「万葉の大和路を歩く会」は風雨に関係なく催される。故犬養孝氏の「万葉人は雨の日も風の日も歩いたんだよ」という言葉、すなわち風雨による中止をしてはならないという教えを堅く守っている。だが、雨の山道を歩くのはいささか気が重い。同行を予定していた友人のY君に電話すると、参加しようという。集合はJR・近鉄天理駅、午前9時30分。講師は万葉の大和路を歩く会代表の富田敏子氏。
なお、奈良交通は過去22年間「万葉の大和路を歩く会」を主催してきたが、諸般の事情で今回が最後であり、次回からは産経新聞社/関西2100委員会と万葉の大和路を歩く会の主催に変わるということだ。 |
夜都伎(やとぎ)神社 奈良の春日大社と縁故が深い式内社
【所在地】 天理市乙木町765 【アクセス】 JR長柄駅北東2km 今回のコースは、当初の予定より少し変更されたようだ。奈良交通が作成した平成14年度のスケジュールでは、天理駅からバスで内山永久寺へ行き、そこを起点に、古代豪族・和邇(ワニ)一族の柿本人麻呂を偲びながら山辺の道を北上することになっていた。だが、バスが向かった先は天理市乙木朝宮山にある式内夜都伎(岐)神社。天理市の市街地を抜けたバスは、県道51号線を南に向かって走り、神社に向かう田んぼ道の中に立つ赤い鳥居が見える交差点で停車した。鳥居からまっすぐ東へ進めば、突き当たりに夜都伎神社がある。雨が近いせいか、前方の竜王山が霧に包まれて山麓をわずかに見せている。
嘉永元年(1848)に奈良の春日若宮から下げられた石の鳥居をくぐって神社の森の中に入ると、正面に石段が続いている。その石段を登りきったところが広場になっていて、この地方では珍しい萱葺き屋根の拝殿が広場の右手に建っている。その奥に、春日造りの檜皮葺、高欄、浜床、向拝彩色7種の華麗な同形の本殿が4つ並んでおり、本殿の横には末神の琴平神社が鎮座している。現在の本殿は明治39年(1906)に改築された。
|
内山永久寺跡 鳥羽天皇の勅願で永久2年に創建された寺院の跡
【所在地】 天理市杣之内町 【アクセス】 夜都伎神社から1.7km、徒歩30分 内山永久寺跡は、天理市杣之内(そまのうち)町にある。夜都伎神社から内山永久寺跡に向かう山の辺の道は、その途中で園原町の集落を通る。集落の中の道は、かなり急勾配の坂道であり、不揃いの石畳が長々と続く。心臓には結構負担がかかる丘陵の尾根越えだ。しかし、坂道を登り切ると、今度は蜜柑や柿の果樹園の脇を、下りの坂がだらだらと続く。果樹園が切れるあたりで、内山永久寺跡の池が光って見えるはずだが、今回はそれが見えない。寺院跡に近づくと、池の水は完全に抜かれて、底がむき出しになっている。
池の中央に島があり、島の中央に「内山永久寺記念碑」が建っている。碑の周りには桜の木が目立つ。江戸時代には、この付近は桜の名所として近隣に聞こえていた。松尾芭蕉が伊賀上野の生家にいた頃、この地を訪れて詠んだ句の碑が、池の畔に建っている。
|
石上(いそのかみ)神宮 古代豪族・物部氏の氏神、大和朝廷の武器庫
【所在地】 天理市布留町384 【アクセス】 JR・近鉄天理駅から東へ2km 内山永久寺跡から北へ進むと、「山の辺の道」はまもなく車道にぶつかる。車道下のガードをくぐり抜け、集落の中を先へ進む。道はやがて神宮外苑公園に入っていく。梢に覆われて静まりかえった布留口池を右手に見ながら進むうちに、石上神宮の境内に到着する。神宮は天理市布留(ふる)町にある。この神宮の付近は古代豪族・物部氏が本拠とした土地であり、神剣・布都御魂(フツノミタマ)を祭神として祀っている。かっては、『日本書紀』の履中紀に記すように「石上振之神宮」、または『延喜式』神名帳に記すように「石上坐布都御魂神社」と呼ばれていた。 物部氏が神剣・布都御魂を祭祀するようになったいきさつは、『日本書紀』に詳しい。