2012/03/17

百済人将軍・袮軍(でいぐん)の墓誌に記された日本という国名

洛陽で発見された百済人将軍・袮軍(でいぐん)の墓誌の拓本

■ 中国の西安で見つかった百済人将軍の墓誌が話題になっている。事の発端は、昨年の7月に中国の学術雑誌『社会科学戦線』2011年第3期に掲載された論文「百済人《袮軍墓誌》考論」だった。執筆者は吉林大学古籍研究所副教授で、古代文献と石刻の研究者でもある王連龍氏である。

袮軍墓誌の誌蓋
袮軍墓誌の誌蓋
■ 墓誌は誌蓋と誌石がセットになっている。誌蓋は縦64.5cm、横62.3cmの大きさで、真ん中に「大唐故右/威衛将軍/上柱国袮/公墓誌銘」と篆書で陰刻され、その周囲は幾何学紋様で飾られている。墓誌石は、縦横59cmの正方形で、側面に蔓の文様が陰刻され、誌文は全31行、1行30字、全部で884字が刻まれている。この墓誌は正確には「大唐故右威衛将軍上柱國袮公墓誌銘并序」といい、唐の儀鳳3年(678)に66歳で死亡し、その年の10月に埋葬された百済人将軍「袮軍」のものであるという。

袮軍墓誌の拓本の一部
袮軍墓誌の拓本の一部
■ 王連龍氏はその論文の中で、墓誌に「日本」という文字があることを紹介していた。日本という国号が正式に制定された時期については、今だに複数の説がある。主な説としては、遣隋使を派遣した推古天皇の時代、壬申の乱に勝利した天武天皇の時代、あるいは大宝律令が制定された大宝元年(701)とする説などだ。最近では、701年8月3日に完成した大宝令公式令詔書式において初めて用いられたとする説が有力である。

■ 百済の将軍・袮軍が死亡した儀鳳3年(678)は我が国の天武天皇7年にあたる。もし袮軍の墓誌に記された「日本」が我が国のことを指すのであれば、天武天皇以前に正式な国号として東アジア世界で通用していたことになる。その事に着目した朝日新聞は、昨年の10月23日(日)の朝刊で、王連龍氏の論文に掲載されていた拓本の一部を紹介し、墓誌が本物ならば「日本」の呼称の最古の例が通説よりもさかのぼる時期に金石文で確認されたことになると報じた。

■ 正確な言い方をすれば、吉林大学の王連龍氏が入手されたのは、袮軍の墓誌そのものではない。墓誌の拓本である。王氏はその拓本を2011年に西安の文物市場で入手されたと語っておられる。入手の経緯は、氏の論文を読んでいない筆者には分からない。日中の研究者は必死になって「袮軍墓誌」の所在を追求しているが、現在までのところ、手がかりは全くないとのことだ。

大唐故右威衛将軍上柱国袮公墓誌銘并序(*)
■ 中国陝西省の省都・西安市の南西郊外にある長安区郭杜街道弁事所(道路事務所)の要請で、西安市文物保護考古研究院は2年前の2010年5月、新たに接収された建設プロジェクト用地を発掘調査した。すると、明らかに唐代のものと分かる祖父・父・子三代にわたる百済人袮氏一族の墓が三基が出土した。北側にM13と名付けられた墓があり、その南側にM15とM23と編番された2基の墓が東西に位置していた。

■ M13およびM23はいずれも盗掘に遭っていたが、墓誌は出土した。墓誌によって、M13は708年に没した袮素士(でいそし)の墓、M23は727年に没した袮仁秀(でいじんしゅう)の墓と判明した。M15も盗掘されていて、墓誌は見つからなかった。しかし、洛陽理工学院(旧洛陽大学)に現在収蔵されている「袮寔進(でいしょくしん)墓誌」が、この墓から流出したものと推定されている。そうであれば、この墓は672年に亡くなった袮寔進の墓のようだ。袮寔進は袮素士の父、袮仁秀の祖父にあたる人物で、話題の袮軍(でいぐん)の弟である。

■ では、678年に亡くなったとされる袮軍の墓はどこか。実はこれら3基の墓の北方約100mのところに、今回の発掘調査の対象外だった墓がもう1基あった。この墓も以前に盗掘され墓誌は見つかっていない。これが袮寔進の兄にあたる袮軍を埋葬した墓と推測されている。王連龍氏が入手された「袮軍墓誌」の拓本は、この墓のもののようだ。

■ 袮軍、袮寔進、袮素士、袮仁秀の4面の墓誌から袮氏一族の系図を復元すると、次のようになる。袮軍と袮寔進は兄弟であり、660年の百済滅亡の際に義慈王を奉じて唐に降っている。



