橿原日記 平成23年4月8日

往古、飛鳥寺は仏教寺院であり総合文化センターだった

飛鳥寺の花会式

春を迎えた飛鳥寺遠望
飛鳥寺の表門に立てられた花会式の案内
花御堂作りの準備
日の午前中、ようやく訪れた飛鳥の春を追って明日香村の花の名所巡りに出かけた。寒冷前線が近づいており、午後からは雨になるとの天気予報を聞いて、せっかく開いた花びらを風雨が散らしてしまう前に見ておきたいと思ったからである。

年行なう花の飛鳥巡りでは、飛鳥寺の境内で咲き誇る桜を塀の外から遠望するのも、楽しみの一つだ。飛鳥寺の境内は狭い。寺の建物を背景に桜の枝をレンズで捉えるのはなかなか難しい。そこで、飛鳥寺の南側の畦道から飛鳥寺全体をフレームに入れて撮影することにしている。撮影の後、飛鳥寺の表門にまわった。すると、門の脇に花会式の案内が出ていた。

日は4月8日、各地の寺院で釈迦(ゴータマ・シッダッタ)の誕生を祝う法要が行われる日である。そのことをすっかり失念していた。この仏教行事は灌仏会、仏生会、花会式など様々な名で呼ばれているが、子供の頃慣れ親しんだ「花祭り」の呼称が懐かしい。幼い頃田舎の寺で甘茶をふるまって貰った想い出が蘇った。

鳥寺では、本日の午後2時から釈迦の誕生を祝う花会式法要が行われるとのことだ。境内に入ると、誕生仏の像を中央に安置する花御堂(はなみどう)の屋根を様々な草花で飾る準備が、本堂の脇で行われていた。

会式法要の行事に興味があったが、それ以上に興味をそそることが案内に記されていた。法要の後で、県立橿原考古学研究所の菅谷文則館長が「飛鳥寺と百済の工匠」と題する講演をされるという。考古学者の菅谷氏が飛鳥寺をどのように理解されているのか是非拝聴したいと思った。

花御堂
が、天気予報では午後から雨である。雨に降られたら法要も講演も中止になるのかと聞いてみたら、「大丈夫です」との返事が返ってきた。雨に備えて、これから参列者用に大きなテントを用意します、とのことだ。




花御堂が中央に飾られて準備が整った会場
午後2時に始まった花会式法要
近の天気予報は意外と当たる確率が高い。正午前にいったんアパートに戻ったが、予報通り昼過ぎから雨になった。雨傘をさして自転車でまた飛鳥寺まで戻るのは気分が重い。

の付近の土地、南東から北西方向に緩やかに傾斜している。畝傍山付近から明日香村へ向かうのは逆方向の登り勾配になる。それなりにペダルを踏まないと自転車は道の途中で止まってしまう。けっこう労力が要るのだ。それでもなんとか気を取り直して出かけることにした。

鳥寺には2時少し前に着いた。本堂の前に大きなテントが張られ、招待された参列者でほとんどすべての椅子は埋まっていた。かろうじて最後尾の椅子が一つ空いていたので、そこに座って法要の開始を待った。

後2時、僧侶たちが暗い本堂に着席して花会式の法要が始まった。本来なら飛鳥寺住職の山本宝純氏が導師を務められるはずだが、氏は体調を壊しておられ、その代役を桜井市初瀬にある法起院の喜多昭賢住職が務められた。法起院は真言宗豊山派の総本山長谷寺の塔頭である。

堂では読経が行われていたが、境内に設営されたテントの末席からは、薄暗い堂内でどのように法要が進展しているのかよく見えなかった。

本堂内で行われている花会式の法要

の後に参列者がそれぞれ花御堂の前に進み、合掌して甘茶を3回釈迦誕生仏にかける儀式が行われた。こうして、法要はつつがなく終了したが、引き続いて、予定になかった導師を務められた喜多昭賢氏の法話があった。導師は3.11の東日本大地震と東電の福島原発事故について言及され、あまりに便利になりすぎた現代に疑問を投げかけられた。

誕生仏に甘茶をかける儀式
多導師によれば、利便性を追求することで現代の生活は大変便利になった。津波で自分の家が流される様がテレビで見られる時代である。原子力発電でクリーンなエネルギーを手に入れられるようになった。利便性は一歩間違えれば想像を越えた危機をもたらす時代でもある。それが狂うと人々は奈落の底へ突き落とされてしまうことを我々は福島原発事故で知らされた。

師は、利便性の追求を比喩して、人々は山頂に向かう切り立った細い道を毎日歩かされているようなものだと言われた。そして、飛鳥寺が建立された1400年前の人々は、もっと広い道をゆったり歩いていたのではなかったかと。この未曾有の大震災を契機に、利便性が良いのかどうか考え直すべきではないかというのが法話の結論だった。宗教家らしい警告である。



菅谷文則氏の講演「飛鳥寺と百済の工匠」

講演される菅谷文則氏
谷文則氏の講演「飛鳥寺と百済の工匠」は、喜多住職の法話に続いて行われた。氏の講演はいつ聞いても分かりやすい。専門の考古学用語を極力避けて分かりやすい比喩で物静かに語られるからだ。例えば、天智天皇を飛鳥大嫌い天皇、その弟の天武天皇を飛鳥大好き天皇などと表現される。

智天皇は皇太子時代の645年に乙巳(いっし)の変で蘇我本宗家を滅ぼした直後に難波宮に都を移し、663年の白村江の戦いで大敗を喫した後には近江大津宮に遷都している。その理由として、滅ぼされた蘇我本宗家の呪いがよほど怖かったのだろうと推察しておられる。

