橿原日記 平成24年(2012)10月28日

石上神宮の国宝七支刀(しちしとう)と物部氏の布留遺跡(ふるいせき)

天理市文化センターで開催されたシンポジウム『国宝「七支刀」の謎』 (撮影 2012/10/28)

一本の鉄剣が明らかにした4世紀の東アジア情勢

七支刀
■ 奈良県天理市の石上神宮(いそのかみじんぐう)には、昭和28年(1953)に国宝に指定された七支刀(しちしとう)が保存されている。全長74.8cmの鉄剣だが、(ほこ)に似た主身の左右から三本ずつの枝刃が出ていて、全部で七本の刃を持つことから、「ななつさやのたち」とも「ろくさのほこ」とも呼ばれてきた。

■ 見るからに変わった形をした鉄剣で、他に類例があるという話を聞かない。もちろん実用ではなく、祭祀用か、または何かの記念のために造られたと想定されている。珍しいことに、何時、何処で、誰が、何のためにこの鉄剣を造らせたのかが、二つの資料から判明している。一つは刀身に金象嵌(きんぞうがん)された61文字からなる銘文である。今ひとつは『日本書紀』巻第九神功皇后紀に記された韓半島との外交記事である。

■ この七支刀の刀身には表面に「泰和四年」の年号から始まる34文字が、さらに裏面に「先世以来」から始まる27文字が金象嵌されている。全文は以下の通り。

(表)泰和四年□月十六日丙午正陽造百錬鋼七支刀出辟百兵宜供供候王□□□□作
(裏)先世以来未有此刀百済王世□奇生聖音故為倭王旨造伝示後世

■ 象嵌の一部が剥落していて、正確に読み取れない文字もいくつかある。例えば表の第5文字は、従来は1文字と想定されていたが、最近では”十一”と2文字で読んでいるようだ。銘文の大意はおよそ次のように判読されている。
(表)泰和四年十一月十六日丙午正陽、百錬の鋳の七支刀を造る。(すす)みては百兵を()け、供供たる倭王に宜し、□□□□作なり
(裏)先世以来、未だ此の刀有らず。百済王の世子、奇しくも聖音に生く。故に倭王の為に旨造し、後世に伝示す。

金象嵌された銘文
金象嵌された銘文
■ 表の2文字目の「和」は判読文字で「和」と理解する説と「始」と理解する説がある。「和」と解釈した場合、「泰」は「太」に音通するため、泰和は東晋の太和4(西暦369)年を示す。「泰始」と理解した場合は、西晋の泰始4(西暦268)年または南宋の泰始4(西暦468)年を表すことになる。通説では、泰和四年は西暦369年と解する説が圧倒的である。

■ と言うのは、『日本書紀』の神功紀の中に、次のような関連記事が見いだせるためだ。すなわち、
(神功)五二年秋九月十日に、(百済の使節の)久□(くてい)らが千熊長彦に従ってやってきた。そのとき、七枝刀(ななつさやのたち)一口、七子鏡(ななつこのかがみ)一面、および種々の重宝を奉った、とある。

■ 神功52年は西暦252年に相当するが、この頃の『日本書紀』の年号は2運すなわち120年ほど遡らせている。そのため、実際は西暦372年に該当すると一般に解釈されている。そうであれば、西暦369年に百済王の太子が製作させた七支刀が3年後に百済使節によって我が国にもたらされたことになる。

■ では、七支刀の製作を命じた百済の太子は誰か。『日本書紀』は神功55年に百済の肖古王が薨じ、56年に貴須が立って王となった、と記している。そのことから、当時の百済は近肖古王の治世であり、その太子は即位して王となった近仇首であると解されている。『三国史記』の百済本紀には、第13代近肖古(クンチョコ)王が在位30年目(西暦375年)の冬10月に薨じたので、近仇首(クングス)王が即位した、と記されている。

4世紀の朝鮮半島
4世紀の朝鮮半島
■ では、七支刀とは何であり、何故この時期に我が国にもたらされたのか。それを知るためには、当時の韓半島の歴史を知らなければならない。高句麗の美川王(在位300-331)は、西暦313年から314年にかけて楽浪郡とその南の帯方郡を攻略して、中国人の政治勢力を完全に韓半島から駆逐し、両郡の土地を合わせてしまった。そのため、百済は高句麗と国境を接するようになり、以後、高句麗との武力衝突を運命づけられるようになった。