墓誌に記された百済人将軍・袮軍の人物像

西暦660年、唐・新羅連合軍の百済侵攻
西暦660年、唐・新羅連合軍の百済侵攻(**)
■ 「袮軍墓誌」に記された「日本」という国号に言及する前に、まず墓誌の内容からこの百済将軍の人物像に触れておこう。袮軍(でいぐん)は百済人将軍と通称されているが、祖先は現在の山東省あたりに住んでいた中国人である。西晋の永嘉年間(307-313)の末に百済に移住したようだ。

■ 西晋の306年に八王の乱は終結するが、その後北方からの五胡が侵入し(永嘉の乱)、316年に西晋は滅亡する。その直前に百済に移住したことになる。おそらく戦乱を避けての亡命であろう。

■ 袮軍の曽祖父の袮福、祖父の袮誉(袮真とも)、および父の袮善(袮思善とも)は、いずれも百済の一品の位である「佐平」を歴任した政府高官だった。袮軍はその死亡年から逆算すると、百済の武王14年(613)に百済の王都・泗沘城(しひじょう)で出生したと思われる。

階伯将軍の騎馬像
階伯将軍の騎馬像
■ 西暦660年、唐の高宗は蘇定方に大軍13万を率いて海路より進ませ、新羅の武烈王・金ユ信の軍5万と連合(羅唐同盟)して百済を攻めさせた。袮軍48才のときである。このときの黄山平野(ハァンサンボル)の戦いで、唐・新羅の連合軍50,000人にたった5,000人の兵を率いて最後まで壮烈に戦い戦死した百済の将軍がいる。愛国の武将として知られる階伯(ケペク)である。階伯将軍は戦いに臨んで妻子を殺し、討ち死に覚悟で戦場に赴いたという。その将軍の騎馬像が、忠清南道扶餘郡の扶餘郡庁前に建っている。

■ 百済の王都泗沘城の背後には扶蘇山が聳え、現在その中腹に皐蘭寺(コランサ)が建っている。扶蘇山の縁を流れる白馬江を見下ろす場所に、落花岩(ナクファムアム)と呼ばれる巨岩が突き出ているが、そこは百済滅亡の際に貞操を守るため宮女達が身を投げたという伝説が残る場所である。皐蘭寺は落花岩から身投げした宮女達の魂を慰めるために高麗時代に建てられた寺である。

泗沘城の落城で落下岩から身投げする宮廷女官
泗沘城の落城で落下岩から身投げする宮廷女官

■ 唐・新羅連合軍が泗沘城に迫ると、義慈王はいったん太子とともに北方に逃れたが、最後は諸城をあげて降伏し、ここに百済は滅亡した。義慈王が降伏すると、新羅の武烈王は泗沘城にみずから赴いて兵たちの労をねぎらった。このとき、武烈王は唐将・蘇定方とともに堂上にあがり、義慈王に酌をさせたところ、百済の群臣たちはむせび泣いたという。

■ 義慈王は妻子と共に唐の都・長安に送られた。袮軍と弟の袮寔進も義慈王を奉じて唐に降った。袮軍が唐に降ると、高宗は喜んで袮軍を栄達させ、右武衛さん(さんずい+産)川府折冲都尉に任じた。理由は分からない。あるいは義慈王に投降を勧めた功績でもあったのだろうか。しかし、その後の唐では弟の袮寔進の方が格段に出世しており、義慈王の投降に関与したのは弟の可能性が高い。

戦勝を記念して「大唐平百済国碑銘」を刻んだ定林寺の石塔
戦勝を記念して唐軍が「大唐平百済国碑銘」を
刻んだ定林寺の石塔
■ その後、百済の遺臣の鬼室福信黒歯常之らは百済復興の兵をあげた。鬼室福信は倭国に滞在していた百済王の王子・豊璋(ほうしょう)を王に擁立しようと、豊璋の帰国と倭国の軍事支援援を要請してきた。百済復興を支援する大和朝廷は、三派に分けて救援軍を朝鮮半島に送り込んだ。一方、唐は百済の再起に対して増援の劉仁軌(りゅうじんき)率いる水軍7,000名を派遣した。

■ 663年8月27日と28日の両日、倭国の水軍は唐・新羅連合軍のいる白村江河口に対して突撃し海戦を挑んだが、大敗を喫した。白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上したと伝えられている。海戦で敗れた倭の水軍は、各地で転戦中の倭軍の兵士および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。

