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午前11時から談山神社の境内で"けまり祭り"が奉納されると聞いて、出かけることにした。けまりといえば、大化改新の立て役者である中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と初めてまみえた飛鳥寺の蹴鞠会(けまりえ)の故事が有名だ。中臣鎌足(藤原鎌足)を祭神として祀る談山神社では、この故事にちなんで春と秋の2回けまり祭りが斎行される。以前は10月の第3日曜日だけ奉納されていたが、見物客が多くなったため春にも奉納されるようになったらしい。 午前9時5分、桜井駅南口発談山神社行きのバスに乗る。談山神社へは今まで何回か訪れたことがあるが、バスを利用するのは今回が初めてである。終点の談山神社駅までは約25分の行程である。桜井の市街地を抜けたバスは、まもなく音羽山と御破裂山に挟まれて押しつぶされそうな山間に入り、寺川沿いの坂道をあえぎながら上ってゆく。 途中に「倉橋」というバス停がある。『日本書紀』によれば、物部守屋を滅ぼした587年の8月、後に崇峻天皇とイミナされる泊瀬部皇子が即位し、同じ月に倉橋に宮をつくるとある。崇峻天皇の倉橋柴垣宮である。このあたりを通るたびに、いつものことながら、天皇の宮居が本当にこのような山間の寂しいところに築かれたのか、と疑いたくなる。新しく即位した天皇が新しい政治を始めようとするとき、わざわざ山間の僻地を選ぶとは思えない。ここは天皇を幽閉する場所としてふさわしい。 |
創建時、談山神社は寺院だったのか、それとも神社だったのか?
けまり祭りの開始までまだ時間があったので、境内の建物を見て回る。この神社のシンボルは、なんといっても木造十三層の塔である。留学先の唐から帰朝した長男の定慧(じょうえ)が、父・中臣鎌足の追福のために建立した供養塔で、唐の清涼山宝池院にあった十三塔を模したと伝えられる。現存のものは享禄5年(1532)に再建されたものである。高さは約17m、伝統的な檜皮葺の屋根は、それなりに古びていていて趣がある。 創建当時、談山神社は神社だったのか、それとも寺院だったのかよく分からない。由緒書きによれば、大化改新に功績があった中臣鎌足は天智天皇8年(669)10月16日、56歳の生涯を閉じた。死の直前に、天智天皇は皇太子の大海人皇子を遣わして、鎌足に大織冠を授け、内大臣に任じ、また藤原の姓を賜ったという。鎌足の遺体は、摂津の阿威山(あいやま、現在の大阪府茨木市)に葬られた。唐から帰国した定慧は、天武7年(678)、父の由緒深い多武峰に墓を移し、上述のように十三重塔を営み、その数年後に三間四面の講堂と建てて妙楽寺としたという。ここまでの説明を読む限りでは、当初は寺院として出発したことが理解される。かっては多武峰寺とも呼ばれ、明治の廃仏毀釈までは寺院であったともいわれる。 しかし、定慧の弟の不比等(ふひと)が、文武天皇の大宝元年(701)に、十三重塔の東方に三間四面の神殿を建て、父の像を安置した。この時点で神仏両面の建物が、境内に並び立ったことになり、また、談山神社はこの事実をもって神社の創起と見なしているようである。この神殿が現在の本殿であるが、建立後に兵火にかかるなどで何度も焼失し十一度も作り替えられた。現存のものは嘉永3年(1850)に建て替えられたものでである。談山神社のこの本殿を有名にしているのは、三間社隅木入春日造りという絢爛豪華な様式であり、日光東照宮を造営する際にお手本とされたという。 談山神社は、神社のくせに如意輪観世音菩薩を秘仏として祀っている。神社に残る唯一の仏像とのことだが、秘仏のために平素は一般公開していない。神社に仏像とは、神仏混交の名残というべきか。 |
平安貴族絵巻を現在に再現する蹴鞠会(けまりえ)けまり祭りが奉納される”けまりの庭”は総社拝殿と祖廟拝所の間にある空間である。式場(競技場?)は濃紺と白地の幕で四角に囲われ、幕の内側に若竹が4隅に立てられている。けまりが始まる11時近くには、いつの間にか大勢の見物客が周囲を埋め尽くし、権殿への登り階段まで人だかりである。定刻をわずかに過ぎたころ、けまり装束に着飾った一団がその階段から下りてきた。先頭のリーダとおぼしき装束に身を固めた人物は、二股の楓の枝に挟まれた白い鹿皮のけまりを捧げながら式場を一回りした後、中央に進んで楓の枝からけまりを取り外し地面においた。 けまりは4人とか8人とかの偶数のメンバーで行なう競技である。厳密に言えば、技のうまさや得点を争う競技ではなく、参加者が足で鞠を蹴って楽しむ遊技である。約1400年前に中国から伝えられたという。聖徳太子の頃来朝した渡来人が広めたのか、あるいは遣隋留学生の誰かが持ち帰ったのであろう。足で鞠を蹴るという点では、現代のサッカーに似ている。しかし、蹴る場所は右足の甲だけに限定されている。その他に、膝を曲げて蹴ってはいけない、靴の裏を見せてはいけない、といった独自の規則があるようだ。
