橿原日記 平成23年10月31日

浦上四番崩れ−明治の初めにもあったキリシタン迫害

長崎浦上のキリシタンが預けられた津和野の乙女峠に建つサンタ聖堂
長崎浦上のキリシタン信者が預けられた津和野の乙女峠に建つサンタ聖堂

”乙女峠”という優しい名で呼ばれている津和野のキリシタン迫害地

■ 昨夜、不思議な夢を見た。若い頃見たハリウッド映画「ベン・ハー」の一場面のようだった。主人公のユダヤ人貴族・ベン・ハーが新任の総督暗殺未遂の濡れ衣を着せられ、ガレー船の漕ぎ手として他の罪人たちと数珠つなぎにされて砂漠を護送されていくシーンに似ていた。そのシーンがいつの間にか「浦上四番崩れ」で捕縛されて津和野へ移送される28人の流刑者の列に変わっていた。彼らは長崎から尾道まで船で輸送され、広島から山越しに山陰道へ出て津和野へ護送される途中だった。

「ベン・ハー」の一場面
■ 先日読んだ永井隆博士の『乙女峠 津和野の殉教者物語』の影響が、どうやら脳の片隅に残っていたようだ。医学博士で「長崎の鐘」や「この子を残して」の著者でもある永井隆氏が、幕末から明治初年にかけて実際にあったキリシタン迫害の様子を小説として執筆されていたとは、つい最近まで知らなかった。

■ 筆者の自宅の近くに長徳寺(ちょうとくじ)という古刹があり、そこにキリシタン殉教事件が伝承されていて、それをレポートしたことがある(平成19年6月1日付け橿原日記参照)。そのときは寛永15年(1638)の島原の乱で、幕府の弾圧の逃れたキリシタンたちは地下に潜伏し、キリシタン迫害の歴史は終わったものとばかり理解していた。

永井隆著『乙女峠』
■ だが、それは事実誤認も甚だしかったようだ。島原の乱以後も、大村崩れ(1657)、豊後・尾張崩れ(1660)、豊後・美濃崩れ(1661)とキリシタンの迫害が繰り返されてきた。”崩れ”とは、隠れキリシタンを摘発して処刑することを言う。寛文8年(1668)には九州各藩で隠れキリシタンが逮捕され、116人が処刑されるという事件も起きている。

■ そして極めつけは寛政2年(1790)から始まる浦上崩れである。特に慶応3年(1867)からの浦上四番崩れは、浦上のキリシタンの拠点根絶を目指した迫害で、一村総流罪となった。その数はなんと3394人に達したという。筆者は迂闊にも「浦上四番崩れ」というキリシタン弾圧が維新を成し遂げたばかりの明治政府によって断行されたとは、ついぞ知らなかった。そのことを知ったのは、今月の初めに小京都・津和野の町を友人に案内して貰ったときである。

■ 島根県の南西に位置する津和野町は、明治維新前には津和野藩亀井氏11代の城下町だった。山間の小さな盆地に広がる町並みは山陰の小京都として知られ、多くの観光客を惹きつけている。なかでも、武家屋敷のなまこ塀が並び石畳の通りがある殿町は、掘割りに鯉が泳いでおり、津和野観光のシンボル的スポットになっている。

津和野の殿町

■ その殿町の一画に、十字架を高く掲げた津和野カトリック教会がそびえている。昭和6年(1931)、ドイツ人シェーファによって建てられたゴシック建築の教会で、石造りの重厚な建物である。内部は拝見しなかったが、教会には珍しく床は畳敷きで、ステンドグラスが美しいそうだ。友人が案内してくれたのは、教会の敷地内にある乙女峠展示館がある。そこには乙女峠の殉教の歴史を記した写真や資料が展示してあり、また明治初年頃の乙女峠周辺の様子を再現した復元パノラマなども置かれていた。

津和野カトリック教会
■ 展示館の内部を友人に案内して貰って、初めて幕末から明治の初めにかけて行われた「浦上四番崩し」と呼ばれるキリシタン迫害の事実を知った。記録によれば、長崎の隠れキリシタンの集落だった浦上を根絶するため、全村の3394名を逮捕し、西国各地の藩に送り込み、過酷な拷問で改宗を促したそうだ。

