2013/02/20

宮内庁が許可した箸墓古墳の初の立ち入り調査

箸墓古墳
古墳時代の開始を象徴するとされている箸墓古墳

ただ墳丘の下段を歩いて観察するだけの立ち入り調査

■ 本日のマスコミ各社のインターネット版は、宮内庁が許可した箸墓古墳の立ち入り調査の様子を写真入りで報じていた。NHKも夜7時のニュース番組で立ち入り調査の様子を伝えていた。今回の立ち入り検査は午前中は箸墓古墳、午後は西殿塚古墳が予定されていたが、各報道の内容はほとんどが箸墓古墳に集中していた。それは無理からぬことである。宮内庁は箸墓古墳を第7代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理しているが、邪馬台国畿内論者の中には3世紀半ばに没した邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)の墓であるとする専門家がいる。そのため、多くの考古学ファンはロマンを感じている。

上空から見た箸墓古墳
上空から見た箸墓古墳
■ 宮内庁は全国で約900の陵墓、すなわち天皇や皇族の墓を管理し、一般の立ち入りを禁じてきた。陵墓は『古事記』や『日本書紀』などの文献を基に、宇都宮藩の建議で徳川幕府が1862年(文久2年)から行った「文久の修陵」のために比定されたされたものが多く、その数は109か所に及ぶとされている。しかし、現在から見れば、その比定にはいかがわしい物が多く、研究者の間では、文化財としての側面から陵墓の学術調査を望む声が絶えなかった。しかし、宮内庁は皇室の尊厳を損なうものとして、そうした要望には一切耳を貸さなかった。

■ 1979年になって、宮内庁は陵墓の補修に伴う発掘調査の見学を年に1回程度限定公開するようになった。しかし、宮内庁の職員以外の研究者を主体とする調査はほとんど認めなかった。2005年、日本考古学協会など15学協会が11か所の陵墓の立ち入り調査を要請したのをきっかけに、宮内庁は2007年に内規を変えて条件付きで立ち入りを認めることにした。そのため、2008年の神功皇后陵(じんぐうこうごうりょう)を皮切りに毎年行われるようになり今回が6回目で、9例目となる。

立ち入り検査にる研究者
立ち入り検査にる研究者 (読売新聞より)
■ ただし、立ち入り調査と言っても、発掘などの学術調査を認めた訳ではない。日本考古学協会などの研究者が、墳丘の下段を歩いて観察する程度で、発掘は駄目、測量もだめ、遺物の採取も駄目という条件が付けられている。素人の目には、そのようなおざなりの調査で何が分かるのかと問いたいが、本日は午前10時頃から日本考古学協会などの歴史・考古学の研究者16人が箸墓古墳に入り、約1時間半をかけて地表に見える葺き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。

■ 日本考古学協会の森岡秀人氏は、「前方部と後円部の接続状況や平坦部の長さなど、箸墓古墳の規格を実感できた。葺石は年代研究に役立つ資料。築造時期に極めて近い弥生最末期の土器もあり、箸墓古墳に邪馬台国と深く関わる情報がえられた」とコメントしておられる。橿考研の今尾文昭学芸課長は、「箸墓古墳北側のくびれ部最下段に従来知られていない20cmほどに石が敷かれた部分があった」ことを指摘された。さらに、後述のレーザ計測から作成された赤色立体地図では、3段築成とされた前方部についても、「4段築成の可能性が高い」 との見解を示された。

■ 現状での箸墓古墳の規模は、墳長約278メートル、後円部は径約150メートル、高さ約30メートルで前方部は前面幅約130メートルで高さ約16メートルを測る。その体積は約37万立方メートル。周辺地域の調査結果から、本来はもう一回り大きかったものと推定されている。最近は、箸墓古墳について、ずいぶん色んなことが分かってきた。

レーザ計測による赤色立体地図
箸墓古墳のレーザ計測による赤色立体地図-1(**)
■ 箸墓古墳の墳丘は、大正から昭和初頭に当時の帝室林野局が測量・作図した高さ1メートル刻みの測量図に基づいて研究されてきたが、墳丘の構造は推定の部分が多かった。しかし、奈良県立橿原考古学研究所(=橿考研)は昨年4月、アジア航測株式会社と共同でヘリコプターを使った三次元航空レーザー計測を実施した。飛行高度は500メートル、飛行速度は時速70キロ、レーザ出力パルスレートは400kHzで、レーザーを一秒間に40万発発射し、1平米あたり66発以上がデータとして記録できたという。そして6月、その計測結果に基づいた赤色立体地図を公表した。

■ 橿考研の発表によれば、箸墓古墳の後円部は墳頂の円丘の部分を含めて5段、これまで諸説があった前方部も3段からなり、前面だけでなく側面も段築が存在することが判明した。さらに、前方部の先端が極端な撥(ばち)形を示すような形状は現在の墳丘の様相からは認められず、また、後円部の墳頂きには従来の測量図では表されていなかった高さ40センチの環状の高まりが巡っていることも明らかになった。