布都御魂とは、もともと神話に登場する武甕雷(タケミカヅチ)神が所有していた神剣である。熊野に上陸した神武天皇の東征軍が、熊野の神の毒気に当たって行軍できなくなったとき、武甕雷神が高倉下(タカクラジ)という男の夢枕に立ち、「一振りの神剣を高天原からお前の倉に降ろすから、それを天孫に献上するように」と命じた。翌朝目を覚ました高倉下は倉を開いてみると、そこには果たして剣が落ちていた。神武軍はその神剣によって蘇ることができたという。 神武天皇は、即位後に物部氏の遠祖・宇摩志麻治尊(ウマシマチノミコト)にこの神剣を授けて、宮中で奉祀させた。そして、崇神天王の7年、天皇は物部連の祖・伊香色男命(イカガシコオノミコト)に勅して、神剣を石上の高庭に遷した。こうしたことから、物部氏は石上神宮を氏神として仰ぐようになったという。 国内の統一支配を実現するために、ヤマト朝廷はあちこちに軍隊を派遣して征服戦争を行なった。派遣軍は、敗戦者側から取り上げた刀剣などの武器をヤマトに持ち帰ると、石上神宮に奉納した。その結果、石上神宮は神剣を祭祀する神社であるとともに、膨大な武器を保管する庫の役割も果たすようになった。このことは、物部氏の性格も変えたと言って良い。物部の名はモノ、すなわち精霊に仕える人の意であり、本来の職掌はタマシズメの呪術を行なう氏族だった。武器庫の管理を一手に引き受けるようになって、物部氏はヤマト朝廷の武門の雄として重きをなすようになった。
石上神宮の参道脇には巨大な杉の木が林立している。石上の布留(フル)の神杉は古来から有名だったのだろう。万葉集にも石上の神杉を詠んだ歌が三首収録されている。
|
布留(ふる)の高橋
石上神宮の参道右脇の小高い丘の上で、少し早い昼食を取る。食事中に小雨が落ちてきた。天気予報の正確さに驚く。山の辺の道は、神宮の楼門の奥から東の方角に延び、その後北へ進路を変えて奈良市の春日、佐保へと通じている。ここから先はまだ歩いたことがないので、いささか胸の高鳴りを覚えるが、残念なことに雨空の下ではすべてがもやって来た。 山辺の道が東から北に転ずるあたりで、白梅の木の脇を通って布留川の方へ降りてゆく。このあたりは布留の里で、天気が良ければ、あるいは布留山が右手に見えるのかも知れない。白い鉄柵の橋が、布留山から流れ出た細流に架かっている。布留川に架かる高橋である。橋の上から上流を見ると、すぐ近くに滝が流れ落ちている。滝を流れ下った水は、かすかなせせらぎの音を立てながら、眼下を天理市街の方へ流れてゆく。布留の小川の西は布留町である。
石上 布留の高橋 高々に 妹が待らむ 夜そ更けにける 作者不詳 (巻12-2997) との曇り 雨布留川の さざれ波 間なくも君は 思ほゆるかも 作者不詳 (巻12-3012) 万葉の昔に架けられていた橋は、もちろん鉄の橋ではない。おそらく太い杉の丸太を二本か三本束ねて渡しただけのものであっただろう。しかし、川原から見上げると随分と高い位置に架かっているように見えたにちがいない。もとより、当時の橋が現在位置にあったという保証はない。 |
豊日神社 現在は菅原道真を祀る社
【所在地】 天理市豊井町 【アクセス】 石上神宮の北500m 布留川に架かる高橋を過ぎて、ややゆくと田園の中に古社がある。豊日神社である。天理市史では、豊日連(トヨヒノムラジ)が火雷神(ホノイカヅチノカミ)を祀った神社とされている。後年は、天神すなわち菅原道真を祀るようになったようだ。
本殿は、拝殿の背後から続く石段の上にある。社殿の三方に千木があり、正面の千木が逆さまになっているという。一度見てみたいと思ったが 、今回は先を急ぐウォーキングらしく、神社の境内を素通りしてしまった。拝殿から見上げる本殿は、周りの木立に囲まれ、さらに雨空の下では薄暗くでほとんどその輪郭すら把握できなかった。
|