■ 当時の津和野藩には、慶応4年(1868)8月に第一次送り込みとして浦上村のキリシタン28名が、明治2年(1870)には第二次送り込みとして彼らの家族たち125名が連れて来られた。合計153名のこれらの信徒は、現在の津和野駅の西方にある乙女山の中腹にあった光琳寺という廃寺に収容され、日夜残酷な拷問にかけられて改宗を迫られた。維新政府は、海外からの避難を浴びて明治6年(1873)2月になってようやくキリシタン禁制の法を解き、各地に流されていた信徒の故郷を許した。

■ 足かけ5年におよぶ光琳寺での拘束期間に10人の子供が生まれた。したがって、津和野で過酷な拷問を受けた信者の数は、これらの子供を合わせると総員163名になる。その中で、死亡した者41名(そのち殉教者36名)、信仰を捨てずに生きながらえた者68名、拷問に耐えかねて信仰を捨てた者54名、生児10名と記録されている。

■ 収容施設の光琳寺は山頂ではなく、山の中腹にあった。それなのに「乙女峠」と呼ばれているのが不思議だった。後で知ったのだが、長崎の原爆で亡くなられた永井隆博士が、過酷な拷問に耐えて浦上に戻った守山甚三郎という信者の手記をもとに小説「乙女峠」を執筆された。そのため、収容施設があった場所を乙女峠と呼ぶようになったという。その場所には、昭和23年(1948)に岡崎祐次郎神父が建てた記念聖堂(マリア堂)が静かなたたずまいを見せており、乙女峠はマリア再現の聖地として、また信徒殉教の聖地として全世界にその名を知られ、カトリック教徒の巡礼地になってるという。

乙女峠展示室a 乙女峠展示室の内部
乙女峠展示室 乙女峠展示室の内部



「浦上四番崩れ」とは・・・・

■ 山陰旅行から戻ると、なぜか浦上四番崩れのことが気になって仕方がなかった。乙女峠展示館で知った事実がショックだったためだ。それで図書館から「永井隆全集 第三巻」を借りて、その中に所収の『乙女峠』を読み、そのほかに日本のキリシタン迫害を扱った書籍を何冊が読んだ。自分なりに浦上四番崩れの歴史を整理してみると、次のようになる。


上空から見た長崎市
上空から見た長崎市内
■ 現在の長崎市本原町や家野(よの)町付近は、江戸時代の天領で浦上と呼ばれていた。浦上は、浦上水源地から長崎湾の入り江に流れ込む浦上川の流域に営まれた山里の村で、本原郷、中野郷、家野郷、里郷、馬込郷に別れていた。馬込郷を除く他の集落の村民は、ほとんどが隠れキリシタンだった。

■ 慶長18年(1613)、徳川家康の命令で崇伝が作成した伴天連追放令が二代将軍秀忠の名で公布された。この追放令が江戸時代を通じて250年間徳川幕府のキリシタン禁制の基本法となり、キリシタン宣教師は国外に追放され、教会はすべて破壊されてしまった。キリシタン大名高山右近がマニラに追放されたのは、翌年のことである。

■ 当時、長崎地方には約5万人のキリシタンがいたとされる。幕府による厳しい弾圧の中で、彼らは島原の乱以外は武力抵抗はせず、250年間隠れキリシタンとして潜伏し続けた。この間、教義を伝えるための地下組織が造られ、帳方(ちょうかた)−水方(みずかた)−聞役(ききやく)という指導系統を持っていた。

長崎市内の浦上天主堂付近
長崎市内の浦上天主堂付近
■ 帳方は浦上村に一人置かれた。その役目は、日繰り(バスチャン暦)や宗教書を所有して、祈りや教義などを伝承することにあった。また、一年中の祝日や教会行事の日を調べて、各郷に一人置かれた水方に伝えた。水方は洗礼を授ける役だが、帳方から伝えられた祝日や祈り、教義を聞役に伝える任務も負った。聞役は各字に一人置かれ、一戸一戸の信者を掌握し、水方から伝えられたことを各人に知らせる役だった。

■ 隠れキリシタンが摘発され処刑されることを「崩れ」、改宗することを「転ぶ」という。浦上キリシタンの崩れは四回あった。

■ 「浦上一番崩れ」は寛政2年(1790)に起きた。村の庄屋が円福寺に八十八体の石仏を寄進するすることを取り決め、村人に喜捨することを要求した。ところが村人の多くがそれを拒否した。そのため、庄屋は拒否した者のうち19人をキリシタンであるとして捕縛して入牢させた。しかし、四年後に証拠不十分だったため、19人が釈放された。

