小江戸・川越の史跡を巡る
この時期としては異常と思われるほど暖かい日が続いた。しかし、大陸性高気圧の南下で、関東地方は本日から一気に平年の寒さに戻るという。幸い天気予報では晴れだった。
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| 川越市付近のマップ |
ふいに思い立って川越の史跡を散策したくなった。幼かった子供たちを連れて川越を訪れたのは、もう何十年も前のことである。喜多院の無造作に並べられた五百羅漢の異様な光景以外、当時のことはほとんど記憶に残っていない。
川越は自宅から遠いようで意外と近い。武蔵野線と埼京線を乗り継いで50分もあれば行ける。都内の新宿からでもJR埼京線の快速で50分、池袋からだと東部東上線の急行で30分、渋谷からでも東京メトロ副都心線を利用すれば約50分で行くことができる。
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| JR埼京線と東武東上線が相互乗り入れしている川越駅 |
JR川越駅の改札を出ると、まず同じ駅構内にある観光案内所に立ち寄っった。川越観光のパンフレットを貰い、ついでに史跡巡りのモデルコースを聞いた。案内所の女性は親切にもパンフレットに掲載された市街図に赤ペンで何カ所かマークしてくれた。そして、市内観光には「小江戸名所めぐりバス」か「小江戸巡回バス」を利用することを勧めてくれた。
「小江戸名所めぐりバス」は300円の一日フリー乗車券で、「小江戸巡回バス」は500円の一日フリー乗車券で、最寄りのバス停で何回でも乗り降りできるという。
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| 「小江戸名所めぐりバス」の路線図
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いずれも駅前のバスターミナルから乗車できるが、平日なので前者は1時間に1本、後者は30分に1本程度しか運行していない。観光案内所を出たのがちょうど10時半だったので、10時40分に駅前を出る「小江戸名所めぐりバス」を利用することにした。最初の見学地「喜多院」入口のバス停までは、8分で到着する。
星野山喜多院と五百羅漢(
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| 喜多院の山門前 |
喜多院の創建は古い。喜多院の縁起には、「往古仙波(せんぱ)の辺は海沼なりしが、仙芳(せんぽう)仙人が法力を以て海水を去り、仏像を安置し、当院の草創とす」とある。縁起が正しければ、創建は奈良時代までさかのぼるが、真偽のほどは定かではない。
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| 喜多院拝観案内 |
一般には、平安時代の天長7年(830)、慈覚大師円仁が淳和天皇の勅を受けて開いた星野山無量寿寺が始まりとされている。円仁が最後の遣唐使船で博多津から出航したのが、承和5年(838)6月だから、それ以前のことである。しかし、無量寿寺は元久3年(1205)、兵火で炎上してしまった。
永仁4年(1296)、伏見天皇の命によって尊海僧正が関東の天台宗の本山として無量寿寺を再興し、慶長4年(1599)に天海僧正(慈眼大師)が第27世の法統を継いだ。徳川家康は慶長16年(1611)、天海僧正の要請をいれて寺領4万8千坪および500石を下し、さらに酒井備後守忠利に工事を命じて、無量寿寺の仏蔵院があった北院を喜多院と改めさせた。
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| 天海僧正座像 |
天海僧正(1536? - 1643)とは、諸国名山を遍歴して修行を重ね、武田信玄のもとにもいたことがあるという天台宗の僧侶である。徳川家康に重用され、江戸幕府初期の朝廷政策や宗教政策に深く関与した。徳川三代将軍・家光にも仕え、寛永元年(1624)には上野に寛永寺を創建している。江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想した。寛永20年(1643)に108歳で没したとされ、その5年後に、朝廷より慈眼大師号を追贈された。喜多院には木造の天海僧正座像が残っている。
寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門を除いてすべての堂宇が焼失した。三代将軍家光は堀田正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山の別殿を移築して、客殿、書院、庫裏などに当てさせた。現在、客殿に「家光誕生の間」が、また書院には「春日局化粧の間」があるのは、そのためである。
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| 拝観入口がある庫裏 |
家光誕生の間がある客殿 |
その他にも、慈恵堂(潮音殿)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社など現存する建物も数年の間に相次いで再建され、現在文化材として大切に保存されている。しかし、明治維新の神仏分離令によって東照宮、日枝神社は別管理となった。
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| 本堂の慈恵堂 |
多宝塔 |
拝観入口に当てられた庫裏を入ると、客殿と書院の廊下にはさまざまな関係資料が展示してある。残苑ながら室内はすべて撮影禁止である。庫裏には、24枚の絵を上下2段に張り込んだ六曲一双の屏風が置かれていた。狩野吉信(1552 - 1640)が描いた「職人尽絵屏風」(国の重文)の複製である。仏師を初め25種類の職種が描かれていて、当時の職人の風俗を知ることができる貴重な作品だそうだ。
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| 慈恵堂の内部 |
客殿に面した小規模な庭は、小堀遠州流「曲水の庭」と呼ばれている。説明には「庭園は遠州流東(あずま)好み枯山水書院式平庭」と書かれている。本堂に向かう渡り廊下から眺める庭園は見事だった。
喜多院の本堂は、天海僧正によって再建された慈恵堂だが、その後長年に渡って荒れ果てたため何回か修理されて現在に至っている。内陣中央には本尊の慈恵大師(元三大師)を祀り、左右に不動明王を配置してある。毎日護摩供を修しているとのことだ。
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| 入口付近に並べられた羅漢像 |
川越の観光名所の中でも特に人気があるのは、日本三大羅漢の一つに数えられる喜多院の五百羅漢であろう。五百羅漢を見学するには、喜多院の寺務所で共通拝観券を購入する必要がある。喜多院の建物を見学した後、山門を入って右手にある売店で拝観券を見せれば、店の裏にある五百羅漢を見ることができる。
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| 五百羅漢 |
五百余りの羅漢像は川越在北田島の農民で、後に出家して志誠(しじょう)と名乗った人物が、天明2年(1782)に造り始めたのがきっかけとされている。しかし、正確には安政4年(1775)に関根仙右衛門庸清が父と母の供養のため「阿難陀尊者」を建立寄進したのが最初といわれ、その後、五百羅漢の建立へ発展させたのが志誠だったようだ。
志誠は二大士・十六像をはじめ、およそ40体を造ったが、不幸にして44年目に病に倒れ、寛政12年(1800)7月、66歳でこの世を去った。その後、志誠の意志を受け継いだのは、喜多院の学僧であった慶厳、澄音、祐賢たちである。彼らは500体近い残りの羅漢像を完成するため、近隣各地に浄財を求め、川越をはじめ各地の講衆に協力をあおぎ、文政8年(1825)に遺業を達成するに至ったという。
現在、十大弟子、十六羅漢を含め533体の羅漢像が並べられ、さらに中央の高座に釈迦如来と文殊・普賢の脇侍、左右の高座に阿弥陀如来と地蔵菩薩が安置されていて、全体では538体が鎮座しているという。一つ一つの羅漢像は、笑い、怒り、泣いている者、そっとヒソヒソ話をする者などそれぞれに体型も顔の表情も異なる。丹念に見ていけば己に似た羅漢さんがいるという。
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| 五百羅漢 |
筆者の記憶の中にある五百羅漢は、もっと雑然と幾層にも層をなして積まれていたような気がする。現在の羅漢像は整然と区画され一列に配されていて、一つ一つ丹念に見ることができる。
羅漢とは阿羅漢の略で、尊敬や施しを受けるにふさわしい者という意味である。それにしても、これほど多くの羅漢像を石に彫るというのは大変なエネルギーを要したに違いない。その根源はどこにあったのだろうか。やはり、信仰心の力と言うべきなのだろうか。
仙波東照宮(と中院(
