橿原日記 平成24年10月21日

宇太水分神社(うだのみくまりじんじゃ)の秋の風物詩、菟田野(うたの)みくまり祭

宇太水分神社(中社)の本殿三棟
宇太水分神社(中社)の境内で行われる太鼓台の勇壮な練り回し (撮影 2012/10/21)

芳野川(ほうのがわ)沿いに鎮座する水分神社の三社三座

■ 水分と書いて「みくまり」と読む。「くまり」は「配り(くばり)」の意味である。水の分配を司る神を水分神(みくまりのかみ)と言い、水源地や水路の分水点などに祀られる。崇神天皇の時代に大和の東西南北に水分神を祀り、宇太(うだ)水分神社、葛木(かつらぎ)水分神社、吉野(よしの)水分神社、都祁(つげ)水分神社とした。これらを大和四水分神社という。

菟田野区上芳野付近の芳野川
菟田野区上芳野付近の芳野川
■ 宇陀市菟田野区の東境である岩端(いわはし)地区の山地に源を発し、菟田野区や榛原(はいばら)区を貫流して近鉄榛原駅の西方で宇陀川に合流する一級河川がある。芳野川(ほうのがわ)という。芳野という名の由来については、次のような伝承が伝わっている。

■ 崇神天皇の時代、奈良県と三重県の県境の平野山(現 高見山)から竜馬に乗って水分神が芳野の中山にやってきた。その神が現れたとき、不思議なかぐわしい香りがしたので、そこを芳野と名付けたという。ヨシノではない、ホウノである。さらに、その神はまた中山から白鷺に乗って玉岳上宮(現 菟田野古市場)に至ったが、神が現れたとき、如意宝珠のような大玉の雨を降らせたので、そこを玉岳上宮と名付けたという。

水分三社(芳野、古市場、下井足)の鎮座委地
水分三社(上芳野、古市場、下井足)の鎮座地
■ 宇陀市は、かっての宇陀郡大宇陀町・菟田野町・榛原町・室生村が平成18年(2006)に合併して誕生した比較的新しい奈良県北東部の市である。その菟田野区と榛原区を貫流する芳野川沿いに、水分神社の次の三社が上流から順に祀られている。
惣社水分神社(上社):鎮座地 宇陀市菟田野区上芳野(かみほうの)698)
宇太水分神社(中社):鎮座地 宇陀市菟田野区古市場(ふるいちば)245
宇太水分神社(下社):鎮座地 宇陀市榛原区下井足(しもいだに)字水分山635

菟田野区上芳野に鎮座する惣社水分神社

県道脇の水分神社の一の鳥居
県道脇に立つ惣社水分神社の一の鳥居

■ 水分三社の中でもっとも芳野川の上流に位置しているのが、菟田野区上芳野の集落に鎮座する惣社水分神社である。この神社にアクセスするには、県道31号線(榛原菟田野御杖線)以外にはない。以前は、奈良交通バスが近鉄榛原駅から岩端(いわはし)行きのバスを運行していて 「宮の原」で下車すれば徒歩ですぐだった。残念ながら、この路線は廃止されてしまった。

境内へ続く石段の参道
境内へ続く石段の参道
■ 榛原方面から車でアクセスする場合、菟田野区古市場にある国道166号の交差点「地蔵ケ辻」を右折して、県道31号線に入ると、旧街道の狭い道が芳野川に沿って東へ延びている。古い民家が立ち並ぶ集落を抜けると、県道は芳野川の左岸を谷の奥へと入っていく。谷の両側は低い山並みが続くが、谷幅は比較的広く、山間へ入り込んだという窮屈さは感じさせない。左右に稲穂を実らせたのどかな田園風景が広がっている。

■ 芳野川の右岸を走っていた県道31号線は、やがて小さな橋を渡って左岸に出ると、まもなく上芳野の集落に入る。一地区(現在の榛原、大宇陀、菟田野)の惣社として創始された水分神社は、集落のはずれに近い山麓に鎮座している。道路に面して石の鳥居が立っているので、住民に確認するまでもなくその場所は分かった。この神社の正式な名称は、芳野坐式内惣社宇陀水分神社(ほうのにますしきないそうしゃうたのみくまりじんじゃ)であり、中山水分神社、芳野本水分宮、または上社という別称も持つ。 

