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駆け足で日本海を通り抜けた台風6号が、連日のぐずついた梅雨空を吹き飛ばしてくれた。梅雨の中休みで、朝から久しぶりに日差しが戻ってきた今日、橿原市内では二カ所で発掘現場の現地見学会があった。橿原市教育委員会が発掘している藤原京の東四坊大路(「中ツ道」)跡と、奈良文化財研究所が発掘している藤原宮の朝堂院東南隅回廊跡である。日中は暑くなるとの予報だったが、友人のT.Y氏を誘って説明会を聞きに出かけた。週末であり、しかも久方ぶりの晴天とあって、大勢の見学者が両方の発掘現場に続々と集まってきた。そのほとんどは、現役引退後古代史にハマっているといった感じの老人たちばかりだった。 |
朝堂院の南北規模を確定する重要な発掘
奈良文化財研究所(奈文研)は1999年から藤原京の中心部である大極殿院と朝堂院の発掘調査を継続して行っている。今回の第128次調査では、朝堂院の東南隅に調査区を設定して発掘を行なった。目的は二つあった。朝堂院の南北規模の確定と、朝集殿院の区画施設の取り付き方の解明だった。発掘は東西・南北とも32mの比較的狭い範囲で行われている。 今月の17日、奈文研は朝堂院を取り囲む回廊跡の東南隅と朝集殿院回廊跡の一部を確認したと発表した。発掘現場の説明会を本日の午後1時半から行うというので、中ツ道遺跡を見学したあと、こちらにまわった。場所は天香具山の東の田園の中である。先日田植えが終わったばかりの水田で、早苗がずいぶん伸びてきた。自転車を駆っていると、稲田を渡ってくる風が頬に心地よい。
日本古文化研究所の調査で、藤原宮の中心部は、北から大極殿院、朝堂院、朝集殿院という3つの区画から成り立っていることが判明している。大極殿院の中心にある大極殿は、天皇が出御する建物である。朝堂院には朝堂と呼ばれる建物が東西対称に12棟並んでいて、親王や大臣以下の臣下が所定の場所に着座して儀式や政務が行われた。外国からの賓客を迎えたり、宮廷の様々な公式行事も、この朝堂院で執り行われたとのことである。朝集殿院には、2棟の朝集殿があり、儀式や政務に参加するため集まった役人たちが、所定の時刻になるまで朝集殿で待機したと言われている。
今回の発掘調査で、まず朝堂院の東面回廊と南面回廊の遺構が検出された。これらの回廊は、柱が三列に並び、中央の柱筋に間仕切りの壁や連子窓が取り付けられた”複廊”だったことが判明した。さらに、朝堂院回廊から南に延びる朝集殿院の東面回廊も4間分検出した。この回廊も複廊構造だった。発掘現場では、見学者のために朝堂院回廊の柱跡を赤の柱で示し、朝集殿院回廊のそれを白の柱で区分けして表示してあった。
発掘員の説明によると、今回の発掘の第一の成果は、朝堂院の規模が確定できたことだそうだ。日本古文化研究所の調査によって、朝堂院の南北規模は約318.2mとされてきた。しかし、東南隅が確定したことで実際の南北規模は、それよりも約3m長い321m(1080尺)であることが判明した。朝堂院の東西規模は、すでに確認されている朱雀門の位置を参考にすれば233.5m(780尺)となる。これにより、藤原宮の朝堂院は、以前に築かれた難波宮や以後に築かれた平城京、長岡京、平安京の朝堂院よりも、南北および東西方向のいずれにおいても大きかったことになる。 朝堂院に関するもう一つの重大な発見は、真北に対する東面回廊の振れが、北で0度32分ほどあることも分かった。これは真北に100m進むと約90cmほど西にずれる計算になるという。 第二の成果は、朝集殿院の東側の区画施設が確認できたことで、この院が東西226.2m、南北132.0mのの敷地であることが判明した。従来この区域を囲む回廊は単廊であると推測されてきた。平城宮の朝集殿院は奈良時代後半には築地塀だったことが分かっている。しかし、今回複廊を検出したことで、藤原宮正面の朱雀門の両脇も複廊である可能性がでてきたという。奈良文化財研究所の金子裕之・飛鳥藤原宮跡発掘調査部長は「当時は白村江の大敗を経て近代化を進めた時代で、藤原京が立派な都であることを誇示するため、正面の朝集殿院を複廊にしたのではないか」と話している。ただ、発掘の結果は、朝堂院回廊は、桁行(東西方向)よりも梁行(南北方向)の柱間が大きく、さらに朝堂院東面回廊とクランク状に接続してあったことが判明した。説明員によれば、このことが建築上の新たな謎を投げかけており、その理由はまだ解明されていないとのことだ。
