平成15年6月6日

唐招提寺(とうしょうだいじ)で御影堂の鑑真和上(がんじんわじょう)像と障壁画を拝観する


鑑真和上の命日に唐招提寺を訪れる

南大門
唐招提寺の南大門
 ふらりと立ち寄った寺院や神社で思わぬ光景に出くわして、なんだか”トク”をしたような気分を味わうことがある。今日はそのような日だった。唐招提寺では、開祖・鑑真和上の来朝1250年を記念して、10年の歳月をかけた金堂の大修理が現在進行している。金堂の建物だけでなく、そこに安置されている国宝の諸仏も修理の対象にされている。先日、千手観音立像を解体して仏像修理所に運ぶ様子が、テレビで放映されていた。その仏像修理所が今月8日まで一般公開されているというので、午後からぶらりと「西の京」へ出かけた。解体された天平の仏像を間近で見たいという衝動に駆られれたためである。

 「西の京」駅から唐招提寺に続く一本道は、拝観を終えて引き返してくる参拝客が異常に多い。修理所を見学に来たにしては多すぎると、少しいぶかしかった。うかつにも、今日が鑑真和上の命日であることを失念していた。唐の揚州大明寺の高僧だった鑑真は、天平勝宝6年(754)、聖武天皇の招きに応じて伝戒の師として来朝し、10年目の天平宝字7年(763)の旧暦5月6日、現在の唐招提寺がある地で示寂した。76歳だった。来朝を決意してから平城京に到達するまで、実に12年の歳月を要した。度重なる難船や妨害などに遇い、やっとの思いで奈良の都に着いたとき、鑑真はすでに失明していた。鑑真一行の苦難に満ちた渡航の顛末は、井上靖氏の名作「天平の甍」に詳しい。

 唐招提寺では、鑑真の命日の旧暦5月6日を新暦の6月6日に当てて、毎年さまざまな行事を行っている。その一つに、遠忌当日を中心にして前後3日間、境内の開山御影堂に安置された鑑真和上の乾漆夾紵像(かんしつきょうちょぞう)の特別開扉がある。それと同時に、東山魁夷画伯が御影堂に奉献した障壁画も公開している。今年は鑑真来朝1250年にあたるため、これを記念して御影堂の鑑真和上坐像と障壁画が5月31日から6月8日までの9日間特別展示されている。そのため、平日にしては珍しく、境内は参拝客でごった返していた。



X線透過撮影が映し出したおびただしい鉄釘の山

 唐招提寺の金堂内陣には、本尊の盧舎那仏像をはじめ、薬師如来像、千手観音菩薩立像、梵釈二天像、四天王像など創建以来の天平仏が安置されていた。現在、そのすべての仏像が金堂脇に建てられた巨大な仏像修理所で修理を受けている。修理作業は平成21年4月まで続くとのことだ。今回の修理所特別公開は、第1期修理が完了したためである。しかし、解体展示されていたのは、盧舎那仏と千手観音立像だけだった。

仏像修理所
仏像修理所の様子

 出入口を入ると右側にX線写真が展示されいた。修理作業の参考のために、盧舎那仏と千手観音菩薩の像をX線透過撮影したものだが、その写真を見て驚かされた。写真に映し出されているのは、おびただしい数の鉄釘の影である。これでは両像とも、まるで針のムシロで身を固めた仁王像そのものだ。仏像を彫刻する場合、仏師は発願者の願意を体し、”斎戒沐浴”し”一刀三礼”の心をもって仏像の造顕に臨む、と聞いていた。盧舎那仏は脱活乾漆像、千手観音菩薩は木心乾漆像だが、仏師の姿勢は木造であっても乾漆像であっても基本的に変わらないであろう。したがって、釘などの異物は腕などを固定する以外には極力使わないものと思っていた。そうした先入観をX線写真はものの見事に打ち砕いてくれた。

 X線撮影によって、盧舎那仏の両手の掌にそれぞれ、数珠(じゅず)玉と思われる大小2個の玉が埋め込まれていることが分かった。その意図するところは不明だが、仏師たちは発願者の願意を、あるいはこのような形で表したかったのかもしれない。