西暦663年、白村江の戦い
西暦663年、白村江の戦い(**)
■ 白村江の敗戦のあと唐・新羅による報復と侵攻を怖れて、天智天皇は北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海を主とする西日本各地に古代山城などの防衛砦を築かせた。また北部九州沿岸には、防人(さきもり)を配備させた。さらに667年には大和の飛鳥から内陸の近江へ遷都を敢行して、防衛網を完成させた。

■ 664年(天智天皇3年)5月、百済の鎮将・劉仁願(りゅうじんがん)は朝散大夫郭務そう(りっしんべん+宗)らを倭国に派遣してきた。『日本書紀』は彼らが表函(ふみひつ)と献上物を携えてやってきたと記し、倭国側も彼らを饗応したと言う。しかし、彼らは倭国を叱責して敗戦処理をさせるための使節団だったと思われる。使節団の滞在は12月の半ばまでの長きに渡った。

■ 京都相国寺の僧侶瑞渓周鳳によってに文正元年(1466年)頃著された『善隣国宝記』には、現存しない『海外国記』の記述が引用されている。その中に、「天智3年4月に大使朝散大夫上柱国郭務そう等30人、百済佐平袮軍等100余人の来朝」記事が見える。同様の記述は後述のように『日本書紀』の天智天皇四年九月の割り注にも見えており、どうも「海外国記」の筆者が割り注の記事を誤引用したようだ。

>白村江の位置
白村江の位置
■ 袮軍が我が国に派遣されてきたのは、翌年の天智天皇4年(665)のことである。『日本書紀』は天智天皇4年9月の庚午の朔壬辰(23日)の条で、”唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高(りゅうとくこう)等を遣わす”と記し、その割り注として、”等(など)というは、右戎衛郎将上柱国百済袮軍(ねぐん)、朝散大夫柱国郭務そうをいう”とコメントを付けている。

■ この使節団の総数は254人。7月28日に対馬に到着、9月20日に筑紫に着くと22日に表函をたてまつった。おそらく敗戦処理はまだ解決していなかったのだろう。それにしても254人の使節団とは威嚇的だ。

■ 袮軍の称号の右戎衛とは、唐の十二衛の一で右領軍衛の662年から670年までの呼称、また郎将とはその部局で正五品上の官位に相当する。上柱国とか柱国とは、戦国時代の楚のときに大きな軍功を挙げた者に当たられた称号だが、後の時代には単なる名誉職の称号になっていた。

唐の使節団が滞在したと思われる
博多湾を臨む鴻臚館のイメージ
■ その後の袮軍の活躍は、『三国史記』の新羅本紀も伝えている。武王10年(670)7月、彼は熊津都督府の司馬として新羅に赴いたが捕らえられ、翌々年の武王12年(672)9月に釈放されたことが見える。熊州都督府とは、唐が百済を占領した後に置いた5都督府の一つで、現在の忠清南道公州市に位置していた。司馬は将軍や都督の属官である。唐・新羅連合軍が668年に高句麗を滅亡させた後、唐と新羅は半島支配を巡って対立した。おそらく袮軍は熊州に留まり、唐と敵対するようになった新羅との交渉にあたっていたのだろう。

■ 唐の宗は咸亨3年(672)11月21日、帰国した60歳の袮軍を右威衛将軍(従三品)に任じた。右衛は十二衛府の一つで、全国の府兵を分けて統べ、平時は宮廷の護衛を担当した。右衛将軍はその最高責任者である。しかし、6年後の儀鳳3年(678)2月19日、袮軍は長安県の延寿里にある私宅で生涯を閉じた。享年66歳だった。墓誌によれば、皇帝は絹布300段などを下賜し、同年10月2日、雍州乾封県の高陽里に厚く葬らせたという。



墓誌に記された「日本」は国号か、それとも・・・

大唐故右威衛将軍上柱国袮公墓誌銘并序の釈文
大唐故右威衛将軍上柱国袮公墓誌銘并序の釈文(*)
■ さて、墓誌の問題の箇所である。吉林大学の王連龍氏が入手された墓誌「大唐故右威衛将軍上柱国袮公墓誌銘」の拓本には、十行目の中程に「于時日本餘●(口偏+焦、しょう)拠扶桑以逋誅(時において日本の餘●、扶桑に拠りて誅を逋る)」と記述されている。

■ 明治大学の気賀沢保規(けがさわやすのり)教授は、この箇所を「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」と読まれた(昨年10月23日付け朝日新聞に記されたコメント記事)。「日本」を当時の我が国の国号と理解した上での訓読である。「時に」が白村江の戦いのことだとすると、「日本餘●)」とは本国から百済救援に来て百済に留まっている日本軍の残党を表しているとの解釈だ。