けまり装束は華やかな平安貴族のいでたちを見る想いである。幅が広く長い袖の上着は、いずれも赤や青、緑といった原色の生地に大きな家紋のような金色の模様をあしらってあり、見た目に鮮やかである。筒先をつぼめた袴は原色に染め上げた雅なものであるが、こちらは無地である。こうした派手な衣装に着飾り、頭に冠をつけ、足に革製の靴をはいた”いでたち”は、さながら平安時代の若々しい貴族の青年たちが、現代に突然よみがえったと錯覚を覚える。 鹿の皮で作られた白い鞠は紙風船ほどの大きさで、重さも120gほどしかないそうだ。参加者各自は、実際に鞠を小さく蹴ってその重さやはじき具合などを確認した後、”ハイヤー”とか”ハイ”、”オー”とかけ声を掛け合いながら、けまりのラリーが開始された。かけ声は神の名だそうだが、何の神かは分からない。また、プレー時間の制限も特にないようだ。鞠を蹴るのが失敗すると、それを拾い上げてプレーを続けていく。鞠空気が抜けてヘコむことも度々あるようで、そのときは手で鞠をたたいて膨らませている。鞠のどこかに空気穴があるようだ。ラリーが続いたときは見物人から拍手が湧くが、実際はそれほど続かない。 |
談山(かたらいやま)での密議は本当にあった?入口受付でもらった談山神社のしおりには、山内の案内図が載っている。それによると、本殿裏にある談山(”たんざん”ではなく、”かたらいやま”と読む)や鎌足の墓所(古墳)を頂上にいただく御破裂山まで登れるハイキングコースが、権殿脇から続いていている。そちらへ向かうハイカーの一団を見かけたので、蹴鞠会の見学を途中で切り上げて、彼らの後についてゆくことにした。ハイキングコースの登り口に標識が立っていて、談山まで290m、徒歩10分、御破裂山まで510m、徒歩20分と書いてある。 談山まではたいした距離でもないとタカをくくったが、急な上りが続く山道で途中で何回も息が切れた。坂道を上りきったところで、道は二股に分かれる。右へ行けば談山であるが、そこは分岐点のすぐ近くのお椀を伏せたような小山だ。大きなアラカシの木の脇にある階段を登と、その頂につく。山頂は二十畳ほどのスペースが整備されていて周りを杉やアラカシの大木に囲まれている。“御相談所”と大書された石碑と案内板だけが立っている。案内板によれば、ここは談山(かたらいやま)と呼ばれる場所で、海抜556mの高みにある。談山神社の裏山にあたり、古くから「談所(だんじょ)の森」と名付けられ、中大兄皇子と中臣鎌足が大化改新の秘策を練ったところ、とされている。
この御相談所のベンチに腰を下ろして、当時の中臣鎌足の心境を憶測してみた。時の権力者である蘇我蝦夷・入鹿父子を葬り去る 困難さは、現代のクーデターの比ではあるまい。志を同じくするごく少数の仲間だけで、あらゆる可能性を分析し、一挙に事をなさね ばならない。そのためには、同志の選定を含め、それなりの周到な準備期間が必要であっただろう。何よりも大切なのは、密議の事実 やその内容が相手方に絶対に知られてはならないことだ。蘇我本宗家が権力の維持のためにそれなりの諜報ネットワークを持っていた ことは十分考えられる。であるならば、密議の場所として深山の人里離れた場所を選ぶことは可能性として十分考えられる。だが、 中大兄皇子と鎌足が二人だけで、冬野川沿いの山道をこの場所まで上ってきたとは考えられない。 後でここから石舞台まで下山して知ったのだが、冬野川沿いの山道は現在でも急峻で足場すら覚束ない場所が随所にあり、修験者でもなければ分け入ってくる道ではない。加えて、石舞台のある島庄から上居、細川、尾曽の集落を抜けて、気都和院神社あたりまでは、山の傾斜にへばり付くように民家が点在している。1400年の昔にも、このあたりに民家はあった。二人の若者がこれらの集落を抜けて山に分け入れば、当然人の噂 にもなったであろう。鎌足ほどの知恵者がそのような危険性を考慮しなかったとは思えない。密議は、おそらく南淵にあったという請安の私塾への往来での語らいの中でなされたであろう。密議は多くの衆目があるところでこそ隠すことができる。鎌足が中大兄皇子とこの地で大化改新の秘策を練ったとする話は、645年のクーデター成就の後、何らかの理由で作り上げられた伝承であろう。 |
御破裂(ごはれつ)山の山頂には本当に中臣鎌足が眠るのか?中臣(藤原)鎌足の墓所は、標高607mの御破裂山の頂に築かれた古墳である。談山からそこまではわずか250mの距離で、尾根づたい林道が続いている。このあたりの道の傾斜や緩やかで、両側に植林された杉の若い木立を美しさに目をやりながらゆっくりと散策できる。林道に沿って10分も歩くと、鳥居の立つ小高い丘に突き当たる。そこが御破裂山の頂上で、小高い丘に見えたのは、長男の定慧が、摂津の阿威山から多武峰に鎌足の遺体を改葬したとき築造した古墳である。ただし、この改葬については、『日本書紀』にも『定慧伝』、『鎌足伝』にも記載されていない。そればかりか、『延喜式』に「多武峰墓は不比等の墓所である」との記載があり、この墓所を不比等の墓所とする説もあるらしい。
