平成14年9月8日

万葉の大和路を歩く会 - 「まうら悲しも越智・真弓の岡」に参加


講師の富田敏子女史
講師の富田敏子女史

 奈良交通(株)が主催する万葉の大和路を歩く会の第286回「まうら悲しも越智・真弓の岡」に参加。集合場所は近鉄橿原神宮前駅中央口。講師は万葉の大和路を歩く会代表の富田敏子女史。バスで越智の交差点近くまで行き、そこから光雲寺の境内を通ってまず斉明天皇陵まで越智丘陵を上り、後は以下のコースで歩き、所定のスポットで持統天皇や草壁皇子に関する万葉歌を解説して貰うことになっている。午前9時30分、約110人の参加者が3台のバスに分乗して高取町越智へ向かう。

[注]今回のコースは、橿原神宮前駅→(バス)→高取町越智→光雲寺→尾根道を徒歩で斉明天皇陵・間人皇女墓→大田皇女墓→真弓岡宮天皇陵→束明神古墳→マルコ山古墳→岩屋山古墳→近鉄飛鳥駅を巡る設定になっており、このうち徒歩の部分は約9kmであった。しかし、マルコ山古墳と岩屋山古墳は今までに何回も訪れており、以下の記述では割愛してある。


越智山光雲寺

 所在:高市郡高取町大字越智小字南西久保

 越智山光雲寺は黄檗宗の寺で、越智氏の菩提寺である。室町初期に京都大徳寺の義天が創建したと伝え、もとは興雲寺と称していた。越智氏が没落したあとは寺も衰微したが、天和年中(1681-84)に鉄牛が来住し、越智氏の石碑8基を改装し復興に務めたという。元禄11年(1698)天湫によって再興されてからは、光雲寺と称している。

 光雲寺の前には、それは見事な杉の老木がある。樹齢千年の厄除け杉である。

光雲寺の山門 厄除け杉
光雲寺の山門 厄除け杉

斉明天皇陵

 斉明天皇陵は高取町車木からアクセスするのが普通である。車木の集落から斉明天皇陵がある越智岡の頂上付近までは石畳の階段が整備されている。そもそも車木という地名は、斉明天皇葬送霊車が来たりて止まったところ、すなわち車来であったとする地名紀元説話すらある。

越智崗上陵
越智崗上陵

 今回はコース設定の都合で、光雲寺の裏山から尾根づたいに天皇陵のある越智岡を上ることになっていた。小学生が遠足で登れる程度の山道だからこのルートを選んだとのことだが、熊笹が道の両脇から延びてきて、細くて結構険しい山道である。100名以上の参加者が踏みつけたために、かろうじてそこが道であることがわかる。しかも昨日降った雨で湿った山土に足がすくわれそうだ。尾根の頂上に達すると結構アップダウンのある道が続き、やがて石の柵で囲われた一角が見えてくる。そこが斉明天皇陵の裏側である。

 陵の傍に掲げられた宮内庁の標識によれば、この陵は斉明天皇と孝徳天皇の皇后・間人皇后を埋葬した越智岡上陵と天智天皇の皇子・建王墓となっていて分かりにくい。この墳墓の被葬者を理解するには、すこし歴史的な背景を知らなければならない。

 波乱の人生を生きた斉明天皇は、百済救援のために九州に下向した斉明7年(661)7月、朝倉宮で崩御した。68歳の高齢であった。大和からの長い船旅の疲れと、国運を賭けた百済救援の準備で心労が加わったのであろう。その年の10月、遺骸は皇太子の中大兄皇子に伴われて大和に帰還した。殯の宮は飛鳥川の河原に営まれた。それより先、斉明4年(658)5月、孫の建(たける)皇子が8歳で死んだ。天皇はこの孫を溺愛していたのであろう。それだけにその死に対する悲しみはひとしおだった。『日本書紀』には皇子の死を悼む和歌が3首掲載されている。さらに「わが死後は必ず二人を合葬するように」と群臣たちに詔を発している。

