橿原日記 平成24年11月8日

映画「のぼうの城」の舞台となった武州の忍城(おしじょう)

映画「のぼうの城」の一場面
昭和63年(1988)、忍城跡に復元された御三階櫓(おさんがいやぐら)

戦国時代の最後を飾る合戦で水攻めにも耐えた忍城

原作者の和田竜氏
原作者の和田竜氏
■ 今月2日から、映画「のぼうの城」が各地の映画館で封切られている。現在の行田市にあった忍城の水攻めを描いた戦国歴史小説を映画化した作品で、原作者は大阪生まれの脚本家和田竜(わだりゅう)(1969 - )。繊維業界紙で記者を務めるかたわら執筆したオリジナル脚本『忍ぶの城』が、平成15年(2003)に第29回城戸賞を受賞した。

■ そこで、和田氏は平成19年(2007)に『忍ぶの城』を自らノベライズ(小説化)し、『のぼうの城』として出版した。直木賞や吉川英治文学新人賞の候補にもなった作品で、平成22年(2010)に和田氏自らの脚本で映画化されることが決定した。

■ 「のぼうの城」とは変わったタイトルだが、”のぼう”とは”でくのぼう”の略だそうだ。戦国末期、石田三成率いる2万3千余の大軍に屈せず、農民町人併せてもわずか十分の一の兵力で抗戦し忍城を守った実在の城代家老成田長親(なりたながちか)のことである。実は、彼は運動が滅法苦手で、馬にさえ乗れない愚鈍な人物だが、領民からは非常に慕われ「のぼう様」と呼ばれていたという。主演の和泉流狂言師野村萬斎(のむらまんさい)がその間抜けぶりを物の見事に演じきっている。

野村萬斎が演じた成田長親
■ 忍城は、戦国時代に行田周辺の武蔵武士の中から、現在の熊谷市上之を本拠地とする成田氏が台頭して築いた城とされている。文明11年(1479)の古河公方足利成氏(あしかがしげうじ)の書状に「忍城」の名があるから、そのころには築城されていたようだ。上杉、北条氏との戦いにも落城せず、石田三成の水攻めにも耐え、戦国の世を生き抜いた名城である。

■ この映画のテーマである石田三成の水攻めとは、今から420年ほど前の天正18年(1590)6月に生じた忍城攻防戦を指す。その年の3月、関東平定のため豊臣秀吉が北条氏の拠点である小田原へ出陣した。その折、秀吉は、「武州・忍城を討ち、武功を立てよ」と石田三成に命じ、2万の兵を与えた。当時の忍城の城主は成田氏長(なりたうじなが)だったが、成田氏は北条氏に属していたため、忍城は小田原城の支城の一つとされていた。

小田原征伐時の関東
小田原征伐時の関東
■ 小田原城の北条氏政は、豊臣側に抵抗するべく関東各地に21あった支城の城主に、小田原城に立て籠もって敵を防ぐ籠城(ろうじょう)に参加するよう通達してきた。忍城の当主・成田氏長は、北条氏に従うように見せかけ、裏で豊臣側への降伏を内通することを、従兄弟の城代家老・成田長親らに打ち明けて小田原城の籠城作戦に参加していった。

■ 石田三成が率いるのは、盟友の大谷吉継(おおたに よしつぐ)長束正家(なつか まさいえ)らの軍勢2万3千余だった。大軍を率いた三成は、まず館林城を攻めてこれを降伏開城させると、次に向かったのは、忍城である。近くの丸墓山古墳に陣取った三成は、軍使長束正家を忍城に送り、降伏を勧めた。

■ 城主の成田氏長よりその時は降伏するよう命じられていた総大将の長親だが、軍使の傲慢な振る舞いに怒って「戦い」を選択してしまう。当主氏長が多くの兵を連れて小田原城に入ったため、残っている兵は少なかった。農民町人まで併せても、せいぜい2千6百余人だったという。重臣たちは初め混乱するが、覚悟を決めると全軍一丸となって2万3千余の三成軍と対峙することを決めた。ここに、戦国時代の最後を飾る忍城の戦いが幕を切っておとされた。三成軍の果敢な攻撃に対して、地元の農民達の協力もあって忍城はなかなか落ちない。

