橿原日記 平成23年11月12日

中西遺跡:
2万平米以上の耕地面積を有した弥生前期最大の水田跡

中西遺跡代18次調査区
広大な弥生水田跡が広がる中西遺跡18次調査区 (撮影 2011/11/12)

高速道路建設予定地で続く緊急発掘調査で見つかった中西遺跡

中西遺跡の所在地
中西遺跡の所在地(*)
■ 奈良県立橿原考古学研究所(=橿考研)は、長年にわたって高速道路の京奈和道建設予定地の緊急発掘調査を実施してきた。奈良県御所市條の中西遺跡は京奈和道の御所南IC(仮称)工事予定地調査で発見された遺跡である。昨年の8月には、弥生時代前期の水田と接して埋没林が見つかり話題になった(平成22年8月7日付け橿原日記参照)。

■ 炎天下で行われた現地説明会に参加して、多くの切り株が残っている里山の跡の異様な光景に驚かされた。その時もかなり広範囲に小さく区分けされた水田跡が干涸らびて露出しているのを見た。その水田跡に多くの人の足跡が残っていたのが、今でも強く印象に残っている。

新たに発見された水田跡
■ 橿考研は今年度も中西遺跡の調査区を拡大して、第18次調査として4月から約1万3500平米の発掘調査してきた。そして去る8日、今回の調査で水田跡が約9000平米が見つかり、過去の調査で確認された約7000平米に加え、隣接地で継続中の発掘調査でも現時点で約4000平米を検出されているため、中西遺跡の水田跡は2万平米以上の広がりを持つ、とマスコミに公表した。

■ これまでに発見されている弥生時代前期の大規模水田跡としては、滋賀県守山市の服部遺跡の約1万8700平米で最も大きく、次いで大阪府八尾市と東大阪市にまたがる池島・福万寺遺跡の1万8000平米が大きい。したがって、これらの遺跡の水田跡の規模を上回り、国内で最大規模なるという。

■ 橿考研によると、中西遺跡で見つかった水田跡は約850枚で、いずれもあぜ道で細かく区切られ、1枚あたり東西4m、南北3mほどの小区画水田が多いとのことだ。弥生時代初期には現代と同じ大区画水田が営まれていたことが、すでに福岡市の野多目遺跡の発掘で分かっている。中西遺跡で小区画水田が採用されていたのは、南から北に傾く緩やかな傾斜地に位置していたためとされている。

秋津遺跡
萩之本遺跡で見つかった小区画水田
■ 水田に水をためるためには、地面を水平にする土木工事が必要である。1枚あたりの面積が小さいのは、土木工事の労力を抑えるためだったのでは・・・と橿考研は見ている。水田は河川の氾濫による土砂で埋まった後、大規模開発などが行われなかったため、当時の状態のまま地中に残っていたようだ。「当時の水田開発の仕方が非常によく分かる発見」と、橿考研は今回の発掘の成果を評価している。

■ 当時は、現在の水田の畦畔(けいはん、「あぜ」のこと)よりはるかに小さい小畦畔を、先ず南西から北東方向に彫りだし、次いでこれに直行する小畦畔でさらに区画している。このため、後者の畦畔は前者のそれより高さが低くなる。さらに畦畔には途切れたところがあり、ここを田から田へ水を流すための水口(みなくち)として畦越しによる掛け流しを行っていたようだ。

■ 20万平米を上回る規模の水田を開発するには、高い計画性をもって土地を開墾する技術力と労働力が備わった集団が周辺にいたと推定される。その集団の居住地はまだ発見されていない。中西遺跡の北には、秋津遺跡があり、そこでは方形区画施設群や縦穴住居群などが見つかっている。出土した布留式1式と2式の土器から、秋津遺跡は4世紀前半の遺跡のようで、中西遺跡との直接の関連はなさそうだが、気になる存在だ。

現地説明会資料
■ 橿原市の川西町に位置する萩之本遺跡でも、3年前に弥生時代前期の小さな水田が約40枚ほど規則正しい状態で見つかっている。中西遺跡の場合と同様に、小畦畔には所々に水口があった。こうして見ると、葛城川と曽我川に挟まれたこの付近一帯は、弥生時代前期にはすでに広大な穀倉地帯だったようだ。3〜4世紀に大和王権が成立する頃登場する葛城氏は、弥生時代からの豊かな経済的基盤を背景としていたに違いない。

