平成14年7月14日

万葉の大和路を歩く会 - 「せせらぎ響む飛鳥川・檜隈」に参加


講師の山内英正氏
講師の山内英正氏

 奈良交通(株)が主催する万葉の大和路を歩く会の第285回「「せせらぎ響む飛鳥川・檜隈」に、友人の吉川君を誘って参加する。集合場所は近鉄橿原神宮前駅中央口。講師は山内英正・甲陽学院高校教諭。バスで栢森(かやのもり)まで行き、そこから飛鳥川に沿って下りながら所定のスポットで飛鳥川を歌った万葉歌を解説して貰うことになっている。午前9時30分、約100人の参加者が3台のバスに分乗して栢の森へ向かう。

 [注]今回のコースは、橿原神宮前駅→(バス)→加夜奈留美命神社→宇須多伎比売命神社→南淵請安墓→飛鳥川万葉の石橋→朝風峠→文武天皇陵→於美阿志神社→近鉄飛鳥駅を巡る設定になっており、このうち徒歩の部分は約8kmであった。しかし、南淵請安墓、文武天皇陵、於美阿志神社は今までに何回も訪れており、以下の記述では割愛してある。


加夜奈留美命(かやなるみのみこと)神社

所在:高市郡明日香村栢森358
アクセス:近鉄橿原神宮駅から奈良バスで明日香観光会館前(石舞台)まで。飛鳥川沿い徒歩50分


加夜奈留美命神社
加夜奈留美命神社

 参加者を乗せたバスは朝風峠を越えて稲淵(いなぶち)に出ると、県道15号線(桜井明日香吉野線)を飛鳥川沿いに進み、栢森(かやのもり)の集落で皆を降ろした。県道をこのまま進めば芋峠を越えて吉野にでる。もう随分昔のことだが、マイカーを運転して寂しい峠道を越えたことがある。栢森の集落は、明日香村の南の最果てにある集落である。今にも周囲の杉山に飲み込まれそうな谷間の傾斜地に、しっかりとへばり付いている。加夜奈留美命(かやなるみのみこと)を祀る神社は、集落の東北の小高い森に鎮座する旧村社で、杉木立に囲まれてひっそりと建っている。境内の端に立つと、神社の脇を飛鳥川の支流が流れているのであろう。せせらぎの音が、かすかにしていた。

 祭神の加夜奈留美命は、国譲り神話で有名な大穴持命(おおなもちのみこと)の娘である。「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)」に、この神の名が登場する。出雲国造神賀詞とは、出雲国造が代替わりする時に、新任の国造が朝廷に出向いて奏上する祝詞の一種である。この祝詞によれば、国土を天孫に譲って出雲の杵築へ去るにあたって、大穴持命は、自らの和魂と子女の御魂を大和に留めて皇室の守護とすべき事を誓った。すなわち、自分の和魂を大物主櫛甕玉(くしみかたま)と称して大御和(三輪)に、阿遅須伎高彦根(あじすきたかひこね)を葛木の鴨の神に、事代主を雲梯(うなて)に、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備(神が鎮座する山や森)に、それぞれ鎮座させて皇室の近き守り神としたという。この祝詞以外には、加夜奈留美命について何の伝承も残されておらず、詳しいことは分からない。

 それにしても皇室の守り神を鎮座させたにしては、栢森はいささか遠方すぎる気がしないでもない。皇室守護の甘南備としてふさわしい場所が、飛鳥地域にはいくらでもある。あるいは、南方から芋峠越えで進入してくる敵を、その入り口で防ぐという意味あいがあったのかもしれない。天長6年(829)、飛鳥の甘南備は鳥形山に移されたが、その後も加夜奈留美命の本霊は旧地にとどまったものと考えられている。ちなみに、栢森の栢(かや)は加夜奈留美命の加夜から派生した地名であるとする指摘もある。


宇須多伎比売命(うすたきひめのみこと)神社

宇須多伎比売命神社
宇須多伎比売命神社

所在:高市郡明日香村稲渕698
アクセス:近鉄橿原神宮駅から奈良バスで明日香観光会館前(石舞台)まで。飛鳥川沿い徒歩30分


 宇須多伎比売命神社は、加夜奈留美命神社から飛鳥川の細流に沿って約20分ほど下った県道脇の宮山中腹に鎮座する旧村社である。この神社の正式な名前は、飛鳥川上坐宇須多伎比売命(あすかのかわかみにいますうすたきひめのみこと)神社という。境内にたどり着くには、胸突き八丁の急な石段と急なスロープの登攀を覚悟しなければならない。200段近い石段を登るのは、かなりきつい運動量になる。後で知ったが、車で途中までアクセスできるスロープだけの道もある。石段を伝って下るのは大変だと思ったが、戻りはこの道を利用でき幸いだった。急な階段を登りきって境内の一角に腰を下ろすと、梢を渡ってくる風がなんとも心地よい。

 この神社の祭神である宇須多伎比売命は、加夜奈留美命と共に飛鳥坐神社の裔神(御子神)とされている。明日香川が巻きつ瀬となっている様を神格化したものとも言われているが、詳しいことはよく分からない。本殿は無い。拝殿は遥拝造りの建物で、後方の山を拝するようになっている。平安時代以降、この神社は衰微し、近年までは宇佐八幡宮と呼ばれていた。ちなみに、拝殿の左右に境内社があり、左に応神天皇、右に神功皇后を祀っている。