■ 業を煮やした三成は、近くを流れる利根川と荒川を利用した水攻めを行うことを6月14日に決定し、城を半円形に取り囲む総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を約1週間で建設させた。そして、両河川の水を引き入れた。城の周辺は一面が湖水となったが、それでも城は落ちない。城の本丸は周囲からわずかに高い微高地に築かれていたので、湖水から浮いているように見えた。城が落ちないのは、城が浮くからだと、その時忍城の別名「浮き城」が生まれた。水攻めにあって満々と水をたたえた湖に小舟を浮かべて、敵兵の士気を削ぐためにその面前で野村萬斎が演じる狂言は、まさに彼の真骨頂であり、映画のハイライトシーンの一つになっている。

映画「のぼうの城」の一場面
映画「のぼうの城」の一場面

■ しかし、長親を慕う農民の破壊工作もあって、水攻めは成功しない。水攻めに失敗した三成は攻め口を変え、幾たびも城に攻撃をかける。中でも熾烈を極めたのは、大手口と持田口であったという。しかし城方の防戦はめざましく寄せ手をことごとく撃退した。やがて小田原城が落城し、籠城していた城主・成田氏長からの指示により天正18年7月11日、忍城も開城した。こうして成田氏の支配は終わりを告げた。21あったとされる小田原城の支城のうち、小田原城落城の時まで持ちこたえた支城は、忍城だけだった。



埼玉古墳群の丸墓山から眺めた忍城跡

映画「のぼうの城」のチラシ
映画「のぼうの城」のチラシ
■ 昨日は二十四節句の一つ「立冬」だったが、久しぶりに地元の映画館で野村萬斎主演の「のぼうの城」を鑑賞した。映画では、近隣の住民を徴用して忍城の周りに堤を築くシーンがあった。後世、石田堤と呼ばれる水攻め用の土塁である。

■ そして、堤が完成すると、利根川の水が引き入れられ、まるで3.11の大津波のように城の周囲を飲み込んでいく迫力のある特撮シーンがあった。現在の埼玉古墳群の中の丸墓山の頂上に陣を張った石田三成ら攻め手の重臣たちがその様子を眺める姿が、なんとも印象的だった。

■ 埼玉古墳群は、今まで史跡探訪や現地説明会で何度も訪れたことがある。古墳群の中の丸墓山古墳は、直径105m、高さ19mを測る全国でも最大規模の円墳で、何度も墳頂に登ったことがあり、この円墳へ続く遊歩道が石田堤の一部だったことも知っている。だが、思い返しても、その頂上から忍城跡を望見した記憶がない。

丸墓山古墳の頂上から
丸墓山古墳の頂上から周囲が水没した忍城を
眺める石田三成のイラスト

■ その様子を示したイラストがあるが、古墳と忍城は目と鼻の先の距離に描かれている。現在の地図上で測定してみても、忍城跡は丸墓山古墳の西北西2.37キロの場所に位置していて、それほど近い距離とは言えない。一度当時の様子を体験したくなり、久しぶりに行田市を訪れることにした。埼玉古墳群や忍城跡は我が家からそれほど遠い場所にあるわけではない。車で1時間もあればで行ける距離にある。近くの浦和ICから東北自動車道に乗り、加須ICで一般国道125号に降りれば、後は国道を西進すれば良い。

忍城戦図
忍城戦図 (大正3年参謀本部作成)
(「日本戦史 小田原役」付図)(*)
■ ちなみに、開城後の忍城は江戸時代の初めに城番が置かれ、城の周辺は幕府直轄地とされた。家康がたびたび鷹狩りに訪れたとのことだ。寛永16年(1639)、老中阿部忠秋が城主となり、それから阿部家の時代が9代184年続いた。文政6年(1823)には松平家に城主が代わったが、幕末の動乱に城下が巻き込まれることはなかった。しかし、明治4年(1871)に廃藩となり、城は明治6年(1873)に解体された。現在、忍城本丸跡に行田市郷土博物館が建っている。その一画に、昭和63年(1988)、忍城の御三階櫓(おさんがいやぐら)が復元されている。櫓は展望室や行田の今昔を写真や資料で紹介する展示室になっていて、郷土博物館から入館できる。


