平成15年6月9日

川原寺の工房遺跡を見学する


明日香村でまた新しい遺跡の発見

遺構配置図
遺構配置図(見学会資料より転記)

 明日香村にも、ようやく田植えの季節がやってきた。つい先日まで一面に雑草が生い茂っていた田んぼが、いつの間にか耕され、今はまんまんと水をたたえている。植えられたばかりの早苗が、水面からわずかばかり顔をのぞかせ、その上を心地よい初夏の風が吹き抜けてゆく。このように長閑な田園風景の明日香で、また新しい遺跡が発見されたとのニュースが、先週末マスコミを賑わした。

 かっての川原寺(かわらでら)の寺域で、奈良文研(奈良文化財研究所)は園地整備事業に伴う事前調査を行ってきた。そして、飛鳥時代に湯浴びに使ったと思われる鉄釜の鋳型を発掘したと6月6日に発表した。国内の鋳鉄遺構では最も古く、この鋳型の出土によって、大型の鉄製品を作る技術が飛鳥時代に伝わっていたことが明らかになったという。

遺跡発掘現場
遺跡発掘現場

 マスコミは鉄釜の鋳型の発見をトピックスとして報道した。だが、今回の発掘の最大の成果は、別のところにある。川原寺の寺域の北を区切る北面大垣が確認できたこと、そして川原寺営繕のための工房跡が確認できたことだ。発掘は、板蓋神社のある小山の東側で行われている。飛鳥川が左に蛇行して小山にすりよっていくあたりである。遺跡は、山麓の狭い畑の下から掘り出された。

 本日と明日の二日間、発掘現場を自由に見学できるというので、さっそく愛用のチャリンコを駆って出かけた。見学は午前10時からと聞いていたが、現場に到着したとき、すでに100名近い見学者が詰めかけていた。そのほとんどは、現役引退後有り余る時間を持て余して史跡探訪に首をつっこんでいる男性たちと、古代史にハマッている老婦人ばかりである。平日とあって、さすがに若い世代の姿は見えない。発掘を担当している奈良文研も手回しがよい。「現地説明会」ではなく「現地見学会」ということで、4ページのカラー写真入りの資料が前もって用意してあった。



川原寺の寺域の北を区切る北面大垣の遺構

北面大垣の遺構
川原寺の伽藍配置

 昭和32年(1957)から34年(1959)にかけて行われた発掘調査で、川原寺は一塔二金堂様式の伽藍配置、すなわち、正面に中金堂、手前東に塔、西に西金堂を配置していたことがわかり、「川原寺式」と命名された。塔と西金堂が並ぶ点は、法隆寺の伽藍配置と似ているが、位置は逆であり、また西金堂は南面せず東の塔と向かい合っている点が違っている。

 今回の発掘調査では、飛鳥川西岸の約370平方メートルが調査された。その調査区の北の端で、一辺2m近い巨大な柱穴が3個見つかった。穴は寺域の北端を区画する大垣のものと推定された。大垣の発見によって、川原寺の寺域の南北の長さが3町(1町=360尺の3倍。約330m)だったことが判明した。この長さは、川原寺の北に位置していた飛鳥寺のそれに匹敵する。

北面大垣の遺構
北面大垣の遺構

 川原寺は不思議な寺である。斉明天皇の菩提を弔うために、その実子である天智天皇または天武天皇が建立した官寺なのに、創建記録が残されていない。しかし、その地位は極めて高かったようだ。天武14年(685)には、大官大寺、飛鳥寺とならぶ三寺の一つとされた。文武天皇(在位697 - 707)の頃には、大安寺、飛鳥寺、薬師寺とともに、四大寺の一つとみなされた。だが、平城遷都で他の三大寺は新しい都に移建されたのに、なぜか川原寺だけは飛鳥の地に残された。その理由をいずれの史書も語ってはくれない。奈良時代中ごろには勢力が低下し、平安時代には主要伽藍が焼失したという。

 今回の発掘で確認された北面大垣は、その東の端が飛鳥川の西岸に接していたと思われる。飛鳥川の対岸では、平成11年(1999)に飛鳥京の園地遺構が見つかっている。天武朝のころ、宮中の宴や外国使節の接待、服属儀礼などが行われた白錦後苑(しらにしきのみその)の跡である。宴会などに出席した皇族や上級官吏が後苑の中の池のほとりを散策しているとき、ふと視線を西に投げれば、そこには川原寺の築地塀が飛鳥川に沿って長々と続いていたはずである。



