2011/01/29

唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)から纒向遺跡(まきむくいせき)へバトンタッチ?

唐古・鍵遺跡のシンボル−復元楼閣<
唐古・鍵遺跡のシンボル − 復元された楼閣

橿考研の所長トークシリーズ『菅谷所長と語る! 邪馬台国』

■ 県立橿原考古学研究所(=橿考研)は昨年『菅谷所長と語る! 平城京とその時代』と題する対談を4回シリーズで実施した。研究所の所員が基調講演として自説を展開した後、菅谷文則所長からチクリチクリと問題点を指摘され、それに応答する形式の対談だった。参加者の好評を博したため、アンコールに応えて昨年12月から第2弾として邪馬台国をテーマに開催されている。参加者には参加証明書が手渡され、全回参加すると修了書を授与してくれるという。

■ シリーズ2回目となる対談は、田原本町教育委員会の藤田三郎氏の「唐古・鍵遺跡と邪馬台国」と題する基調講演の後、唐古・鍵遺跡と邪馬台の関係について菅谷所長との対談があると聞いて、参加することにした。

モニター画面に映し出された対談の様子
モニター画面に映し出された対談の様子
■ 基調講演は、橿考研の講堂で午後1時半から開始される。いつもは15分ほど前に会場に到着すれば、余裕をもって着席できた。ところが、今回はどうだ。300人を収容する講堂はすでに満席となり、モニターテレビを設置した会議室も持ち込まれた補助椅子席でいっぱい。結局、特別に解放された国際交流室(?)の床に座って、モニターを見ることになった。大した人気である。

■ 唐古・鍵遺跡は、奈良盆地中央部に展開した弥生時代を代表する環濠集落遺跡である。現在の奈良県の田原本町大字唐古及び大字鍵に立地するところから唐古・鍵遺跡と併称されている。現在知られている遺跡の面積は、約42万平米。大型建物の跡地や青銅器鋳造などの工房跡が見つかっていて、平成11年(1999年)に国の史跡に指定された。

唐古・鍵遺跡の復元イメージ
唐古・鍵遺跡の復元イメージ
■ この遺跡は弥生時代の前期(*)に形成された。居住区は3ヵ所に営まれたが、弥生時代の中期になるとその周りに大環濠が築かれ、一つの居住域に統合された。その環濠というのがすごい。楕円形の形をしていて、長径は約500m、短径は約400mを測り、溝の幅は8m以上あった。さらに、その大環濠を囲むように幅4〜5mの環濠が4重から5重に巡らされていたという。

(*)弥生時代の区分: 弥生時代の時期区分は、最近の研究動向を踏まえて早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつある。早期は紀元前5世紀半ば頃から、前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は1世紀半ば頃から3世紀の半ば頃まで続いたと考えられている。

「楼閣」を描いた絵画土器 復元された楼閣
「楼閣」を描いた絵画土器 復元された楼閣

■ 弥生時代の中期後半になると、2階建て以上の高層建築が造られた。平成3年(1991)、物見櫓を彷彿とさせる絵画土器が発見され、にわかにこの遺跡が世間の注目を浴びるようになった。土器に描かれていたのは、巻き込んだ屋根飾りを付けた二階建て以上の高層建築で、魏志倭人伝に記された「楼閣」を彷彿させた。その土器をもとに高さ12.5mの物見櫓が復元され、現在、唐古・鍵遺跡のシンボルとなっている。

大型建物の復元イメージ
大型建物の復元イメージ
■ 楼閣とは別に、1999年の第74次調査では集落の西地区で、5間x2間(11.6m x 6.8m)の大型建物跡が発見された。建物は中央の棟通りにもある総柱形で、北側短辺の外側に棟持柱を持つ。3基の柱穴にはケヤキの柱が残っていたが、他の柱は抜き取られていた。第93次調査でも、別の大型建物跡が見つかっている。

■ 唐古・鍵遺跡の大環濠は、弥生時代の中期後半から末にかけての洪水で埋没してしまう。しかし、再掘削が行われ環濠の帯の広さは最大規模となる。洪水で埋没したにもかかわらず、この期に環濠が再建されたのはこの遺跡の特徴と見られている。しかし、弥生時代も後期後半から末になると、環濠は埋没し、住民たちは衛星集落へ移っていったようだ。そのため、居住域が規模が縮小し、集落の形態が変質して遺跡中央部に前方後円墳さえ造られた。そして、この遺跡からバトンタッチするかのように、纒向遺跡が発展していったという。