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| 仙波東照宮の参道入口 |
喜多院の山門前から南に延びる一方通行の狭い道路を少し進むと、住宅の間に「仙波東照宮」と書かれた白い標識が立っている。上野の杜に東照宮があるのは知っていたが、川越にも東照宮があるとは意外だった。仙波東照宮は日光および久能山とともに三大東照宮の一つに数えられている。もとは喜多院の境内に位置していたが、明治維新の神仏分離令によって別管理の神社となった。
徳川家康は元和2年(1616)1月、鷹狩りに出た先で倒れ、4月17日巳の刻(午前10時頃)駿府城で他界した。享年75歳だった。死因はおそらく胃がんだったのでは、と推測されている。家康の遺言により、初めは駿府の南東の久能山(現久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て江戸城の真北にあたる日光の東照社に改葬された。
家康の遺骸を久能山から日光に移した元和3年(1617)3月、喜多院に4日間逗留して供養した。そうした関係で、天海僧正は寛永10年(1633)、喜多院の一隅に東照宮を創建した。5年後の寛永15年(1638)正月の川越大火で延焼したが、堀田加賀守正盛を造営奉行として、同17年に再建された。
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| 石の鳥居の先に見える石段の参道 |
石段の上に建つ拝弊殿 |
社の規模は、表門(随身門)、鳥居、拝弊殿、中門(平唐門)、瑞垣(みずがき)、本殿からなる。表門と石の鳥居をくぐって参道を先に進むと、正面に石の階段があり、朱塗りの拝弊殿はその上に建っている。
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| 瑞垣に囲われた本殿 |
歴代川越城主が奉献した石灯籠 |
本殿の前と拝弊殿の横に歴代川越城主が奉献した二十六基の石灯籠が並ぶ。拝殿には岩佐又兵衛勝以の筆による三十六歌仙が、弊殿には岩槻城主阿部対馬守重次が奉納した十二聡の鷹絵額が、それぞれ掲げてあるそうだ。
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| 南院遺跡の表示 |
東照宮前の道をさらに南下すると、交差点の角に有刺鉄線で囲われた一画がある。鉄線を支えている木柱に、「南院遺跡」と書かれた木の札と最盛時の寺院の伽藍配置を示す絵が道路脇が貼り付けてある。その背後には、廃仏となった石仏がいくつか置かれていた。
天長7年(830)に慈覚大師円仁が創立した星野山無量寿寺には、北院、中院、南院と呼ばれた三院があり、それぞれ仏蔵院、仏地院、多聞院と称していたという。喜多院は仏蔵院に当たる北院の寺域を継承している。明治新政府が行った廃仏毀釈という愚行によって、日本全国で多くの仏教寺院が壊され廃寺となった。南院もそうした愚行の犠牲になった寺院である。南院に鎮座されていた石仏も破壊されたが、その中のいくつかは心ある人たちによってこの地に集められたにちがいない。
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| 中院(なかいん)の正面 |
その交差点からさらに100メートルほど南に行くと、中院がある。当初の中院は、現在の東照宮の地にあったため中院と呼ばれていた。しかし、寛永10年(1633)の東照宮建造の折に現在地に移されたという。
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| 中院の本堂 |
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| 「不染之碑」と背後の「不染亭」 |
喜多院に天海僧正が来住する以前は、中院の方が勢力を持っていたことは、慶長以前の多数の古文書によって知られている。多くの参拝客で賑わう喜多院の境内に比べると、中院訪れる人影はない。寺の関係者が箒で枯葉を集める音だけが、朝の静けさをわずかにかき乱している程度だ。
中院は島崎藤村ゆかりの寺である。境内には藤村の義母にあたる加藤みきの墓があり、藤村は何度か妻の静子を連れてこの寺を訪れている。義母のみきは茶道の師匠として「不染」と称しており、藤村が義母に茶室を寄贈したところ、義母は「不染亭」と名付けた。その茶室が移築されて中院の境内にあり、市の文化財に指定されている。茶室の近くには、藤村の筆による「不染之碑」が建っている。