■ 北の高句麗に対抗するために、百済はまず隣国・新羅との友好関係を樹立した。近肖古王(在位347-375)の治世21年(366年)3月に、新羅に使者を派遣し、さらに2年後の3月には馬二匹を送って友好関係を深めている。新羅との和親だけでは心許なかったか、伽耶諸国を支援するために半島まで軍を派遣させていたの存在に近肖古王は着目した。

■ 『日本書紀』の神功皇后紀によれば、百済王は364年、使節を伽耶諸国の一つ卓淳(とくじゅん)に派遣して、倭との通交の斡旋を依頼している。百済が新羅と手を結んだ366年3月、倭国から斯摩宿禰(しまのすくね)が卓淳国に派遣れてきた。斯摩は卓淳国王から百済が倭国と通交を希望していると聞いて、従者を百済に派遣した。近肖古王は喜んで使者を厚遇し多くの珍宝を見せて、これらを倭国に献じるため使節を派遣することを約束したという。 翌年には、近肖古王は実際に使節を倭国に派遣してきている。

卓淳の所在地(現在の昌原)
卓淳の所在地(現在の慶尚南道昌原市)
■ 神功皇后49年(369年)には、倭から派遣された千熊長彦と百済王は、百済の古沙山に登り、磐の上で同盟の誓いを立てた。百済の太子が七支刀一口を作らせたのでは、この同盟を記念してのことだろうと推測されている。

■ 軍事盟約が成った年の9月、高句麗の故国原王が歩騎2万を率いて百済の北界を侵略してきた。すでに新羅と和親が成立し、倭との同盟も実現した百済には、後顧の憂いはなかった。近肖古王は太子の近仇首を遣わして、高句麗軍の南下を防ぐとともに、逆に逃げる敵を追撃して北の水谷城(いまの新渓)まで追い払ったという。この事件が、高句麗と百済の本格的な衝突の発端とされている。

■ 2年後の371年、高句麗が再び百済領に攻め込んできた。近肖古王は太子の近仇首とともに精兵3万を率いて出陣すると、待ち伏せによって高句麗軍を敗退させ、高句麗の南進の牙城である平壌城まで侵攻した。このとき、高句麗の故国原王は百済軍の流れ矢にあたって戦死した。百済は故国原王の首を切りとり、(さら)しものにしたという。そのことが、高句麗にとって忘れがたい、骨髄に徹する怨恨となった。これ以後高句麗・百済間の衝突はますますエスカレートしていく。

■ 375年、高句麗が北辺の城を攻めてきたので、近肖古王は将兵を派遣してこれを防いだが、この時は勝てなかった。王は大軍を起こして報復しようとしたが、その年の11月死亡してしまった。王位を継いだのが、七支刀を作らせたとされる太子の近仇首である。倭国はその後、この百済との同盟関係に引きずられて、麗・済戦争への加入を余儀なくしていく。広開土王(在位391〜412)が即位した辛卯年(391)以来、倭軍は高句麗を相手に壮絶な戦闘を半島で繰り広げることになる。そのことは、広開土王の輝かしい戦績を記録した碑に詳しい。

現在の集安にある好太王碑

■ 4世紀代の日本に関して、中国の歴史書には3世紀の邪馬台国や5世紀の倭の五王の遣使のような外交記述ががないため、日本史では”謎の4世紀”と呼んでいる。だが、七支刀は4世紀に倭国が朝鮮半島南部と政治的・軍事的関係を持ったことを示す貴重な証拠であり、好太王碑と並んで貴重な金石文である。

■ 以前は、『日本書紀』の内容から、日本の歴史学者は七支刀は属国の百済から倭国に”献上”されたと解釈してきた。しかし、韓国の歴史学者はこの解釈に猛反発し、百済から属国の倭に”下賜”したものだと唱えた。歴史的事件に現在のナショナリズムを持ち込んだ誠に意味のない論争が続いたが、現在では、対等の独立国である両国が一種の軍事同盟を結んだ記念に百済から倭国に”贈呈”されたものとして、一応落ち着いている。

■ つまり、高句麗と対峙する百済から倭への軍事的支援要請、倭にとっては朝鮮半島の鉄素材の確保や最新技術の導入などといった、相互に極めて高度な軍事的、外交的利害の一致の上にたった関係を象徴するものと解され、高句麗に対する百済・加耶諸国・倭という構図が成立した証しとされている。


石上神宮の参道
石上神宮の参道

■ この七支刀は、石上神宮の禁足地の南西の隅に建っている神庫(ほくら)に、日の御盾と称する鉄盾(てつたて)らと共に伝世してきた。明治6年(1873)に石上神宮の大宮司として赴任してきた菅政友(かんまさとも)は、神庫に伝わる什物を点検し、厳重に封印された木箱を開いて、そこに異様な形をした六叉の鉾を見いだした。そして、黒く錆びた刀身に金色に見えるものがあるのに気づき、小刀の先で錆びを静かに落としたところ、文字があるのを発見したという。

