H15/04/10

田原本(たわらもと)町の鏡作神社と唐古・鍵(からこ・かぎ遺跡を訪れる


桜と菜の花が咲き誇る寺川の堤

ああああ
桜花爛漫の寺川

 田原本町は、奈良盆地のほぼ中央に位置し、橿原市の北に隣接している。この町を有名にしているものに、唐古・鍵遺跡がある。大字唐古から大字鍵にまたがる巨大な弥生遺跡である。大和川と寺川に挟まれた海抜50mほどの沖積地に作られており、登呂遺跡や吉野ヶ里遺跡とともに、3大弥生遺跡の1つに数えられる。

 近くに住みながら、今までこの遺跡を訪れたことがなかった。地図を見ると、遺跡の近くに古代の鏡作部(かがみつくりべ)の遠祖を祀る鏡作神社もある。暖かい春の日差しが戻ってきたので、この二カ所に焦点を絞って自転車で出かけることにした。

 唐古・鍵遺跡も鏡作神社も国道24号線沿いに位置している。しかし、交通量の激しい国道の路側帯を走るのも億劫なので、途中から寺川の堤を行くことにした。寺川は国道24号線と平行して流れる一級河川である。堤のあちこちで桜の並木が花のトンネルを作り、菜の花が彩りを添えている。実は台風並みに発達した春の嵐が一昨日近畿地方を吹き荒れた。その激しさで満開を迎えた桜も散ってしまったと思っていた。しかし、花びらを川面に散らしながら、寺川の桜は今を盛りに咲き乱れていた。


朱の鳥居が色鮮やかな鏡作神社

鏡作神社の正面
鏡作神社の正面

 鏡作神社は田原本町の大字八尾に位置している。近鉄橿原線の「田原本町」駅から北へ徒歩で約20分にある。4世紀から5世紀にかけて、銅鏡の製作を専業としていた鏡作部が、このあたり一帯に住んでいた。彼らは神鏡と遠祖を祀る神社をこの地に建立した。それが鏡作神社である。正式には「鏡作坐天照魂神社(かがみつくりにいますあまてるみたまじんじゃ)」という。神社の正面には、新しく化粧しなおしたのか朱色も鮮やかな鳥居が青空に向かってそびえていた。

鏡を洗い清めた鏡池と鏡業界やガラス業界が共同で再建した拝殿

鏡池
鏡池

 鳥居をくぐると、明るい参道が拝殿に続いている。一昨日の春の嵐が吹き散らしたのか柏などの常緑樹の枯れ葉が参道に散乱している。境内が妙に明るいのが気になって周りを見渡すと、他の神社と違って神木と讃えられるような巨木がそれほど見あたらない。ここは住宅街の真ん中に鎮座する神社である。

 参道の左に、周囲を雑草に覆われた小さな池がある。鏡池である。古来、鏡作師たちはこの地に集まり、鏡の水を以て秘法を授けられた、と縁起が伝える池である。また、江戸時代には、鏡職人がこの池で鏡を洗い清めたという。

昭和44年(1969)に再建された拝殿
昭和44年(1969)に再建された拝殿

 色鮮やかな鳥居を目にした後では、正面の拝殿は一見古そうな印象を与えるが、そうでない。昭和19年(1944)の地震で拝殿が倒壊した。鏡業界やガラス業界が共同で拝殿を再建したのは、昭和44年(1969)のことである。拝殿前の狛犬(こまいぬ)は、江戸時代の天保年間(1830 - 1844)に大坂の鏡屋仲間が奉納したものである。

 このように、鏡作神社は古来より、鏡作りや鋳物業にたずさわる人々に新興され、最近は美の神として技術の向上を願う美容師や化粧品関係者の参拝が多いという。また、2月下旬の「御田植祭」では、お田植舞や豊年舞、牛追いの儀式が行われ、慈雨と豊年が祈願される。その日の境内は、近隣の氏子で賑わいを見せるという。


5間社流造(ごけんやしろながれづくり)の本殿に祀られた天照国照彦火明命という名の神鏡

本殿
5間社流造りの本殿

 拝殿の裏にまわると、そこにはまた色鮮やかな本殿が建っている。桁行(けたゆき)7.55m、梁間(はりま)1.64mの5間社流造で、本殿3社と2つの合間からなる。江戸時代中期ごろの建築とされているが、詳細は不明である。

 本殿では、中央に天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)、左右に鏡作部の祖・石凝姥命(いしこりどめのみこと)、左座に天糠戸命(あまのぬかとのみこと)の三神を祭っている。

 中座に祭神として祀る天照国照彦火明命は、実は神ではなく試鋳で作った神鏡である。社殿によれば、崇神天皇6年9月30日、内侍所(ないしどころ) の神鏡をこの地で鋳造したとき、試鋳として作った像鏡を天照国照彦火明命と称して奉祀しているという。