■ 「浦上二番くずれ」は天保10年(1839)に起きた。転びキリシタンの密告によって、キリシタンの地下組織の最高指導者だった帳方など中野郷の中心人物4人が逮捕された。しかし、彼らは知らぬ、存ぜぬを押し通して釈放された。

■ 「浦上三番くずれ」は安政3年(1856)に起きた。このときも密告によって帳方だった吉蔵その他の信徒の主だった者が捕えられて拷問を受けた。そのため、転んで仏教徒になった者が多かったが、吉蔵は信仰を守り通して牢内で殉死した。彼は初代以来七代続いた「帳方」だったが、このときをもって帳方が廃止された。「水方」も3人が殉教したという。

■ そして「浦上四番崩れ」である。慶応3年(1867)、うわべは仏教徒を装いながら隠れキリシタンとして信仰を守り続けた村民が、キリスト信者であることを明かし仏式の葬儀を拒否すると申し出た。それがきっかけとなって浦上の村民たちが江戸幕府の指令で大量に捕縛され拷問を受けた。江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府は、改宗しない村民たちを流罪として各地に送り拷問にかけた。このことが、その後諸外国の激しい非難を受けることになる。浦上四番崩れの背景には次のようないきさつがあった。


■ 安政5年(1858)7月、徳川幕府は日米修好条約を調印したのを皮切りに、オランダやロシア、イギリス、フランスとも同様な条約を結び200余年の鎖国を解いた。その条約の第8条には、外国人は寄留地に自分の宗教の礼拝堂を設けてもかまわないという文言が入っていた。

現在の国宝大浦天主堂
現在の国宝大浦天主堂
■ 文久3年(1863)1月、フランスのパリ外国宣教会のフューレ神父が長崎にきて南山手の外国人居留地に隣接した土地を入手すると、8月に来日した同宣教会のプチジャン神父の協力を得て天主堂の建立に着手した。天主堂は慶応元年(1865)2月に完成し、「日本二十六聖殉教者天主堂」と名付けられた。これが通称「大浦天主堂」であり、慶長元年(1597)に豊臣秀吉の命令で長崎で処刑された26人のカトリック信徒の殉教地である西坂の聖地に向けて建てられた。

■ 当初は幕府の迫害を恐れて、浦上の隠れキリシタンたちは天主堂に近づかなかったが、3月になって十四、五人の農民が天主堂の門に立って中の様子を伺うようになった。それを皮切りに、信者たちが続々と天主堂に来るようになった。

■ 慶応3年(1867)4月、浦上の信者が「我々は昔からキリシタンの信仰を守ってきたが、「これからは葬式などはいっさいキリスト教によって行なう」旨の口上書を庄屋に出した。こうして仏教との関係を断ち切りたいと意思表示した家は、本原郷400戸、家野郷100戸、中野郷200戸に達した。驚いた庄屋は長崎代官に届け、口上書は代官から長崎奉行所に上げられた。長年隠れキリシタンとして信徒たちが、初めて自分たちはキリスト教信者であると明らかにしたのである。事は重大だった。長崎奉行所だけで裁断できる問題ではなく、奉行の一人である能勢大隅守を京都に派遣して、幕府の意見を聞くことにした。

■ 徳川幕府はまさに倒れようとしていた時期だった。うかつにキリシタン迫害に手を下すと、諸外国から突っ込まれるおそれがあり、苦しい立場に置かれていた。一方、西日本の諸藩は、開国に憤慨して外国人を追い払えと叫んでおり、長崎のキリシタンを取り締まらなければ、倒幕のおあつらえ向き理由になる。また、幕府が出した禁教令が農民に破られては幕府のメンツにもかかわる。そこで、幕府は逡巡した後にキリシタン召し捕りの方針を決めた。

現在の国宝大浦天主堂
乙女峠展示室のステンドグラス
■ 一方、浦上では代官の命令でキリシタンの名簿を提出させられていた。また奉行所からは多くの間者が浦上に乗り込んで、主だった信者を調べ上げ、幕府の命令が到着次第、いつでも召し捕ることができ手筈を整えていた。

■ 慶応3年(1867)7月15日(月)の午前0時過ぎ、大雨の降りしきる中を手に手に日の丸提灯をもった総勢170人捕り手が浦上に押し寄せた。彼らは浦上に入ると幾手にも別れて手にした名簿によって目指す家を襲って200人ばかりを捕らえた。嵐の夜の捕り物だった。捕縛者のうち問題にならない者たちは家に返されて、68人が牢に留め置かれた。これが世にいう「浦上四番崩れ」の大迫害の発端となった。

