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奈良交通(株)が主催する万葉の大和路を歩く会の第290回「矢田の野から嘆きの平群谷へ」に参加。集合場所は近鉄郡山駅バスターミナル 9時30分。天候 晴れ、無風。講師は古代民俗研究所の大森亮尚(あきひさ)氏。 |
矢田山金剛山寺(通称、矢田寺)
【所在】奈良県大和郡山市矢田町3549 「万葉の大和路を歩く会」がチャーターした3台のバスは定刻より5分ほど遅れて近鉄郡山駅バスターミナルを出発。筒井順慶の居城だった郡山城跡の前を通り、市街地を一路西に向かう。その先には矢田丘陵が長々と視界を遮っている。富雄川を渡って県道189号線をさらに西に進み、「矢田寺」バス停で下車。 このあたりは古代の「八田の野」であるという。丘陵の斜面がどうして野原なのか不思議に感じたが、大森氏の解説によれば、古代には山の斜面を「野」と呼んだとのことだ。万葉集の巻10には、八田の野を詠んだ次の歌が載っている。 矢田山金剛山寺(通称矢田寺)は八田丘陵の東斜面の中腹に建てられた名刹である。縁起では、白鳳4年、天武天皇が智通僧上に勅して、この地に七堂伽欄48カ所坊を造営させたのが、当山の開基であるという。当初は十一面観世音菩薩と吉祥天女を本尊としていたが、弘仁年間に、満米上人により延命地蔵菩薩(重文・藤原初期)が安置されて以来、地蔵信仰の中心地として栄えてきた。この地蔵菩薩の様式が少し変わっている。錫杖(しゃくじょう)を持たず右手は阿弥陀仏の印を結ぶ類のない様式で「矢田型地蔵」と呼ばれている。参道の左にはあじさい園があり、別名「あじさい寺」として親しまれている。花どきは夢のような色が境内を染めあげるという。
矢田寺は天武天皇の勅願寺であるが、この後に訪ねる松尾寺も舎人(とねり)皇子の草創縁起に基づく寺である。なぜ天武系に関係した寺が二つもこの地にあるのか不思議だった。その理由を後で大森氏が説明してくれた。『日本書紀』によれば、壬申の乱に勝利した天武天皇は、とりあえず飛鳥浄御原を宮処としたが、新都計画に熱心で、天武5年(676)、新城(にいき)に都を作ろうとし、新都の範囲に含まれる田園は公私を問わず耕作を禁じた。天武11年(683)には、三野王らに命じて造都の準備のため地形を観察させ、自らも現地に行幸している。 その新都造営計画の対象となった新城とは、大和郡山市新木(にき)町で現在の郡山城跡あたりだという。しかし、どのような事情があったのか不明だが、この遷都計画は挫折してしまった。しかし、矢田丘陵の東側に広がる地域は、天武天皇の関心を引きつけた何かがあったことだけは事実のようだ。その地に勅願時があっても不思議ではない。 |
国見展望台
矢田寺から次の目的地である松尾寺に行くには、近畿自然歩道として整備された山道を南に向かえばよい。矢田寺を出発してしばらくは、竹林や杉林の中を平坦な山道が続き、淡い冬の太陽の光が歩道一杯に散乱している枯葉の上に注いでいて、歩いていても気持ちがよかった。しかし、途中の谷川にかかる木の橋をすぎると、歩道は急勾配の坂道となって松尾山の頂上へと続いている。 松尾山は大和郡山市と生駒郡との境に位置し、海抜315.4mで、これより南は急に低くなり、法隆寺・竜田付近では平地となっている。頂上に登るわけではないが、それでも自然歩道の脇にある国見展望台は290mの高さにある。急峻な坂道を休憩もとらずに登るのはかなりきつい。途中で何回も上を見上げて「まだ上り坂が続くのか」と確認するが、そのたびに参加者の長蛇の列が続くのが目に入るばかりだ。 息も絶え絶えになって尾根の平坦な場所まで上り詰めると、そこに大和平野を見下ろす物見櫓のような展望台があった。幸い風もなく穏やかな日なので、ずいぶんと遠くの山並みまで見通すことができる。展望台には主な山の位置と名前がイラストで貼り付けてあったので、大和平野の東に連なる連山を確認できた。天武天皇が新城に遷都していたら、おそらく松尾山をこのあたりまで登ってきて国見をしたにちがいない。それほどここからの大和平野の眺望はすばらしい。> 大森講師は、なぜ古代の天皇が国見をするのか説明してくれた。面白い説だったので以下に示す。 先ず、天皇とは天照大神から連綿と引き継いできた天皇霊と天皇が支配するヤマトの霊の二つを内在魂として持っている存在であるという。霊魂信仰では、霊魂はじっとしていると腐ってしまうとされ、ときどき振動を与えたりゆらしたりして活性化する必要がある。これを「たまゆら」とは「たまふり」と呼んでいる。国見とは天皇が行なう国事行事で、一望に国全体を見渡せる場所に登って、眺めの良い景色に感動することで、外在魂を体の中に呼び込み、内在魂を活性化する。あるいは天皇の中の古いヤマト魂を新しいヤマト魂と入れ替える。これが国見の本来の目的であるという。
