平成15年2月23日

万葉の大和路を歩く会 「名ぐわしき印南国原、播磨の海」



 前日の昼過ぎから降り出した雨は、夜半を過ぎても屋根の瓦を叩いていたが、明け方には止んでいた。だが、天気予報では本日は一日中ぐづついた天候だという。確かに、朝から雨雲が重く空一面に広がっている。それでも今回の会の参加は事前に申し込んでおいたので出かけることにする。集合場所は、近鉄上本町駅から徒歩3分のところにある「ホテルアウィーナ大阪」。9時30分の集合時間より20分ほど早くついた。

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講師の甲陽学院高校教諭・山内英正氏

 参加者の人数は知らされていなかったが、観光バスが2台待機していたから100名くらいの団体にはなっていただろう。一号車を指定されたので乗り込むと、すでにほとんどの席が埋まっていた。前の方の老人の隣が空いていたのでそこに座る。道中の雑談で知ったのだが、老人の名は山下某、年齢78歳、住所は斑鳩の法起寺の近所で、現在は畑仕事をしながら悠々自適の毎日らしい。若い頃の職業は明かさなかったが、斑鳩で大工か左官の仕事をしていたと思われる。法隆寺の昭和の大改修に参加したとかで、自分が修理したところがユネスコの世界遺産に登録されているのは嬉しいと、得意げにもらす。

 今回で291回を数える「万葉の大和路を歩く会」には、創設されたころから参加していたらしい。犬飼孝氏の元気だったころの話も何回か出た。現在、高校生と中学生の二人の孫がいるが、孫も大きくなると可愛くないと率直な意見を漏らして、好々爺らしくにっこり笑う。


明石海峡を睨む五色塚古墳

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五色塚古墳の後円部

 最初に訪れたのは、神戸市垂水区五色山4丁目にある五色塚古墳である。千壺古墳ともいう。4世紀の終わりから5世紀の初めごろに築かれた兵庫県下最大の前方後円墳で、隣に陪ちょうの小壺を従えている。墳丘の大きさは、主軸調194m、後円部径125m、高さ18m、前方部幅81m高さ11.5mで、周囲に幅約10mの濠を巡らしている。三段築成で、下段の斜面には小さな石を、中段と上段の斜面には大きな石を葺いてあり、さらに、墳頂と2段の小段には鰭付き円筒埴輪や朝顔型埴輪などを巡らしてある。

 墳頂に立って周囲を見回すと、麓は新興住宅地ですっかり埋め尽くされているが、前方部は南に向かって開き、まるで明石海峡を往来する船舶をすべて監視しているようにすら思える。垂水区と淡路島を結ぶ明石大橋がすぐ近くに架けられたのも理解できる。このあたりが海峡のもっとも狭い部分なのだ。

埴輪列と背景の明石大橋
 それにしても、一面を葺石で覆われて、樹木が一本も見あたらない墳丘は、見た目にまことに新鮮である。樹木が繁茂して自然の丘か古墳か判別できないような古墳を見慣れてきた目には、あらためて人工の造作の巨大さに圧倒される思いがする。この古墳はすでに5世紀前後に実在した墳墓である。大正10年には、国の史跡にも指定されている。それを昭和40年10月から昭和50年3月にかけて復元・整備を行った。その事業に2億5200万円もかかったという。葺石として使われた石の数は223万個、墳頂などに巡らした鰭付き円筒埴輪や朝顔型埴輪の数は2,200本というから驚く。

 いずれの墳墓は、築造当時はこのようにむき出しの人工構造物として周囲を圧倒していた。築造に要した労力のすごさ、そして死してなおその権力を一族に誇示したかった被葬者の執念、そうしたものは木立に覆われた天皇陵からは伝わってこないが、実際は五色塚古墳を眺めることで、すこしは分かったような気がする。



人麻呂山月照寺と柿本神社

参道
柿本神社への参道

 明石には東経135度の子午線が通っている。日本の標準時間はこの位置で太陽が南中した時刻を正午としている。その子午線の真下に、明石市立天文科学館の燈台を思わせるような建物が建っている。その脇に、八幡鳥居をくぐって人麻呂山月照寺と柿本字神社に登る石の階段がある。階段を上りきると、そこは展望台になっていて、天文科学館の建物越しに明石海峡や明石大橋、そして長々と横たわる淡路島の島影を眺めることができる。

柿本神社の拝殿

 柿本神社は、万葉歌人”柿本人麻呂”を祀った神社で、明石では、最も有名な神社である。だが当初からこの地に築かれたのではなく、最初は現在の明石城のあたりにあった。幕府の肝入りで小笠原忠真が明石城を築くことになった1617年(元和3)に、現在の場所に移築されたという。1871年(明治4)の神仏分離令で隣の月照寺からも分離された。