僧侶の生活と建物を維持した工房跡

工房跡から出土した遺物
工房跡から出土した遺物

 発掘調査の現場責任者の話では、発掘調査の全域に、金属加工に使った小型の炉跡(直径20−30センチ)が点在していたという。大半は鉄製品を製作した鍛冶炉だった。しかし、銅製品を鋳造したルツボや、ふいごの羽口、ガラス玉の鋳型なども出土した。調査区域の南半分で、排水用の区画溝をもつ工房テラスも確認された。このため、付近一帯は、僧侶の生活と建物を維持するための工房だったことが明らかになった。

熔着した瓦
瓦窯前庭部に散乱する熔着した瓦

 例えば、巨大寺院の屋根を維持するためには、瓦を焼く自前の窯が必要だったはずである。まだ発掘されていないが、西側の丘陵に瓦窯があったと思われる。その前庭部が調査区域の中央部分で発掘された。付近には熔着した瓦や廃棄された瓦も大量に見つかった。また、前庭部の東には倉庫風の建物が2棟並んで建っていたようである。東大寺正倉院を小規模にした双倉(ならびぐら)だったと推定されている。工房で造られた小型の金属製品からガラス、瓦まで、寺の維持に必要な物資はすべて、この双倉で保管していたにちがいない。



鉄釜鋳造に使用された大型土抗の発見

鋳造土抗
発見された鋳造土抗

 調査区域南半分の丘陵の裾から、直径2.8mほどの大きさの隅丸方形をした土抗が発見された。当初は、何を鋳造した遺構なのかよく分からず、寺の梵鐘や塔の屋根に取り付ける伏鉢など様々な意見が出たという。しかし、土抗を掘り下げていくと中心部から残りの良い鋳型片が見つかった。その結果、この土抗は直径90cmほどの大きな鉄釜を鋳造するのに使用されたことが判明した。鋳型は粘土製で、型のすき間に溶解炉で溶かした鉄を流し込む仕組みだった。

 下の想像図のように、釜など鋳造する場合には先ず釜を伏せた形の鋳型を作り、一段高いテラスに溶解炉を据え、高低差を利用して熔けた鉄を鋳造土抗に流し込んだと思われる。鉄が十分冷えるのを待って、外型を砕けば鉄製の釜が取り出せる。ただし、現在のところ溶解炉の遺構は発見されていない。

鋳造方法の想像図
鋳造方法の想像図

 法隆寺の資財帳(奈良時代)には、湯釜を意味する鉄釜のことが記載されているという。しかし、今までは、8世紀以前のものは、湯釜はおろか鋳型も発見されていなかった。現存する湯釜では、和歌山県本宮町の熊野本宮大社が所蔵する1198年銘のものが最古だった。今回発見された鋳型は7世紀の終わり頃のものとされている。なぜ年代が特定できるかというと、奈良時代の初め頃、近くに建物を建てるために土抗の上部が取り壊されているためだ。

 鋳造された鉄釜が川原寺で何に使われたのか、興味のあるところである。川原寺にはコの字形の僧房が回廊に取り付き、大勢の僧侶が暮らしていた。食堂(じきどう)で彼らの食事をつくるために使われた煮炊き用の釜だったのでは、との意見が出された。しかし、直径90cmの釜は調理用には大きすぎる。結局、「湯浴び」に使う湯釜だろうということに落ち着いた。

 湯釜といえば、現代の我々は釜にどっぷり浸る五右衛門風呂を想像しがちだが、湯釜に体を浸かる習慣は江戸時代より前にはなかったとのことだ。入浴とは仏の功徳を得るため身を清浄に保つという意味があり、古代においては、湯につかるのではなく「湯浴び」だった。サウナのような蒸し風呂で蒸気で汗をかいた後、別の部屋に設けられた湯釜から湯を汲みだして体にかけていたらしい。



下層遺構は川原宮に関係あり?

下層遺構
下層に眠る石敷きの遺構

 現在発掘中の工房は、7世紀後半の川原寺創建時から平安時代後期まで存続したことが分かっている。平安時代に整地された痕跡が見つかっているためだ。だが、発掘調査された地層の下には、石敷きの遺構が存在する。

 『日本書紀』には、斉明天皇が即位した655年の冬、宮居の板蓋宮(いたぶきのみや)が火事で焼失したため、女帝は飛鳥川原宮(あすかかわはらのみや)に遷ったと記されている。川原宮がいつ造営されたかは不明である。しかし、工房跡の下層で見つかった石敷きの遺構は、川原宮に関係した遺構である可能性は十分ある。

 公開された現場は、現在も発掘作業が継続している。発掘範囲を拡大することにより、今後も新しい発見をいくつも提供してくれるだろう。現在の地層の調査が一段落したら、下層の調査に移るはずだ。斉明天皇の川原宮がそこに眠っているとしたら、明日香はまたにぎやかになる。



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