発掘現場の中央に立った説明員は、朝堂院の規模を見学者に実感してもらうために、北東の隅と南西の隅に白と青のパラソルを用意していた。南北方向321m、東西方向233.5mの地点は、発掘現場からはかなりの距離である。この広大な敷地の中に、12の朝堂が整然と建てられていた。 藤原宮があった藤原京について、2つの関心事がある。一つは王都としての短命さである。藤原京は、我が国で初めて都市計画の基本プラン基づいて造営された都である。持統天皇5年(691)11月27日に地鎮祭が行われ、実際に工事が開始された。そして3年後の持統天皇8年(694)12月6日には、藤原京への遷都を行なった。当時はまだ都の主要部分しか完成ししておらず、あちこちで土木工事や住宅工事が行われていた。 だが、和銅元年(708)年2月、平城遷都の詔が発せられ、2年後の和銅3年(710)3月、元明天皇は都を平城京へ遷した。したがって、藤原京が王都として機能したのは、わずか16年にすぎない。 せっかく恒久の都として都市計画プランにのっとって築かれながら、何故16年後には弊履のごとく簡単に棄てられてしまったのか。管見にして、納得のいく説明をいまだ聞かない。そんな中で、『<聖徳太子>の誕生』の著者である大山誠一氏は、同著の98頁で面白い説を出しておられる。すなわち、663年の白村江の戦いで大敗して以来、我が国は律令国家のお手本ともいうべき唐とは没交渉の時代が続いた。当時の為政者は、そうした状況のもとで、律令国家にふさわしい都城を造営しなければならなかったため、遠く中国周代に成立したと言われる「周礼」の知識によって、理念的に都城の設計を行った。ところが702年に派遣された大宝の遣唐使が帰国して当時の長安城が紹介されると、藤原不比等など当時の為政者たちは精神的な衝撃を受け、新たに長安城をモデルとした新京の造営を決意したという。 だが、大山氏の説にも矛盾を感じる。確かに663年以後702年に粟田真人(あわたのまひと)を遣唐使として派遣するまで、我が国と唐との間に国交がなかったのは事実であろう。だが、唐の都・長安は白村江の戦いの後に造営されたわけではない。隋の都・大興城が唐の都としてそのまま引き継がれていた。我が国から派遣された多くの遣隋使や遣唐使たちは、自分たちの足で長安城内を歩きまわったはずである。長安城の巨大さや主要施設の配置などは、帰国した彼らの口から多くの人に語られていたと考える方が自然である。 したがって、藤原京の造営を計画した天武天皇をはじめ当時の為政者たちが、長安城の知識がなかったとは考えられない。だから、古い「周礼」の知識によって理念的に都城の設計を行ったと、どうして言い切れるのかよく理解できない。さらに、藤原不比等の兄だった定慧は、留学僧として長安での生活を経験した帰国者である。長安城の様子だけでなく、唐の律令制の実態や当時の文化・風俗まで、藤原不比等は多くのことを兄から聞いていたはずである。粟田真人から帰国報告を受けてカルチャショックを受けたことが平城遷都の引き金になったとする論拠は、どうも薄弱なような気がする。 藤原京に関するもう一つの関心事は、最近提唱されている”大藤原京説”である。従来は、藤原京は持統・文武・元明三代の首都として、大和三山に囲まれた地域で発展を続けたとされてきた。そして、その大きさは、東は中ツ道、西は下ツ道、北は横大路、南は山田道で囲まれた東西四里(2.1km)、南北六里(3.2km)の範囲を占め、その中に十二条八坊の区画があったと考えられてきた。だが、近年の発掘調査・研究により、都の範囲は東西5.3q・南北4.8qという広大なものであったことがわかってきた。このため、当時は大和三山がすっぽり収まり、後の首都「平城京」をもしのぐ規模であったとする説が提唱されている。だが、理念的に設計された都城が、その基本プランを崩すような規模だったとは、ちょっと信じがたいというのが実感である。 |