播州明石浦柿本大夫祠堂碑
 境内に入ると、豪壮な「播州明石浦柿本大夫祠堂碑」が左手に建っている。1664年(寛文4)10月、明石藩主の松平信之が、和歌の隆盛を願って建てた柿本人麻呂の顕彰碑である。台の亀と碑文上部の双龍の彫刻は中国風の見事なものである。顕彰碑の銘は人麻呂の伝記を綴ったもので、当時大学頭(だいがくのかみ)だった林春斎が作者である。1973年(昭和43)に明石市の文化財に指定されている。

八房の梅
 境内の右手には、船の形をした白梅の木がある。案内板によると、1つの花から7・8個の実を結ぶことから「八房の梅」と呼ばれているもので、1702年(元禄15)赤穂四十七士の間瀬久太夫(ませきゅうだゆう)が大石内蔵助良雄と共に月照寺に参拝し、仇討ち成就を願って植えたという。隣の月照寺にも紅梅の「八房の梅」がある。神仏分離令で月照寺と柿本神社が分離されたとき、梅の木も分かれたとのことだ。

 柿本人麻呂を祀る神社だけあって、さすがに万葉歌碑が多い。参道の階段脇にある小さな公園の入り口には、次の歌の歌碑が建っている。
あしひきの やまどりのをの しだりをの ながながしよを ひとりかもねむ
境内の柿本大夫祠堂碑の前にも、次の歌を刻んだ歌碑があった。
大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬らせるかも (巻3-235)
あまざかる ひなのながちゆ こひくれば あかしのとより やまとしまみゆ いへのあたりみゆ (巻3-255)

八房の梅

 柿本神社の西隣には、曹洞宗人麻呂山月照寺が建っている。山門脇の説明板によれば、811年、弘法大師・空海が楊柳寺を建立したのがこの寺の始まりとされている。887年、大和の国の柿本寺から観音菩薩を勧請し、柿本人麻呂の祠を建てたとのことである。本堂内にその11面観音像が安置されているそうだが、拝見する時間がなかった。月照寺の山門は1618年、小笠原忠政が徳川秀忠から伏見城薬医門を拜領したものを、明石城の切手門としていたが、明治になって1873年に月照寺に移したものである。






印南野:加古川と明石川の二つの川の間に広がる平野

江井ヶ島の海岸
江井ヶ島の海岸

 次にバスを降ろされたのは、江井ヶ島海水浴場である。この辺りは、明石市の浜の散歩道として、7kmに及ぶ護岸敷を整備した海岸沿いの風光明媚な散歩道が走っている。江井ヶ島海水浴場あたりは、道路沿いに植えられたパームツリーが南国気分を演出している。

 江井ヶ島の語源を記した石碑が、海水浴場の入り口に建っている。それによれば、昔、漁港にエイが入ってきて暴れまわり、漁民が困っていたところ、偉い僧侶がエイに酒を飲ませ、満足したエイが海に帰ったとの言い伝えから、「江井ヶ島」と呼ばれるようになったという。江井ヶ島漁港は、行基が開いた歴史ある港とされている。江井ヶ島海水浴場の東側には、明石原人が発見されたことで知られる屏風ヶ浦である。波に洗われた古代の地層が露出して切り立った断層が屏風のように見えるところから、この名が付けられており、世界で最も古いタイプの象・アカシゾウの化石も、ここで発掘されていいる。

屏風ヶ浦
屏風ヶ浦

 兵庫県の加古川と明石川の二つの川の間に広がる平野を、昔は印南野(いなみの)と呼んだ。「播磨国印南郡の野」の意である。726年(神亀3)10月7日、聖武天皇が印南野に行幸した事が、『続日本記』に記録されている。万葉集には、印南野を読み込んだ歌が数首収録されている。たとえば、巻6には山部赤人が詠んだ次の長歌一首と反歌三首が載っている。
「山部宿禰赤人の作る歌一首 短歌を并せたり
 やすみしし わご大君の 神ながら 高知らします 印南野の 大海の原の 荒栲の 藤井の浦に 鮪釣ると 海人船散動き 塩焼くと 人そ多にある 浦を良み 諾も釣はす 浜を良み 諾も塩焼く 在り通ひ 見さくもしるし 清き白浜
反歌三首
  沖つ波辺波静けみ漁すと藤江の浦に船そ動ける
  印南野の浅茅押しなべさ寝る夜の日長くあれば家し偲はゆ
  明石潟潮干の道を明日よりは下咲ましけむ家近づけば」
(『万葉集』巻6,938〜941)



住吉神社

住吉神社
住吉神社の拝殿

 山陽電鉄本線の「山陽魚住」駅から海岸方面に向かうと住吉公園があり、その中に住吉神社が鎮座している。摂津の住吉神社の三神は、航海守護、国家鎮護、祈雨の神として摂津はおろか、播磨、長門にまで及んでいる。ここの神社は、祭神として住吉三神と神功皇后を祀っている。

