平成14年7月17日

雨の中、山鉾巡行を見学する


山鉾1
放下(ほうか)鉾
山鉾2
南観音山

 朝のテレビニュースで、今日は京都市内で祇園祭のハイライトである山鉾巡行があると知った。この年になるまで、恥ずかしながら京都三大祭りを一つも見たことがない。だが天気予報では、関西地方は今日は曇り時々雨。しかし、意を決して出かけることにした。8時半にアパートを出た頃から雨粒が落ち始める。小倉駅付近で落雷のため信号機が故障したらしく、急行電車が途中からのろのろ運転に切り替わる。

 10時半、四条烏丸の交差点に立つ。すでに山鉾の巡行はスタートしている。小雨がちらつき路面が濡れている中を、大きな鉾や山が前掛の前に立つ二人の音頭取りのかけ声に合わせて、曳子たちが引き綱を引いていく。残念なのは、雨の巡行となったため、懸装品がビニールシートで覆われてその絢爛豪華な刺繍を直接見ることができない。

 京都市内の目抜き通りを巡行する鉾は巨大であるので”山鉾”と呼ぶのだと勝手に思っていた。だが、後で鉾と山とは違うことを知った。まず重量が違う。鉾は約12トン近くも重さがあるが、山は1.2トンから1.6トン程度である。次に高さが違う。鉾は随分高い真木を屋根に立てており、地上からの鉾頭までの高さは約25メートルに達する。だが、山の場合、真木が松の木で、高さは地上からせいぜい15メートル程度である。さらに、鉾は直径2メートルほどもある巨大な鉾車に鉾がのっかているが、山は担棒で担ぐ。しかし、山の中には曳き山もあり、その形態が鉾とほぼ同じものがあるからややこしい。

 山鉾巡行は「祇園祭」のハイライトで、全部で32本の鉾と山が祇園囃子にのせて、四条烏丸の交差点から出発し、河原町通り、御池通りを巡行してそれぞれの山鉾町に戻る。祇園祭は八坂神社の祭りで、7月1日の吉符入(きっぷいり)から29日の奉告祭まで約1カ月にわたって行われる。しかも祭りの起源は清和天皇の貞観11年(869)までさかのぼるという。その年、京洛に疫病が流行し、多数の死者が出た。これは牛頭天王(スサノオノミコト)のたたりであるとし、この神の機嫌を取るために、八坂神社の前進である祇園社を信仰し、病魔退散を祈願した。その方法として、日本全国の国の数に準じて66本の鉾をつくり、それを神泉苑におくり、悪疫を封じ込む御霊会を行ったのが始まりであると伝えられている。

 当初は祇園会と呼ばれ、疫病流行の時だけ不定期に行われたらしい。それが、円融天皇の天禄元年(970)からは、毎年行われるようになった。保元、平治の乱で一時途絶え、足利時代に再興され、さらに応仁の乱で再度途絶えたが、明応9年(1500)に再興されたという。鉾が今のような形になり、豪華な飾りを付けるようになったのは、桃山時代から江戸時代にかけて町衆が勃興し、交易で入手したゴブラン織りや西陣織などを競って用いるようになってからだとされている。なお、祇園祭は昭和54年、文化財保護法で国の重要民俗文化財の指定を受けた。


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