 ”仏像は見るものではなく、拝むものである”とよく言われるが、間近で見る仏像は、さすがに巨大で迫力がある。しかし、間近で見ることによって、1250年の風月を耐えてきた各部の痛み具合がいっそう痛々しく感じられる。両像とも表面に施された漆箔が浮き上がっている。今回の修理では、膨大な面積にわたる漆箔の細かな浮き上がりを一つ一つ丹念に抑えていく地道な作業が続けられたという。



初めて鑑真和上像を拝む

鑑真和上像
鑑真和上像

 境内の奥の一段高くなったところに、築地塀に沿って東門にむかう静かな小道がある。金堂や講堂、あるいは新宝蔵を見学しても、このあたりまで足をのばして散策する人は少ない。築地塀の中には、鑑真和上像を安置した御影堂がある。鑑真像は、国宝の乾漆像である。弟子たちが師の大往生を予知して作った寿像であるとされている。御影堂は旧一条院の宸殿を昭和39年(1964)に移築したもので、落ち着いた造りの建物である。しかし、開山忌で鑑真和上像を安置した厨子の扉が開かれるときしか、一般公開されていない。なお、鑑真和上像を納めたこの厨子は、宸殿を移築した昭和39年に、京都国立博物館内の美術院で新しく作られたものであるという。

 俳人・松尾芭蕉は、唐招提寺を訪れて、鑑真大和上像と対面したとき詠んだ有名な句を、『笈の小文』に残している。
 ”若葉して御目(おんめ)の雫(しずく)拭(ぬぐ)はばや”
芭蕉には、鑑真像の盲(しい)た両目にうっすらと涙が浮かんで見えたにちがいない。鑑真が来朝したのは、奈良時代半ばの天平勝宝6年(754)のことである。長旅の苦労で、奈良の都に到着したときはすでに失明していた。生身の鑑真和上であったなら、閉じた瞼に浮べたであろう涙の訳を、俳人としての感性で、芭蕉は即座に読み取ったはずである。瞼の裏に映っていたのは、あるいは鑑真が高僧の名をほしいままにしていた唐の揚州大明寺あたりの景色だったかもしれない。

濤声
東山魁夷画伯が宸殿の間に描いた「濤声」

 芭蕉と同じように、鑑真像の閉じられた瞼の裏に浮かぶ景色に思いを馳せた画家が、昭和の時代にいた。御影堂の障壁画の揮毫(きごう、書画をかくこと)を委託された東山魁夷(ひがしやまかいい)画伯である。御影堂には重要な部屋が5つある。上段の間、宸殿の間、厨子が安置された松の間、その左右の桜の間、および梅の間である。画伯は昭和46(1971)年7月に揮毫を承諾した後、たびたび鑑真和上像に対峙して、描くべき作品のイメージを練ったといわれる。

 画伯には、我が国に上陸したとき既に盲目であった鑑真に、是非とも見て貰いたい風景があった。美しい日本の国土の象徴としての山と海である。そのため、「上段の間」には山をテーマにした「山雲」を、そして「宸殿の間」には海をテーマにした「濤声」を描かれたという。残りの3つの部屋については、画材を中国に求められた。生涯の大半を過ごした故国中国の風向が、和上の瞼に裏に懐かしく浮かんでいるにちがいないとの思いが、画伯にはあった。そこで、松の間には、揚州の名勝である痩西湖(そうせいこ)を、梅の間には桂林を、松の間には黄山をそれぞれテーマに選び、壮大な風景を墨一色で描かれた(「揚州薫風」、「桂林月宵」「黄色山暁雲」)。さらに、厨子の内部には、鑑真を乗せた船が薩摩半島南端に近い秋目浦(あきめのうら)に入ってくる光景を「瑞光」と題して描かれた。これらの障壁画の作成に、画伯は十年あまりの歳月を費やし、1981年に奉納された。