出土した絵画土器の破片の一部
出土した絵画土器の破片の一部
■ 唐古・鍵遺跡は、稲作農業が始まった弥生時代(BC5世紀〜AD3世紀)を代表する環濠集落跡で、昭和52年以降継続的に発掘調査が行われて、さまざまな知見が得られた。最大の特徴は、単なる農村集落とは異なって、内部で石器や木器の製造や青銅器の鋳造も行なう当時の工業団地のような性格を有している点だ。したがって東は静岡、西は岡山までの広い地域と交流し、集落では定期的に市も開かれたようだ。

■ もう一つの特徴は、百数十点を超える絵画土器が見つかっている点だ。その数は、全国で見つかった絵画土器の1/3を占める。ほとんどの絵画土器は、何故か破砕された状態で出土している。

唐古・鍵遺跡と邪馬台国
唐古・鍵遺跡と邪馬台国(*)
■ 藤田三郎氏は、長年唐古・鍵遺跡の発掘に関わってこられ、この遺跡を語らせたら氏の右に出る者はいないと言われている。藤田氏は基調講演のためのレジメを用意されていた。最初のページに唐古・鍵遺跡の出来事と「魏志倭人伝」などに記された倭国のイベントが併記されていて、講演の要旨が分かりやすい。

■ 『魏志倭人伝』には、「倭国は元々、男子を王としていたが70 - 80年ほどで終わった。倭国は乱れ、何年も互いに攻め合うに及んで一人の女子を共立し王とした。名を卑弥呼という」と記す。これだけでは卑弥呼が共立された時期が特定できない。しかし、『後漢書』は桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も王がいなかったが、鬼道を用いてよく衆を惑わす卑弥呼という女子が現れ、彼女を王に共立した、とある。『梁書』は倭国大乱の時期を後漢の霊帝の光和年間(178年 - 184年)とさらに限定している。

当時のシャーマンのイメージ
当時のシャーマンのイメージ
■ これらの史書がどこまで史実を伝えているか分からないが、邪馬台国の卑弥呼が倭国連合の王として共立されたのは、おそらく西暦190年前後であろう。それからおよそ半世紀、彼女は女王として君臨したことになる。その時期は弥生時代後期後半から古墳時代初頭にあたる。一方、唐古・鍵遺跡では、この頃環濠が埋没し、居住域が縮小していく時期にあたる。見方を変えれば、倭国大乱で集落を護ってきた大周濠が破壊され、住民たちは周辺の衛星集落に移り住んだとも考えられる。その中の一部がシャーマンの卑弥呼を盟主と仰ぎ、纒向の地に移り住んで邪馬台国を開いたのだろうか?

■ 藤田三郎氏は、実に卓越した観点から基調講演を始められた。『魏志倭人伝』中に出てくる習俗の記事は唐古・鍵遺跡にも見受けられるとして、出土した遺物から具体的な例をピックアップされた。

卜占で使われた鹿の骨
卜占で使われた鹿の骨
● 倭人伝には、当時の人々が“鯨面分身”だったとある。唐古・鍵遺跡から出土した絵画土器にも、顔に入れ墨をしたと思われる人物が描かれている。
●倭人伝には、航海のタブーを一身に背負って船に乗せられた持蓑(じさい)のことが記されている、。唐古・鍵遺跡から出土した1世紀後半の線刻土器の破片には、船尾で体を衣に包み、両手を広げ、寝ている持蓑が描かれている。
●中国の古代には亀の甲羅を焼いて、そのひび割れで吉兆を占った。これを卜占(ぼくせん)という。倭人伝でも、倭国に骨を焼いて卜占で吉凶を占う習俗があったことを記述しているが、亀でなく鹿の骨を用いたようだ。遺跡は吉凶を占った鹿の骨が出土している。

復元された弥生人
■ また、当時の大陸的な要素が九州止まりでなく、大和まで入ってきていることを、出土遺物によって証明できるとされた。例えば、北地区の木棺墓から出土した頭蓋骨は、復元してみると明らかに大陸系の人物の骨と思われる。南地区で見つかった銅製の鑿(のみ)は弥生中期初頭に流入した細形銅矛を転用したものである。また、北区で見つかった弥生中期初頭の頃の布切れは合わせ糸をさらに合わせて一本の糸にしている。これは大陸から伝わった製糸法である。さらに、近くの清水風遺跡からは前漢鏡の破片も出土している。