川越城本丸御殿(と川越城中ノ門跡(
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| 川越城の本丸御殿 |
再び喜多院の山門前に戻ると、12時48分に「喜多院前」バス停を出る「小江戸名所巡りバス」を待った。次の目的地は川越城の本丸御殿である。最寄りのバス停は「博物館前」と聞いている。およそ10分ほどで到着できる。
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| 川越城の図 |
上記のように川越城は、長禄元年(1457)、扇谷上杉持朝が家臣の太田道真・道灌父子に命じて造らせた城である。持朝は北武蔵の覇権をめぐって古河公方・足利成氏(しげうじ)と争っており、築城はその争いに備えたものだった。当初の規模は、後の本丸と二の丸を合わせた程度だったと推定されている。
天正18年(1590)、豊臣秀吉は関東を攻略し、北条氏の支城となっていた川越城は、前田利家らに攻められて落城した。その年の8月、徳川家康が江戸城に入城すると、江戸の北を守る重要拠点として川越城に酒井重忠を配した。その後も、幕府の要職にある大名が藩主に任命された。
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| 現存する本丸御殿の平面図 |
寛永16年(1639)、川越藩主となった松平信綱は川越城の本格的な拡張・整備を行なった。その結果、城は本丸、二の丸、三の丸などの曲輪(くるわ)、4つの櫓(やぐら)、13の門から構成される総面積9万8千坪の広大な城郭となった。
嘉永元年(1848)、時の藩主・松平斉典が本丸御殿を造営した。当初は16棟、1,025坪の規模を誇った。現在は、本丸御殿の玄関・広間部分と、移築復元された家老詰所を残すだけだが、御殿建築が現存するのはきわめて珍しいとされている。
玄関を入ると廊下の脇に受付があり、拝観料を払って御殿内を見学したが、大広間の他にいくつかの詰め所があり、幅広い縁を周囲に巡らしてあった。巨大な木造建築ではあるが、特にこれと言って関心するような構築物ではなかった。
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| テレビドラマ「JIN -仁-」 |
ただ、移築して復元された家老詰所の一室にテレビドラマの宣伝用ポスターと脚本が置かれていた。TBSが開局60周年を記念して今年の4月から放映された日曜劇場「JIN -仁-」のものだ。村上もとかの漫画をテレビ化したドラマで、本丸御殿がそのロケに使われた。
博物館前の通りを西に向かって歩いて行くと、最初の交差点(博物館前)を過ぎてすぐの所に、川越城の「中ノ門堀跡」が復元整備されている(所在地:川越市郭町1-8-6)。松平信綱が寛永16年(1639)から始めた川越城の大改修の際に、戦いを想定して造られたと考えられている。まだ天下が治まって間もない頃である。
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| 川越城の復元整備された中ノ門跡 |
中ノ門は土塁を平行ではなく食い違いに築くことで敵の侵入を防ぐ喰違虎口(くいちがいこぐち)だったようだ。敵が西大手門(市役所側)から攻め込んできても、中ノ門などの堀に阻まれて本丸(博物館側)方面には直進できない。敵兵の歩みがゆるんだところを、城兵たちは弓矢を射かけ、鉄砲を撃ちまくることができた。
発掘調査によって中ノ門の堀は深さ7m、幅18mの空堀だったことが判明している。土塁の勾配は西大手門側が30度、本丸御殿側が60度だった。その土塁の上に土塀が築かれていた。平成20年から21年にかけて実施された整備工事では、空堀と本丸御殿側の土塁およびその上の白壁の土塀が復元されている。
氷川神社(と<川越まつり会館
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| 氷川神社の正面 |
博物館前の交差点から北へ進むと、川越総鎮守の氷川神社の正面に出る。神社の由緒書には、欽明天皇2年9月15日、武蔵国造が大宮氷川神社から分祀してこの地に奉斎したという。祭神として、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、手摩乳命(てなづちのみこと)、脚摩乳命(あしなづちのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る。手摩乳命と脚摩乳命は、奇稲田姫命の両親にあたる神である。