石上神宮の神庫
石上神宮の神庫
■ 七支刀は昭和28年(1953)に国宝の指定を受け、現在は他の神宝とともに、昭和55年(1980)に完成した宝物収蔵庫に奉安されている。石上神宮は七支刀を御神体と同様のものとして奉斎しているが、神体そのものではない。

■ 石上神宮の由緒書きによれば、神宮の祭神は石上大神となっている。しかし、これは総称であって、実際には次の3神をいう。すなわち神武天皇の東征の途上の難儀を救うため天照大神より下された布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)の霊威である布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)(主祭神)、スサノオノミコトが八岐大蛇の退治に用いた天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)に宿る霊威の布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)、および物部氏の祖の饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)が天下るときに授けられた十種の神宝に宿る霊威の布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)である。

石上神宮の拝殿
石上神宮の拝殿
■ 石上神宮に本殿はなく、拝殿後方の禁足地に主祭神を埋斎し、諸神は拝殿に配祀されていた。しかし、明治7年菅政友大宮司により禁足地が発掘され、主祭神の布都御魂剣の出御を仰いで大正2年(1927)に本殿が造営された。禁足地は現在も「布留社」と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれて、昔の佇まいを残している。



天理市文化センターで開催されたシンポジウム「国宝七支刀の謎 〜布留周辺を考える〜」

壇上に並んだ講演者の皆さん
壇上に並んだパネリスト
■ 本日午後1時半から平成24年度の山の辺文化会議主催のシンポジウムが天理市文化センターで開催されたので、悪天候の中出かけてきた。シンポジウムのタイトルが「国宝七支刀の謎」となっており、石上神宮の宮司だった白井伊佐牟(しらいいさむ)氏がシンポジウムに先立って「石上神宮と七支刀」というタイトルで講演されると知ったためだ。

■ シンポジウムには「布留周辺を考える」のサブタイトルが付いていて、天理参考館の学芸員日野宏氏の講演「物部氏と布留遺跡」と奈良大学文学部の准教授土平博氏の講演「内山永久寺域と杣之内村の景観」も同時に行われた。

内山永久寺跡に広がる池
内山永久寺跡に広がる池
■ 内山永久寺は天理市の杣之内(そまのうち)町にかつて存在した寺院である。永久年間(1113-1118)に鳥羽天皇の勅願で建立され多くの伽藍を備える大寺だったが、廃仏毀釈の被害により明治のはじめに廃寺となった。跡地の池が石上神宮の南、山の辺の道沿いに残っており、山の辺の道の散策では必ず一息入れるところである。だが、本日の関心事は七支刀と石上神宮を奉斎してきた物部氏だったので、白井氏と日野氏の講演を特に注目した。

石上神宮の楼門(重文)
石上神宮の楼門(重文)
■ 白井氏は「石上神宮と七支刀」の講演の中で、七支刀に関する謎について言及されるのかと思っていたが、事前に用意されたレジメに列記された史料の抜粋に沿って、主に石上神宮の沿革を説明されただけだった。七支刀に関しては、上記の神功紀の内容と、菅政友の禁足地発掘の話題に触れられたに過ぎなかった。

■ ただ、興味深かったのは、菅政友が大宮司として石上神宮に赴任する以前から、七支刀の存在を知っていたと言及された点だ。菅政友は水戸生まれの藩士だったが、安政5(1858)年彰考館に入り『大日本史』の編纂に従事した後、明治6(1873)年石上神宮大宮司に転じた。『大日本史』は、水戸徳川家の当主徳川光圀によって開始され、光圀死後も水戸藩の事業として継続、明治時代に完成した日本の歴史書である。政友はその志と表の編纂に従事していたとき、光圀が元禄7年(1694)に家来の大串善という人物に石上神宮の宝庫について下問しているのを知った。

■ 大串善は光圀の命を受けて各地に出向いて史書編纂の資料を収集していた人物のようだ。光圀の下問に対して、石上神宮の宝庫には往古より鉾に似た鉄剣が神体と同じく奉安されていることを報告している。したがって、政友は大宮司として着任する以前から七支刀の存在を知っていて、その剣に関心を抱いて神宮に赴任してきたと白井氏は推論された。