■ 古市場に鎮座する宇太水分神社(中社)(うだのみくまりじんじゃ(なかしゃ))の『玉岡水分縁起』では、当社すなわちこの惣社と下井足の水分神社(下社)が、共に古市場の水分神社の摂社とされている。しかしながら、当社所蔵の貞和2年(1346)の瓶子には”芳野本水分宮”と刻まれている。さらに、当社の社記には、神幸渡御の神事について、当社から古市場と下井足へ分霊鎮座式を行ったと書かれており、この惣社を本(もと)として芳野川中流の古市場、下流の下井足へ分霊を移したとも考えられる。

■ 大名行列のような御輿渡御や勇壮な太鼓台が境内を練る「菟田野みくまり祭」は、毎年10月の第3日曜日に、菟田野区古市場の宇陀水分神社(中社)で開かれる。神社の例大祭で、年に一度、神社の男神の速秋津彦命(はやあきつひこのみこと)に会うため、惣社水分神社の女神である速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)神輿(みこし)に乗ってやって来る。このみくまり祭の起源は平安時代までさかのぼり、神輿渡御祭(みこしとぎょさい)とも言う。

■ 惣社水分神社の社記によると、醍醐天皇の昌泰元年(898)に初めて渡御の神事が行われたようだ。その後、嘉応元年(1169)に惣社から古市場と下井足へ分霊鎮祀式が行われたが、その後中絶し、享徳2年(1453)に再興されが再び中絶してしまった。古市場への渡御を再興したのは古谷内膳という人物の尽力によるらしい。昭和34年(1959)の伊勢湾台風で中断したが、平成2年(1990)にふるさと創生事業で惣社の鳳輦(ほうれん)神輿(国の重要文化財)のレプリカを造り、復活した。

石段の途中にある二の鳥居
石段の途中にある二の鳥居
■ その日は、11人の槍振(やりふ)りらに先導されて、総勢40〜50名からなる一行は午前8時半に惣社を出発して、江戸時代の大名行列の形式をとって約6キロのこの県道を下ってくる。神輿を守るようにして時代装束や法被(はっぴ)姿の氏子たちの古式ゆたかな祭礼の行列が延々と続く情景は、挟箱(はさみばこ)や大きな花籠も加わって、奈良の「春日若宮おん祭」に引けを取らないほど豪華だという。秋の日差しが降りそそぐ谷間の道を、芳野川に沿って下ってくる祭礼の行列を想像するのは楽しい。

惣社水分神社の社殿
惣社水分神社の社殿

■ 鳥居をくぐって参道を進むと、その先に山腹に築かれた急な石の階段が続いている。石段途中の二の鳥居を過ぎ、三の鳥居のところまで登り切ると、広い境内が目の前に開けた。広場の奥の一段高いところに本殿があった。本殿は明治2年の建築で、大正2年に隣接する八幡宮を合祀したという。懸魚、蟇股などの彫刻は幕末の名工安本亀八の作だそうだ。この本殿に祀られているのは、天水分神(あめのみくまりのかみ)国水分神(くにのみくまりのかみ)速秋津彦命(はやあきつひめのみこと)天児屋根命(あめのこやねのみこと)譽田別命(ほんだわけのみこと)と多彩である。本殿の向かって左の建物は神饌所、右の建物は神輿渡御(みこしとぎょ)に用いられる複製(レプリカ)の神輿の保管所である。

国の重文に指定されている鳳輦神輿
国の重文に指定されている鳳輦神輿
■ 境内の右手には別棟の建物があり、扉が開いていたので覗いて見ると、昭和31年(1958)に国の重要文化財に指定された鳳輦神輿(ほうれんみこし)が置かれていた。鳳輦神輿とは、屋形の上に鳳凰を付けた神輿で、天皇の乗り物の美称である。この神輿は、約600年前の南北朝の頃に建造されたとされている。ふっくらした照起り(てらむくり)の宝形造りの屋根の上に鳳凰の飾りがついた木造漆塗の荘厳な神輿である。神輿の前には、何故か3ツの面が並べて置かれていた。

菟田野区古市場に鎮座する宇太水分神社(中社)