■ 当時長崎にいた各国の領事は、事件を知って一斉に抗議した。その日のうちにロシア領事は、キリシタンの捕縛は人道的に許されないと長崎奉行所に抗議した。翌16日にはフランス領事は奉行所を訪れて役人に談判し、ポルトガル領事は直接長崎奉行に会見して抗議した。しかし、異宗の者を取り締まるのは当たり前だと、奉行所はこれらの抗議を突っぱねた。アメリカ公使も長崎奉行と談判したが、奉行の態度は変わらなかった。ただ、拷問にはしないと約束した。

■ 68人が捕らえられた後にも新たな逮捕者で出て、入牢者の数は83人になった。幕府は捕縛者を拷問にかけないと約束したが、彼らを待っていたのは17世紀の初期キリシタンたちが受けた”駿河問い”という拷問だった。 

駿河問い(出典:名和弓雄著『 拷問刑罰史 』)
■ この拷問はかって家康に仕えた駿府の町奉行・彦坂九兵衛が考案した拷問方法だと言われている。まず両足両手を背中に反らせ、足首と手首を一緒に縛って、そこに重い石を乗せて縄を家の梁にかけて吊す。次に、体をぐるぐる回して縄をよじり体が次第に高いところに上っていったところで、今度は勢いをつけて逆方向に体を回転させる。すると体の穴という穴から水と血が噴き出す。これを繰り返すことで苦痛のために大抵の者は気絶してしまう。しかし、水をかけ薬を飲ませて正気に戻ったら、また同じ事を繰り返すという凄惨な拷問の仕方だ。

■ この”駿河問い”の拷問にかけられたのは6人だったが、それを見た者も全員が棄教し、結局83人のうち転ばなかったものは仙右衛門という人物ただ一人だった。ところが、仙右衛門一人を獄中に残して村に帰ると、意外な場面に直面することになる。暖かく迎えてくれるはずの家族が、「棄教したものは家にいれない」と厳しく拒絶されたのだ。

■ あんなに信仰の堅かった者が全部そろって転宗してしまったのは、「きっとテングがついたにちがいない。テングと一緒に家に入れると、家族がみな”転んで”しまう」と信じたからだという。困り果てた38人の転宗者は深く悔やみ、もう一度信仰に立ち返るために庄屋に”改心戻し”を願い出た。10月12日のことである。3日後に奉行所から呼び出され、今度こそ攻め殺されると覚悟して奉行所に出頭したが、意外にも神妙に沙汰を待つようにと言い渡されて帰宅を許された。その後には、転宗した者ほとんど全員が改心戻しを届け出たという。

■ 奉行所の態度が変わったのは、徳川幕府が倒れ、明治維新が成立した微妙な時期だったためである。この年の10月3日、土佐藩が徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出し、慶喜は14日明治天皇に上表文を提出、15日に天皇の勅許を得て、21日大政奉還を布告している。新政府の宗教に対する方針が決まるまでは、長崎奉行所としてはいかなる処断を下すわけにはいかなかった。

■ 王政復古が成った明治新政府は、明けて慶応4年(1868)3月14日「五箇条の誓文」を発して、新国家は神道国家主義によって形成して行くことを明らかにした。神道主義で国づくりをしようとする維新政権は神仏分離令を発して廃仏毀釈運動を起こし、徳川幕府の仏教国教から神社信仰と神道に国教を変え、天皇の神格化を図ろうとしていた。皇祖神を信仰の対象とする神道から見ると、一神教であるキリスト教は相容れない宗教であり、神道国家を危うくする存在に思われた。したがって、キリシタンの存在を政治的に絶対に認める訳にはいかず、新政府は数百年来の徳川幕府のキリシタン弾圧政策を踏襲することを、「五箇条の誓文」と同時に高札を立てて名言している。

■ 慶応4年(1868)3月7日、九州鎮撫総督に沢宣嘉(さわのりよし)が任命され、参謀の井上聞多を伴って九州に乗り込んできた。その下には、大隈重信松方正義などの青年政治家もいた。彼らの最初の仕事は浦上キリシタンの処分問題だった。4月8日、仙右衛門ら主だった信徒26人が召喚された。続いて29日には浦上キリシタンの戸主180人が召喚され、新総督の沢宣嘉は、キリシタンを止めよと説諭した。しかし、彼らに”転ぶ”意志はなかった。

