前日の昼過ぎから降り出した雨は、夜半を過ぎても屋根の瓦を叩いていたが、明け方には止んでいた。だが、天気予報では本日は一日中ぐづついた天候だという。確かに、朝から雨雲が重く空一面に広がっている。それでも今回の会の参加は事前に申し込んでおいたので出かけることにする。集合場所は、近鉄上本町駅から徒歩3分のところにある「ホテルアウィーナ大阪」。9時30分の集合時間より20分ほど早くついた。
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| 講師の甲陽学院高校教諭・山内英正氏 |
参加者の人数は知らされていなかったが、観光バスが2台待機していたから100名くらいの団体にはなっていただろう。一号車を指定されたので乗り込むと、すでにほとんどの席が埋まっていた。前の方の老人の隣が空いていたのでそこに座る。道中の雑談で知ったのだが、老人の名は山下某、年齢78歳、住所は斑鳩の法起寺の近所で、現在は畑仕事をしながら悠々自適の毎日らしい。若い頃の職業は明かさなかったが、斑鳩で大工か左官の仕事をしていたと思われる。法隆寺の昭和の大改修に参加したとかで、自分が修理したところがユネスコの世界遺産に登録されているのは嬉しいと、得意げにもらす。
今回で291回を数える「万葉の大和路を歩く会」には、創設されたころから参加していたらしい。犬飼孝氏の元気だったころの話も何回か出た。現在、高校生と中学生の二人の孫がいるが、孫も大きくなると可愛くないと率直な意見を漏らして、好々爺らしくにっこり笑う。
明石海峡を睨む五色塚古墳
最初に訪れたのは、神戸市垂水区五色山4丁目にある五色塚古墳である。千壺古墳ともいう。4世紀の終わりから5世紀の初めごろに築かれた兵庫県下最大の前方後円墳で、隣に陪ちょうの小壺を従えている。墳丘の大きさは、主軸調194m、後円部径125m、高さ18m、前方部幅81m高さ11.5mで、周囲に幅約10mの濠を巡らしている。三段築成で、下段の斜面には小さな石を、中段と上段の斜面には大きな石を葺いてあり、さらに、墳頂と2段の小段には鰭付き円筒埴輪や朝顔型埴輪などを巡らしてある。 墳頂に立って周囲を見回すと、麓は新興住宅地ですっかり埋め尽くされているが、前方部は南に向かって開き、まるで明石海峡を往来する船舶をすべて監視しているようにすら思える。垂水区と淡路島を結ぶ明石大橋がすぐ近くに架けられたのも理解できる。このあたりが海峡のもっとも狭い部分なのだ。
いずれの墳墓は、築造当時はこのようにむき出しの人工構造物として周囲を圧倒していた。築造に要した労力のすごさ、そして死してなおその権力を一族に誇示したかった被葬者の執念、そうしたものは木立に覆われた天皇陵からは伝わってこないが、実際は五色塚古墳を眺めることで、すこしは分かったような気がする。 |
人麻呂山月照寺と柿本神社
明石には東経135度の子午線が通っている。日本の標準時間はこの位置で太陽が南中した時刻を正午としている。その子午線の真下に、明石市立天文科学館の燈台を思わせるような建物が建っている。その脇に、八幡鳥居をくぐって人麻呂山月照寺と柿本字神社に登る石の階段がある。階段を上りきると、そこは展望台になっていて、天文科学館の建物越しに明石海峡や明石大橋、そして長々と横たわる淡路島の島影を眺めることができる。
柿本神社は、万葉歌人”柿本人麻呂”を祀った神社で、明石では、最も有名な神社である。だが当初からこの地に築かれたのではなく、最初は現在の明石城のあたりにあった。幕府の肝入りで小笠原忠真が明石城を築くことになった1617年(元和3)に、現在の場所に移築されたという。1871年(明治4)の神仏分離令で隣の月照寺からも分離された。
柿本人麻呂を祀る神社だけあって、さすがに万葉歌碑が多い。参道の階段脇にある小さな公園の入り口には、次の歌の歌碑が建っている。