■ 菟田野(うたの)古市場(ふるいちば)は、かつては伊勢・熊野の海産物を大和に運ぶ交易の要地であり、その名のとおり市場町としても栄えた。その古市場の商店街の中程に宇太水分神社(うだのみくまりじんじゃ)(中社)が祀られている この神社は、大和朝廷の勢力範囲の東西南北に祀られた水分の神の東に当たり、崇神天皇の勅祭社とも言われる古社で、玉岡水分神社とも呼ばれている。

■ 一方、社伝によると、当社の起こりは、垂仁天皇の時に神託によって社殿が建設されたことにはじまると「玉岡水分社縁起」には記されている。すなわち、垂仁天皇の時代に伊勢神宮の神職・玉造村尾が神託によって御裳濯(みもすそ)川の水を分けて水分神体とし、高見山に登って鎮座地を請い、大和の宇陀に東西二社の社殿を構えて当社を本社と定め、井谷(下井足)と中山(上芳野)の社を摂社としたと言う。

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水分橋付近から境内に向かって続く狭い参道 境内入り口の両部鳥居

■ 神社の近くに、芳野川に架かる水分橋がある。国道166号線がその橋を渡ってすぐの所に朱塗りの明神鳥居が立ち、そこから民家の間を参道が水分神社の境内に向かって続いている。参道を進むと、境内の入口には朱塗りの両部鳥居が参拝者を迎えてくれる。鳥居の前には、この境内には国宝三棟、重文二棟があり火気厳禁の立て札が置かれている。

拝殿 拝殿の奥に見える本殿瑞垣
拝殿 拝殿の奥に見える本殿瑞垣

■ 境内には、源頼朝が子どもの頃に植えたといわれる杉の巨木が何本もそびえている。その巨木が影を落とす参道をまっすぐ進むと、基壇の上に立つ拝殿がある。拝殿の向こうに朱塗りの瑞垣(みずがき)に囲われて、これまた艶やかな朱で彩られた本殿の3棟の屋根が見える。左右の二棟に天水分神(あめのみくまりのかみ)国水分神(くにのみくまりのかみ)を祀り、中央の一棟にこれらの2神の父にあたる速秋津彦命(はやあきつひこのみこと)を祀っている。

宇太水分神社(中社)の本殿三棟
宇太水分神社(中社)の本殿三棟

■ これらの本殿の建物は、鎌倉時代の天応2年の建立であることが、棟木墨誌によって判明しており、国宝に指定されている。永禄2年以降に施された彩色が分かり、平成16年の修復の際に復元された。3棟の本殿の向かって右側の瑞垣内には末社の春日神社と宗像神社が鎮座している。どちらも国の重要文化財の指定を受けている。さらに、境内には金毘羅社と恵比須社も祀られている。

右側の瑞垣内に祀られた末社の春日神社と宗像神社
右側の瑞垣内に祀られた末社の春日神社と宗像神社

菟田野みくまり祭のポスター
菟田野みくまり祭のポスター
■ 宇太水分神社を有名にしているものは、10月の第3日曜日に行われる「みくまり祭」である。今年は10月21日(日)に挙行される。この日は、惣社宇太水分神社の祭神ハヤアキツヒメ(速秋津姫命)が年に一度だけ当社の祭神ハヤアキツヒコ(速秋津彦命)に逢うために神輿で渡御される。まるで七夕の日に天の川で逢瀬を楽しむ牽牛・彦星の話にヒントを得たようなロマンチックな祭礼である。『水分宮由来集』にも記述されていて、祭礼の起源は1200年前の平安時代までさかのぼるという。

■ ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメは、日本神話の神産みの段では、イザナギ・イザナミ二神の間に産まれた男女一対の神とされている。そして、ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ両神の子として生まれたのが、天水分神(あめのみくまりのかみ)国水分神(くにのみくまりのかみ)とされている。

■ 神輿渡御行列は、朝の8時半に川上の惣社水分神社を出発して、挟箱、槍振、花笠などが神輿を先導しながら、大名行列の形をとって下ってくる。宇太水分神社(中社)の神職と氏子らは、中間地点にあたる東地区まで女神を迎えに行き、そこで秘撰(ひせん)(特別なお供え)として粟、口紅、おしろいを女神の神輿に供える。女神は、そこでお化粧をするそうだ。

