2012/07/22日

国宝「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印:本物? それとも江戸時代の偽作?


志賀島出土の金印には贋作の疑いがかけられていた

国宝「漢委奴国王」の金印
■ 『後漢書』東夷伝には、”建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬(建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以ってす)”という有名な一節がある。印綬とは、印とそれに付ける組み紐のこと。江戸時代の天明4年(1784)2月23日、博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)で百姓の甚兵衛の発見した金印が、これにあたるとされる。印影は「漢委奴国王」となっており、「委」は「倭」の略字と見て、「漢の倭の奴の国王」と読むというのが通説になっている。

Googleで見た志賀島の位置
■ 平成13年(2001)の4月、壱岐・対馬を訪れたいとの衝動にかられて、気がつくと福岡に来ていた。壱岐・対馬行きのフェリーの時間を確かめるために博多港に行き、その後、埠頭に立って沖を眺めていると、水平線に浮かぶ志賀島に渡って見たくなった。志賀島は金印が発見された島であり、発見場所あたりが金印公園になっているという。博多港からは市営フェリーを利用すれば30分ほどで島のの南端の渡舟場につく。海岸線に沿って島を一周する道路を1キロほど進むと、右手の道路脇に「漢委奴国王金印発光之處」と大書された大正11年(1922)建立の石碑が立っている。

金印公園に置かれた金印のモニュメント
金印公園に置かれた金印のモニュメント

■ その脇の階段を登ると、広場があった。そこが海岸の山肌にへばりついているような金印公園だった。公園の端の玄界灘を見下ろせる場所に、巨大な金印の印影のレプリカを埋め込んだ碑が置かれ、その脇に案内板が立っていた。案内板は、中国の『後漢書』に西暦57年、時の皇帝光武帝が使節を派遣してきた奴国(なのくに)の王に印綬を授けたことが書かれており、天明4年(1784)その金印が偶然この地から出土し、昭和29年3月20日国宝に指定されたと説明してある。

金印のモニュメントの脇に立つ案内板
金印のモニュメントの脇に立つ案内板
■ さらに続けて、印面には「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と凹刻されており、「()」は日本人に対する古い呼び名で、「()」は現在の福岡市を中心とする地にあったその時代の小国家の名であると補足してある。金印は一辺2.3cmの正方形、厚さ0.8cm、重さ約108gの純金に近いもので、つまみの部分は蛇がとぐろをまいたような形をしている。しかし、金印がどのようなわけで、この地に埋もれていたかについては、いまだに学界の謎とされているという。

■ 実物は当事の福岡市立博物館に保存されているというので、博物館に足を運んで、ガラスケースの中に安置されていた金印を見学した。2000年の歳月を経ても黄金の輝きを失っておらず、ほとんど無傷のまま出土したことに感心した。見学の記念に、印刻をデザインしたネクタイピンを一つ買った。今でも、背広を着る機会があるときは、ネクタイを止めるのに愛用している。

金印公園入口の石碑
金印公園入口の石碑
■ 三世紀の『魏志倭人伝』にも、「()」の国名が記されていて、博多湾沿岸にあったと推定されている。その国がさらに200年前にすでに現在の福岡市付近に存在し、後漢に使節を派遣したとしても不思議ではない。だが、光武帝が下賜した印綬が1700年余りも経って、なぜ志賀島の(かな)ノ崎から出土したのかは興味がある。弥生時代、志賀島は文字通り島であって、現在のように「海の中道」と呼ばれる砂嘴でつながっていたわけではない。しかも、金印が見つかった場所は、弥生時代の遺跡でも墳墓でもない、甚兵衛という農夫が田んぼに水を引く水路を補修していて偶然護岸の石の下から見つけたという。

■ だが、近隣公園は山腹に位置し、水田などが営まれる場所ではない。階段下は道路を挟んですぐ海岸が迫っていて、水田があったようにも思えない。案内板に出土地点が特定してなかったのが、今から思い返せば不思議だった。公園入口の石碑には「金印が光を発した處」と彫られていたが、本当にこの地で出土したとは思えなかった。