■ さらに、春日若宮の神主だった中臣祐賢(なかとみのすけかた)の日記『中臣祐賢記』には「建治3年(1277)8月10日、大和神社に捨て置かれし布留の御楯、御鉾一本を布留本社に奉還した」という記述があることを示された。しかもその鉾は折れていたという。このように古文献を照合すると、長年に渡って人知れず伝世してきたという通説は嘘になる。実際には鎌倉時代には七支刀の存在が知られていたようだ。江戸時代には「六叉の鉾」と呼ばれ、例年六月の祭の神幸に霊代とされていたという。

刀匠の河内国平氏
刀匠の河内国平氏
■ 七支刀の謎の一つは、その特異な形をした製造方法である。銘文に”百錬鋼”とあるから鍛造(たんぞう)であるとばかり思っていた。ところが、七支刀は鍛造ではなく鋳造(ちゅうぞう)で造られたのでは?、との疑問を持たれた人物がいる。平成17年度の奈良県無形文化財保持者に指定された刀匠の河内国平(かわちくにひら)氏である。河内氏は、20数年前に恩師の故末永雅雄氏の指導で七支刀を鍛造で造った経験者である。しかし、そのとき七支刀は鍛造ではなく鋳造で造られたのでは、との疑問を持たれ、平成18年に鋳造での制作に挑戦された。

■ ちなみに、鉄に含まれる炭素の量が約2%以下の場合を「はがね」という。これを炭火で赤らめて大きな金槌で叩いて伸ばしたりくっつけたりして形を作りだしていく製法が鍛造である。逆に炭素の量が約2%を越える鉄を「ずく(銑鉄)」といい、これを摂氏1500度くらいの高熱で溶かして、土や石で作った鋳型に流し込んで形を作る製法を鋳造という。白井氏によれは、現時点では七支刀が鍛造か鋳造か分からないとのことだ。すでに国宝に指定されており、非接触による科学的調査によって精査してみないどちらとも言えないようだ。


■ 石上神宮は、大和盆地の中央東寄りの標高266mの布留山の北西山麓に鎮座する古社である。境内は鬱蒼とした常緑樹に囲われ、北西には布留川が流れ、周辺には古墳が密集している。当初は武門の棟梁たる古代氏族物部氏の氏神として信仰されてきたが、第10代崇神天皇の時代に神剣布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)をこの地で祀るようになって、朝廷の武器庫としてしても重視されるようになった。その経緯を、白井氏は次のように説明された。

■ 記紀神話では、布都御魂剣は建御雷神(たけみかずちのかみ)葦原中国(あしはらのなかつくに)の平定に用いたとされる神剣である。神武東征の折、ナガスネヒコ誅伐に失敗し、熊野山中で危機に陥った時、アマテラスは建御雷神を遣わそうとしたが、建御雷神は、「自分がいかなくとも、国を平定した剣があるので、それを降せばよい」と述べ、この剣を高倉下(たかくらじ)の倉に落とし入れた。そこで高倉下は神武のもとにこの神剣を持参したところ、その剣の霊力で軍勢を毒気から覚醒させ、後の戦争に勝利し、大和の征服に大いに役立ったとされる。

■ 社伝によれば、神武の治世にあっては、物部氏の祖と言われる宇摩志麻治命(うましまじのみこと)がこの神剣を宮中で祭ったが、崇神天皇7年、勅命によって同じく物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が現在地に遷し、「石神大神」として祀ったのが石上神宮の創建であるとされている。

■ 『日本書紀』は垂仁天皇26年秋8月3日、天皇が物部十千根(もののべのとおちね)に詔して、出雲国の神宝の検校を命じ、後に、石上神宮の神宝管理を任せたと記す。さらに、垂仁天皇39年冬10月には天皇の第2子の五十瓊敷命(いにしきのみこと)茅淳(ちぬ)(和泉の海)の莵砥(うと)の川上宮で剣一千口を造らせ、石上神宮に納めた。この後に、五十瓊敷命に石上の神宝を掌らせられたという。

■ このように、石上神宮には次から次へと刀剣などの武器が納められ、朝廷の武器庫へと変身していった。布留地域に盤踞し、石上神宮を奉斎してきた物部一族は、その祭祀を司るとともに武器の管理者として軍事氏族の色彩を強めて行く。そして、遂には大和王権の中にあって大伴氏と並ぶ軍事氏族として、大連(おおむらじ)の要職を世襲するようになっていった。

■ その後も史書には石上神宮の名が散見する。天武天皇3年(674)、天皇は忍壁皇子(刑部親王)を神宮に派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したという。それにもかかわらず、『日本後紀』には延暦23年(804)2月、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国葛野郡に移したとき、人員延べ15万7千余人を要したという。それほどまで多量の神宝が当時あったと推測されている。