 神社の前を流れる飛鳥川のあたりは、皇極天皇が雨乞いをしたところとして知られている。『日本書紀』は皇極天皇元年(642)8月のこととして、次の出来事を伝えている。この年は6月から旱魃が続いていた。牛馬を殺してあちこちの神社に祭ったり、市場をほかの場所に移して雨乞いしたりしたが、効果は全くなかった。蘇我蝦夷(そがのえみし)は、百済大寺の南庭に菩薩像と四天王像を飾り、僧に大雲経を読ませ、蝦夷自ら香炉に香を焚いて雨乞いをした。わずかに小雨がぱらついた程度で、ほとんど効果がなかった。8月に入ると、天皇は南淵の川上に出向き、跪いて四方を拝んだ。すると、雷が鳴って大雨が降り出し、雨は5日も降り続いた。このため天下の百姓たちは天皇の徳を称えたという。


稲淵(いなぶち)および栢森(かやのもり)の勧請縄

稲淵の勧請縄(男綱)
稲淵の勧請縄(男綱)
女綱
栢森の勧請縄(女綱)

 国営飛鳥歴史公園の石舞台古墳の先で、桜井市から延びてきた県道15号線は南西方向にむかう。この道は、飛鳥川の上流に沿いながら、途中の稲淵(いなふち)および栢森(かやのもり)の集落を抜けて芋峠へと続いている。稲淵山の裾を這うように道が続くあたりは、飛鳥名物の棚田(たなだ)が目を楽しませてくれる。このあたりでは飛鳥川の流れはずいぶんと細くなり、土地の人には稲淵川と呼ばれている。

 稲淵集落に入る手前で道は二股に分かれ、一方は集落の中へ続くが、もう一方は神所橋(かんじょばし)を渡り飛鳥川の右岸を上流へと続いている。その橋の近くに、太い綱が一本飛鳥川の上に掛けてある。縄で編んだ太い棒を中程で吊した何とも奇妙な綱である。途中に吊したものは男性のシンボルである。この綱は勧請縄の一種で、地元では「稲淵の勧請縄」または「男綱」と呼んでいる。勧請縄とは、神仏を迎えて(=勧請して)村の外から災いが入って来ないようにするために、村の入り口や氏神の境内などに吊るした大きなシメナワ(注連縄)のことである。

 上流の栢森の集落の手前に、この「男綱」と対をなす勧請縄がもう一本飛鳥川の上に渡してある。こちらは「栢森の勧請縄」または「女綱」と呼ばれるもので、女性のシンボルをかたどった縄の編み物が綱の中央に吊してある。男性と女性のシンボルは、子孫繁栄や五穀豊穣を期待する素朴な民俗信仰を表わしたものであろう。

 勧請縄を吊るすことを、カンジョウツリ(勧請吊り)あるいはオツナカケといい、神事として行われる。カンジョウツリは奈良や京都、滋賀県などに今でも多く伝えられており、起源ははっきりしないが14世紀頃に始まったと考えられている。明日香では、この神事を「カンジョ掛神事」と呼び、毎年旧暦の1月11日に行なっている。ただし、稲渕で行なう神事と栢森で行なう神事はそれぞれ特徴がある。稲淵のそれは神式であり、飛鳥川の上に「男綱」を掛け渡し、神所橋と呼ばれる橋に祭壇を設け、神職が御祓いをする。栢森では仏式で行われ、福石(陰物ともいう)と呼ばれる石の上に祭壇を設け、僧侶の法要の後、飛鳥川の上に女綱を掛け渡す。


岩橋(いわはし)

石橋
石橋

 稲淵の集落の中程のところに、飛鳥川に降りてゆく細い道がある。その道を降りてゆくと、飛鳥川に架かる橋がある。橋の上に立って下を見ると、川の流れをせき止めるように置かれた飛び石が、心地よい瀬音をたてている。これが、万葉集に詠まれた「飛鳥川の石橋」を再現した飛び石である。

 飛鳥川の上流は、かなりの傾斜地を流れ下る細流である。昔は、大雨でも降れば鉄砲水が発生して、氾濫を繰り返していたに違いない。そのたびにその流れを変えていた様子は歌にも詠われている。氾濫を防ぐために、遊びの水たまりを作る堰堤が、かっては飛び石で川のあちこちに築かれた。飛び石は同時に橋の役目をしていたのであろう。橋はまた万葉の昔から恋人を結ぶ愛を象徴する構造物でもある。この飛鳥川の石橋の傍に、万葉集研究の第1人者だった犬養孝氏の筆になる次の歌碑が建っている。

 明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも 万葉集巻十一・2701)


朝風峠

南淵山
稲淵の棚田から見た南淵山

 稲淵の神所橋の下を抜け棚田の間を縫って朝風峠へ続いている遊歩道がある。以前、自転車を押しながら苦しい思いをして自動車道の朝風峠を越えたことがある。その自動車道を遙かに望みながら、棚田の広がる中を峠の頂上まで歩いて登れる遊歩道があるとは知らなかった。峠に近い棚田の畦に腰を下ろすと、棚田を渡ってくる風がまことに心地よい。眼下に広がる棚田では、オーナー達が畦の草刈りをしている姿があちこちで見受けられる。オーナー制で買い取った田の手入れのために、休日を利用してやってきたのであろう。農夫の指導を受けながら慣れない農作業に汗を流しているようだ。

 棚田の向こうに、南淵山がどっしりと構えている。正面の高見から眺める山の形は美しい。このあたりは、もっとも飛鳥らしい風光を残している場所であろう。南淵山の上空を流れる雲をぼんやり眺めていると、ひとつの幻影が眼前に浮かんできた。稲淵山の山裾を飛鳥川の上流に向かって入植してきた渡来人の一団の姿である。時は5世紀の後半ごろであろう。当時は巨大な照葉樹林に覆われた谷だった。だが、彼らはその谷を切り開いて居住空間を確保し、山の傾斜地を開墾して棚田を築いていった。学問僧として隋に留学した南淵請安は、そうした渡来人の何代目かの子孫だったにちがいない。


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