平成15年2月16日

第1回高取町文化講演会を聞く

高取町リベルテホール

高取町リベルテホール

  古代の官道である紀路(きじ)は、吉野や紀州と飛鳥を結ぶメインストリートだった。現在は、国道169号線ができたこともあり、ほとんど寂れてしまったが、近鉄吉野線の「飛鳥」駅前から、南西方向に延びている。飛鳥時代の砦跡と終末期の古墳が、佐田丘陵から派生する尾根の上で最近発掘された。紀路を眼下に見下ろす位置にある。

  その発掘調査報告が本日あるというので、高取町リベルテホールへ出かけた。行くまで知らなかったが、発掘調査報告は、第1回高取町文化財講演会の中の一部だった。リベルテホールは多目的ホールで、高取町がさまざまな催しものを行なう目的で建設した文化施設である。本日の講演会は500人を収容する大ホールで行われたが、立ち見が出るほど聴講者が多かった。

  講演会は二部構成になっていた。第一部は森カシ谷遺跡の調査、第二部は高取城跡の保存と活用というタイトルが付いていた。第一部では、発掘調査報告の後、京都教育大学教授の和田萃氏の「森カシ谷遺跡の歴史的背景」と題する講演があった。第二部では、高取城跡の現況報告の後、橿考研付属博物館長の河上邦彦氏が「高取城跡の発掘調査と転用石材について」と題して、古墳の石が転用されているいきさつを講演された。いずれの講演も、興味ある内容だった。


森カシ谷遺跡

  森カシ谷遺跡は時代が異なる複合遺跡であるが、注目されるのは飛鳥時代の砦と推測される1号墳と、天武天皇の子女を埋葬したと推測される2号墳である。その他にも中世の柱穴群遺構や木棺墓なども検出されている。
発掘現場遠景 森カシ谷遺跡全景
発掘現場遠景 森カシ谷遺跡全景

  1号墳は、頂上部に掘られた土壙、丘陵の先端部に建てられた掘っ立て柱建物跡、丘陵を取り囲む柵(さく)などから構成される。築造されたのは670年前後と推定され、高取町教育委員会は、望楼または砦のような施設だったとしている。和田萃・京都教育大教授は、和歌山方面に抜ける紀路が遺跡のすぐ横を通ることに注目され、講演の中で、「人や物資が飛鳥京から流れるのを管理する施設。関所のような役目を持っていたのではないか」と話した。また背景として、斉明天皇が行った土木工事や藤原京の造営を挙げ、労役から人々が逃げ出すのを防いだ可能性を指摘された。

   一方、頂上部の土壙は、東西4m、南北3m、深さ2.2mで、穴の中や周囲でも柱穴が見つかっていることから、貯蔵施設か塔のような建物だった可能性が指摘されている。これに対して、河上邦彦氏は後の講演の中で、「頂上部の土壙はのろし台であり、穴の中にシバや生木を貯蔵し、いつでものろしを上げられるようにしていたのでは」との見解を示された。

頂上の土壙 排水溝跡
頂上の土壙 排水溝跡

   2号墳は1号墳の南斜面に築かれた終末期の円墳で、墳丘は削り取られているが十字形の排水溝跡など下部構造が見つかっている。当時の古墳の築造法を知る上で貴重な発見である。古墳の規模は径14m程度で、排水溝跡(幅60センチ)は円墳の中心をずらして十字に交差し、水はけを良くするため砂利石を敷いていた。高松塚、キトラ古墳とほぼ同時に造られた墳墓で、被葬者として天武天皇の子女などが候補にあがっている。



高取城の石垣に転用された古墳の石室

  標高583.9mの高取山頂に、日本一の山城とされる高取城がある。大和高市一帯を治める豪族・越智一族が、南北時代に築いた「カキ上ゲ城」と呼ばれる山城がその始まりである。桃山時代、秀長の命で本多正俊が見事な石塁や天守閣を持つ白く輝く城郭に改築した。本多氏が断絶した後、寛永17年植村家正が25000石の大名として城に入り、幕末まで植村氏の高取城として続いた。その城の石垣に、多くの転用材が使われているというのだ。しかも、それが終末期古墳の石室の石材だというのだ。

 
高取城の石垣
高取城の石垣
橿考研付属博物館長の河上邦彦氏は、その講演の中で、昭和45年に初めて高取城に登った当時、石垣に転用材が多く用いられているのに気付き、それが切石古墳の石材であることを見抜かれたという。その後の調査で、およそ300個の転用石があり、しかもそれは7世紀前半までに築造された切石古墳の花崗岩からの転用だと判明した。7世紀後半になると古墳の石室に凝灰岩が用いられるようになるが、凝灰岩の転用石はない。

  切石古墳としては、岩屋山古墳が知られている。この規模の古墳を採石の対象とした場合、50個以上の角石を取ることが可能であるが、岩屋山古墳ほど多くの石を使っていない石室もあったはずであろうから、5〜10基の切石古墳は高取城築城のために破壊されたと、氏は推定される。そして、その対象となった地域の一例として、橿原市五条野をあげられた。この地域では、宮ケ原遺跡をはじめとして、5基の古墳の残骸が確認されているという。

  さらに、自然石で造営された古墳の石室から石を持ち出し、それを割って石垣に積まれた可能性もあり、そうなると高取城築造の犠牲になった古墳の石室の数は計り知れない。氏が最後に「飛鳥の古墳時代を問題にするとき、常に犠牲になった古墳の存在を忘れてはならない」と付け加えられた一言は、実に印象的だった。


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