三浦佑之著『金印偽造事件』
三浦佑之著『金印偽造事件』
■ 筆者が当事抱いた疑問はそのまま記憶の底に忘れ去ってしまった。だが、同じような疑問を出発点として当事の古文献を丹念に精査し、金印は江戸時代に我が国で制作された偽造品であるという衝撃的な研究成果を発表された国文学者がいる。千葉大学の名誉教授・三浦佑之(みうらすけゆき)氏である。三浦氏には『古事記』など上代文学関連の著作が多いが、金印についても研究しておられるとは知らなかった。

■ 三浦氏は、2006年11月、幻冬舎から幻冬舎新書の創刊を飾る1冊として『金印偽造事件』というタイトルで、研究の成果を発表された。表示には”「漢委奴国王」のまぼろし”というサブタイトルが付いており、帯には”あの国宝はでっち上げだった!”という衝撃的な文字が躍っていた。蛇足ながら、「舟を編む」という作品で今年度の本屋大賞に輝いた直木賞作家三浦しをんさんは、教授の娘さんである。

■ 早速インターネット書店から新書を購入して読んでみた。金印発掘の経緯を追う著者の姿が非常に分かりやすい文章で綴られており、一気に読み終えた。著者は国宝である金印が江戸時代の偽造品ではないのかという疑念から、金印発掘の経緯を調べ出している。動機は、やはりなぜ志賀島のような所から発見されたか、であった。そして、発見の経過とそれを郡の役所に届け出た経緯に関してある疑念を感じられた。

福岡市博物館に所蔵されている金印
■ 金印発見に関わる「口上書」というものが残っている。それによると、百姓の甚兵衛が金印を見つけた日付は天明4年(1784)2月23日になっている。田の境の溝の流れが良くないので、彼は岸の部分を切り落としていたところ、二人がかりで持ち上げるほどの大石が出てきた。金梃子を使って石を動かすと、その下にあった石に挟まれるように金印が置かれていたという。

■ 甚兵衛の兄の喜兵衛が以前奉公していた福岡の酒造業六代目の豪商米屋才蔵の所にその金印を持参し見て貰ったところ、大切な品だと言われた。そのまましまっておいたところ、3月15日になって庄屋の武蔵から、すぐに役所に差し出すように言われ、甚兵衛は金印を発見した次第を口上書の形で作成し、翌日の3月16日に郡の長官=奉行の津田順次郎に提出した。口上書には、甚兵衛の口上に間違いないと、庄屋の武蔵と組頭の吉三および勘蔵の名が併記されている。

■ 三浦氏が最初に抱いた疑問は、この口上書の内容だった。まず、金印が発見されてから役所に提出するのに、なぜ20日以上も要したかである。さらに、口上書には「金印と共に」とは書かれていない。その間、金印は本当に甚兵衛の手元にあったのだろうか。米屋才蔵の手元に置かれていたとは考えられないのだろうか。

■ 金印発見の記録は甚兵衛の口上書だけではない。志賀島の「吉祥寺」という寺の古記録には、天明4年の項に「二月二三日、小路町の秀治、田を耕し大石の下より金印を掘出す」とある。また、金印公園の北東に当たる「勝馬」という所の某氏蔵書に、金印が押されて「右之印蓋漢之光武之時自此方窃到彼所賜之物乎倭奴者非和国之謂而」云々との記述があり、末尾に「志賀島農民秀治・喜平自叶崎掘出」とあるそうだ。

■ こうした資料から判断すると、甚兵衛は田の持ち主であり、田を耕していて金印を見つけたのは、甚兵衛の小作人だった秀治または秀治と喜平の二人だったかもしれない。また、金印は糸島あたりの神社に神宝として祭られていたという伝承もある。そこで、三浦氏は甚兵衛の口上書そのものに作為の可能性があるのでは?と、疑惑を持たれた。

亀井南冥の肖像
亀井南冥の肖像
■ 疑惑の第二は、豪商米屋才蔵と奉行の津田源次郎および黒田藩の漢学者亀井南冥(かめいなんめい)(1743 - 1814)の関係だ。米屋才蔵と南冥は旧知の間柄であり、津田源次郎は才蔵と南冥の共通の学問上の知友だったという。奉行の源次郎が才蔵に金印の鑑定を誰に依頼したらよいか相談したところ、南冥に見せろと言われた。南冥は金印を見て家宝にしたいと考え、郡役所に15両で買いとりたいと申し出たが受け付けられなかった。では100両出そうと言ったため、郡役所はそんなに貴重なモノなのかと、さきの甚兵衛口上書を添えて黒田藩に届け出たという。

