特別展示「”あすか”以前」
飛鳥資料館で「”あすか”以前」という特別展示をやっているので見に行く。昨日の雨が上がって、青空の下を南から吹いてくる飛鳥川の風が肌に心地よい。 民家の庭先に掲げられた鯉のぼりが風をはらんで元気に泳いでいる。周囲の山野が緑を一層深さを増して、まさに"春たけなわ"といった感じだ。 飛鳥地方では遺跡発掘で盛んで、毎年世間を驚かす発見がなされている。そのほとんどは推古天皇の宮地がこの地に設けられた6世紀末以降のものである。では、それ以前の 飛鳥の様子はどうだったのかと聞かれると、よく分からない。6世紀以前の遺物も出土しているが、飛鳥時代の輝かしい発掘の陰に隠れてあまり世間の注目を浴びてこなかったようだ。今回の特別展示は、西暦600年以前の飛鳥を知る上で貴重な情報を与えてくれるものと期待した。 特別展示「”あすか”以前」は、飛鳥資料館の地下1階で行われている。テーマがテーマだけに人影はまばらだ。お陰様でこちらはじっくりと見学することができた。入口を入ってすぐの所に、「飛鳥」以前の各時代の遺物出土地を色ちがいの丸印で示した地図が壁に貼ってある。それを眺めながら面白いことに気がついた。飛鳥地方は地勢的に飛鳥川流域と檜隈川流域に分けられるが、それぞれの地域の遺物出土状況が異なるのだ。
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縄文時代から古墳時代の飛鳥・檜隈地方縄文時代の飛鳥はカシを主とする照葉樹や落葉広葉樹、針葉樹で覆われた森林地帯で、狩猟を生業とする縄文人が飛鳥川流域に転々と部落を作って住んでいたようだ。檜隈川流域も同じ状態だったろう。弥生時代になっても状況は変わらない。稲作文化を携えた弥生人も、丘陵の尾根が四方に走り、しかも丘陵と丘陵の間の谷間も狭くて傾斜がきついこの地方の地形では、河川流域のわずかな湿原を利用して水稲栽培を行なう程度で、森林を切り開いて新たな田畑を開墾するといったことはなかったにちがいない。韓式土器は5世紀の初めごろには、朝鮮半島の渡来人たちが製造していたと思われるが、飛鳥川流域まで入植してくる集団はわずかだったのであろう。檜隈地方には、まだ渡来人たちが住み着いた痕跡がない。 以上のことから、乾田農法や灌漑技術など新しい技術を身につけた渡来人の集団が5世紀の後半に飛鳥地方に住み着くまで、この地方は大和盆地の他の地方に比べても後進地帯だったに違いない。わずかに飛鳥川の東岸にあたる真神原あたりに小規模な湿田が点在している程度で、縦横に走る丘陵を自然の原野が覆っていた。このような"夜明け前”の飛鳥の様子が、この一枚のマップから想像できた。 5世紀後半になると、朝鮮半島南部の戦乱を避けて我が国に移住してきた渡来者の集団が、飛鳥地方に住み着くようになる。彼らの新しい技術は未開の原野の開拓を可能にし、また乾田農法は丘陵地帯での稲作を可能にした。彼らの奥津城と思われる古墳の密集地が石舞台古墳の東の細川谷沿いにある。細川谷古墳群と呼ばれるもので、6世紀後半から7世紀中頃に築造されたものだという。八釣・東山にも古墳群が発見されている。6世紀中頃から7世紀前半ごろにかけて築造された古墳群で、現在までに8基が確認されている。そのうち、マキト支群に含まれる5基については、石室の形態や築造方法が判明していて、いずれも横穴式石室を持っている。この地方を治めた有力豪族の墓所ではないかと推定される。具体的な氏族名としては中臣氏が想定されている。 面白い解説記事が目についた。弥生時代の終わりころ飛鳥地方に住んでいた人々がどこかへ移住して居なくなってしまったというのだ。同じ事が、唐古・鍵遺跡の発掘結果からも言えるという。何処へ本拠を移したかは不明であるが、大和全域になにか大きな社会的変動が起こったことは間違いないらしい。一例として、大規模な洪水によってムラや水田が厚い砂で覆われてしまい、復旧できなかったので他の土地へ移ったのではないかと推測している。
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