■ もっとも、墓誌に記された「日本」は当時の我が国を指すのではなく、単なる「日の本」すなわち東方を意味するとの解釈も可能のようだ。奈良大学の東野治之教授は、”日本”は中国から見て日の出るところ、すなわち日の本、極東を意味し、「日本餘●」は”暗に滅ぼされた百済の残党”を指しているとコメントしておられる(3月7日付け読売新聞)。

■ 袮軍墓誌に記された「日本」は、我が国の正式な国号か、それとも単に東方を意味する一般用語なのかは、専門家の間でもこのように意見が分かれている。大宝律令で国号が正式に制定されたとする立場からすれば、儀鳳3年(678)の時点では日本という国号は存在しないことになる。だが、大宝律令以前にすでに制定されていたとする立場からすれば、儀鳳3年の時点で墓誌銘にこの国号が用いられていても不思議はない。

井真成墓誌の釈文
井真成墓誌の釈文
■ 『三国史記』新羅本紀第六の文武王十年(670)十二月の条には、日本の国号変更に関する記述がある。”倭国、更(あらた)めて日本と号す。自ら言う、日出ずる所に近し、以て名となす”と記されている。我が国の専門家はこの記述の信憑性をあまり信用していないようだ。中国史書からの流用の可能性があるからだ。

■ しかし、王連龍氏はその論文の中で、儀鳳3年(678)に亡くなった袮軍墓誌に「日本」とあるからには、この『三国記』の記述を史実と認めて良いとされた。そして、袮軍の墓誌に記された「日本」を、734年に西安で病死した留学生井真成(せいしんせい)の墓誌に見える「日本」より早い金石文の具体例とされた。

■ この王氏論文が「社会科学戦線」7月号に記載されて3ヶ月も経って、事の重要性に気づいたのか、朝日新聞は昨年の10月23日になって論文の内容を取り上げ、明治大学の気賀沢保規教授の上記のようなコメントを掲載した。気賀沢教授は、この箇所は白村江の戦い以後の状況を打開するため、百済の将軍だった袮軍が日本に派遣された背景を示していると言われる。

昨年10月23日付け朝日新聞の記事
昨年10月23日付け朝日新聞の記事
■ 気賀沢氏は中国史が専門の明治大学の教授である。2年前には、河南省登封市の法王寺で見つかった「円仁」の名を刻んだ石板から採取した拓本の鑑定を依頼されている(2010年8月27日付け橿原日記参照)。

■ 王連龍氏や気賀沢教授の理解の仕方が正しいならば、「日本」という国号が金石文で確認された最古の例となる。この場合、大宝元年(701)の大宝律令で制定し、翌702年に唐側に国号の変更を願い出て、武則天の承認を得て初めて正式な国号となったとする従来の通説は破棄されることになる。

■ 一部の歴史学者は、冊封体制が敷かれていた当時の中国文化圏では、国号は宗主国である中国の承認を受けるものであり、勝手に決めて勝手に使うことなど許されなかったと説いてきた。そのため、白村江の戦いに破れ669年に謝罪使を派遣して以来、実に33年ぶりに派遣された第7次遣唐使は、国号変更の承認伺いをその目的の一つとしたという。

■ 粟田真人(あわたのまひと)を執節使とするこの遣唐使節が大陸に到着したとき、12年前に武則天が帝位に就き、唐に変わって新しく「武周」王朝を開いており、その絶頂期にあった。粟田真人は武則天にいたく気に入られ好感をもって迎えられた。麟徳殿の盛宴に招かれたのみならず、司膳卿という名誉職まで授けられた。そんなこともあってか、武則天はこころよく国名変更を承認したという。唐の張守節が開元24年(736)に撰した『史記正義』には「武后、倭国を改めて日本国となす」とある。

袮素士墓誌の誌蓋
袮素士墓誌の誌蓋
■ 当時の我が国は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた敗戦国であっても、唐の冊封を受けていたわけではない。何も宗主国の承認がなければ国号を変えることができなかったわけではあるまい。白村江の敗戦で飛鳥から大津に遷都して即位した天智天皇はさまざまな国政改革を進めている。壬申の乱に勝利した天武天皇もさまざまな制度改革を行っている。両天皇の治世のいずれかの時期に、国号変更が実施された可能性は否定できない。

■ 筆者は、国号をなにも大宝律令による制定にこだわる必要はないと考えている一人である。『三国史記』は新羅本紀の文武王10年(670)12月の記述以外にも、新羅本紀の孝昭王7年3月の記述にも、「日本国使、至る。王、崇礼殿に引見す」とある。孝昭王7年は西暦698年に当たり、すでに対新羅外交では「日本」という国号が使用されていたと見る。