■ 立冬を過ぎたにしては、朝から良く晴れ渡った風のない一日だった。東北自動車道を20分ほどマイカーで走り、加須ICで国道125号線に降りた。国道は加須の市街地を抜けて一直線に西に向かって延びている。市街地を抜けると周囲には北関東の平野が広がるが、前方の遙か彼方に秩父連峰がぼんやりと小さくみえているだけで、まさになんの凹凸もない平野の真ん中を車を走らせているという感じだ。

■ 行田市に入ると、忍城まで2.8キロの標識が出ていた。忍城跡に建てられた郷土博物館は、市役所前の交差点を過ぎてすぐ近くにある。駐車場に車を入れると、まず向かったのは、忍城の復元された御三階櫓である。

城の東の濠に沿った東小路 白壁がまぶしい御三階櫓
城の東の濠に沿った東小路 白壁がまぶしい御三階櫓

■ 忍城址の東小路は、木陰と水の流れが美しい遊歩道として整備されている。その東小路から見上げる御三階櫓が美しい。周囲の紅葉した樹木をバックに雲一つ無い青空に向かってそびえる櫓の白壁が目にしみるほどまぶしい。

御三階櫓の横にあるあずま橋と東門 東小路から見た鐘楼
御三階櫓の横にあるあずま橋と東門 東小路から見た鐘楼

■ 東小路を北の国道125号線に向かって進むと、濠にあずま橋がかかり、その向こうに東門がある。国道の際の復元された土塁と土塀越には鐘楼が見える。文政6年(1823)に伊勢桑名から入封した松平忠堯(まつだいらただたか)が持参してきたもので、本物は郷土博物館に展示されている。

博物館の庭園 狭間(さま)を切った瓦葺きの土塀
博物館の庭園 狭間(さま)を切った瓦葺きの土塀

■ 行田市郷土博物館は、かつての忍城本丸跡地に昭和63年(1988)2月にオープンした。「行田の歴史と文化」を統一テーマに、古代の行田、中世の行田、近世の行田、および足袋と行田の4つのブースで行田の歴史の特色を示す遺品を展示している。

行田市郷土博物館の正面入口
行田市郷土博物館の正面入口
■ さらに、御三階櫓も2階から上が展示場になっていて、2階は忍城と城下町を、3階は近・現代の行田をテーマに絵や写真を中心に展示している。最上階は展望台で、現在の行田の町並みを見下ろすことができる。現在は、博物館で開館25周年記念として第26回企画展「城絵図と忍城」が開催されていて、江戸時代の各時期の武州忍城の絵図を中心に展示していた。

歴代忍城主の家紋と甲冑
歴代忍城主の家紋と甲冑

歴代忍城主の家紋
歴代忍城主の家紋
■ エントランスホールから展示会場に続く通路には、歴代忍城主の家紋と甲冑が並べられていた。「丸に三つ引き」は戦国時代の成田氏の家紋、「丸に三蝶の内十六菊葉」は、寛永10年から16年まで城主だった松平信綱の家紋、「丸に違い鷹の葉」は寛永16年から文政6年までの阿部氏の家紋、そして「丸に三つ葉葵」は天正18年から慶長5年まで城番を勤めた東条松平氏と文政6年から明治4年まで城主だった奥平松平氏の家紋である。


■ 今から500年前、城の築かれた場所は、北は利根川、南は荒川にはさまれた扇状地で、小さな川が乱流するとともに、伏流水が寄り集まって一面に湿潤地帯を形成し、沼のところどころに島が点在する地形だった。成田氏はこの地形を巧みに利用して、沼を埋め立てず島に橋を渡す形で平城を築いた。当初は櫓を立てずに本丸は空き地とし、二の丸に屋敷を作ってそこを住まいとしていた。そのため、攻めにくく守りやすい城であったとされる。当時の最も要害であった大沼が、現在は郷土博物館の南西にある水城公園となっていて、市民に憩いの場を提供している。