■ 今回の発掘現場の現地説明会は、12日の午前10時から午後3時で開催された。残念ながら埼玉の自宅にいて説明会には参加できなかったが、サンチョ君が参加して写真を送ってくれた。JR玉手駅の南西方向へ約1・5キロを40分ほどかけて歩いて参加したそうだ。ブログによく投稿していただくかつらぎがわさんも当日説明会に参加されて、発掘現場の写真を提供していただいた。

■ 二人から提供願った写真を見ると、現地説明会は調査地からはぎ取った表土を高く積み上げた丘の上で行われている。その土の量が小山のように高い。広大な調査地を俯瞰できるようにと、わざわざ高く積み上げた丘の上に説明会の会場が設置されたようだ。

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高く積み上げられた表土 現地説明会の様子

■ 説明会の会場から見下ろすと、調査地の中に見学通路の最初の部分は南西方向から北東方向へ築かれている。この方向は弥生水田を開墾するにあたって最初の小畦畔が築かれた方向であり、台地の傾斜方向でもある。見学路はその後ほぼ直角に曲がり北に向かって延びている。その方向は第二の小畦畔が築かれた方向だ。

調査地の中に設置された見学路
■ この弥生時代前期の水田跡の規模が約2万平米と公表された。だが、これは発掘調査で明らかになった広さであり、実際の弥生水田の規模ではない。2万平米の面積は単純計算で200x100メートルに過ぎない。京奈和道のインターチェンジ工事予定地から調査区域をさらに北や東西に広げれば、水田の規模はさらに拡大すると橿考研がみている。



弥生時代雑感

中西遺跡の小区画水田跡
中西遺跡の小区画水田跡

■ ところで、マスコミの報道や現地説明会の資料によれば、”今回の調査で確認した水田遺構は、弥生時代前期(約2,400年前)にさかのぼる”と、橿考研は推測しているようだ。つまり、紀元前4世紀には、この地で水耕栽培が行われていたという。この相対年代と実年代の対応は、筆者世代が義務教育で脳に刷り込まれた日本史の歴史区分とは、いささか異なる。

今回の調査地と付近の遺跡
今回の調査地と付近の遺跡
■ 弥生時代の弥生とは、明治17年(1884)に現在の東京大学農学部がある文京区弥生の貝塚で、縄文土器とは異なるシンプルな文様の土器が見つかり、地名を取って弥生土器と名づけたことに起源由来する。そして、弥生時代とは、紀元前3世紀水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が日本列島の外から北部九州に移住することで始まり、紀元3世紀頃まで続いたと、当時は教わった。

■ さらに、弥生時代は前期・中期・後期の3期に分けられ、前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は1世紀半ば頃から3世紀頃と、大まかにな実年代が当てられるとも教わった。しかし、1980年代になって、北九州の福岡県や佐賀県、大阪府茨木市や岡山県岡山市の遺跡から、紀元前4世紀から5世紀頃の水田跡が次々と発見された。そのため、以前は縄文時代晩期後半とされてきた時代が、近年では紀元前5世紀半ば頃からを弥生時代早期と呼ばれるようになってきている。

■ したがって、中西遺跡で発見された水田跡が、紀元前4世紀の弥生時代前期のものだ説明されると、筆者世代の年齢層にはいささか理解に混乱が生じるかもしれない。紀元前4世紀なら弥生時代の早期に入るのではないのかと、つい疑ってしまう。そもそも、歴史学会では、弥生時代の開始時期や終了時期、区分などに関して、さまざまな説がだされていて、現状では定説はない。

水田の中に築かれた水路
水田の中に築かれた水路
■ 最近、国立歴史民俗博物館(以下、歴博)の研究グループが炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果を発表し、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張したことは、良く知られている。その説によると、弥生時代早期のはじまりは約600年さかのぼり紀元前1000年頃から、前期のはじまりは約500年さかのぼり紀元前800年頃から、中期のはじまりは約200年さかのぼり紀元前400年頃から、後期の始まりは紀元50年ころとなる。


■ 一方、弥生時代は古墳時代の出現をもって終焉の時期を迎える。以前は、その時期は4世紀前半とされた。その時期がどんどん繰り上がって、現在では3世紀前半から半ば頃が古墳時代の開始というのが考古学界の主流である。弥生時代にも「墳丘墓」や「方形周溝墓」が築かれたが、これらは古墳とは言わない。日本史では、古墳とは3世紀後半から7世紀前半に築造された墳丘を持つ古い墓をいう。

小畦畔の水口
小畦畔の水口

■ 3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れる。その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳などが現れ、それから少し経って、奈良盆地に大王陵クラスの大型前方後円墳が集中的に造営されるようになる。