本殿横の夫婦杉
本殿横の夫婦杉
■ 昼ごろには、神輿渡御行列に先立ち、六基の勇壮な太鼓台が、乗児の叩く太鼓の音とともに、境内に集まってくる。担ぎ手のかけ声に調子を合わせ、乗り児の叩く太鼓が祭り気分を盛り上げる。そして、午後2時ごろには境内に勢ぞろい、神輿を出迎える。

■ 行列が完全に到着すると、女神が渡御されたことを告げる祭典が斎行される。両男女神は本殿の脇にある夫婦杉の根元で逢われるという。そこで、先ず神輿を夫婦杉の根元に奉安し、惣社水分神社及び地区社の御幣を第二殿の大床に奉り、各地区(地区)の氏神が集まったことを表す。

■ その後、当社宮司が本殿に向かって、惣社宮司が神輿に向かって、それぞれ同時に祝詞を奏上するというきわめて珍しい神事が行われる。このあと女神を見送りし、太鼓台もそれぞれ帰っていき、境内は大波が引いたあとのように静かになる。

榛原区下井足に鎮座する宇太水分神社(下社)

宇太水分神社(下社)の拝殿
宇太水分神社(下社)の拝殿

■ 宇太水分神社(下社)は、芳野川が宇陀川に合流する地点の南岸の水分山(舟形山)と呼ばれる丘陵上に鎮座している。川の合流地点に架かる橿原大橋を渡って県道31号線を少し南下すると、2つ目の信号の角に神社の参道入口がある。

宇太水分神社(下社)の参道入口 両側の杉木立の間を一直線に続く参道
宇太水分神社(下社)の参道入口 両側のヒノキの木立の間を一直線に続く参道

■ 宇太水分神社(下社)は大きく発展する榛原駅付近から少し離れた静かな丘陵上に位置し、市街地の彼方に大和富士で知られる標高812mの額井岳(ぬかいだけ)を遠望できる。交差点脇の丘陵の先端に立つ石の鳥居を抜けて丘陵を登り切ると、木の鳥居の先にヒノキの木立に覆われた参道が一直線に境内に向かって続いている。

神明造りの本殿
■ 拝殿の奥に位置する本殿は神明造りの建物である。明治の初め頃までは、本殿をはじめ付属の建物はすべて春日造りだったそうだ。ところが、明治10年(1877)に県社の指定を受けた際に、現在の神明造りに変えたとのことだ。本殿には主祭神として次の神々を祭祀している。
天水分神(あめのみくまりのかみ)国水分神(くにのみくまりのかみ)天児屋根命(あめのこやねのみこと)品陀別命(ほんだわけのみこと)
なお、末社として石神神社、稲荷神社、金比羅神社も境内に祀っている。

■ 当社の創起年代はよく分かっていないが、所伝によれば崇神天皇15年9月21日勅祭云々とされている。『三代実録』には貞観元年(859)に風雨祈願のために勅使を派遣し弊を奉ったと記されているという。延喜式神明帳には、宇陀郡17座のうち大社とされている。由緒ある神社であることはまちがいないが、当社保存の『水分宮由来集』や『神体形相記』などによれば、中世には幾多の消長を経ているという。

拝殿横に祀られている稲荷神社 同じく、金比羅神社
拝殿横に祀られている稲荷神社 同じく、金比羅神社

■ 神社略記には、この水分神社は風雨祈願、五穀豊穣の神徳の高い農業神として、芳野川に沿って「上社(芳野)」、「中社(古市場)」「下社(下井足)」と三所三座を祀って地域ごとに神徳を敬仰し、人々のよりどころとし今日に至っているとある。古来、人々は山に神霊が宿り、水を支配する神が存在すると信じて農耕生活を送ってきた。芳野川沿いに人々の祖先も同様に水分神を祀って農業生活を営んできたのであろう。

■ そのため、芳野の「惣社水分神社」は童躰、古市場の「上宮」は男躰、下井足の「下宮」は女躰とされ、かっては芳野から下井足へ神輿の渡御があったそうだ。そのためか、例大祭も上社や中社と同じく10月の第3日曜日に営まれる。神輿の渡御はないが、当社では独自にお渡り式を行っている。当社の拝観の栞には、宮司を先頭に、小さな神輿を担いで近隣の田園地帯を進む行列の写真が掲載されている。

例大祭用の太鼓、神輿、飾り船

■ 例大祭が行われる前日には、お渡り式に使われる太鼓や神輿、それになぜか飾り船が境内に陳列される。飾り船は神社が鎮座する舟形山に因んだものだろうか?