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| 氷川神社の拝殿 |
氷川神社の本殿 |
徳川幕府は江戸の北の守りとして、重臣を川越城主とした。幕末までの歴代城主は藩領総鎮守として氷川神社を崇敬し、社領の加増や本殿の修理などを行ってきた。現在の本殿は、川越城主松平斉典を筆頭とする氏子一同の寄進によって、天保13年(1842)に着工し、5年の歳月を要して嘉永2年(1849)に竣工した建物である。
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| 境内の東に聳える鳥居 |
入母屋造りの本殿には、当時の名工・嶋村源蔵と飯田岩次郎の手による五十数種の精巧な彫刻が施されている。そのため、江戸時代を代表する貴重な建造物として昭和31年(1956)に市の文化財に指定された。
氷川神社の境内の東側には、朱塗りの明神型の大鳥居が聳えている。平成の代替わりを奉祝して平成2年(1990)に建立された高さ15mの鳥居である。笠木の幅は20m、柱の周りは6mを測るという。杉材が用いられており、木製の鳥居としては国内随一の規模を誇るとのことだ。中央の扁額の社号文字は勝海舟の直筆である。
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| 太田道灌手植えの矢竹 |
柿本人麻呂神社(人丸社) |
川越城の築城にあたった太田道灌は、氷川神社を崇敬し、長禄元年(1457)に参詣したとき次の和歌を献じている。
老いらくの 身をつみてこそ 武蔵野の 草にいつまで 残る白雪
境内には道灌がみずから植えたとされる矢竹が現存している。
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| 八坂神社の社殿 |
境内の片隅には、摂社として柿本人麻呂神社が鎮座している。戦国時代に丹波の綾部から川越に移住した綾部家一族が始祖柿本人麻呂の神社を建てて奉斎したとのことだ。
さらに、境内には八坂神社も祀られている。当初は寛永14年(1637)に徳川三代将軍家光が江戸城二の丸に東照宮として建立した神社だった。明暦2年(1656)になって、三芳野神社の外宮として移築され、さらに明治5年に氷川神社境内に移築されて、八坂神社の社殿になった。江戸城内の宗教建造物の遺構として貴重な社殿とされている。
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| 「川越まつり」の様子(Wikipediaより) |
氷川神社と言えば、毎年10月の第3日曜日とその前日の土曜日(ただし14日と15日が土曜・日曜の場合はその両日)に行われる「川越まつり」に言及しないわけにはいかない。川越祭りは氷川神社の例大祭の附け祭で、重要無形民俗文化財として国の指定を受けている。老中松平信綱が川越城主になった頃、城下町にふさわしい町をあげての祭礼がなかった。そのことを惜しんだ信綱は慶安元年(1648)、御輿二基、獅子頭、太鼓などを寄進し、江戸の天下祭りの様式に則った神幸祭を催すことを奨励した。同4年(1651)になって御輿が氏子の町を渡御したのが川越祭の始まりとされている。
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| 「川越まつり会館」の山車展示ホール |
元禄十二年(1698)になると、初めて町内から踊屋台が出た。それををきっかけに年々催し物が増加していき、賑やかな附け祭りの体裁が整った。天保15年(1844)頃までには、山車(だし)が一本柱形式に統一され、高欄に人形を乗せるようになったと言われている。
蔵造りの町並みに面して「川越まつり会館」が建っている。350年以上の歴史を誇る川越まつりを体感できる施設で、そこの山車展示ホールには、実際の川越まつりで曳かれる本物の山車2基が、定期的に入れ替えながら展示されていて、豪華な幕や精巧な彫刻で飾られた山車の迫力を間近で見ることができる。また、大型スクリーンでは川越まつりの様子を映し出しており、祭りの熱気と興奮が体験できる。
蔵の街(界隈
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| 札の辻交差点から一番街(蔵通り)を望む |
川越市街地を南北に走る県道川越・栗橋線の交差点「札の辻」から南の「「仲町」交差点までの通りを一番街、通称「蔵造りの町並み」と呼んでいる。このあたりは通りに面して重厚な蔵造りの店舗やモダンな洋風建築が人目を引き、ここを散策に訪れる観光客は多い。