 石凝姥命は、天照大神がスサノオの乱暴に怒って天岩戸に隠れた時、彼女を岩戸から誘い出す方便として八咫鏡(やたのかがみ)を作った神である。本殿では石凝姥命を鏡作伊多の神として右座に祀っている。

 天糠戸命は、石凝姥命の父として系譜つけられており、本殿では鏡作麻気の神として左座に祀っている。この神は鏡の製作の守護神の性格があり、先代旧事本紀には鏡作連などの祖と記されている。

社伝と史書とで矛盾する神鏡作成伝承

 古代には、鏡は単なる姿見ではなかった。人の魂が宿るものとして最も崇敬されたものである。もちろん現代のようなガラス製ではない。銅鏡である。ところで、古代の鏡と言えば三種の神器の八咫鏡がまず挙げられる。社伝では、天糠戸命(あまのぬかとのみこと)の子の石凝姥命(いしこりどめのみこと)がこの鏡を作ったとしている。だが、『日本書紀』は天糠戸命が作ったとする別の伝承も伝えている。そのため、この神社では鏡作部の遠祖として、この親子の神を奉祀しているのであろう。

唐草文帯三神二獣鏡
神宝の唐草文帯三神二獣鏡

 八咫鏡は、皇祖神であり日の神とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)の神霊が宿る鏡である。代々、天皇家は八咫鏡を“同床共殿”つまり天皇が住む宮殿に保管し祀ってきた。しかし崇神天皇6年に、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して、大和の笠縫邑(かさぬいむら、現在の檜原神社があるところ)に祀るようになった。何故だかわからない。『日本書紀』は、神の勢いを畏れ、共に住むには不安があったと示すだけである。次の垂仁天皇の時代に、倭姫命(やまとひめのみこと)に天照大神の祭祀を託され、倭姫命は大神を鎮座する場所をあちこち探した。結局、大神が希望されたので伊勢に祀るようになったという。現在、八咫鏡は伊勢神宮の内宮に祀られている。

 崇神天皇6年9月30日、内侍所(ないしどころ) の神鏡をこの地で鋳造したとする社伝は、『日本書紀』には記載されていない。記載されていないどころか、冷静に考えれば、内容が矛盾する。天孫降臨のときニニギノミコトに渡された三種の神器は、崇神天皇の時代まで代々伝世され宮中に保管・安置されていた。それを、神と同じ屋根の下で住むのは畏れ多いという理由で、八咫鏡は笠縫邑に遷して豊鍬入姫命に奉斎させることになった。

 その一方で、神社の伝承では内侍所の神璽の鏡を鋳造させたと伝える。内侍所とは、宮中の賢所の別名で、神鏡を安置し守護するところである。せっかく内侍所に安置されていた神鏡を笠縫邑に遷したのに、また内侍所に安置する神鏡を作るとは、どういう意味なのだろうか。レプブリカでも作る必要が何かあったのだろうか。

 面白いのは、神鏡を鋳造するとき試しに鋳造した鏡を、本殿の祭神として、しかも天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)という名前で奉祀していることだ。天照国照彦火明命は、尾張氏が農業守護の神として仰いだ祖神とされたり、河内の国の河上哮峯(かわかみたけるのみね)に天磐船(あめのいわふね)に乗って降臨した鐃速日命(にぎはやひのみこと)の別名であるとされたりして、よく素性の分からない神である。神鏡とどういう関係があるのだろうか。

 さらに面白いことは、ご神体は唐草文帯三神二獣鏡と呼ばれているが、実際は三角縁神獣鏡の外区が欠落したものであるという。おそらく、いつのころか近くの古墳から出土したものを神宝として祀ることにしたのであろう。考古学上、三角縁神獣鏡は舶載品か国産品か今だに決着を見ていない不思議な鏡である。舶載品であれば、鏡作部で製作した鏡ではなく、社伝は嘘になる。



重要文化財の阿弥陀如来立像を安置する安養寺

安養寺
安養寺の山門

 鏡作神社から唐古・鍵遺跡へ向かう途中に、安養寺(あんようじ)という浄土宗の別院がある。名僧・行基の開山と伝える寺で、山号は法性山(ほうしょうざん)、正式な寺号は専求院(せんぐういん)安養寺という。寛永10年(1633)の創立であるから、400年近い歴史を持つ寺である。もとは寺川の東側にあったが、洪水のため江戸時代の中頃現在の寺川西岸に遷されたと伝えられている。