■ 当事、黒田藩では2つの藩校が開校したばかりだった。城の東の赤坂門前の修猷館(しゅうゆうかん)と、城の西の唐人町に建てられた甘棠館(かんとうかん)である。修猷館の初代祭酒(学長)に任命されたのは、福岡藩の藩儒竹田家の第4代当主竹田定良(たけださだよし)だったが、甘棠館の祭酒(学長)に抜擢されたのは、福岡藩主黒田治之に儒医として採用されていた町医者の亀井南冥だった。

■ 亀井南冥は寛保3年(1743)に町医者亀井聴因の三男として生まれ、宝暦6年(1756)、父の勧めで肥前蓮池藩の黄檗僧大潮元皓に弟子入りし荻生徂徠の学問を学んでいる。安永6年(1777)には京都に学び、翌安永7年に黒田藩に戻ると藩主から儒医として採用されている。天明3年(1784)12月、屋敷の隣接地に甘棠館を建て、翌年2月1日に祭酒なっている。

漢委奴國王印文
漢委奴國王印文
■ 町人あがりで徂徠の系統をひく古学派の亀井南冥は、福岡藩の朱子学者として代々仕える竹田家に対して、激しい対抗意識を燃やしていた。甘棠館を開館した直後に発見された金印は、甘棠館の開館に対するご祝儀のように彼には思えたであろう。福岡藩は、双方の藩校の儒者に鑑定させている。修猷館の儒者たち数人がかりで出した結論は、漢の光武帝から垂仁天皇に送られた印であり,安徳天皇が壇ノ浦に沈んだとき海中に没したが,志賀島へ流れ着いたものであろうというものだった。しかし、南冥は二通の鑑定書を提出した。一通は金印の外形、質量を示した書面、もう一通は印面の文字の解釈で、中国の書に日本のことを倭奴国と書いてあり、委と言う字は倭の省略と考えるというものだった。彼の鑑定書は漢籍を参照した立派な内容のものだった。これによって、南冥の評価は一気に高まった。

亀井南冥が書いた2通の鑑定書 (*)
■ こうした鑑定結果を踏まえて、福岡藩は金印を黒田家所有とした。それ以後、黒田家の家宝として庫裡深く所蔵されていたが、明治になって国宝に指定され、昭和29(1954)年の文化財保護法に基づく再指定で改めて第1級の国宝となり東京の国立博物館に保管されていた。その後、昭和54年(1979)、黒田家から福岡市に寄贈され、平成2年(1990)年10月の福岡市博物館の開館とともに、市の博物館に戻され一般公開されている。

■ 二通の勘定書を裏付けるために、亀井南冥は「金印弁」という論文を書いている。400字詰め原稿楊氏に換算すると15〜16枚に相当する分量だそうだ。その中で、金印の出土状況、どのような由緒を持つ品物かを記述し、さらに「金印弁或問」という一問一答式の文章を載せている。その作成日付は分からないが、三浦氏は2通の鑑定書からあまり間を開けず3月中には書き上げたと推測しておられる。

亀井南冥が書いた「金印弁」(*)
■ 亀井南冥は金印を鑑定しただけでなく、金印発見の情報を積極的に藩の外に流している。京都の国学者藤貞幹(とうていかん)などは,発見から一月あまりで,委奴は倭奴(いと)であるとしてこれを伊都國(今の福岡県糸島郡)王が光武帝から授かった金印である,という説を発表している。

■ ところで、自分が鑑定し賞賛された金印について、南冥はある時期を境に口をつぐんでしまった。息子の昭陽に対しても口封じをしたという。どうやら金印発見当時の状況には、他言をはばかるような事情があったようだ。そう推察した三浦氏は研究を進めるうちに、ある論文にであった。駒澤大学教務部課長だった田中浩之氏がは平成12年3月、『駒沢史学』第55号に発表した「漢委奴國王金印の出土に関する一考察 −亀井南冥の動静を中心に−」という論文である。