 だが、老いた女帝の願いは聞き入れられなかったようだ。合葬されたのは建皇子ではなく、斉明天皇と舒明天皇の間に生まれた娘で孝徳天皇の后だった間人皇女だった。間人皇女は中大兄皇子の同母妹である。孝徳天皇に嫁いだものの、皇子とは道ならぬ恋にあったと噂される女性だが、天智天皇4年(665年)に薨去している。その2年後の天智天皇6年(667)、『日本書紀』は斉明天皇と孝徳皇后を小市岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)に合葬したと記している。2月27日のことである。この記述が正しければ、女帝と一緒にこの陵に合葬されたのは孫の建皇子ではなく、娘の間人皇女ということになる。上記の宮内庁の標識に、天智天皇の皇子・建王墓と併記してあるのは、おそらく『日本書紀』の深読みのせいであろう。


大田皇女の越智崗上墓

大田皇女の越智崗上墓
大田皇女の越智崗上墓

 天智天皇の皇女であり天武天皇の妃であった大田皇女を埋葬した墓は、斉明天皇と間人皇女の合葬陵の前に位置している。大田皇女が何時亡くなったかは不明である。だが、斉明天皇や間人皇后と同じ日に埋葬されているから、天智天皇6年(667)以前であることは確かだ。『日本書紀』は、天智天皇6年2月27日のこととして、「斉明天皇と妹の孝徳皇后を小市岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)に合葬した。この日皇孫大田皇女を陵の前の墓に葬った」と伝える。現在は小市岡を越智崗と表記する。

 その麓に「車木」という集落がある。高取町に属する小さな集落であるが、もとは「車来」と書いたそうだ。地名の起源は、”斉明天皇葬送霊車が来て止まる所”から来ているという。天智天皇6年(667)2月27日に運ばれてきたのは、天皇の母である斉明天皇の霊車だけではない。天皇の妹の間人皇女や娘の大田皇女の霊車もこの岡の麓まで運ばれてきた。遺体を入れた棺はそこから急な山道を人手で運ばれてそれぞれの墓に埋葬された。埋葬には当然のことながら、天智天皇自身も立ち会ったことであろう。

 彼の胸にはどのような思いが去来したであろうか。一度に母と妹と娘を埋葬することなどめったにあることではない。埋葬の儀式は、近江遷都の準備で忙しい最中に行われた。この日から1ケ月足らずの3月19日、都を近江に移した。天下の人民は遷都を喜ばず、童歌を作って諷刺するものも多く、また飛鳥では夜となく昼となく出火することが多かったという。

 大田皇女は、中大兄皇子と蘇我倉山田石川麻呂の娘・越智娘(おちのいらつめ)の間に生まれた三人姉弟の長女である。下に鵜野皇女(のちの天武天皇の皇后、持統天皇)と658年5月、8歳で亡くなった建(たける)皇子がいる。大海人皇子(後の天武天皇)の妃となり、大伯皇女と大津皇子を生んだが、667年以前に亡くなった。正確な死亡時期は不明である。

 大海人皇子が壬申の乱で勝利し、天武天皇として皇親政治を行ったころまで生きていれば、鵜野皇女ではなく大田皇女が皇后の位についたはずであり、大津皇子も自害に追いやられることなく天武天皇の後を継いだであろう。そうであれば、その後の日本の歴史はもっと様変わりした様相を呈したにちがいあるまい。大田皇女の死は、一人の女性の死が歴史の歯車を狂わせることになった典型的な一例といえる。


岡宮天皇真弓丘陵

草壁皇子の真弓丘陵
草壁皇子の真弓丘陵

  草壁皇子を埋葬したとされる真弓丘陵は、奈良県高取町の佐田集落の南にある。集落の中ほどに高取市の観光マップのイラストを描いた看板があり、その看板の左手の段々畑の中腹にある白い鳥居が見える。そこが墓所である。