■ 藤田氏は唐古・鍵遺跡は閉鎖的な弥生時代の農村集落ではなく、盆地の中核都市的機能を備えていたことも指摘された。すなわち、遺跡の西南部からは、河内や近江、紀伊など各地から搬入された土器が多く出土しており、”市”があったと思われる。また、南部では木器の未成品や青銅器鋳造関連遺物や炉跡が、北部ではサヌカイトの原石や剥片が纏まって出土し、各種の製造工場があったと推定できる。

当時の「市」のイメージ 青銅器工房のイメージ
当時の「市」のイメージ 青銅器工房のイメージ

■ 西地区の弥生時代中期後葉の溝からは、ヒスイの勾玉2個を内部に納めた褐鉄鉱(かつてつこう)の容器が見つかっている。勾玉は新潟県の姫川流域産のヒスイで作られていて、当時の人々は北陸地方とも交易していた証である。これらの勾玉は弥生時代のものとしては最も良質の部類に入るとされている。倭人伝にある「青大勾珠」(せいたいこうしゅ)とは、ヒスイを指すものと思われ、神仙思想の仙薬「禹余粮」(うよりょう)との関連が注目されている。

褐鉄鉱容器に納められていたヒスイの勾玉
褐鉄鉱容器(右)に納められていたヒスイの勾玉

■ このように、藤田氏は唐古・鍵遺跡は閉鎖的な弥生集落ではなく、奈良盆地にあっては代表的な拠点集落であり、日本各地と通交しており、また大陸的要素も九州を介して受け入れていた事実を、出土遺物に即して分かりやすく説明された。弥生中期の後半には集落は最盛期を迎え一番安定した時期で、大型建物や楼閣が築かれた。

■ その大周濠集落が弥生時代後期後半から末になると、環濠は埋没し、集落の形態が変質し規模が縮小して行き、ついには墓域に変わってしまう。そのため、専門家の中には唐古・鍵遺跡が纒向遺跡へバトンタッチされたとする説がある。纒向遺跡は、唐古・鍵遺跡から南東方向に直線距離で約5kmの位置にある。徒歩でも1時間ほどの距離しか離れていない。

唐古・鍵遺跡と纒向遺跡の変遷
唐古・鍵遺跡と纒向遺跡の変遷(*)
■ 藤田氏も、唐古・纒向遺跡の縮小と纒向遺跡の成立には、何らかの関係があったことを否定されない。だが、その住民が纒向地域に移ってあらたに集落を作ったとは断定されなかった。理由として、纒向遺跡が成立した後にも唐古・鍵遺跡では集落が継続しており、古墳時代の初めに環濠が再掘削され集落が形成された形跡があるためだ。

■ 集落が消滅するのは古墳時代後期以降で、遺跡の中央に前方後円墳が造られ、墓域となった。そのため、両遺跡の間にバトンタッチがあったのではなく、両遺跡は”連動”していた、と微妙な表現を使われた。



邪馬台国の規模と範囲から生じる問題点

■ 後半の菅谷所長と藤田氏の対談が開始された直後、菅谷所長は唐古・鍵遺跡の最盛期だった弥生時代中期後半の頃、どれくらいの人口だったのか聞かれた。想定外の質問だったらしく、藤田氏も少し慌てられた。しかし、専門家の中には900人から1000人程度だったと推定する説があるが、本人としては最大でも600〜700人と試算しているとのことだ。そして、周辺の衛星集落を含めてもせいぜい2000人程度ではなかったかと。

纒向遺跡の範囲
纒向遺跡の範囲
(桜井市教委作成の現地案内板より)囲
■ 当時の家族構成が1世帯5人と想定すると、大環濠の内部には最大140戸、周辺を合わせても400戸の住居があったことになる。一方、纒向遺跡の範囲はJR巻向駅を中心に東西約2キロ・南北約1.5キロにおよび、およそ楕円形の平面形状となって、その面積は3平方キロ、つまり唐古・鍵遺跡の7倍もの広さを有している。

■ 陳寿が著した「魏志倭人伝」は、3世紀の日本列島に女王・卑弥呼(ひみこ)が君臨する邪馬台国が存在したと記述している。当時の中国人の概念では、とは塀や柵、濠などで囲まれた砦の町のことである。邪馬台国は倭国連合の中心だったが、その所在地は特定できていない。九州に存在したとする九州説と畿内大和に存在したとする畿内説の間で、長年論争が続いてきた。邪馬台国畿内説は、現在の纒向遺跡をその所在地に比定している。