■ 他の例証も『日本書紀』の中にある。『日本書紀』の記述には、高句麗の僧・道顕が天武朝の末頃に撰述されたと推定されている『日本世記』という書籍が引用されている。通常、歴史家が別の書籍を引用する場合、そのタイトルまで変更するようなことはしない。『日本書紀』の編者も例外ではあるまい。すでに、天武朝の頃には日本という国号が定着していた証ではないのか。

袮仁秀墓誌の誌蓋
袮仁秀墓誌の誌蓋
■ 伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)が記した『伊吉博徳書』も『日本書紀』の斉明紀に何カ所か引用されている。伊吉連博徳は斉明5年(659)に遣唐使の一員として唐へ渡り、たまたま我が国と唐とが戦争状態に入ったため一時抑留されるが、無事帰国した人物である。『伊吉博徳書』では、斉明5年7月30日、遣唐使は洛陽で唐の天子に引見したときの様子を伝えている。その時の天子の言葉を「日本の天皇、平安にますや否や」とのたまふ、と記している。

■ こうした例から判断すると、国交を断絶していた唐(武周)への国名変更の連絡が遅れて702年になっただけで、それ以前の東アジア外交では「倭」に代わる「日本」を正式な国号として用いていたと見なすべきではないのか。『三国史記』の文武王十年(670)の記述は、あんがい史実を伝えているのかもしれない。


国際シンポジウムのチラシ
国際シンポジウムのチラシ
■ 去る2月25日、「新発見百済人『袮氏(でいし)墓誌』と七世紀東アジアと日本」と題する国際シンポジウムが、東京・千代田区の明治大学駿河台キャンパスで開催された。袮氏一族の墓を発掘調査された西安市文物保護考古研究院の張全民氏と袮軍墓誌に関する論文を『社会科学戦線』に発表された吉林大学の王連龍氏を招聘し、明治大学の気賀沢保規教授、滋賀県立大学の田中俊明教授、國學院大學の金子修一教授、大東文化大学の小林敏男教授らが加わったシンポジウムは、さそかし有意義なものだっただろう。

■ 残念ながら、筆者は所用でシンポジウムに参加できなかった。後日、シンポジウムのレジメを有償でもよいから分けて貰えないかとメールで依頼したら、明治大学東アジア石刻文物研究所から郵送で送っていただいた。レジメを一読して、マスコミ報道では知り得なかった貴重な情報のいくつかを知ることができた。そのいくつかを以下に付記しておく。

■ 先ず、『百済人袮氏墓誌の全容とその意義』と題する気賀沢教授のレジメには、袮軍、袮寔進、袮素士、袮仁秀の4人の墓誌の誌蓋と誌石の拓本が付されていた。これらは「日本」国号の研究のみならず、古代朝鮮半島と中国大陸との関係や,往来移住した移民たちの動向を研究するための第一級史料であり、貴重なものとなろう。

袮寔進墓誌 袮素士墓誌 袮仁秀墓誌
袮寔進墓誌 袮素士墓誌 袮仁秀墓誌

■ 『「袮軍墓誌」と「日本」国号問題』と題する王連龍氏のレジメで、氏は重要な指摘をしておられる。

・墓誌には"官吏が銘を作る"と明記されていることから、袮軍墓誌の「日本」などの内容の記述は、時の政府の姿勢を代表している。つまり、「日本」という国号は儀鳳3年(678)の時点で唐朝で公認されていた国号である。
・中国の歴史文献に記された「日本」国号に関する記載を総合的に分析すると、『新唐書』巻220日本伝の記事が最も合理的である。そこには、「咸享元年(670)、使を遣わして高麗を平らげたことを賀す。後稍く夏の音を習い、倭の名を悪みて、更めて日本と号す」とある。この朝貢記事は『日本書紀』の天智天皇8年(669)12月に河内直鯨(かわちのあたいくじら)などを唐に遣わしたという記述や『唐会要』巻99「倭国」にある”咸享元年(670)3月に使を遣わして高麗を平らげるを賀す”という記述に該当する。したがって、670年の唐の高句麗平定を慶賀するために唐に派遣された使節が、国号の変更を報告したことになる。


[参考文献] 明治大学古代学研究所・東アジア石刻文物研究所主催「国際シンポジウム 新発見百済人「袮氏墓誌と7世紀東アジアと日本」のレジメ
(*) 枕流亭のブログより転記
(**) hakusukie - YouTubeよりコピー

2012/03/17作成 by pancho_de_ohsei
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