中西遺跡:
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| 広大な弥生水田跡が広がる中西遺跡18次調査区 (撮影 2011/11/12) |
高速道路建設予定地で続く緊急発掘調査で見つかった中西遺跡
■ 炎天下で行われた現地説明会に参加して、多くの切り株が残っている里山の跡の異様な光景に驚かされた。その時もかなり広範囲に小さく区分けされた水田跡が干涸らびて露出しているのを見た。その水田跡に多くの人の足跡が残っていたのが、今でも強く印象に残っている。
■ これまでに発見されている弥生時代前期の大規模水田跡としては、滋賀県守山市の服部遺跡の約1万8700平米で最も大きく、次いで大阪府八尾市と東大阪市にまたがる池島・福万寺遺跡の1万8000平米が大きい。したがって、これらの遺跡の水田跡の規模を上回り、国内で最大規模なるという。
■ 橿考研によると、中西遺跡で見つかった水田跡は約850枚で、いずれもあぜ道で細かく区切られ、1枚あたり東西4m、南北3mほどの小区画水田が多いとのことだ。弥生時代初期には現代と同じ大区画水田が営まれていたことが、すでに福岡市の野多目遺跡の発掘で分かっている。中西遺跡で小区画水田が採用されていたのは、南から北に傾く緩やかな傾斜地に位置していたためとされている。
■ 当時は、現在の水田の畦畔(けいはん、「あぜ」のこと)よりはるかに小さい小畦畔を、先ず南西から北東方向に彫りだし、次いでこれに直行する小畦畔でさらに区画している。このため、後者の畦畔は前者のそれより高さが低くなる。さらに畦畔には途切れたところがあり、ここを田から田へ水を流すための水口(みなくち)として畦越しによる掛け流しを行っていたようだ。 ■ 20万平米を上回る規模の水田を開発するには、高い計画性をもって土地を開墾する技術力と労働力が備わった集団が周辺にいたと推定される。その集団の居住地はまだ発見されていない。中西遺跡の北には、秋津遺跡があり、そこでは方形区画施設群や縦穴住居群などが見つかっている。出土した布留式1式と2式の土器から、秋津遺跡は4世紀前半の遺跡のようで、中西遺跡との直接の関連はなさそうだが、気になる存在だ。
■ 今回の発掘現場の現地説明会は、12日の午前10時から午後3時で開催された。残念ながら埼玉の自宅にいて説明会には参加できなかったが、サンチョ君が参加して写真を送ってくれた。JR玉手駅の南西方向へ約1・5キロを40分ほどかけて歩いて参加したそうだ。ブログによく投稿していただくかつらぎがわさんも当日説明会に参加されて、発掘現場の写真を提供していただいた。 ■ 二人から提供願った写真を見ると、現地説明会は調査地からはぎ取った表土を高く積み上げた丘の上で行われている。その土の量が小山のように高い。広大な調査地を俯瞰できるようにと、わざわざ高く積み上げた丘の上に説明会の会場が設置されたようだ。
■ 説明会の会場から見下ろすと、調査地の中に見学通路の最初の部分は南西方向から北東方向へ築かれている。この方向は弥生水田を開墾するにあたって最初の小畦畔が築かれた方向であり、台地の傾斜方向でもある。見学路はその後ほぼ直角に曲がり北に向かって延びている。その方向は第二の小畦畔が築かれた方向だ。
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【謝意】このレポートに使用した写真は、ハンドル名”サンチョ”さんと”かつらぎかわ”さんが現説に参加して撮影されたものである。筆者が埼玉の自宅にいて現説に参加できないのを悔しがっているのだろうと、わざわざ当日の様子を写真で知らせていただいた。また、橿原日記にこれらの写真を採用することを快く承諾いただいた。この場を借りて謝意を伝えたい。