阿弥陀如来像
阿弥陀如来像

 この寺の本尊は、桃山時代の阿弥陀如来像である。それとは別に、鎌倉彫刻の名匠・快慶が建仁年間(1201 - 1203)に製作した阿弥陀如来立像が、客仏として安置されている。

 案内板によると、材質はヒノキで、像高は81.4cm。快慶の壮年期の作品で、全体に成熟した感じにあふれ、ほほのふくらみは表情にふくよかさを漂わせているとのことだ。衣紋線(いもんせん)の特徴や粉溜(ふんだみ)技法など、随所に快慶の特徴がみられ、足ぼそに「安阿弥陀佛」の墨書銘があるという。安阿弥陀佛は快慶の別称である。昭和60年(1985)に重要文化財の指定を受けている。

 できることなら拝観したいと立ち寄ったが、秘仏扱いで一般には公開されていない。境内に人影はなく、その代わりに多くの石像が並んでいた。天文2年(1533)の銘を刻んだ石仏もあるとのことだが、どれだか分からなかった。



唐古池の縁に建つ楼閣以外何もない唐古・鍵遺跡

楼閣
唐古池に影を映す楼閣

 唐古・鍵遺跡は、近鉄橿原線の石見駅から東へ徒歩20分ほどのところにある。登呂遺跡や吉野ヶ里遺跡と並んで、代表的な弥生遺跡とされている。だが、歴史公園として整備された遺跡を期待して唐古・鍵遺跡を訪れると、大きな失望を味わうことになる。遺跡は完全に埋め戻されて、水田以外何もないのである。発掘跡もなければ、出土遺物を展示している展示館もない。

 あるのはただ一つ、満々と水をたたえた唐古池の隅に建っている2階建ての楼閣である。奇妙な渦巻き状の飾りが屋根の端に取り付けられているため、どこからでも目に付く。言ってみれば、遺跡のシンボルマークだ。だが遺構を復元したものではない。出土した壺に描かれていた建物の断片から、当時の楼閣をイメージした重層建築である。

発掘の歴史とその成果を追う

中央体育館
郷土資料展示室がある中央体育館

 江戸時代に灌漑を目的として作られた唐古池の周りには、遺跡を解説した説明板が随所に置かれている。さらに、遺跡からかなり離れるが、田原本町中央体育館の一画に設けられた郷土資料展示室には、出土遺物が解説付きで展示してある。これらの資料を基に、発掘の歴史と成果をたどってみよう。

 唐古・鍵遺跡の存在は戦前からよく知られていた。桜井市出身の森本六爾(ろくじ)氏ら多くの研究者が優れた論攷で考古学会に遺跡の存在を紹介していた。また、地元の飯田氏親子が唐小池周辺で採集した遺物を図録として出版していた。

 しかし、本格的な発掘調査は、橿原考古学研究所初代所長の末永雅雄氏らによって昭和11年(1936)から翌年にかけて行われたのが最初である。きっかけは皇紀2600年に備えて奈良盆地を縦断する国道を建設することになり、その盛り土を唐古池から採集することになったためである。

復元イメージ
大環濠集落の復元イメージ

 発掘調査は土取り工事と平行して行われ、さまざまな遺物を出土した。木製農耕具や炭化米、植物製品は、弥生時代が農耕社会であることを決定づける証拠となった。また、膨大な出土土器は、弥生時代の時代区分の基準作りに役立ち、その後の弥生研究の進展に大きく寄与した。

 それ後、発掘調査は1960年代の終わりから40年ぶりに再開され、毎年数次にわたる調査が実施されている。これらの発掘調査では、ムラを囲む環濠や竪穴住居、井戸、青銅器の工房跡、木棺墓や土器棺墓、岡山県や静岡県から搬入された土器など貴重な遺物が多く出土している。その結果、この遺跡は日本を代表する大環濠集落であることが明らかになり、平成11年(1999)に国の史跡に指定された。

唐古・鍵の地に存在した環濠集落の発展と終焉

 唐古・鍵遺跡は、大和川と寺川に挟まれた標高50m前後の沖積地に位置していて、紀元前3〜4世紀から紀元後3世紀の終わりまで約600年以上も継続して存在したという。その変遷を紙上で追ってみよう。

復元された弥生人
復元された弥生人

 縄文時代の晩期から弥生時代の初期にかけて、地球が寒冷化して急激に海位が下がり、現在と較べても約2〜3mも水位が下がっていた。これを弥生小海退という。寒冷化の結果、湖水だった奈良盆地が干上がり、奈良盆地は大小の河川が今の王子付近に向かって網に目のように流れていたと考えられている。

 そのころ、西方から伝わった稲作文化は奈良盆地の各地に弥生ムラを誕生させた。弥生時代の前期には、後に唐古・鍵遺跡となる最初の集落も、この沖積地に営まれた。集落は3つのムラに分かれており、それぞれのムラは環濠をめぐらしていたことが判明している。