それにしても、御破裂山とは珍しい名前である。案内板の説明によれば、国家に不祥事がある時にこの神山が鳴動したという記録が多く残っているそうだ。御破裂山の海抜がここでは618mとなっているが、談山神社のしおりや地図では607mである。誤差の11mは、あるいは古墳の高さをかさ上げした標高なのだろうか。墓所の横に展望台がある。周りの木立に囲まれて視界はあまり利かない。展望台絵図が置かれた場所からは木立の間から下界を見下ろすことができるが、残念ながら曇り空の下はもやっていてはっきり見えない。絵図では、正面に天香具山と二上山が位置しているようだ。 |
御破裂山から細川谷方面へ下る
御破裂山の頂から、明日香村の石舞台古墳までは約5kmの距離がある。一応ハイキングコースになっているが、バイクも自転車も通れない山道とのことだ。中臣鎌足たちが密議のためにわざわざ“御相談所”まで登ってきたとするなら、この山道を利用したはずである。どのように険しい道なのか一度歩いてみたいと思っていた。それを今回試みることにする。 御破裂山からの下り道は舗装されており、脱輪に注意すれば車でも通れそうな林道である。下山を開始してから15分、杉木立の間を下ってきた林道が切れて、民家が数軒建ち並ぶ所に出る。舗装された道が民家を縫って続いている。林道西口北山線と呼ばれる道で、この道をたどれば桜井市街地に出られる。舗装道路をしばらく下ったところで工事中の標識があり、作り終わった橋が山の端に沿って曲線を描いている。橋の欄干から下を見下ろすと深い谷底である。 この橋の終わりで舗装が切れていて、黄色いペンキを塗った小さなベニヤ板が橋の袂に立っていて、明日香方面への矢印を示している。見ると、そこからは地の底へ下ってゆくような細い山道である。道というにはほど遠い。けもの道をハイカーたちがたどったために、赤茶けた山肌がむき出しになり、かろうじて道と認識できる程度のしろものである。風でなぎ倒された樹木が頭上を覆い、足下には樹木の根が露出し、しかもところどころに雨水で押し流されてきた岩が足場を悪くしている。今まで下ってきた道とは余りの変わり方に、先へ進むのを躊躇していると、下から登ってきたハイカーが姿を見せた。石舞台方面から登ってきたという。彼のお陰で下りの道を確認できたので、この道を伝って麓まで下りる決心をした。 本当に急な山道である。小枝や木の根に捕まらなければ転げ落ちそうな急斜面が何カ所もある。これが逆方向の登りだったら大変だろうと思う。20分も山道を下ったころ、杉の梢の間に青いシートを広げたところが見えてきた。新築中の人家の屋根かと勘違いして、やっと人間世界にたどり着いたと安堵した。しかし、それは造成中の畑の土砂崩れを防ぐためのシートだった。人間世界まではもう少し下らなければならない。そう覚悟を決めたとき、驚くべきことが起きた。背後から突然大きな声がして、マウンテンバイクに乗った青年が山道を駆け下りてきた。青年は風のように脇を通り抜けて杉の木立の間に消えた。 |
中臣鎌足は蘇我入鹿の首に追われて気都和既(きつわき)神社まで逃げてきた?冬野川の川上の渓流に山道が沿うようになると、道の傾斜が緩やかになる。やがて、眼前に陸橋が見え、その下に人家らしい古びた建物が見えてくる。近寄ると、そこは気都和既神社の境内だった。境内の横に「気都和既神社ともうこの森」というタイトルの案内板が立っている。案内板によれば、境内は「もうこの森」とよばれているが、その名のおこりは、645年の大化改新で中臣鎌足が飛鳥板蓋宮で暗殺した蘇我入鹿の首に追われて、ここまで逃げ込み「もう来ぬだろう」と言ったことに由来するという。鎌足が腰をかけたと伝えられる石も残っているそうだ。なんとも微笑ましい伝承である。気都和既神社は気津別命と尾曽・細川両大字の神社にそれぞれ祀られていた天津児屋根命を合祀した三座を祀っている。このあたりはすでに明日香村で大字を「上」という。
石舞台古墳の脇を通る県道156号線(多武峰見瀬線)は気都和既神社まで延びてきている。したがって、ここからは冬野川に沿って下る舗装道路を進めばよい。それでも石舞台まではまだ2kmの道のりが残っている。尾曽、細川、上居の集落を抜けて石舞台古墳に着いたのは午後の1時半。ちょうど正午すぎに御破裂山の山頂を出発したので、5kmの山道を1時間30分かけて下りてきたことになる。お陰で両足のふくらはぎが悲鳴をあげている。(02/04/29記) |
追記 ホームページで以下のテキストに出会った。今までの小生の理解に誤りがあったとので訂正の意味も兼ねて付記しておく。(02/05/29) |