赤坂比古神社 和邇(ワニ)の里にある、和邇一族が奉斎した社
【所在地】 天理市和爾町北垣内 【アクセス】 JR櫟本駅 東へ1500m 古代豪族の和邇一族が奉斎していたとされる赤坂比古神社は、布留川にかかる高橋から北へ徒歩でおよそ一時間の距離にある。天理市の市街地のはずれには、天理教の母屋の巨大な建物があちこちに点在していて、その母屋の裏山の裾を縫うようにして、山辺の道が細々と続いている。途中で西名阪自動車道のガードをくぐり、高瀬川を渡ると、道は丘陵の登りにかかり、やがて白川溜池の西の堤にでる。白川溜池は小雨の中に煙っていた。傘をさしながら釣り糸を垂れる姿が、池の縁のあちこちに見られた。 白川溜池の堤から西方を見ると、小高い丘の上に建つシャープ開発センターの建物群が目に飛び込んでくる。開発センターあたりは、古代から近世まで東大寺領であったため、東大寺山と呼ばれている標高134.2mの丘陵地帯である。丘陵の周辺には古墳が多く、「東大寺山古墳群」と呼ばれている。古墳群は、約l0基の前方後円墳と前方後方墳、および20数基の円墳から構成される。その中で、東大寺山古墳は「中平」の年号銘を持つ刀が発見されたことで有名である。「中平」は中国後漢末の年号(184〜190)であり、この刀は中国から渡ってきたことが判明した。また、今回のウォーキングで最後の訪問地になっている和邇下(ワニシタ)神社は、和邇下神社古墳の後円部の上に築かれている。これらの古墳は、付近を本拠地として古代ヤマト政権の一翼を担った和邇一族の奥津城とされている。
|
和邇下(わにした)神社 和邇下神社古墳の後円部の上に建つ社
【所在地】 天理市櫟本町小字宮山 【アクセス】 JR櫟本駅より徒歩役10分 この神社にアクセスする方法としては、JR桜井線の櫟本(いちのもと)駅から東に向かって歩けばよい。国道169号線に出ると櫟本のバス停のすぐ東に石の鳥居があり、その奥の森が和爾下神社古墳である。神社は、全長119mの前方後円墳の後円部の頂きに建てられている。今回のウォーキングでは、赤坂比古神社から和邇下神社へまわるルートだった。和爾町の集落を抜け、櫟本高塚公園の脇を通り櫟本町に入った。 和爾下神社は俗に「治道天王社」ともいい、祭神として素盞嗚(スサノオ)命、大己貴(オオナムチ)命、稻田姫(イナダヒメ)命を祀る。『延喜式』にもみえる古い神社で、もとは和爾氏の氏神であった。重要文化財に指定されている本殿は、三間社流造りに檜皮葺の建物で、桃山時代に建立された。国の重要文化財に指定されている。 |
歌塚 歌聖・柿本人麻呂の遺髪を葬ったとされる塚
【所在地】 天理市櫟本町小字宮山 【アクセス】 JR櫟本駅より徒歩約10分 和邇下神社の参道脇にゲートボール場があり、その奥に大きな木が茂る一画がある。樹木に囲まれて、歌聖・柿本人麻呂(カキノモトノヒトマロ)の歌塚が建っている。任地の石見(いわみ)の国で死んだ人麻呂の遺髪を、後の妻である依羅娘女(ヨサミノオトメ)が持ち帰ってここに葬ったという。現在の碑は享保17年(1732)に建てられたもので、表面の文字は第111代後西天皇(在位1654 〜 1663)の皇女・宝鏡尼の筆によると伝える。天理市櫟本町は、柿本人麻呂の生地であると伝えられ、奈良時代に創建された柿本氏の氏寺「治道山柿本寺」はこの地に建っていた。
日本人であれば、万葉歌人の柿本人麻呂の名は誰でも知っている。三十六歌仙の一人に数えられ、天武(在位673〜686)・持統(在位690〜697)・文武朝(在位697〜707)に仕えた宮廷歌人であり、序詞・枕詞・押韻などを駆使して、長歌を中心とする沈痛・荘重、格調高い多くの万葉歌を作った。後世、山部赤人とともに歌聖と称された。人麻呂の出である柿本族は、和邇氏の流れをくむ一族であり、現在の天理市櫟本あたりに本拠があったとされている。
|