郷土博物館の南西に位置する水城公園
郷土博物館の南西に位置する水城公園

水城公園の中の遊歩道 飛来してきている鴨の群れ
水城公園の中の遊歩道 飛来してきている鴨の群れ

■ 16世紀の初め頃の忍城は、周囲が沼で囲まれ所々に島が点在する地形だったことを文献的に証明してくれる人物がいる。戦国期に活躍した柴屋軒宗長(さいおくけんそうちよう)(1448 -1532)という連歌師である。

柴屋軒宗長の座像(*)
■ 宗長は永正6年(1509)7月から関東各地を歴訪する旅に出て「東路の津都(あずまじのつと)」という紀行文を残している。その中に、武州成田下総守顕泰亭(忍城)に立ち寄って連歌の会を催した時の記述がある。彼は忍城のことを〈水郷なり。館のめぐり四方沼水幾重ともなく,蘆の霜枯れ。三十余町四方へかけて,水鳥,雁多く見えわたるさまなるべし〉と記し、次の歌を詠んでいる。
あしかものみきはゝ雁の常世かな




探訪地の所在地
探訪地の所在地マップ
■ 水上公園から埼玉古墳群がある「さきたま風土記の丘」までは、1.8キロほど離れているにすぎない。古墳公園の駐車場に車を入れると、まっすぐ丸墓山古墳に向かった。上毛三山のひとつに数えられる群馬の名山・榛名山の噴火の時期から、この円墳が築かれた時期は推定されている。

■ 榛名山は古墳時代に大きな噴火を2回起こしている。最初の噴火は5世紀末か6世紀初頭に起きた榛名山二つ岳の渋川噴火で、火山灰(Hr-FA)が降り注いだ。2回目の噴火は6世紀中葉に起きた榛名山二つ岳の伊香保噴火で、軽石(Hr-FP)が降り注いだ。

我が国最大の円墳・丸墓山古墳
我が国最大の円墳・丸墓山古墳

■ 発掘調査によって、真っ黒な生活面の旧地表が丸墓山古墳に見つかっており、その中に火山灰Hr-FAが入っていた。そのため、火山灰Hr-FAの降下以降の6世紀の初頭にこの古墳が造られたと推測されている。埋葬された族長は前方後円墳を造ることが認められていなかったので、円墳にしたようだ。 ただし、上記のように円墳としては我が国最大の古墳である。

丸墓山古墳へのアクセス道路はかっての石田堤の名残
丸墓山古墳へのアクセス道路はかっての石田堤の名残り
■ 駐車場から丸墓山古墳へアクセスする遊歩道は、かっての石田堤の名残りとされている。横から眺めてみると、確かに周辺とは幾分高くなっていて、土塁だったことが分かる。しかし、石田堤が築かれた当時は、この程度の高さではなかったはずだ。映画では土留めの杭が打たれ、かなりの高さまで堤が築かれていた。墳頂は現在でもかなり広く、広場の端で、桜の巨木が何本も枝を伸ばしている。

西側から見た丸墓山古墳 東側から見た丸墓山古墳
西側から見た丸墓山古墳 東側から見た丸墓山古墳

■ 墳頂には忍城方向に一枚の写真パネルが置かれ、忍城の方向を示してある。ズームで撮影されたもので、忍城跡に建てられた御三階櫓は、肉眼では識別できないほど遠くに見える。石田三成はこの古墳の頂上に陣を張り、城攻めを繰り返したがうまくいかない。そこで、忍城の周囲の地形を俯瞰して、秀吉の備中高松城水攻めにならって、忍城の水攻めを決断した。

丸墓山古墳の頂きに置かれた写真パネル
丸墓山古墳の頂きに置かれた写真パネル

■ 水攻めは、莫大な費用と時間がかかる戦法である。さらに、城だけでなく近郷の田畑までを水没させ、荒れ地に変えてしまう。当時一介の奉行に過ぎなかった三成個人の判断だけで、成し得ることでは無い。三成は水攻めの策を秀吉に打診して、秀吉の指示のもとに決行したようだ。

忍城水攻めのイラスト
忍城水攻めのイラスト
■ 秀吉の立場からすれば、水攻めは己の富と力を関東の新参諸将に見せつける絶好の機会だった。一夜にして城だけでなく、その周辺も湖に変えてしまうことは、東国諸将には思いもよらない戦術であり、秀吉は何が何でも城攻めの演出を行いたかったと思われる。そうした推論が可能な書状が何通か残っている。

