今月3日付けの奈良新聞に、予想もしない記事が載っていた。タイトルに「植山古墳に匹敵」とある。植山古墳とは昨年発見され、推古天皇を竹田皇子の墓に合葬したとされる古墳である。現地説明会では全国から多くの見学者が押し寄せた。その古墳に匹敵するとなると、古代史フアンならずとも十分に注目に値する大発見がなされたものと思いこんでしまう。
しかも、リードの部分を読んでさらに驚いた。以下のように記述されている。”橿原市五条野町の丘陵で、東西に並んだ二つの大型横穴式石室が2日までに市教委の調査で見つかった。大半の石材が運び出されていたが、石室規模は推古天皇と息子の竹田皇子を葬ったとされる同市の植山古墳(6世紀末〜7世紀前半)に匹敵。形態などから7世紀中ごろの築造とみられる。宮殿が営まれた飛鳥の中枢部に近く、調査を担当した竹田政敬技師は「蘇我蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)親子を葬った可能性が極めて高い」としている。”
蘇我蝦夷・入鹿を葬ったとされる双墓としては、古瀬にある水泥双墓古墳が一般に知られている。しかし、製作年代が6世紀後半とされ、歴史家はこの双墓が大化改新で殺された親子の墓とするには否定的である。そんな状況で、2日までに双墓が見つかり、その築造年代が7世紀後半と見られ、石室の規模が植山古墳に匹敵するとなれば、誰しも蘇我蝦夷・入鹿の墓が新たに発見されたものと思うであろう。しかも、橿原市五条野町はかっての今来郡の真ん中と言って良い土地である。
正直、この新聞記事を見たとき、これは世紀の大発見に違いないと思った。だが、不思議なことに、この発見記事が掲載されたのは「奈良新聞」だけである。古代史の発掘に過剰に反応しがちな他の全国紙もテレビのメデイアもいっさい報道していない。自分自身、インターネットでこの記事を見つけて、慌てて橿原考古学研究所の附属博物館の図書閲覧室で新聞の切り抜きを確認した次第だ。
図書閲覧室の係りの女性に聞くと、なぜこんな記事が奈良新聞に載ったのか分からないという。五条野宮ケ原1・2号墳と名付けられたこの双墓は、土地開発に伴う事前調査ですでに2年前に調べられ、その報告は「かしはらの歴史をさぐる9」に載っているという。まるで、狐に馬鹿にされたような気持ちだ。奈良新聞の記事は、史跡発掘の回想記事として掲載されたのではなく、社会面に掲載され、しかもつい最近発見されたような印象を読者に与える。一種の”やらせ”記事なのだが、今頃になって何故このような記事が掲載されたのかその意図は不明である。
とにかく人騒がせな新聞記事であったが、その発掘現場がどのように保存されているのか気になって、出かけてみた。場所は近鉄岡寺駅から明日香へ抜ける多武峰見瀬線の脇であり、付近はよく自転車で通り抜けているので土地勘はある。大規模な宅地造成が行われている記憶はあるが、古墳の遺跡があるとは聞いたことがない。案の定、発掘現場はきれいに宅地造成され、双墓があったと思われるあたりには、すでに民家が建ち始めている。近くの住人に聞いてみると、たしかに2年ほど前に遺跡調査が行われていたみたいだが、何の調査だったか詳しいことは知らないという。
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| 宮ケ原古墳発掘現場の現状 | 宮ケ原古墳があった宅地遠望道 |
宅地造成の終わった一区画に立って、しばらく考えた。周りを見渡すと、去年発見された植山古墳が赤茶けた造成地の海の中にポツンと離れ小島のように取り残され、保存作業のために青いビニールシートで覆われている。その場所もやがて分譲住宅の陰に隠れてわかりにくくなるであろう。古墳が丘陵地帯に築かれる理由の一つは、故人を景観の良い場所で安らかに眠ってほしいとする遺族たちの思いがあるからだ。
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| 発掘当時の1号墳石室(南→北) | 発掘当時の2号墳石室(南→北) |
五条野宮ケ原1・2号墳は不幸な古墳である。あとわずか100m東に位置していたなら、宅地造成の波に飲まれて抹殺されることはなかったであろう。橿原市と明日香村の行政区画上の境界は100m東を走っている。明日香村では歴史保存のため宅地造成など認められない。しかし、境界線の西では丘陵を削り谷を埋めて宅地の造成が大々的に行われている。ふと思った。奈良新聞の記者はこうした歴史保存の現状を暗に告発したかったのかもしれない、と。
【追記】 高取城の石垣に使われた転用材が橿原市五条野町周辺の古墳から運ばれたとする見解を、県立橿原考古学研究所の河上邦彦副所長が、このほど発行された季刊誌に発表した。最近の調査で石材を抜き取られた古墳が集中して見つかっており、いずれも築城工事の「犠牲」となった可能性が強いという。
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