布留遺跡の範囲
布留遺跡の範囲
■ 天理参考館の日野氏の講演「物部氏と布留遺跡」では、布留遺跡に関する貴重な話を拝聴した。

■ 布留遺跡は天理市周辺では最大の遺跡で、旧石器時代から現在まで連綿と続いてきた複合遺跡である。天理参考館は1976年から78年にかけて布留遺跡の範囲確認調査を実施した。その結果、遺跡は布留川を挟んで、現在の天理教本部を中心に東西2キロ、南北1.5キロの規模を持つ広大な範囲を占めることが判明した。旧石器時代から人が住んでいた痕跡があるが、5世紀から6世紀の古墳時代に大きく発展した様子が伺えるという。

■ 遺跡の南側には杣之内(そまのうち)古墳群があり、全国でトップクラスの首長墓が築かれていて、布留遺跡に大豪族がいたことが分かる。布留遺跡と石上神宮との位置関係から、布留遺跡は物部氏の拠点集落だったと考えられている。そのことを裏付けるように発掘調査では、住居跡以外に多数の祭りに関わる遺物や、玉工房や武器工房との関連を示す遺物などが見つかっている。

「祭の場」復元イメージ
樋の下・ドウドウ地区の全景

■ 天理教本部近くの樋の下・ドウドウ地区では、幅が15m、深さ12m規模の人工の大溝が築かれている。『日本書紀』には履中天皇のとき溝を掘るという記述があり、その溝に相当すると考えられている。しかし、付近の岩盤は固く、高度な技術を持った渡来工人の関与が指摘されている。その大溝の近くで、碁盤の目のように整然と配列された2棟の建物跡が見つかった。高床の倉庫跡と推測されているが、その規模は東西9.1m、南北6.6mもあり、5世紀の総柱建物である南郷遺跡や法円坂遺跡、鳴滝遺跡の倉庫跡の規模に比べても、そん色がないという。

「祭の場」復元イメージ
「祭の場」復元イメージ

■ また、布留川の両岸の石敷きの上から祭祀跡が見つかっており、そこから祭祀用土器や祭祀用玉、滑石で造られた剣形石製品などが多く出土している。特に注目すべきは、円筒埴輪10個分、朝顔型埴輪15〜16個分の破片が見つかっている。通常、これらの埴輪は古墳の墳丘部に設けられて聖域を画すためのものだが、布留遺跡の中には古墳はない。そのため、祭祀の場所を囲うために用いられたようだ。しかも、この時期の埴輪としては穴が多いのが特徴で、段だらに赤とか白を色分けてしている。

■ 物部氏が軍事氏族であったことを示す遺品としては、1500年前の皮の中から鞘や柄など多くの木製の刀装具が60個出土している。その数は全国最多である。また、布留遺跡は、大量の管玉や滑石製の玉、ガラス製玉鋳型やかなさしを出土しており、玉造り遺跡としても有名である。さらに鉄滓や(ふいご)の破片なども見つかっていて、鍛冶集団がいたことが分かる。

鳥足文土器
鳥足文土器
■ 鍛冶は当時の最先端の技術であり、物部氏が半島の百済や加耶から最先端技術を携えてやってきた渡来人を配下に抱えていたようだ。そのことは、百済の地域に特徴的な鳥の足を形をした鳥足文の土器や、高坏の下の部分にオタマジャクシの形の透かしし穴を持つ咸安地方独自の土器が発見されていることからも明らかである。

■ 日野氏の講演を聴きながら、物部氏も大勢の渡来系技術集団を配下に擁していたと聞いて納得したことがある。軍事氏族として、物部氏は4世紀以降長年にわたって百済への軍事支援に関わってきたであろう。その見返りとして、最高の技術水準をもつ工人集団の派遣を百済に要求したことはあり得ることだ。同様のことは、葛城襲津彦を祖とする葛城氏についても言えることである。葛城氏が天皇家に匹敵する大豪族に発展した背景には、葛城山麓に配置した渡来系集団の技術力がある。

■ 蘇我氏は韓半島に出兵することはなかった。その代わり、檜隈の地に居住する渡来系集団を配下におさめた。こうしてみると、大和盆地の地方氏族が大豪族に発展した最大の要因は、いかに多くの渡来系集団を抱えることができたか否かにかかっていたと言っても過言ではないだろう。


2012/10/31作成 by pancho_de_ohsei
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