■ 天正18年(1590)6月12日付けの秀吉の朱印状は、三成からの忍城水攻めの打診に対してその対策を申しつけたものである。その中で、水攻めの戦法による城内の混乱と、城周辺が荒廃になることを憂えて、婦女子や老人などの足弱の者らを先ず人質として周辺の城に移送して、鹿垣を巡らした場所に留置すること、小田原落城まで人質を保護することなどを申しつけている。さらに、三成が忍城攻めの総責任者から外されるという不安を抱いていることを感じ取って、その不安を打ち消してやっている。

天正18年(1590)6月20日付け秀吉朱印状
天正18年(1590)6月20日付け秀吉朱印状
■ 6月20日付けの三成宛の朱印状には、「水攻めの普請を油断なく行うように」、「浅野長吉と真田(昌幸か?)の両名を遣わすのでよく相談するように」「普請ができたら使者を派遣して見に行かせる」と言った内容のことが書かれている。7月3日付けの浅野長吉宛の朱印状では、浅野が忍城の皿尾口の郭を破って敵首30余を討ち取ったことを秀吉は評価せず、忍城攻略は水攻めであるため戦略を乱す行為は慎しむよう申し伝えている。

■ さらに別の書状の中で、秀吉は諸将をつれて水攻め見物に出かけると高らかに宣言している。もっとも実際には諸般の事情でこの見物は実現できなかったようだ。石田三成は、全長28キロメートルに及ぶ堤を、わずか一週間で作り上げたと言われている。実際には、自然堤防や微高地を、巧みにつなぎ合わせて堤としたようで、現在残っているものも、自然堤防上に1〜2m程盛土をしたにすぎない。

濁流で決壊する石田堤
濁流で決壊する石田堤
■ 映画では、近隣の農民達が自分たちの田畑を守るため、せっかく築き上げた石田堤を密かに打ち壊して排水させることに成功する筋書きになっている。実際は、土塁が積まれたのは旧暦の6月で河川は渇水期の時期だ。利根川や荒川から水を引き入れても、期待したほど水が貯まったとは思えない。ところが、ある日突然大雨が降りだして堤が決壊した。決壊したのは、現在下堤や堤根と呼ばれている付近の堤である。これらの場所は忍城よりも地形的に低くなっており、折角貯まった水が濁流となって寄せ手の三成らに襲いかかり、水攻めは失敗に終わる。水の退いたあとは、以前にも増した泥濘地となって、城攻めどころではなくなった、と言われている。


「堤根」交差点
「堤根」交差点
■ 丸墓山付近以外にも、石田堤が残存している場所があるというのでいってみることにした。埼玉古墳群の近くを武蔵水路が南に向かって流れている。その左岸は「さきたま緑道」と呼ばれる遊歩道だが、右岸は県道36号線(上中森鴻巣線)が築かれている。しばらく県道を南下すると、国道17号線の高架下を過ぎてすぐの所に「堤根」という交差点がある。その交差点を右折すると、次の永徳寺の手前の信号の所に「石田堤」方面の標識が立っている。

狭い道路脇に立つ石田堤碑
狭い道路脇に立つ石田堤碑

石田堤の説明板がある付近 石田堤史跡公園
石田堤の説明板がある付近 石田堤史跡公園
■ あとは、その表示に従って集落の中の狭い生活道路を進めばよい。右手に「石田堤碑」が立っていて、そこから道路沿いに石田堤の残存部がJR上越新幹線の高架で分断されながら約250mほど続いている。忍川を跨ぐ橋の付近には、堤を横切る上越新幹線の高架をはさんで、近年鴻巣市袋町によって史跡公園として整備された石田堤史跡公園がある。高架の真下には櫓の模型と多少の史料の写真が展示してある。黄色い俵が何個か積んであるが、おそらく土嚢をイメージしたものだろうか。

aaaaa aaaaa
上越新幹線の高架下の石田堤史跡公園 高架の南に続いている石田堤


[参考・引用文献](*) 行田市郷土博物館 開館25周年記念 第26回企画展「城絵図と忍城」の図録

2012/11/09作成 by pancho_de_ohsei
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