 この神社の参道は浜辺から参拝できるように海に向かって延びている。気が付くと拝殿も海に向かって建っている。難波から西国に船で下るとき、この辺りで生駒山系も波間に沈んで見えなくなるのであろう。
参道
海からの参道

 柿本人麻呂も築紫に海路で下るときに、次の歌を詠んでいる。
名ぐはしき 印南の海の 沖つ波 千重に隠りぬ 大和島根は (巻3-303)
大君の 遠の朝廷(みかど)と あり通ふ 島門(しまと)を見れば 神代し思ほゆ (巻3-304)





高砂神社

高砂神社
高砂神社

 加古川を渡ると、祝宴の席で“たかさごや〜”と唄われる謡曲「高砂」の発祥の地である高砂市に入る。謡曲の原形は世阿弥作の能で、物語は肥後国の神主が都に上る途中、この付近で休んでいると老人夫婦が現われ、「相生の松」のいわれを語るというものである。「相生の松」は雌雄一体の珍しい松で、「相生まれて相老いるまで」ということで夫婦和合、長寿繁栄を祈る尉姥(じょうとうば)として親しまれています。この松は高砂神社にあり、現在の松は五代目だそうだ。

 高砂神社は、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫(くしなだひめ)、大己貴命(おおなむちのみこと)の三神を祀る。

相生の松
相生の松

 社伝によれば、神功皇后が三韓に出兵した時、大己貴命が我が軍の先鋒となって進み、三韓を臣従させた。皇后が凱旋して、鹿子水門(かこのみなと)に停泊したとき、大己貴命は、ここに停まり国土を守りたいと告げたので、当地に社殿を建立して祀ったのが始まりだという。その後、円融天皇の天禄年間(970〜972年)に疫病が流行し、神職の神託を得て素盞嗚尊と奇稲田姫を合祀したところ、疫病が治まったという。そのため古来より、朝廷、国司、武将などの崇敬も厚く、室町時代には赤松家から神田十二町余りが付け置かれ、近世になると豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、当地で戦勝を祈願したと伝える。




生石(おうしこ)神社の石の宝殿

生石神社
生石神社

【所在】兵庫県高砂市阿弥陀町生石171

 高砂市にはオオクニノヌシノ命とスクナヒコナノ命の二神を祀る生石(おうしこ)神社がある。この神社を有名にしているのは、神社の裏手にそびえ立つ「石の宝殿」と呼ばれる巨大な石造物だ。切妻風の突起を後ろにして家を横たえたような横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2mの謎の石である。仙台塩釜神社の塩釜、宮崎県霧島神社の天逆鉾(あめのさかほこ)と並んで日本三奇の一つに数えられている。

 社殿によれば、神代の昔オオクニノヌシノ命とスクナヒコナノ命が天津神の命を受けて、国土経営のため出雲の国からこの地に遷ってきた。そして、国土を鎮めるにふさわしい石の宮殿を造営しようとして、一夜の内に工事を進めたが、工事半ばで阿賀の神一行の反乱を受けた。そこで、二神は山を下り多くの神々を集めてこの賊神を鎮圧し、平常に還った。しかし、すでに夜明けを迎えていたので、二神はこの宮殿を正面に起こすことが出来なかった。そこで、たとえ石の宮殿が未完成でも、二神の霊はこの石に籠もって永劫に国土を鎮ようと言った。以来、この石の宝殿は石乃賓殿、鎮の石室と呼ぶようになった、という。

石の宝殿
石の宝殿

 このあたりは、全山が竜紋岩質熔結凝灰岩でできている。9700万年前にマグマが地下から一定の時間差をおいて不定量づつ噴出したものだそうで、その時に堆積した面は比較的柔らかい。その箇所を削れば岩体が簡単に確保される。石の宝殿も岩山を削りこんで現在の形状に作られたのであろう。この大石の用途については、さまざまな説がある。家形石棺、ゾロアスター教の水の祭壇、石槨(骨蔵器の収納施設)、斉明帝の陵墓説などである。下部に彫り込みがあるところから、この石を拝殿側(東側)に倒すべく、工事されたようである。石を倒すと、現在上部にある穴は前を向くことになり、一体型の家形石棺になると思われるが、工事を完成させることなく未完成のまま放置された。

石の宝殿の存在は、奈良時代の初めにはすでに知られていた。『播磨国風土記』の印南の郡大国の里の條にも、「原の南に石の造作物がある。その形は家屋の如くで、長さは二丈、巾は一丈五尺で、高さも同様である。その名号を大石という。いい伝えによると、聖徳の王の御代に弓削大連(物部守屋)が作った石である」とある。なぜ物部守屋が出てくるのかわからないが、守屋は587年に殺されている。彼の死で工事が中断されたとでも言いたいのだろうか。




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