■ なお、織田信長の時代、墳丘上にお茶室が設けられていたという。また、後円部南東の側面に測量図で溝が見られるのは、そのふもと近辺に江戸時代、箸中長者の経営する茶店がありその影響とも思われるとのことだ。主に伊勢参りの旅人を相手に飴・甘味が名物として売られていたという。また、周濠に掛かる外堤も少し東から検出されている。前方部と後円部の境目に斜めについた溝は、この古墳が立ち入り禁止になる前は、村人が使用した道の跡である。

1968年、宮内庁が撮影した写真
1968年、宮内庁が撮影した写真(*)
■ 昨年9月、朝日新聞は箸墓古墳の後円部頂上付近が全面に石を厚く積んだ特異な構造であることを写真入りで報じた。朝日新聞は宮内庁に対して、これまで公開されてこなかった発掘調査の記録の情報公開を請求し、1968年と71年、74年に撮影した前方部と後方部の写真55枚、調査結果を報告した文書、出土土器や調査地の図面などを独自に入手した。その中に、1968年に宮内庁が撮影したカラー写真があった。その写真には墳頂近くに積まれたこぶし大の石の下から板状の石が一部露出しているのがはっきりと分かる。この写真を見た桜井市纒向学研究センターの寺沢薫所長は、埋葬施設は未盗掘の可能性が高いとするのコメントを出している。

■ また、調査報告書の中には「積石塚」との関連を指摘する重要な記述もあった。積石塚とは、地表の下に築かれた箱式石棺墓を蓋石で覆い、その上に板石で葺いたものだ。香川や徳島、兵庫など瀬戸内海東部地域で、3〜4世紀に多く造られたという。


上空から見た西殿塚古墳
上空から見た西殿塚古墳
■ 午後からは、天理市中山町西殿塚にある西殿塚古墳の立ち入り調査が行われた。この古墳は大和古墳群の中の中山支群の盟主的存在の前方後円墳である。全長が234メートル、後円部直径135メートル、前方部の幅118メートルを測り、三段築成で葺石が葺かれている。明治9年に継体天皇の皇后・手白香皇女(たしらかのひめみこ)の墓に治定され、宮内庁は手白香皇女の衾田陵(ふすまだのみささぎ)として管理しているが、考古学的知見とは時代が合わない。

■ 1992〜1994年にかけて天理市教育委員会が行なった発掘調査では、古墳の周囲から葺石が見つかり、大型の円筒埴輪が大量に出土した。一方、1988年の宮内庁の報告によれば、特殊器台特殊壺が発掘調査以前に出土していたことが明らかになっている。これらの特殊器台や特殊壺は埴輪の起源となるものである。したがって、この古墳は埴輪出現以前に築造されたもので、その築造時期は円筒埴輪だけを出土する渋谷向山古墳行燈山古墳より古いとされている。築造時期は箸墓古墳に近い4世紀前半に遡るとの意見が多く、最近では邪馬台国の壱与(いよ)(または台与)の墓とする説がある。

レーザ計測による赤色立体地図
西殿塚古墳のレーザ計測
による赤色立体地図(**)
■ 西殿塚古墳の立ち会い調査の後、天理市内で関係者による検討会が開催された。森岡秀人氏は「(西殿塚古墳は)墳丘の斜面勾配を意識して造っていて、箸墓古墳から発達した1,2世代後に築かれた前方後円墳の様子が分かる」と指摘された。また、出席者からは「前方部と後円部ともに3段で造る意図を感じた。後の大王墓につながる墓がこの古墳できまったのだろう」との意見が出されたとのことだ。



箸墓古墳は倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)の墓か、卑弥呼の墓か

■ 『古事記』や『日本書紀』が箸墓古墳の被葬者としている倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)(以下、モモソヒメ)は、第7代孝霊天皇の皇女だった。巫女的な性格の女性だったようで、崇神天皇のとき、災害がつづく理由を占うと、三輪山の大物主神が神懸かりして、我を祀れば国は治まるといったという。また、四道将軍の一人の大彦命がきいた童歌から、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の反乱を予言したとも伝えられている。

箸墓古墳の遙拝所
箸墓古墳の遙拝所
■ モモソヒメは三輪山の蛇神大物主神の妻となるが、夜ごと訪ねてくる夫の顔を見たことがない。そこで「ぜひ顔をみたい」と頼むと、夫は最初拒否するが、断りきれず、「絶対に驚いてはいけない」という条件つきで、朝小物入れをのぞくよう話した。そこで、朝になってモモソヒメが小物入れをのぞくと、小さな黒蛇の姿があった。驚いたモモソヒメが尻もちをついたところ、置いてあった箸が陰部に刺さり、この世を去ってしまったという。