■ 田中氏の推論によれば、ある人物が金印を発見したが奉行書に差し出さず手放してしまった。米屋才蔵が何かの縁でそれを買い取り、知人の奉行津田源次郎に届けて処分を委ねた。その直後に二人は南冥に金印を鑑定させたところ、歴史的価値のあるものと判明した。南冥は金印の買い取りを申し出たが、津田はこれを断って藩庫に納めることにした。だが、そのためには金印の正式な発見届けが必要だった。

■ 発見の届けがなく、その後の経緯が不明のまま金印の売買が行われたとあっては、発見者や才蔵らが拾得物を売買した罪になりかねない。そこで、甚兵衛という架空の農民を発見者として、農作業中に金印を発見したとする「口上書」をでっち上げ、藩に提出することにした。本当の発見当時の経緯を知る南冥らの発言が「口上書」の内容とは異なるとまずいので、以後は金印発見当時の状況について言及を控えたのでは・・・というのが田中氏の推論である。

■ 甘棠館の開校から8年目の完成4年(1793)7月、亀井南冥が藩命で突然官職を取り上げられ御役御免の処分を受けた。処分の理由はよくわかっていないが、金印出土に関する欺瞞工作があったという推測も流れたようだ。欺瞞工作とはなにか。三浦氏は田中浩之氏の推論をさらに推し進め、南冥と親交があった豪商の米屋才蔵と奉行の津田順次郎がつるんで、金印を偽造したのでは、と考えられたようだ。

■ 金印の贋作説は江戸時代からあったが、多くは支持を得ることなく消え去っていった。そのことを百も承知で、天下の国宝が偽造品だとは大胆な推論である。しかも、その犯人は金印を最初に鑑定し、『後漢書』に書かれている"印綬”であることを看破した儒学者であり、誰もがその学識を讃えた人物であると特定するには、誰もが納得する動機がなければならない。三浦氏はその動機を、同じ時期に開校した修猷館(しゅうゆうかん)に対する甘棠館(かんとうかん)の祭酒(学長)の野心に求められた。

■ 藩校が同時に二校も開校するなどとは他藩には例のないことであった。しかも、修猷館の祭酒に任命されたのは、福岡藩の歴代藩儒だった竹田家の第4代当主竹田定良だった。亀井南冥と竹田定良が軋轢が生じていたとしても不思議ではない。亀井派の連中は甘棠館の開校を祝福し南冥の株をあげるためになにかをしようと計画した。それが『後漢書』に記載された金印の偽造だったという。偽金作りならぬ偽金印作りを持ち出したのはおそらく商人の米屋才蔵であろう。そしてその計画に知人で奉行の津田順次郎も同調したという。

■ 豪商の米屋才蔵はともかく、藩校の学長に任命された亀井南冥や藩の治安を預かる奉行の津田順次郎は、計画が露見すれば、死罪だけでは済まぬ重い刑罰が科せられることはわかっていたであろう。果たして、こうした無謀とも言える計画に荷担したであろうか。だが、三浦佑之氏は三人がトライアングルを組んで、金印偽造事件を成し遂げたと推論されている。しかし、その推論には以下に示すように様々な無理がある。



「金印偽造事件」説の欺瞞

万暦3年刊の『集古印譜』
万暦3年(1575)刊の『集古印譜』(**)
■ まず、『後漢書』東夷伝の文章に着目してみよう。そこには、「朝貢してきた倭の奴国王に対し光武帝は賜ふに印綬を以ってす」と書かれている。だが、倭奴国王へ授与した印綬が金製だったとも、その鈕が蛇鈕だったとも書かれていない。

■ 三浦佑之氏が推定したように、仮に亀井南冥一派が金印の偽造集団だったとした場合、彼らは何を手本として「漢委奴国王」の金印ご偽造したのであろうか。江戸時代には、まだ漢代の古印は我が国に伝わって来ていない。唯一彼らが参照できたものがあるとすれば、それは『集古印譜(しゅうこいんぷ)』という書籍だとされている。

■ 『集古印譜』は、鑑賞や研究を目的として印章の印影や印款を中心に掲載した書籍である。明代の隆慶6年(1572)に、顧従徳(こじゅうとく)王常(おうじゅう)という二人の人物が、漢や晋などの古い時代とそれ以降の時代の公印や私印を集め、印面を捺しその上に鈕の形状などを記したものである。初版は僅か20部であり、秦・漢の古印の印影を1700方余り集めている。