木戸孝允(=桂小五郎)
■ 5月17日、大阪西本願寺の行在所で御前会議が開かれ、木戸孝允(きどたかよし、桂小五郎)は、「信徒の巨魁を長崎で厳罰に処し、他のキリシタンたちは名古屋以西十万石以上の諸藩に配分監禁して教諭する。その藩主には彼らの生殺与奪の顕現を与え、7年間は一口半の扶助米を支給して、その巣窟を根本的に一掃する」という案を出し、賛同を得た。ただ、参与の小松帯刀(たてわき)は、巨魁を厳罰に処するのは穏当でないと三条実美に具申して受け入れられた。

■ 木戸孝允と言えば、桂 小五郎として知られていた尊王攘夷派の中心人物で、薩摩藩の西郷隆盛大久保利通とともに「維新の三傑」と並び称せられた。大佛次郎の時代小説「鞍馬天狗」のモデルになった人物として、筆者世代にはよく知られている。その明治維新の立役者で開明派として知られた木戸が、キリシタンの村は悪の巣窟であり、キリシタンであると言うだけで彼らを根こそぎ一掃するという確たる信念を持っていたとは驚きである。ユダヤ人根絶を目指したヒットラーとなんら変わらない。

■ その厳罰強硬派の木戸孝允が6月に長崎に下り、7月11日からキリシタンの中心人物114人を流刑地を決定した。内訳は、萩66人、津和野28人、福山20人だった。114人の流刑者のうち特に信仰強固な者は選ばれて津和野に送られことになっった。それには理由がある。維新政府にあって、津和野藩の最後の藩主・亀井茲監(これみ)、国学者・大国隆正、大国門下の玉松操および福羽美静(ふくばよししず)らが神祇官の主要な役職に就任しており、5月17日の御前会議で、亀井茲監と福羽美静は、「断罪せず、説諭し改心させるべきだ」と主張したという。そうした津和野の方針が強硬派には軟弱に見え、木戸はお手並み拝見と信仰強固な者たちを押しつけたようだ。

津和野市内の関連地図
津和野市内の関連地図
■ 一年半後の明治2年(1870)11月30日、今度は浦上キリシタンの戸主700人に出頭命令がだされた。肌を刺すような冷たい風と雪が吹きすさぶ真冬の最中、彼らは長崎港に待機する汽船や和船に乗せられて各地に移送された。そのうちの125名が第二次送り込みとして津和野に連れて来られた。その後もキリシタンの巣窟を根絶するという政府の計画は着々と進められた。その結果、”浦上四番崩れ”といわれる迫害で流罪となった人数は総勢3394人にも達した。彼らは鹿児島、萩、広島、名古屋その他の各藩22カ所に配流となった。

■ キリシタン弾圧は明治6年(1873)にいたって各国の猛烈な避難を浴びて撤回することになる。その直接の原因は、一通の電報だった。明治4年(1871)11月12日、政府は岩倉具視を大使、木戸孝允を副使とする欧米視察団を派遣した。各国と結んだ不平等条約の改正が目的だったが、どこの国に行っても、日本政府は人民に信仰の自由を与えていないのは野蛮国だという世論の避難を浴びせられた。ついには、「行く先々でキリシタン追放者と信教自由のため外国の人民からの強訴に接する。この際、前者は速やかに解放し、後者に対して幾分の自由寛大な意向を表明しなくては、友誼的な条約改正は期待できない」との電報が東京に打電された。

■ この電報は政府を驚かせ、それまで小さいと思ってきた宗教問題が平等条約を結ぶのに最大の障害になっていることを明治政府は初めて知った。そこで、明治6年2月21日、キリシタン禁令の高札を取り去り、各県に対して配流されているキリシタンをいじめないようにと指令を出した。こうして浦上四番崩れの悲劇はようやく幕が下りた。



乙女峠での迫害

永井隆博士遺影
■ 故永井隆博士は昭和26年(1951)年4月22日、浦上四番崩れの生き残りだった守山甚三郎の手記をもとに『乙女峠』を書き上げられた。博士の絶筆となった作品である。3日後には右肩甲骨部に内出血があり、執筆はできなくなった。4月30日には右大腿部に多量の出血があり、翌日には白血病の療養生活を送られた二畳一間きりの如己堂(にょこどう)から、担架に運ばれて長崎大学付属病院に入院された。一時小康状態を保たれたが、容体が急変してその日の午後9時50分死去された。享年43歳だった。