■ 桜井市纒向遺跡の箸中には、箸墓古墳と呼ばれている全長280mの大型前方後円墳がある。箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期の古墳の中では最も古い。建造時期や大きさなどから、近つ飛鳥博物館の白石太一郎氏などは箸墓古墳を卑弥呼の墓に見立てておられ、卑弥呼の時代から古墳時代が始まるとされている。だが、未だその確証は無い。

■ 箸墓古墳の築造時期は研究者の年代観によってかなり異同がある。民博の広瀬和雄氏は築造時期を3世紀中ごろとし、白石太一郎は上記のように3世紀中葉過ぎ、二上山博物館館長の石野博信氏は3世紀後半の第4四半紀、西暦280年から290年ころとしておられる。石野氏とともに長年巻向遺跡の発掘調査に携わってこられた橿考研の関川尚功(せきがわひさよし)氏は、箸墓古墳から出土した土器は古くても布留1式期のもので、箸墓の築造は4世紀中頃にずらしておられる。

石包丁出土地点
石包丁出土地点
■ 弥生時代に関しては、別の問題もある。以前は、水稲栽培は紀元前4世紀ころに九州北部ではじまり、100年と経たないうちに西日本一帯に広がって伊勢湾沿岸にまで達し、前期の終わりころには東北地方北端にまで達したとされていた。しかし、近年になって水稲である温帯ジャポニカは縄文晩期には導入されていたことが判明しつつある。上記のように歴博は放射性炭素年代測定により弥生時代の始まりが少なくとも紀元前10世紀まで遡る可能性を指摘している。

■ この場合、紀元前10世紀後半に北部九州に伝わった水田稲作は、非常にゆっくりしたペースで日本各地に拡がったようだ。例えば瀬戸内海西部地域までで約200年、摂津・河内まで300年、奈良盆地まで400年、中部地方には5000年、南関東へは600〜700年、東北北部には500年であると推定している。


■ 稲の伝搬ルートについて、従来は遼東半島から朝鮮半島を南下して九州北部に伝来したという説があった。しかし、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないことや、朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり畑作米(陸稲)の確認しか取れない点などから、水稲は大陸からの直接伝来したとるす学説が出始めている。

■ また水稲に関しては、揚子江下流の浙江省寧波の河姆渡(かぼと)村で、炭素14年代測定法で約7000〜6500年前の水田耕作遺物(水田遺構は発見されていない)が1980年代に発見された。また最古の水田遺構は、馬家浜文化中期にあたる約6000年前の揚子江下流江蘇省呉県の草鞋(そうめい)山遺跡で見つかっているという。これらのことから、水稲耕作は揚子江中・下流域に起源し、日本へもこの地方から直接伝播したとする説が現在では注目されている。

■ となると、弥生人のルーツが気になる。筆者は単純に、朝鮮半島南部からの渡来人が水稲栽培の技術を携えて北九州に住み着き、縄文人との混血で日本人の祖先である弥生人が生じたと考えていた。だが、渡来人が揚子江中・下流域の人種だったとすると、従来の理解を訂正しなければならない。

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 国道24号線の「宮戸橋」付近から見た葛城と金剛の鞍部

■ 中西遺跡は、葛城山の東麓に位置しており、葛城山には古い時代に鴨族が居住していたとされている。鴨族は謎の多い一族で、その出自はよく分からない点が多いが、どうやら土着の氏族だったようだ。彼らは弥生時代には葛城山の丘陵地帯で陸稲や粟・稗などの畑作農業を行っていた。しかし、弥生時代中期になると、その一派が大和平野の西南端にある今の御所市に移り住んだ。そして、葛城川の岸辺に鴨都波(かもつば)神社を祀って水稲生活をはじめた。また東持田の地に移った一派も葛木御歳(かつらぎみとし)神社を中心に、同じく水稲耕作に入った。それで、高鴨神社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになったという。

■ 中西遺跡で水田耕作を営んだのは鴨族だったのだろうか。それにしては時代が合わない。鴨族に水田耕作を教えた弥生人がいたはずである。彼らは何処で居住し、何処へ消えたのだろうか。


【謝意】このレポートに使用した写真は、ハンドル名”サンチョ”さんと”かつらぎかわ”さんが現説に参加して撮影されたものである。筆者が埼玉の自宅にいて現説に参加できないのを悔しがっているのだろうと、わざわざ当日の様子を写真で知らせていただいた。また、橿原日記にこれらの写真を採用することを快く承諾いただいた。この場を借りて謝意を伝えたい。

2011/11/20作成 by pancho_de_ohsei
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