薬師寺の歴史を振り返る
薬師寺の歴史は古い。『日本書紀』によれば、天武天皇9年(680)11月、皇后の病気平癒を祈願するために、天武天皇が寺院の造営を発願したのが始まりだという。当初、薬師寺は現在の橿原市城殿(きどの)町に造営された。造営事業は、天武天皇亡き後も持統天皇によって継承された。688年には無遮大会(むしゃのだいえ)が催され、697年7月には仏像の開眼供養が行われている。その翌年の文武天皇2年(698)10月、薬師寺の造立が完成した。 しかし、710年の藤原京から平城京への遷都に伴い、現在の秋篠川の西、大池の東、平城京右京六条二坊に、薬師寺も移されることになった。移転事業は養老2年(718)に開始され、同6年(722)にはほぼ工事が終わったとされる(ただし、『扶桑略記』は、東塔が建ったのは天平2年(730)3月のこととしている)。以後。藤原京にあった創建薬師寺は「本薬師寺」と呼ばれるようになり、今も跡地には金堂や東西両塔の土壇と礎石が残っている。
新しく平城京に移された薬師寺は、南都七大寺の一つとして、また官寺として皇室の厚い庇護を受け、天平勝宝元年(749)には一千町の施入田を有する大寺院だった。当時の伽藍は、南大門を入ると中門があり、中門の両脇から延びる回廊が金堂院を囲んでいた。金堂院の中は、東西両塔と金堂が配置され、金堂の背後に講堂があった。金堂院の北には経楼と鐘楼が相対し、中央後方に食堂と僧坊があった。また、金堂院の南西に西院、東南に東院があった。 しかし、天延元年(973)2月27日の火災で、金堂と東西両塔を残してほとんどの伽藍が全焼してしまった。その後も幾多の災害を受け、そのたびに堂宇の再建や修理が行われたが、特に享禄元年(1527)の兵火では、東塔を除く諸堂が灰燼に帰してしまった。昭和42年(1967)高田好胤師が管主となり、薬師寺白鳳伽藍の復興を発願され、写経を納める際のお金などを建設資金に充てて復興事業が進められてきた。昭和51年(1976)4月、金堂が再建され、昭和56年(1981)には西塔が再建された。これにより、裳階(もこし)を施した”竜宮造り”とかって金堂院のたたずまいが、その美しさをこの地に再び出現したと言われている。次いで、平成3年(1991)には、玄奘三蔵の頂骨分骨されたのを記念して、玄奘三蔵院が新たに建立された。そして今年、正面41m、奥行きm、高さ17m、朱塗りに白壁の壮麗な講堂が完成した |
金堂から大講堂へ飛翔する金竜
大講堂の落慶開眼法要を祝福するように、本日の空は雲一つ無く晴れ渡り、風もなく穏やかな日差しが境内一杯に降り注いでいた。午前10時30分、大鐘が21打鳴り響いて、参列者約5000人が見守る中、平安初期の衣装をまとった雅楽隊や僧らの入場で法要が始まった。「鍵渡しの儀」によって、大講堂が正式に薬師寺に施入され、その後の「鴟尾再建の儀」では、中国の「竜踊り」で使う二頭の龍の張りぼてが登場した。金堂から張り渡した綱を伝って大講堂の大屋根に渡り、鴟尾(しび)のカバーを竜の口で取り除くと、金色の鴟尾が青空に輝いた。参加者のどよめきと拍手が会場一杯に響き渡った。 大講堂の内部に安置する本尊と両脇士は、大講堂ができるまで奈良国立博物館に寄託されていた。本日の法要に先立って、これらの仏像が搬入されていた。会場からは講堂内部の様子は分からなかったが、本尊の弥勒(みろく)三尊に大きな筆を使って魂を入れる儀式が行われた。その後、官主の松久保秀胤(しゅういん)師が「大講堂で行われていた国民の幸せや平安を願う儀式・最勝会(さいしょうえ)を復活させ、続けていく」と挨拶し、境内は平和の祈りに包まれた。 薬師寺の金堂には、薬師如来を中央に、向かって右手に脇侍の日光菩薩、左手に月光菩薩が祀られており、これらを薬師三尊像と呼んでいる。その美しい姿は世界でも最高の仏像とされている。講堂に安置されていた仏像も、従来から薬師三尊と呼ばれてきた。しかし、今回の法要を期に、再建された大講堂の薬師三尊像は、上記のように名を改め、弥勒三尊像と呼ぶことになった。中央の本尊は弥勒如来で、向かって右側の脇侍は法苑林(ほうおんりん)菩薩、向かって左側の脇侍を大妙相(だいみょうそう)菩薩という。本尊の頭上を飾る天蓋(てんがい)には、東大寺法華堂のそれと同じように、中心の鏡から光りが放射するイメージが、白、朱、緑青、紫色など極彩色で鮮やかに描かれているという。大講堂の落慶法要は3月23日までの3日間、慶讃法要は同30日〜4月4日までの6日間、盛大に営まれことになっている。大講堂内部の一般参観は、4月8日から可能になる。
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