奈良盆地の弥生拠点集落の分布
奈良盆地の弥生拠点集落の分布
■ 「魏志倭人伝」には、対馬から邪馬台国までの各国の戸数が記されている。ほとんどは4千戸以下だが、奴国が2万余戸、投馬国が5万余戸、邪馬台国が7万余国となっている。卑弥呼が君臨した女王国はダントツで巨大な人口を抱えていたことになる。1世帯5人の家族構成で換算すると、35万以上の人口を有したことになる。倭人伝の記述は、とてもではないが実数だったとは思えない。

■ 唐古・鍵遺跡を10倍に規模を拡大したとしても、倭人伝の言う7万戸には達しない。ある調査によると、奈良盆地には弥生時代に12の拠点集落があったようだ。これらの集落の戸数をすべて合わせたとしても、7万戸には達しないだろう。

■ 国立民族学博物館の小山修三氏は、縄文時代から弥生時代の人口を推定された。氏の試算によると、縄文時代の人口はピーク時には30万人近くまで増え、弥生末期には100万を越えていた(小山修三「縄文からみた弥生の人口」)。この場合、邪馬台国には当時の倭国の全人口の1/3が集中していたことになる。

纒向遺跡の範囲
纒向遺跡の範囲
■ 現在の纒向の地に、そのような国家を想定することは可能だろうか。纒向遺跡は、全長280mの箸墓古墳を含む東西約2キロ、南北約1.5キロに及ぶ全国屈指の大規模遺跡ではある。しかし、この3平方キロにおよぶ面積は、実は布留式土器が出土する頃のものだ。卑弥呼が君臨したとされる3世紀前半の規模ははるかに小さく、後述の庄内式土器が出土する地域とされている。

■ あまり参考にならない比較だが、纒向遺跡のある桜井市の面積は約99平方キロ、平成22年12月末現在の人口は61、031人、世帯数は23,714戸である。核家族化が進んだ現在では1世帯2.57人となっている。


■ 纒向遺跡の本格的な発掘調査は昭和46年(1971)に実施され、総延長200m以上の運河状の構造物が発見され、その川跡から吉備地方の特殊器台が出土して話題になった。その時から100次を越える発掘調査が行われてきたが、遺跡全体のわずか5パーセントが調査されたにすぎない。

■ そのためかどうか分からないが、大集落と言われながらも、纒向遺跡では人が住んだ集落跡が発見されていない。現在発見されているのは、祭祀用と考えられる建物と土抗、そして弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)などにすぎない。倭人伝に記された7万戸の人口を抱えた居住域のイメージからはほど遠い。

大型建物の復元
大型建物の復元イメージ
■ 纒向遺跡の中心部にあたる辻地区を発掘している桜井市教育委員会は、平成20年から22年にかけて、上記の柵で囲まれた大型建物跡や土坑に捨てられた大量のモモの実を発見した。そのため、マスコミ各社はこぞって、この場所が卑弥呼が祭祀を行なった神殿であり、邪馬台国の所在地はここで決まりといった論調で、発掘調査の成果を報じている。

■ その発掘報道には看過できない問題点があることを、彼らは認識しているのだろうか。発掘を担当している桜井市教育委員会は、神殿と思われる大型建物やモモの実が埋まっていた土坑は、卑弥呼と同時代の3世紀中頃とみている。その根拠となっているのが、庄内3式と呼ばれる土師器の形式である。

■ しかし、考古学の世界では庄内系土器の取り扱いをめぐって揺れ動いているのだ。現在、庄内土器製作の実年代に関して、専門家の説にはさまざまな開きがある。理由は、邪馬台国の所在地と大和政権発祥の地を大和に求めようとする一部の学者の企みにある、とされている。

庄内式土器
庄内式土器
■ 庄内式土器とは、大阪府の庄内小学校(庄内幸町)から昭和9年(1934)に出土した土器である。弥生時代後期から古墳時代への移行期の土器群として、昭和40年(1965)に田中琢氏によって命名された。この時期の土器群は、庄内0式〜庄内3式、布留0式〜布留4式(5世紀末)に分類されることが多い。しかし、こうした分類は相対的な土器編年の一部であり、絶対年代を正確に表したものではない。そのため、専門家の間でも庄内土器の年代観には大きなバラツキがある。