近隣の氏子達の最大の催しみくまり祭に沸き返る宇太水分神社(うだのみくまりじんじゃ)の境内

真打ち登場! 惣社水分神社からの渡御神輿、無事境内に到着


■ 毎年秋になると、宇陀ではロマンチックな祭が行われているのを新聞で知った。年に一度、惣社水分神社(上社)の女神のアキツヒメノミコトが宇太水分神社(中社)に祀られている夫君のハヤアキツヒコノミコト(速秋津彦命)に逢うために毛槍・花籠・神輿太鼓などを従えて約6キロの道のりを神輿で渡御されるという。その日は、神輿渡御に先だって、各大字から集まった太鼓台が宇太水分神社の境内を練り回るという。この行事を菟田野みくまり祭または神輿渡御祭という。

■ 神輿渡御は『水分宮由来集』などに基づいて10月21日に行われてきたが、上記のように過去には何度か中断があった。最近では伊勢湾台風以降は中断されていた。しかし、平成2年の「ふるさと再生事業」によって、惣社水分神社の重文に指定されている鳳輦神輿のレプリカを作成し、秋の風物詩として復活させた。ただ、より多くの人々が参詣できるようにと、10月の第3日曜日に挙行することにしたという。

宇太水分神社(中社)の表参道
宇太水分神社(中社)の表参道
境内を埋めるおなじみの屋台
境内を埋めるおなじみの屋台
■ 今年はたまたま本来の10月21日に神輿渡御が催される。そう聞いて、後学のために一度見学したいと思って出かけることにした。近鉄榛原駅前から11時半に臨時バスが出るという。そのバスに間に合うように橿原のアパートを出た。

■ 奈良交通バスが用意した臨時便は小型バスである。定刻に出発したが満席というほどではない。このぶんでは、言われているほど大勢の参拝客が押し寄せることもあるまいと思った。20分ほどで、最寄りの「水分神社前」のバス停についた。しかし、表参道から神社境内に向かうと、すでにかなり大勢の見学者が境内を埋めていた。様々な屋台が並び、祭の雰囲気を盛り立てている。

■ 実を言うと、祭の儀はすでに朝早くから始まっていた。午前7時には地元宮本(古市場自治会)の太鼓台の担ぎ手と乗り児(太鼓の叩き手を務める児童)が集合して、お祓いを受けている。午前10時には氏子や崇敬者が参列して、秋の恵みをを感謝する本祭の儀が拝殿で行われ、その後、和太鼓「(そう)」の子供達による演奏が奉納されたとのことだ。

■ 一方、芳野のみくまりさんと親しまれている惣社水分神社では、午前8時過ぎにレプリカの鳳輦神輿を中心にした総勢40〜50名の行列が、神社を出発して、6Km先の宇太水分神社(中社)に向かっている。行列は大名行列の形を取り、挟箱、槍振、花笠などが神輿を先導して下ってくる。一行は途中数カ所で手振、先箱、槍振のお練りを行い、芳野水分神社と宇太水分神社とのほぼ中間地点にあたる東地区の勝林寺前で、迎えの宇太水分神社神職および氏子の代表者と会同する。

道中途中の「手振り」「先箱」「槍振り」のお練り
道中途中の「手振り」「先箱」「槍振り」のお練り(*)
■ 勝林寺前では、神輿を奉安して神事が行われ、宇太水分神社宮司よりの秘撰(特別なお供え)として粟、口紅、おしろいが女神の神輿に供えられる。女神のアキツヒメノミコトはそこでお化粧直しをされるそうだ。その後は、宇太水分神社神職と氏子が行列の先導となり、途中、松井地区の天神社前において祭典を行った後、宇太水分神社に向かう。

■ 筆者が宇太水分神社の境内に到着したのは正午少し前だったが、タイミングよく児童たちの和太鼓の演奏が始まった。朱塗りの瑞垣に囲まれた本殿の前で、真剣にバチを叩く姿があどけなく、参拝者たちから大きな拍手を受けていた。