■ モモソヒメの遺骸は大市(おおち)に埋葬された。当時の人々はその墓を名付けて箸墓と呼んだという。これが箸墓の由来である。その墓は、大坂山(二上山)の石を運んで昼は人が造り、夜は神が造ったと伝えられている。山から墓に至まで、人々は連なって手渡しで石を運んだという。しかし、墳丘の裾から見つかっている玄武岩の板石は大坂山の石ではなく、大阪府柏原市の芝山の石であることが判明している。

■ 文久の修陵では、こうした記紀伝承に基づいて箸墓古墳がモモソヒメの墓に比定された。第10代崇神天皇は、『古事記』では所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)、『日本書紀』では御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)とも呼ばれ、実在した我が国の初代天皇と考えられている。『古事記』にはこの天皇の没年を干支で戊寅(つちのえとら)年と記載している。これを信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。258年没説を採った場合、崇神天皇の治世は、中国の文献に記載されている邪馬台国の時代と重なることになり、モモソヒメ=卑弥呼と見なすことも可能になる。

■ 8世紀初めに編纂された記紀のもとになったのは、伝説や歌物語の類を記した「旧辞」と、歴代天皇の重要な事績・名前・宮・系譜・陵墓などを記した「帝紀」であるとされている。歴史学者の津田左右吉は、欽明朝前後すなわち6世紀中頃に日本を統治する由来を説明するために、これらの「旧辞」や「帝紀」が述作されたと見なし、欽明朝以前の記紀に書かれた記述を否定した。その一方で、中国や朝鮮の史書は日本の上代史の史料として重要であるとして、外国史料に多くの信頼を寄せている。

■ その結果、戦前の皇国史観に代わって津田史学を継承した我が国の古代史学は、神武東征を否定し、それに続く8代の天皇を欠史八代として、記紀の記述を完全に無視した。したがって第7代孝霊天皇の皇女だったモモソヒメや彼女に関する説話も「机上の創作」として見向きもしなかった。それに代わって、3世紀の我が国の国情を研究するために依拠したのが、西晋時代の3世紀末に陳寿が記述した歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条、略して「魏志倭人伝」である。

赤色立体地図-2
箸墓古墳のレーザ計測による赤色立体地図-2(**)
■ そこには、倭国と呼ばれた当時の日本に巫女王・卑弥呼が君臨する邪馬台国を中心とした国々が存在し、倭人社会の風俗、生活、制度などが記述されている。卑弥呼は景初3年(239年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。正始8年(247年)には、隣国の狗奴<(くな)との戦争が生じ、帯方郡から塞曹掾史(さいそうえんし)張政(ちょうせい)が軍事顧問として派遣されてきた。しかし、翌年の正始9年(248)頃、卑弥呼は狗奴との交戦の最中に死去し、大きな墓が造られ100人が殉葬されたと、倭人伝は記す。

■ 卑弥呼の墓の規模は径百余歩だった。径とあるからには、前方後円墳ではなく円墳だったと思われる。しかも、魏・晋時代の1歩は現在の約145cm、100余歩であれば直径約145メートル強となる。現存する我が国最大の円墳は、埼玉県行田市の埼玉古墳群の中にある丸墓山古墳で、大きさは直径約105mである。したがって、卑弥呼の時代に150m近い円墳が日本列島に存在したとも思えない。しかも、肝心なことは、この卑弥呼の墓の築造記事は、当時邪馬台国に派遣されていた軍事顧問張政の帰朝報告に依ったものと思われる。一説には、張政は20年近くを邪馬台国で過ごして泰始2年(266)に帰国したとする説もある。

木製の輪鐙
平成10年に出土した
木製の輪鐙(***)
■ 張政は間違いなく卑弥呼の墓作りの現場を見ている。彼が見たのは円墳であって、決して前方後円墳ではない。しかし、現代の専門家は、後円部にある段構造が前方部で消失することから、前方部が後世に付け加えられた可能性があると詭弁を弄している。

■ 桜井市教育委員会が2000年に実施した周辺部の発掘調査で、箸墓古墳の周濠内の堆積土から木製の輪鐙(わあぶみ)(馬具)が発見された。同時に出土した布留1式土器の年代から4世紀のものと推定されている。この鐙の発見以降、橿考研内では急速に箸墓は卑弥呼の墓でなく、臺與(台与)の墓でもなく、その次の男王の墓という意見が強くなっているそうだ。


【参考・引用文献】
(*)、2012年9月9日付け朝日新聞大阪本社版1面記事より転記 (**)報道発表資料「箸墓・西殿塚古墳赤色立体地図の作成」(橿考研・アジア航測KK)より転記 (***)奈良県桜井市発行の(広報「わかざくら」 平成14年1月15日号より転記

2013/02/21作成 by pancho_de_ohsei
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