■ 例えば、箸墓古墳を卑弥呼の墓と考える国立民俗学博物館は、庄内0式の土器の初現を2世紀前半におき、庄内3式の時期は3世紀前半としている。この場合、卑弥呼の死んだ248年は庄内3式の時代に重なる。一方、橿考研の寺沢薫氏は、庄内式土器の年代を200年初頭から200年後半と推定しておられる。同じ橿考研の職員でありながら、関川尚功氏は庄内土器の初現は4世紀になってからとしておられる。関川氏は、纒向遺跡の発掘をされ、纒向遺跡の土器の編年をされた方であり、纒向遺跡の年代については、「この遺跡がおおいに栄えたのは4世紀である」と述べられている。

■ どの説に依拠するかによって、発掘された大型建物や土坑が、卑弥呼が生きた時代と異なってくる場合がある。桜井市教育委員会の理解は、単なる仮説の一つに過ぎない。さらに、発見された大型建物が卑弥呼の神殿とする考えには、基本的な誤解がある。

■ まず、倭国大乱を収束するために邪馬台国の卑弥呼が共立されて倭国連合の王とされたと理解されている。ということは、卑弥呼が倭国大乱を収束された西暦190年頃には、すでに邪馬台国が纒向の地に存在し、卑弥呼がその国を治めていたと考えなければならない。しかし、考古学的知見はそのことを実証していない。

纒向遺跡の外来系土器の地域<
纒向遺跡の外来系土器の地域
■ 纒向遺跡で出土する遺物で最も古いものは、縄文時代の後期から晩期にかけての粗製土器片や、石棒の破片、土偶、深鉢などだ。これらの出土遺物から、この地に縄文時代の集落が営まれていたことは理解できる。問題は、纒向遺跡の中枢部からは弥生時代の集落跡は発見されていないのだ。集落の周りに巡らした環濠も検出されていないのだ。以前はわずかに銅鐸の破片や土坑が2基発見されていたにすぎない。

■ 次に、190年頃共立された卑弥呼がシャーマンとしてその建物に居住したのであれば、半世紀近く住んだことになる。伊勢神宮の遷宮で知られるように、当時の掘立柱建物は耐用年数はせいぜい20年である。つまり、20年に一度くらいのペースで建て替えられたはずである。しかし、現在までの発掘調査で、付近に庄内0式や1式、2式の時代の建物跡は見つかっていない。庄内3式以前の土器も出土していない。邪馬台国大和論者や読者のロマンを煽るだけのマスコミは、どうしてこうした現実を直視しないのだろうか。不思議でならない。

■ そのため、纒向遺跡の中枢部で発見された建物群は、箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための聖地だったとする考えも可能である。こうした理解に立つ場合、無理に卑弥呼に結びつけなくてもよい。纒向遺跡が大和政権発祥の地であることは、誰しも認めるところである。そこを邪馬台国の所在地と考えることで、さまざまな無理が生じてくる。

外来系土器の数々 同左
外来系土器の数々 同左

■ この遺跡より南に少し離れた所からは弥生時代中期・後期の多量の土器片が出土している。これらの土器の特色は、調査地点によって差があるが、出土数の15〜30%が駿河・尾張・伊勢・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された外来土器であるという。土器の量や製造地の範囲は、他に例がないほど多い。その数は、西暦210年から250年の庄内式土器出現の頃から増加しはじめ、西暦280年から290年ころにかけての時期がもっとも多くなる。

■ これらの外来土器は各地との交易によって獲得したものではないだろう。おそらく、それぞれの地域の住民が纒向の地に移り住んだとき、持ち込んだ品であろう。想像するに、倭国大乱の時期にこの地でも諸国が連合を組み、後のヤマト王権の王都となる都市国家を人為的に建設したのではないだろうか。後の藤原京の周辺には、飛騨とか吉備といった古代の国名の字が存在する。都城の建設に地方から派遣された住民が住み着いた地域だろうと言われている。同様なことが、弥生時代の末期に纒向の地でも起きたのではないだろうか。

■ すなわち、連合を組むそれぞれ国から一定の住民をこの地に強制的に移住させ、連合国の象徴ともいうべき王都の建設に従事させたのでないだろうか。その証左が多数の外来土器ということになる。もちろん、唐古・鍵遺跡やその他の奈良盆地の拠点集落からも大勢の住民が王都の建設に参加したであろう。だが、その王都は陳寿が記した邪馬台国とは関わりがない。


(*)藤田三郎氏の基調講演レジメから転記


2011/01/31作成 by pancho_de_ohsei return