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松尾寺
【所在】奈良県大和郡山市松尾山 国見展望台から八田丘陵の尾根づたいに南に縦走する近畿自然歩道は、下り道である。比較的緩やかな下り道が長々と続くが、松尾寺の近くでは、急に傾斜が増す。ちょうど松尾寺の裏山あたりに出てきた感じで、眼下に寺の駐車場が広がっている。駐車場の脇にある山門をくぐると、長い登りの石段が続き、石段を登りきったところに本殿がある。 松尾寺は松尾山の中腹に位置する。松尾山真言宗補陀落山と号す。縁起によれば、養老2年(718)、天武天皇の皇子・舎人親王(とねりしんのう)が42歳の厄年だったので、『日本書紀』の無事完成と厄除けの願いをかけて建立した日本最古の厄除け霊場である。親王が松尾山に参籠して修行した2月初めの午の日、東の山に紫の瑞雲がたなびき、千手千眼観世音菩薩が天下ってきたという。この観音菩薩像は本寺の本尊になっている。こうした縁起によって、国運隆昌・国体安穏を祈祷する勅願寺として、歴代皇室から尊崇されてきた。現在では、毎年2月と3月の初午・二の午・三の午の日は厄除け、開運を祈願する「まつのおさん」詣りの人々で賑わうという。
重要文化財に指定されている本堂は、軒下に5色の幕を巡らし、まことに華やかである。厄除け祈願の赤い布を胸に垂らした参拝者で結構なにぎわいを見せている。本堂脇には三重塔への階段があり、階段の上には梢に囲まれて色鮮やかに映える朱色の塔が聳えている。三重塔の脇からさらに上に続く道がある。松尾山神社へ続く参道である。養老年間に鎮守として勧請された松尾大明神を祀っている社であるが、寺の境内の賑やかさに比べて、ここは意外なほど静まりかえっている。本堂の裏手にある神社の参道に腰掛けて昼食をとる。時折境内に鳴り響く鐘楼の鐘の音が深山にこだまするのを聞くと、心まで洗われる思いがする。 |
三里
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| 三里古墳の石棚 |
【所在】平群町三里958番地
【アクセス】近鉄平群駅より、徒歩10分
三里古墳は、矢田丘陵より西に延びる尾根上に築かれた古墳である。松尾寺から三里古墳へ行くには、寺の裏山を少し登って尾根を越えなければならない。尾根まではまた急な上り坂が続くが、岩山を切り開いて作った回廊のような場所をすぎると、今度は延々と下り坂が続く。登り道は心臓に負担がかかるが、下り道は足のつま先によほど神経を集中しないと滑って転倒しそうだ。木々の梢に遮られて見ることはできないが、山道は矢田丘陵と生駒山系の間にある平群谷へ下っている。途中で、山間の白石畑(しらいしばた)の集落を抜け、棚田のあぜ道を通り、どんどんと下っている。
平群と書いて”ヘグリ”と読む。ヘグリはエクリから転化した言葉で、もともとは山の重なっている様を表した言葉であるとのことだ。平群谷はかっての古代豪族・平群氏が本拠とした土地である。平群臣真鳥(まとり)は、天皇家を凌駕するほど勢力を誇った。だがその子のシビが恋人の影姫を巡って武烈天皇に殺害されてしまう事件があってから、氏族としては衰退してしまう。
三里古墳は、矢田丘陵を下りきって、平群谷を南北に走る国道168号線を渡った集落の中にある。太平洋戦争後に上部を失い、また周囲が耕作地化されてしまったため、古墳の形状ははっきりしないが、発掘調査により全長35mの前方後円墳もしくは直径22mの円墳と考えられている。 主体部は横穴式石室であるが、削平されているため天井石も側壁石の上部存在しない。発掘調査の結果、玄室長4.9m,玄室幅2.4m,羨道長7m,羨道幅1.3〜1.4mだったことが判明している。玄室内部に組合式家形石棺、蒼ケに組合式箱型石棺、玄室東側と蒼ケ前部に木棺、石棚上下にも木棺が安置されていたという。