 草壁皇子は、大海人皇子(後の天武天皇)と鵜野皇女(のちの持統天皇)の子として、662年筑紫の那大津(なのおおつ)で生まれた。百済救援軍を派遣するために、斉明天皇をはじめとして大和朝廷の機能を九州に移し、水軍派遣の準備をしていた最中である。鵜野皇女には夫の大海人皇子の妃となっている実姉の大田皇女がいた。しかし、壬申の乱(672年)で夫の大海人皇子が勝利したとき、大田皇女がすでに死亡していたので、自分は皇后の位についた。皇后になった鵜野皇女は草壁皇子を次期天皇にすることに母親としての執念を燃やした。『日本書紀』によれば、天武10年(681)に草壁皇子を皇太子にしたと伝える。だが、大田皇女が生んだ大津皇子が成長し、度量の大きい人物として朝臣全体の期待を一身に集めるようになってきた。大津皇子は草壁皇子より1歳年下ではあったが、彼女の野望の前に立ちふさがる存在として大きくクローズアップされてきた。

 686年9月、天武天皇が崩御すると、鵜野皇女はただちに謀反の罪をでっちあげて大津皇子を自害に追い込んだ。時に大津皇子24歳。だが何故か草壁皇子の即位はすぐに行われず、鵜野皇女が前天皇の皇后として政務をとった。これを称制という。おそらく皇太子が虚弱な体質だったため、健康の回復が待たれたのであろう。だが持統称制3年(689)4月、皇太子のまま28歳で薨去した。鵜野皇女は、草壁の遺児・軽皇子が成長するまでのつなぎとして、正式に皇位についた。持統天皇である。

 草壁皇子がいつ真弓丘陵に埋葬されかのかは不明である。草壁皇子を岡宮天皇と追号されたのは、天平宝字2年(758)8月のことである。孝謙天皇が淳仁天皇に譲位する際に、草壁皇子を岡宮御宇天皇と追号するとの記事が『続日本紀』に載っている。『延喜式』(諸陵寮)には”真弓丘陵、岡宮御宇天皇、在大和国高市軍、兆域東西二町、南北二町、守戸六烟”とあることから、ここが草壁皇子の陵墓とされている。だがこのあたりにはかつてスサノオノミコト神社の本殿があった。束明神古墳を草壁皇子の墓にあてる説がある。束明神古墳は、この集落を更に奥に入ったところにある春日神社の境内の中にある。

 


束明神古墳

束明神古墳
春日神社境内にある束明神古墳

  草壁皇子を埋葬したとされる真弓丘陵からさらに佐田集落の奥に進むと、突き当たりに円浄寺という民家か寺院か判別しかねるような寺がある。その寺の墓地の横から竹藪の間を春日神社の石段が続いている。百段ほど登ると拝殿があり、拝殿に接して小さな塚ある。それが束明神古墳である。

 束明神古墳の脇に、高取町教育委員会が立てた案内板があり、そこには以下のように記されている。
"この古墳は明治二十六年の野淵滝潜による「大和国古墳墓取調書」に初めて記され、その後「大和国高市郡古墳誌」等にも報告されているが、それほど目立った存在として取り扱われなかった。橿原考古学研究所では、高松塚古墳の調査後、終末期古墳の研究を進め、束明神古墳が後背部に大きなカット面を持つなどの特色から終末期古墳として注目してきた。こうした認識にたち、昭和五十三年に外形の実測調査を実施し、これをもとに各方面からの検討を加え、昭和五十九年四月十六日から発掘調査を行った。
調査は、由良大和古墳研究会の助成をうけて奈良県立橿原考古学研究所が高取町教育委員会と共同で実施した。
古墳は尾根の南側を直径約六十メートルの範囲で造成しその中央部に墳丘をつくっている。石槨の規模などについてもこれまで調査された終末期古墳に見られなかった大規模な物である。石槨の変遷、棺の構造、須恵器などから総合的に判断して、七世紀後半から末ごろと考えられ、また歯の鑑定結果は男女の性別は不明で、年齢は青年期か壮年期と推定される。
草壁皇子(天武天皇と持統天皇とのあいだに生まれた皇子)の墓である可能性が大きいといわれている。"

 ここは八角形墳といわれる横穴式石室で、そのレプリカが橿原考古学研究所付属博物館の敷地内にある。

 


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