『集古印譜』の蛮夷王印の項
『集古印譜』の蛮夷王印の項(**)
■ 去る7月22日、邪馬台国の会の第311回講演会が文京区で開かれたので参加した。元産能大教授の安本美典氏が主催する講演会で、邪馬台国に関するテーマが取り上げられるので人気があり、参加者も多い。講演の冒頭で安本氏は金印論争を取り上げられ、三浦佑之氏が主張する「金印偽造事件」は論理的に無理であることを指摘された。その最大の理由が『集古印譜』を参照しても金印はねつ造できないとのことだった。

■ 理由は簡単である。安本氏によれば、『集古印譜』に示された印章の圧倒的多数は銅印または銅印塗金で、わずかに玉印があるが、金印と記したものは全巻を通じて全くない。したがって、三浦南冥たちが『集古印譜』を見て偽造するのであれば、それは銅印または銅印塗金しか作れなかったはずである。

■ 南冥ほどの儒学者であれば、『魏志倭人伝』も読んでいたであろうから、魏の皇帝が邪馬台国の女王・卑弥呼を親魏倭王として讃え、金印紫綬(きんいんしじゅ>)を与えたことは承知していたであろう。したがって、光武帝が奴国王に下賜した印綬も金印だったことは想定できたであろう。

顧従徳編『集古印譜』の一部(**)
■ 実は、偽造する「漢委奴国王」の印が金製でなければならないと判断すべき別の資料が存在していた。7世紀に唐の張楚金が編んだ例文集『翰苑(かんえん)』である。9世紀には我が国に伝わっていたが、大陸でも日本でも早くから散逸してしまい幻の書と言われた。その最終の第三十巻(蛮夷の部)だけが太宰府天満宮に眠っていたのを、歴史学者の黒板勝美が大正6年(1917)に発見した。そこには、”中元の際、紫綬の栄”とあり、ほかの文献の例から綬が紫なのは金印に限られていることが分かる。だが、南冥たちは太宰府天満宮近くに住んでいたとはいえ、当事は『翰苑』の存在を知るよしもなかった。

■ では、南冥たちは金印が蛇鈕であることをどのように知ったのだろうか。南冥が書いた「金印弁」に続く部分に「金印弁或問」と題された部分があり、南冥の自問自答を文章にしたと思われる。その中の二番目の問いで、古印の鈕には、カメやトラ、ラクダなどいろいろあるが、なぜ蛇鈕にしたのかを聞いている。その答えとして、『集古印譜』には晋が蛮夷に与えた印の中にマムシの鈕があり、南蛮の地にはマムシやヘビが多いから、マムシの鈕にしたと答えている。

■ ところで、漢代の印章の規格は「方寸」すなわち一辺が一寸の正方形と決められていた。最近では、中国各地からの出土品を計測して、それぞれの時代の一寸の長さが判明しており、一寸の長さは時代とともに長くなっている。例えば、春秋戦国・前漢の頃は2.25cm、1〜3世紀の新・後漢の時代になると2.304cmに延びている。3世紀の魏の時代には2.412cm、6世紀末の隋の時代には2.051cm、7〜10世紀の唐の時代には3.11cmである。

■ 亀井南冥は荻生徂徠に師事したのであれば、徂徠の『度量衡考』を読んでいたであろうから、漢代の一寸を現在の約2.24cmと見ていたはずだ。金印の印面の一辺の長さは四辺とも若干のバラツキがあるが、平均値は2.347cmであり、徂徠の一寸とは1mm以上の誤差がある。なぜ、このような誤差が生じたのかを三浦氏は説明していない。彼の説明はユニークだ。『集古印譜』に捺された印の一辺の長さを測って、それと全く同じ大きさの印を作れば、漢代の方一寸と同じ長さの辺をもつ印章はできるとされる。では、台の高さや、鈕の高さや鈕長はどうか。『集古印譜』に描かれた図形からまともな数値が割り出せるとは思えない。

滇王之印 滇王之印の印面
滇王之印 滇王之印の印面
■ 昭和31年(1956)、中国の雲南省の滇池(てんち)東岸の石寨山で50基の古墳が発掘されその6号墳から金印が掘り出された。「滇王之印(てんおうのいん)」と名付けられたこの金印は、鈕形が「ヘビ」だった。この滇王之印は、紀元前109年に前漢の武帝が滇王に与えたと『漢書』に記されている。つまり、「漢委奴国王」印が真印ならば、それよりも166年前に作られたものである。