三里古墳は石棚を持つ古墳である。この種の古墳は全国に約140基あるが、奈良県は三里古墳,岡峯古墳,槇ケ峯古墳の3基だけである。岡峯古墳と槇ケ峯古墳は紀ノ川上流にあり、和歌山の古墳と同じく結晶片岩を用いている。さらに、石室形態が和歌山の古墳に類似していることなどから,紀氏との関係が推測されている。しかし、三里古墳の石棚は花崗岩であり、形状も大きく、しかも床面からわずか50cm程しかないなど、これら二基の古墳とは異なっている。
発掘のとき凝灰岩製の組合せ家形石棺の周囲から、金銅装鐘形杏葉(ぎょうよう)鏡板(かがみいた)を用いた豪華な馬具や、金銅装ハート形鏡板のやや実用的な馬具、土器類、武器類、ガラス玉などが出土した。出土遺物より6世紀後半〜末頃の築造と考えられている。
長屋王墓
【所在】平群町 梨本 字前 758番地 三里古墳からすこし下った集落の中に、長屋王の墓がある。天武天皇の長男で壬申の乱で活躍した高市皇子のそのまた長男である。父の高市皇子が、持統天皇の時代に太政大臣という最高位についたことで、長屋王も政界のサラブレットとして小さい頃から将来を嘱望された。しかも、文武天皇の妹の吉備内親王を妻とし、奈良時代の初めのころは藤原不比等とともに政界の重きをなした皇親政治家だった。 720年に藤原不比等が死んだ後、724年(神亀元年)には聖武天皇のもとで最高職の左大臣に就任し、良田100万町歩開墾計画や、三世一身の法などを実施した。しかし、藤原氏の光明子の立后を阻止したことから、不比等の後を継いだ武智麻呂を筆頭とする藤原一門と対立するようになった。そして、729年(神亀6年)2月10日、長屋王は左道(邪学)を学び国家を傾けようとしているとの密告によって、邸宅を囲まれ、夫婦と4人の皇子と共に自害に追い込まれた。世に言う「長屋王の変(長屋王事件)」である。 飛鳥地方の天皇陵や皇族の墳墓を見慣れたものには、長屋王の墓はいかにも貧弱に見える。直径15m程度の円墳にすぎず、近くに葬られている吉備内親王の墓よりも小さい。我が国の古代においては、皇族といえども犯罪者は墓に葬ることが許されず、死体は路傍にうち捨てられたとのことだ。しかし『続日本紀』によれば、長屋王の場合は、その後疑いが晴れたため夫婦の遺体が生駒山に埋められたとのことである。近世の資料に、平群梨本(なしもと)の2つの塚が夫婦の墓との伝承があった。明治34年頃、伝承に従って現在の墳墓を長屋王墓に治定され墓域が整備された。現在は宮内庁がこの墓を管理している。長屋王が自決したのは、旧暦2月12日である。その命日にあたる3月20日前後に、宮内庁は長屋王正辰祭(しょうしんさい)をと行っている。 長屋王は、著名な皇親政治家であると同時に、道教思想に心酔した当代随一の文人でもあった。『懐風藻』には長屋王の詩が三首を収められている。万葉集には五首の歌が残っている。その中に、長屋王が生前詠んだ次の歌がある。 |
吉備内親王墓
【所在】平群町 梨本字前 773番地 長屋王妃の吉備内親王は、729年(神亀6年)2月10日、夫の長屋王が謀反の疑いで共に館を囲まれ、夫と4人の皇子達と共に自害して果てた。その墓が長屋王墓の北西約150mの住宅に囲まれた丘陵斜面にある。方形の石垣と生垣で囲まれた陵墓で、南側に長い石段の参道が取り付いている。生け垣の中をのぞき込むと、赤茶けた大地に樹木が数本手入れもされないまま放置してある塚がある。 この直径20m、高さ2m程の円墳が、明治34年に吉備内親王の墓であると治定され、現在宮内庁で管理している。管理しているといっても、上記のように塚を石垣と生け垣で囲ってあるだけだ。墓守の小屋が近くにあるわけでもない。韓国では、どの陵墓を見ても、饅頭のように芝が植えられていて樹木など一本もない。日本の墳墓は全体に樹木が繁茂していて、古墳なのかそれとも単なる岡なのか区別がつかない。皇室の先祖を敬うのであれば、宮内庁はもう少し古墳の管理方法を考えるべきであろう。 明治時代に行われた調査では、埴輪の残骸墳丘の上に多く残っており、また巨石が鍵の手に埋っていたそうである。そうしたことから、吉備内親王墓の主体部は横穴式石室ではないかと推定されている。 |