 弥生時代中期になると、大環濠が作られ、3カ所のムラが一つに統合された。さらに大環濠の外側に幅5m前後の環濠が4つから5つ巡らされた。この時期、唐古・鍵遺跡は弥生時代最大級の集落に成長した。しかし、中期後半には洪水で周濠がいったん埋没してしまう。

 弥生時代後期には、埋没した周濠を掘り起こしてムラが再建される。だが、集落の規模は徐々に縮小し、古墳時代前期には、ムラは元の3カ所に分立する。古墳時代中期にはムラは完全に消滅し、周辺に古墳が築かれたようである。平安時代から戦国時代には、豪族の居館が遺跡の西側と東側に築かれた。しかし、江戸時代にはすっかり農地となり、唐古池や鍵池などの灌漑用溜池が遺跡の上に作られた。

土器片に描かれたイラストから復元された楼閣

市場のイメージ
市場のイメージ

 最盛期の唐古・鍵遺跡は単なる農村ではなかったと思われる。巨大な環濠に囲まれていたため、災害や争乱による被害を未然に防ぐことに成功して、安定した発展を遂げた。 この遺跡では青銅器の生産が行われていたことが知られている。青銅器の生産には専門知識が必要となり、そのため、ある程度専門的な工人がいたと推測されている。

 さらに、弥生時代最大級のヒスイ製勾玉(まがたま)が出土している。ヒスイは新潟県糸魚川市周辺でしか採集できず、この地域と交易があった証左である。岡山県東部や静岡県西部から搬入された土器も出土している。こうしたことから、交易のための市が開かれていた可能性も指摘されている。

土器片
楼閣の描かれた土器片
復元された楼閣
土器片のイラストから復元された楼閣

 平成4年(1992)に、楼閣と思われる絵が描かれた土器片が遺跡の南部から出土した。2年後の平成6年6月24日、2つの土器片に描かれた絵をもとに西暦1世紀の楼閣が復元竣工した。それが現在唐古池の南西隅に建っている重層建築で、従来の弥生建築に対するイメージを一変させた。

 唐子・鍵遺跡は、近畿の「弥生の首都」であり、幅5〜10mの環濠が500x600mの範囲に巡らされていた。中国の都城は南面する門の左右に闕(けつ)と呼ばれる重層建築を建てていた。その都市計画の思想がすでに近畿に入っていた可能性が指摘されており、そうであれば、この建物は闕の片割れということになる。

 楼閣は高さ12.5mの2階建てである。4本の柱には、太さ50cmのヒバ材が用いられている。屋根は茅葺き、壁は外面に網代壁、内面に板壁を用い、梯子は刻み梯子で復元している。しかし、この建物で特徴的なのは、藤のつるで作られた渦巻き状の屋根飾りである。単なる飾りなのか、それとも別の目的があったのか、とにかく眺めていると空想力をかき立ててくれる代物だ。


追記:弥生時代中期中ごろの高床式大型建物遺構が出土(03/10/17)

建物遺構ジ
高床式大型建物遺構

 2003年10月17日、田原本町教育委員会は、唐古・鍵遺跡のほぼ中心で東西6m、南北13.7mの大型建物遺構が出土した、と発表した。遺構は弥生時代の中期中ごろ(紀元前2世紀)のもので、建物の周囲だけでなく内部にも柱を立てた総柱式だった。3列、23カ所の柱穴が発見され、そのうち18カ所に柱の下部(いずれもケヤキ材)が残っていた。

 発掘された柱の最大のものは、直径80cm、長さ1.5メートル余り。弥生時代中期の遺跡では、すでに武庫庄遺跡(兵庫県尼崎市)で直径80cmのヒノキ柱が見つかっている。この柱はそれとほぼ同じ太さであり、弥生時代の柱としては最大級であるという。現在の清水寺(京都市)の舞台を支える柱に匹敵する太さである。その他の柱は直径45〜70cm(長さは埋まったままで未調査)で、柱穴の深さは1〜1.5mと推定されている。

 このため、かなり高層の建物だったと思われ、唐古・鍵遺跡が最も栄えた時期の首長の館か、祭りや政治を執り行う場だった可能性があるという。推定されている建物の大きさは、床面積82平米、高さ6m前後の高床式建物である。

 唐古・鍵遺跡では、直径約60cmのケヤキ柱を持つ高床式建物跡(弥生時代中期初め)も、1999年に発見されている。なお、邪馬台国畿内説では、この遺跡は、中国の『漢書』地理志が伝える邪馬台国以前の「百余国」の有力候補の一つとされている。



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