柿本神社の西隣には、曹洞宗人麻呂山月照寺が建っている。山門脇の説明板によれば、811年、弘法大師・空海が楊柳寺を建立したのがこの寺の始まりとされている。887年、大和の国の柿本寺から観音菩薩を勧請し、柿本人麻呂の祠を建てたとのことである。本堂内にその11面観音像が安置されているそうだが、拝見する時間がなかった。月照寺の山門は1618年、小笠原忠政が徳川秀忠から伏見城薬医門を拜領したものを、明石城の切手門としていたが、明治になって1873年に月照寺に移したものである。 |
印南野:加古川と明石川の二つの川の間に広がる平野
次にバスを降ろされたのは、江井ヶ島海水浴場である。この辺りは、明石市の浜の散歩道として、7kmに及ぶ護岸敷を整備した海岸沿いの風光明媚な散歩道が走っている。江井ヶ島海水浴場あたりは、道路沿いに植えられたパームツリーが南国気分を演出している。 江井ヶ島の語源を記した石碑が、海水浴場の入り口に建っている。それによれば、昔、漁港にエイが入ってきて暴れまわり、漁民が困っていたところ、偉い僧侶がエイに酒を飲ませ、満足したエイが海に帰ったとの言い伝えから、「江井ヶ島」と呼ばれるようになったという。江井ヶ島漁港は、行基が開いた歴史ある港とされている。江井ヶ島海水浴場の東側には、明石原人が発見されたことで知られる屏風ヶ浦である。波に洗われた古代の地層が露出して切り立った断層が屏風のように見えるところから、この名が付けられており、世界で最も古いタイプの象・アカシゾウの化石も、ここで発掘されていいる。
兵庫県の加古川と明石川の二つの川の間に広がる平野を、昔は印南野(いなみの)と呼んだ。「播磨国印南郡の野」の意である。726年(神亀3)10月7日、聖武天皇が印南野に行幸した事が、『続日本記』に記録されている。万葉集には、印南野を読み込んだ歌が数首収録されている。たとえば、巻6には山部赤人が詠んだ次の長歌一首と反歌三首が載っている。 |
住吉神社
山陽電鉄本線の「山陽魚住」駅から海岸方面に向かうと住吉公園があり、その中に住吉神社が鎮座している。摂津の住吉神社の三神は、航海守護、国家鎮護、祈雨の神として摂津はおろか、播磨、長門にまで及んでいる。ここの神社は、祭神として住吉三神と神功皇后を祀っている。 この神社の参道は浜辺から参拝できるように海に向かって延びている。気が付くと拝殿も海に向かって建っている。難波から西国に船で下るとき、この辺りで生駒山系も波間に沈んで見えなくなるのであろう。
柿本人麻呂も築紫に海路で下るときに、次の歌を詠んでいる。 |
高砂神社
加古川を渡ると、祝宴の席で“たかさごや〜”と唄われる謡曲「高砂」の発祥の地である高砂市に入る。謡曲の原形は世阿弥作の能で、物語は肥後国の神主が都に上る途中、この付近で休んでいると老人夫婦が現われ、「相生の松」のいわれを語るというものである。「相生の松」は雌雄一体の珍しい松で、「相生まれて相老いるまで」ということで夫婦和合、長寿繁栄を祈る尉姥(じょうとうば)として親しまれています。この松は高砂神社にあり、現在の松は五代目だそうだ。 高砂神社は、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫(くしなだひめ)、大己貴命(おおなむちのみこと)の三神を祀る。
社伝によれば、神功皇后が三韓に出兵した時、大己貴命が我が軍の先鋒となって進み、三韓を臣従させた。皇后が凱旋して、鹿子水門(かこのみなと)に停泊したとき、大己貴命は、ここに停まり国土を守りたいと告げたので、当地に社殿を建立して祀ったのが始まりだという。その後、円融天皇の天禄年間(970〜972年)に疫病が流行し、神職の神託を得て素盞嗚尊と奇稲田姫を合祀したところ、疫病が治まったという。そのため古来より、朝廷、国司、武将などの崇敬も厚く、室町時代には赤松家から神田十二町余りが付け置かれ、近世になると豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、当地で戦勝を祈願したと伝える。 |