方、弟の天武天皇は672年の壬申の乱に勝利し、都を近江から飛鳥に戻している。そして母の皇極・斉明女帝の皇居をそのまま引き継いで、飛鳥浄御原宮としている。よほど飛鳥が好きだったにちがいないとのことだ。

現在の真神原

我馬子が氏寺として壮大な仏教寺院の建立を思い立った頃、この地は真神原と呼ばれるオオカミが跳梁する原野だった。当時の文化の中心は畝傍山周辺や磐余地方であり、飛鳥には何もなかった。馬子がこの地に寺地を定めた理由は不明である。しかし、飛鳥寺の完成によって、真神原は我が国の文化の中心となり、その後100年間の王城の地となった。

谷氏は飛鳥寺が完成した後、歴代天皇の皇居は飛鳥寺の中軸線(センターライン)の南に営まれるようになったと指摘された。舒明天皇の飛鳥岡本宮も、皇極天皇の飛鳥板蓋宮も、斉明天皇の後飛鳥岡本宮も、そして天武天皇の飛鳥浄御原宮も、すべて飛鳥寺の中軸線上に築かれた。しかも、最近の発掘調査の結果、これらの王宮はいずれも同じ場所に重層的に築かれたことが判明しており、最近では飛鳥京跡または飛鳥古京跡と総称されている。

修復の跡も痛々しい飛鳥大仏
うした王宮の地の決定に対して、菅谷氏は面白い見解を示された。天皇は南面して諸臣に対する。そのため諸臣は天皇を北に拝することになるが、その背後にはまるで光背のように存在する飛鳥寺の大仏を意識せざるを得ない。つまり、天皇は宗教的権威として意識して飛鳥寺の本尊を大いに利用していたにちがいないと言われる。

鳥寺の造営にあたって、蘇我馬子は僧侶の派遣だけでなく、寺院建立に必要なすべての技術支援を百済に仰いだ。なにしろ、当時の住居は掘立柱建物であり、屋根は茅葺きや檜皮葺の時代だった。礎石の上に立柱したり、屋根瓦を葺く技術などまだなかった。馬子の要請に応じて百済の威徳王は588年、寺工や鑪盤博士、瓦博士、画工など寺院建築の専門家を派遣してきた。

谷氏はこうした専門家を”百済の工匠”と呼ばれた。馬子の命令で配下の枝氏族から集められた工人たちに対して、百済の工匠たちは建築技術や鋳造技術、瓦製造技術などを指導しながら伽藍を建築していった。そのため、原野にすぎなかった真神原は一転して一大工業団地と化した。

飛鳥寺の復元イメージ
西暦596年11月、飛鳥寺が完成した。馬子は”仏法興隆”から中の2文字をとって「法興寺」と命名した。前年来朝した高句麗僧の慧慈(えじ)と百済僧の慧聡(えそう)は三宝の棟梁として、寺に止宿し仏教を広めた。当時の僧侶は単なる宗教家ではない、経典はもちろん歴史や文学にも詳しい一流の文化人であり、さらに医術や薬草の知識も兼ね備えていた。さらに、寺院前の広場では半島や大陸から伝えられた仮面劇や舞踊が毎日のように催された。

我馬子が七堂伽藍を供えた巨大な仏教寺院を真神原に建立した目的は、一族の権威を誇示するためだったであろう。だが、菅谷氏は、飛鳥寺は仏教寺院であると同時に、さまざまな文化を発信する総合文化センターの機能も果たすことになった点に注目される。そして、その種を撒いてくれたのは当時の百済からの渡来者であったと言われる。その後、660年に百済は新羅・唐連合軍によって滅亡に追いやられ、新たに多くの百済人が我が国に亡命してきた。そして、彼らが日本の文化を支えた。

の飛鳥仏に関して,『日本書紀』は面白い逸話を伝えている。推古天皇14年(606)の4月8日、仏師の鞍作止利は銅と繍(ぬいもの)丈六の仏像をそれぞれ完成した。その日、丈六の銅像を飛鳥寺の中金堂に入れようとしたが、仏像が金堂の戸より高くて入れることができなかった。多くの工人たちは相談して堂の戸を壊して入れようとした。しかし止利の偉いところは、戸を壊したりせずに立派に堂に入れたことである。・・・

者は以前、飛鳥寺の境内のベンチに腰掛けて、止利がどのように飛鳥大仏を搬入したかを考えて見た。仏像の高さが戸口の梁より高いのであれば、仏像を直立のまま搬入するのではなく、ある程度傾斜をつけて高さを低くすればよい。くさび形の台を作り、その上に仏像を固定すれば、そのことは可能なように思えた。

谷氏も同じ疑問を抱いておられたようだ。ある時長谷寺の関係者に聞かれたところ、意外と簡単な答えが返ってきたという。 戸口の下の横木を外すだけで搬入でき、寺院建造物ではそれが可能とのことだ。金堂を建てた百済の寺工に止利が相談したところ、同じような解決方法を示唆されたにちがいない。

谷氏はさらに飛鳥寺の平城京移転についても、特異な見解を示された。現在のなら町の元興寺極楽坊の屋根には、創建飛鳥寺の瓦が一部葺かれているため、移築は事実だろうとされているが、飛鳥寺の本尊とされる止利作の釈迦仏は1400年間現在の場所に鎮座している。したがって、寺全体を移建したのではなく、僧侶の生活の場である僧坊の一部が移された程度ではないかと推定しておられる。




2011/04/09作成 by pancho_de_ohsei

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