児童の和太鼓の奉納@ 児童の和太鼓の奉納A
児童の和太鼓の奉納@ 児童の和太鼓の奉納A

■ 児童達の和太鼓の奉納が終わった後、午後2時頃には神輿の行列が通る街道に古市場(宮本)、岩崎、松井、佐倉、宇賀志、芳野の各地区から集まってきた6基の太鼓台が、乗り児たちの叩く太鼓の音とともに順次神社境内に繰り込んで来た。そして、「チョーサー」の掛け声も勇ましく、境内広場を勇壮に2度、3度と練り回る。これらの太鼓台の練り回しは、各地区の氏神たちが参集したことを表しているそうだ。

古市場(宮本)地区の太鼓台
境内前の道路で待機する古市場(宮本)地区の太鼓台

■ 太鼓台はそれぞれ重さ約2トン、担ぎ手は数十人という巨大なものである。重い上に担ぎ棒が長大なため、狭い道を家の軒先に触れて壊さないように、また怪我人が出ないように安全担当者も大変だ。割り竹を叩いて見学者に道を空けさせるのに懸命である。特に境内前の狭い旧道から右に舵を切って境内に入るには、かなりの神経を使っている。

岩崎地区の太鼓台 佐倉地区の太鼓台
岩崎地区の太鼓台 佐倉地区の太鼓台

松井地区太鼓台の境内広場での練り回し
松井地区太鼓台の境内広場での練り回し

宇賀志地区太鼓台の境内広場での練り回し
宇賀志地区太鼓台の境内広場での練り回し

渡御行列の手振、先箱のお練り
渡御行列の手振、先箱のお練り
渡御行列の槍振り
渡御行列の槍振り
■ 午後2時過ぎ、最後に登場したのは芳野地区の太鼓台である。今までの太鼓台とは違って、この太鼓台は不思議な動きをした。直接境内に繰り込んで来ないで、参道を一の鳥居付近まで後ずさりした。どうするのか見ていると、惣社水分神社から到着する神輿渡御行列の到着を出迎えて、先導するような形で境内に繰り込んできた。太鼓台の後には渡御行列の手振、先箱、槍振のお練りが続いた。

■ その後に花笠が続き、ようやく渡御神輿が二の鳥居をくぐって、神社境内は最高潮の盛り上がりを見せた。行列が完全に到着すると、女神が渡御されたことを告げる祭典が行われる。すなわち、神輿をいったん拝殿に奉安すると、前日までにそれぞれの例祭を行った各地区の郷社26社の御幣が本殿に奉られる。こうして各地区(郷)の氏神がすべて参集したことを表す。

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渡御行列の花笠 渡御行列の神輿がやっと到着

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拝殿に奉安された渡御神輿 神輿を夫婦杉の根元に移動

■ その後に、神輿を夫婦杉の根元に移して、惣社水分神社の女神が宇太水分神社の男神のところへ渡られたことを告げる神輿着御の儀が執り行われる。当社宮司が本殿に向かって、また惣社宮司が神輿に向かって、それぞれ同時に祝詞を奏上するというきわめて珍しい神事である。興味深いことに、両宮司は場所を入れ替えて、また同じように祝詞を奏上した。

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本殿に祝詞を奏上した当社宮司 神輿に向って祝詞を奏上する惣社宮司

■ 午後3時半頃から、還幸の儀が執り行われ、つかの間の逢瀬を楽しんだ女神が神輿で上社に戻っていく。6基の太鼓台も遠い地区から順に帰って行く。それぞれの太鼓台は出発前に再び境内を錬り回すので、複数の太鼓台が同時に錬り回ることもあり、迫力満点だそうだ。残念ながら、帰りのバスの時刻の都合で、その迫力ある場面は見学できなかった。



出典:宇太水分神社例大祭のための見学のチラシ「みくまり祭(神輿渡御祭)の一日、宇太水分神社(下社)の拝観の栞
(*)HP(http://pinbokejun.blog93.fc2.com/)奈良大和路〜悠〜遊 宇太水分神社 秋祭り(2010年) その1より拝借


2012/10/22作成 by pancho_de_ohsei return