「漢委奴国王」印
「漢委奴国王」印
■ 両方の金印の蛇鈕を見比べた場合、ずいぶん形状が異なる。滇王之印の蛇は縄状の胴体をらせん状に巻いているのがはっきり分かるのに対して、三浦氏は漢委奴国王印の蛇は「ダンゴ」状であると言われる。そして、蛇鈕の形状を実際に知らなかった偽造グループが作成した金印であるため、こうした差が出たたのであり、偽造の有力な証とされている。だが、前漢と後漢とでは時代が異なり、また150年以上の時代差があれば、蛇鈕の形状も異なっていて当然だと小生には思える。

■ さらに気になるのは、金印の純度である。1989年に国宝の金印の純度を蛍光X線分析によって測定したところ、金95.1%、銀4.5%、銅0.5%という値を得た。金は純度が高いと柔らかになり、加工するにも使用するにも扱いにくい。そこで、銀や銅を混ぜてそこそこ堅くしている。現代の装飾品であるブローチや指輪の標準は18Kとされているが、これは金の純度75%に相当する。上記の滇王之印の純度も95%前後であることが分かっている。この奇妙な一致をどのように解釈したらよいのだろうか。

鈕にある魚子鏨(ななこたがね)の文様
鈕にある魚子鏨(ななこたがね)の文様
■ その他にも興味深い事実がある。漢委奴国王印の全体の重さは109グラムだが、印台と鈕の部分が全重量に占める割合はそれぞれ86.5%と13.5%であることが分かっている。ところが、約90グラムと若干軽い滇王之印の場合も、全重量に占める印台と鈕の部分の割合は、やはり86.5%と13.5%だそうだ。つまり、両金印は何かの規格に基づいて作られていたことが明白である。そのことを我々が知るのは、滇王之印発見以後のことである。

■ 三浦佑之著『金印偽造事件』を一読してみると、推論のいろんな点に矛盾を感じる。その矛盾が吹き出してくる所以は、真印であるはずの金印を、己の藩校の売名のため、知人たちの協力を得てねつ造し、喧伝したとする無理な設定にある。何時の時代でも骨董品や美術品の贋作造りは世の常であるが、いやしくも名のある福岡藩の藩校の学長が、奉行や豪商と結託して似印を偽造しようとするだろうか。秦漢の古印を手本とした作風で印聖とよばれた高芙蓉(こうふよう)や江戸時代中期の有職故実研究家藤貞幹(とうていかん)と組めば、金印「漢委奴国王」などいとも簡単に作れたにちがいないと言い切られると、もはや学術的な論考の世界ではない。

■ 三浦氏自身が述べているように、金印の偽造は証明しきれないもどかしさがある。厳然として存在する国宝が真印ではなく偽造品であるとして論理を組み立てるのは、推理小説としては面白いが、学術的な著作としてはいかがなものかと思う。

■ 7月22日の邪馬台国の会の第311回講演会で、安本美典氏が話された内容は、季刊『邪馬台国』113号にほぼ同じ内容で掲載されているのを後で知った。また同じ雑誌には、古代エッセイシストの石原秀晃氏も、三浦佑之氏の『金印偽造事件』に対する批判が掲載されている。今回のレポート作成にあたり参照させていただいた。

追記: 亀鈕金印の「広陵王璽

■ 1981年、中国の江蘇甘泉2号墓から「広陵王璽」が出土した。亀鈕金印である。光武帝の子劉荊(りゅうけい)を広陵王に封じた後58年、ちょうど「倭奴国王」の朝貢の翌年に作られたもので、鈕の形は異なるが、一辺が2.3cmという大きさ、タガネで施した鈕の魚子文、印文の字形などが「倭奴国王」金印と共通する。そのため、洛陽の同一工房で製作された可能性が大きい。そのため、「倭奴国王」金印が真印であり、「倭奴国王」の朝貢に際して光武帝が与えた印綬そのものであることがほぼ確実となった。


出典:
(*)三浦佑之著『金印偽造事件』(幻冬舎新書015)
(**) 季刊「邪馬台国」113号


2012/07/24作成 by pancho_de_ohsei return