■ 守山甚三郎の手記によると、乙女山の山腹にある光琳寺という廃寺が流刑者の牢にあてられた。寺の周囲は新しい竹矢来に囲まれていたが、信徒たちが寝起きする大広間は京畳が敷かれ、火鉢も備わっていたそうだ。賄い方もいて丁寧な取り扱いを受け、さらに米五合、薬代73問、紙一枚が一日のあてがいとして与えられ、当初はそれなりに結構な扱いを受けたようだ。

■ 最初は寺の僧が毎日きて説教をし、転宗を進めた。しかし、誰一人転宗する者もなく半年が過ぎた。すると、今度は僧侶に代わって神主が来て説得するようになった。津和野は小さな城下町だが、学問の盛んな土地柄だった。藩主の亀井隠岐守は平田流の神学に凝り、藩士には大国隆正福羽美静(ふくばよししず)など有名な国学者がいた。したがって、宗教には宗教で、と考えて、説教による改宗を試みた。

■ ちなみに明治維新の眼目は王政復古にあった。維新の中心人物は岩倉具視とされているが、彼の懐刀となって、王政復古の号令の骨子を作成したのは、国学者・大国隆正の門人だった玉松操(たままつみさお)という人物である。しかし、玉松が岩倉具視に説いた政治理論は、大国隆正からの受け売りだったとされている。明治維新を成し遂げたのは薩摩・長州の二大勢力だったが、新政府の施政方針を決定し、実質的に維新政府を動かしたのは津和野藩出身の国学者たちだったようだ。

■ 御前会議で「断罪せず、説諭し改心させるべきだ」と主張した亀井隠岐守と福羽美静にとっては、仏教と神道の説教によってキリシタン信徒を改宗させることができなかったとなると、面目は丸つぶれである。したがって、方針を変えて拷問で改宗を迫ることにした。畳をはぎ取り、一日の食物を米三合、塩ひとつまみと水だけにし、布団をムシロに変えた。着物は捕らわれたとき着ていた単衣着だけで、とても山陰の冬の寒さを防ぐことはできなかった。

乙女峠に展示してある三尺牢のイメージ
■ そのため、16人が降参し転宗を申し出た。転宗したものは、山の麓にある法真庵という尼寺に移され、一日米五合、お菜代71文、ちり紙一枚が与えられ、日雇い稼ぎに出る自由が許された。残り12人に対する責め苦はひどさを加え、説教は毎日のように繰り返された。四人一組で法真庵に移し、絶食同様の責め苦を与えながら、隣座敷で転宗者が腹一杯食べるのを見せつけることまでした。

■ それでも転宗を申し出ない者は三尺牢に入れられた。それは三尺立法の箱で、前は二寸角の柱を一寸おきに打った格子になっており、天上には食事を入れる穴が一つあるだけで、他はすべて厚さ一寸二分の松板で囲われていた。身をかがめてやっと入れる狭さだったという。その三尺牢で何人も攻め殺された。

■ 真冬の厚い氷が張った池で水責めの拷問も行われた。真っ裸にされて池の氷の上に突き倒され、氷が割れて池に沈んだところを三間ばかりの竹の先につけた鉤(かぎ)で引き上げられた。牢屋の前に二尺五寸角の土牢を作り、その中に放り込んで寝起きもできない状態で責め立てられた者もいた。十一歳の子供の両手に油を塗り、それに火をつけて燃やすというようなこともした。

■ 永井隆氏の『乙女峠』では、こうしたエピソードが次から次へと綴られている。上記のように、総勢163名の信者の中で、こうした拷問によって死亡した者41名(内改心者5名)、信仰を捨てずに生きながらえた者68名、拷問に耐えかねて信仰を捨てた者54名、生児10名だったという。

乙女峠のマリア聖堂
■ これらの数字は津和野の収容所だけのデータである。片岡弥吉氏の集計によると、浦上四番崩れで鹿児島、長州萩、福山、姫路、松山、和歌山、大聖寺、金沢などの20近い流刑地で各藩が預かったキリシタンの総数は3394名。そのうちの殉教者は611名に達する。

■ 日本に帰化した津和野教会の神父パウロ・ネーベル氏(別名岡崎氏)は乙女峠を深く愛し昭和26年(1951)、殉教者たちの鎮魂のために懇親的な努力を払って小さなマリア聖堂を建立した。現在、5月3日に行われる乙女峠まつりには、全国から多くの巡礼者が集まり祈りを捧げるとのことだ。



[参考文献] 永井隆著『乙女峠』、津山千恵著『日本キリシタン迫害史』、片岡弥吉著『日本キリシタン殉教史』

2011/10/31作成 by pancho_de_ohsei
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