 御影堂を訪れたとき、御遠忌の法要の時間と重なった。それに加えて、数台の観光バスツアー客とかち合ったために随分と待たされた。松の間の鑑真和上像は、宸殿の間から拝むには、かなり離れた位置にある。厨子の扉はたしかに開いているが、写真で見かける坐像は遠目にしか見えない。その前を参拝客が隊列をなしてそそくさと通りすぎて行く。一応賽銭箱の前に座りこむと、小銭を投げ入れて鑑真像に向かって合唱するのだが、後続の参拝者に押されて、おざなりに拝んで過ぎるといった風情だ。

御遠忌の法要
御遠忌の法要を終えて退出する僧たち

 できることなら、鑑真像と心静かに対峙して、和上が語りかけてくる声に耳をすませたいと思った。しかし、そうした願いは果たされそうもない。拝観者の様子に圧倒されていると、黄色の僧衣をまとった日蓮宗の僧侶まで紛れ込んで合唱する姿が目に入った。僧侶はやがて太鼓を取り出し日蓮宗の題目を唱え始めた。唐招提寺は律宗の総本山である。他宗派の僧侶が拝観する光景は、なんともチグハグで滑稽である。近くにいた会場整理員に聞くと、時折こうしたことも起こるという。

 東山画伯の障壁画もじっくり味わいたかった。だが、大勢の観光客(その大半はかしがましい老婦人たち)がひしめいている状況では、それもままならない。



鑑真和上が眠る御廟

御廟
鑑真和上が眠る御廟

 御影堂を出て東門へ向かう小道を土塀に沿って進むと、やがて左手に門が見えてくる。門をくぐって一歩足を踏み入れると、小道が鑑真和上の廟に続いている。廟の前には大きな池があり、池にかかる橋を渡ると廟の正面に出る。和上が眠る墓が、見上げる高さのところに、回りに茂みに覆い隠されるようにポツンと立っている。

 かって井上靖氏の「天平の甍」が映画化されたとき、鑑真を演じたのは俳優の田村高広だった。映像化されたイメージは何時までも記憶に残るものらしい。不撓不屈の精神力の固まりのような鑑真のキャラクタを好演していた。当時は、正式に僧侶になるには、10人の高僧の立ち会いのもとで、戒律の遵守を誓う儀式つまり「授戒」を受けなければならなかった。しかし、そのころの日本には「戒律」を指導する師僧がいなかった。そこで唐より授戒の師僧を招聰する命が栄叡・普照という若い2人の僧侶に下り、733年遣唐使船で唐へと旅立つところから、「天平の甍」は始まる。

 鑑真が平城京に入った754年には、その来朝を最初に招請した聖武天皇は孝謙天皇に皇位を譲って法皇となり、時代は天平から天平勝宝に移っていた。鑑真の来朝を長年待ちこがれていた聖武法皇や光明皇后、そして孝謙天皇らは、最高の儀礼を尽して彼を迎え入れ、伝法大法師位を勅授した。そして日本に留まること10年、来朝の目的を果たした鑑真は、天平宝字7年(763)の5月6日、結跏趺坐(けっかふざ)して示寂したと伝えられている。
 


永井路子女史の講演「唐招提寺に想う」を最後まで拝聴できず残念

 鑑真和上の来朝をテーマにした小説は、井上靖氏の「天平の甍」が有名だが、永井路子氏も「氷輪」の中で鑑真を扱っている。来朝した鑑真や時の権力者・藤原仲麻呂、女帝孝謙を軸に宗教、政治を独自の視点で捉えた作品で、昭和57年には第二十一回女流文学賞を受賞している。

 その永井路子女史が講堂に参拝しているのを、ひょんなことから見かけた。本日は午後の3時から「唐招提寺に想う」と題する講演を、礼堂東室で行なうとのことだ。定刻前に、礼堂東室はすでに200人を超す聴衆で埋まっていた。かっては、この建物も同じように、学僧たちが師の講話を聞くために用いられたのであろう。建物に入りきらない人のために、寺ではスピーカを室外に備える配慮まで見せていた。女流作家の人気は大したものである。

 講演に先立って渡されたレジメには、「唐大和上東征伝」の抜粋と鑑真関連年表、天皇家・藤原氏関係図が入っていた。最後まで拝聴したかったが、別の予定で3時過ぎには唐招提寺を後にしなければならなかった。残念である。




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