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| 蔵造りの店舗が並ぶ一番街 |
蔵造りとは、類焼を防ぐための巧妙な耐火建築である。江戸の町家形式として発達したもので、土蔵と同じ構造で造られた店舗や住居のことをいう。店舗部分と住居部分が独立していること、屋根が桟瓦葺で大きな箱棟とカゲ盛を持つこと、外壁が黒漆喰であること、二階の窓は観音開き扉になっていることなど、さまざまな特徴がある。今の東京では見ることができない江戸の面影を伝える建築様式である。
江戸では、明暦の大火後、道路の拡張、火除け地の増設、火除け堤の設置、寺社の郊外移転など、火災に強い都市作りが実施された。享保の改革では町火消しの制度が確立された。また、瓦葺きや土蔵造りの防火建築も奨励された。明治26年(1893)には川越も大火を経験し、川越商人たちは町の復興に伝統的な耐火建築である土蔵造りを採用した。
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| 蔵造り資料館の内部 |
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| 江戸時代の消火設備 |
こうした構造の店舗や住居が建てられたのは、江戸時代に頻発した大火の教訓による。火事と喧嘩は江戸の花と言われるほど、江戸の火災は多く、記録に残っているだけでも2000件に達する。特に明暦3年(1657)の振袖火事、明和9年(1772)の目黒行人坂火事、文化3年(1806)の車待ち火事は、江戸の三大火事と呼ばれている。
一番街には、明治から昭和初期にかけて建てられた洋風建築も点在している。埼玉りそな銀行川越支店や川越商工会議所の建物などである。蔵造りと洋風建築が軒を並べる町並みは独特の雰囲気を醸しだし、「重要伝統的建築物保存地区」に指定され、また「都市景観百選」にも選ばれている。
さらに、一番街には川越まつりを紹介する「川越まつり会館」、川越大火の直後に当時の煙草卸商が建てた蔵造り建物を利用した「蔵造り資料館」、寛政4年(1792)に呉服太物商近江屋半右衛門が建てた蔵造りの商家などがあり、有料で見学できる。
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| 幸町に聳える「時の鐘」の塔 |
川越のシンボルとなっている「時の鐘」は、一番街からすこし入った横町にある。寛永年間(1624年〜44年)に川越城主酒井忠勝が、城下多賀町 (いまの幸町)に建てたものが最初といわれている。 現在の鐘楼は、明治26年(1893)に起きた川越大火の翌年に再建された3層構造の塔で、高さは約16メートルある。時の鐘は寛永の創建から360年以上、 暮らしに欠かせない「時」を告げてきた。 現在も1日に4回(午前6時・正午・午後3時・午後6時)、蔵造りの町並みに 鐘の音を響かせている。
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| 菓子屋横町 |
川越観光でもう一カ所忘れてならない場所がある。養寿院の北側にある小路で、最盛期の昭和の初めには70軒以上の菓子屋があり、ここから数十種類の菓子が全国に出荷されていた。現在でも十数軒の店舗が軒を連ねており、「菓子屋横町」の名で知られている。一番街からも近く、昔ながらの菓子の魅力に惹かれてこの横町は観光客の人気スポットになっている。
川越の主な史跡や名所を半日をかけて駆け足でまわってみて、「小江戸」と呼ばれている所以を実感することができた。東京ではすでに失われてしまた江戸の風情が、この地では市民の生活の中に濃厚に残っていて、現代に疲れた我々に新鮮な香りを放っている。テレビドラマ「JIN」の主人公ではないが、江戸の昔に瞬時にしてタイムスリップして、当時の建物や町並みに接することができる。それって、実にすばらしいことである。
ちなみに、秋の味覚サツマイモのことを「栗より美味い十三里(半)」というが、これは江戸時代に江戸と川越の距離(九里+四里=十三里)をもじって、川越産のサツマイモの味の良さを言い表したものである。今でも、サツマイモはこの地域の特産品の一つだが、埼玉県でサツマイモが栽培されるようになったのは、第8代将軍徳川吉宗がサツマイモの栽培を奨励したのがきっかけとされている。
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