふ。是に因るに、古は河筋も今の街道よりも北なりし事明なり。云々」と、南海道ル−トを詳しく記述している。この記述を信用するならば、万葉の頃の南海道は、宝来山神社の社前を横切り、背の山の北側に抜けていたと推定できる。 現在、この「推定古南海道」がハイキングコースになっていて、宝来山神社から背の山の麓まで約30分の道のりを歩かされた。前面にそびえる背の山の山頂は、二上山ほど明確ではないにしても、2つのこぶになっているのが確認できる。この山を妹背の山と見なしたい地元研究家たちの気持ちも、分かるような気がする。 |
聖武天皇の勅願で造られた国分寺の一つ・紀伊国分寺和歌山県の那賀郡打田町東国分には、紀伊国分寺跡が歴史公園として整備されている。今回のバスツアーの最遠地点は、この歴史公園である。紀ノ川の北岸を西に走るバスの車窓に、ミカン畑や柿の畑が次々に流れて行く。和歌山がミカンの産地であることは知っていたが、柿の生産高も全国でトップクラスらしい。
紀伊国分寺は天平勝宝8年(756)に建てられた寺である。創建当時は堂々たる大寺院だったことが、金堂、講堂、塔など主要建物の復元された基壇を見れば、容易に想像できる。創建から約130年後の元慶3年(879)には、全焼する被害にあっているが、すぐに一部の伽藍建物が復興され、12世紀後半まで国分寺の機能を果たしていたようだ。だが、その後は律令体制の崩壊や新興の真言密教など他の宗派に押され、徐々に滅びていった。
発掘調査では、本堂が4回建て替えられたことが確認されている。元慶3年の火災以外、天正13年(1585)の秀吉の紀州攻めの際にも焼き討ちに遭って焼失している。このときは、慶長年中に仮堂が建てられ、さらに江戸時代の元禄13年に本堂が再建された。 紀伊国分寺跡は貴重な文化遺産である。町では、この史跡を永久に保存するため、昭和63年 (1988)度から文化財保存事業として本堂の保存整理を行なってきた。さらに、周辺の発掘遺構も整備して、現在では、史跡公園として生まれ変わっている。 |
JR・南海電車の橋本駅前の万葉歌碑
JR・南海電車の橋本駅前には、万葉学者だった故犬養孝氏の揮毫による、ちょっと変わった歌碑が建っている。犬養氏の著書『紀ノ川の万葉』のペン字の原稿をもとにしたもので、次の万葉歌だけでなく、文章の部分も碑になっている。 橋本市では、毎年11月に「橋本万葉まつり」を行っており、当日は万葉の講演や演奏会、万葉旅行などさまざまな行事が行われる。万葉集には市内の故地を歌った万葉歌が10首あり、それぞれの場所に歌碑を建てるのも、そうした行事の一環だった。駅前の歌碑は、第8回「橋本万葉まつり」とJR和歌山線全線の開通100年を記念して建てられたものである。 |
紀ノ川右岸に位置する妻の社(つまのもり)
この神社は、万葉人が「私に妻をお与えください」と願った社と伝えられている。その原因は、万葉集の巻9に収録されている次の歌にある。神社の奥に、この歌を刻んだ歌碑が建っていた。
大宝元年(701)の冬10月、文武天皇と先の持統天皇は紀伊国に行幸された。その行幸に扈従していた坂上忌寸人長(さかのうえのいみきひとなが)が、妻の社を見てこの歌を作ったとされている。ということは、この神社の創紀は701年をはるかにさかのぼることになる。 勝手な創造だが、この付近はかって”ツマ”と呼ばれた高地性集落があり、その集落の祭神を祀っていたのが、この社ではなかったか。”ツマ”に「妻」の字が当てられるようになったため、妻の社と呼ばれるようになり、その語呂合わせで上記のような歌が生まれたと考えるのは、すこし穿ちすぎだろうか。”ツマ”に「津麻」や「投馬」など別の字が当てられたなら、この歌は生まれなかったかもしれない。 |
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注記:上に引用した万葉歌の現代語訳は、明治書院出版『和歌文学大系 万葉集(1)(2)』(久保田 淳監修 )による。 |