平成22年7月26日

「日本」という国号の世界への広がり

国号の読み方に二通りある不思議な国「日本」

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日本の国旗・日章旗
■ 東京にも大阪にも「日本橋」という地名がある。ところが、東京と大阪では読み方が違う。東京は「にほん橋」と読み、大阪では「にっぽん橋」と読む。特にこだわらなくても、我々は無意識に日本大学や日本生命は「にほん〜」と読み、日本電気や日本銀行は「にっぽん〜」と読んでいる。

■ 我が国の国名である「日本」の音読みは、もともと「にっぽん」だったそうだ。それが、江戸時代になって関東地方の方言で「にほん」という呼び名が生まれた。我が国の憲法や法律は、国名を「日本」と表記することは定めているが、読み方は決めていない。

■ 40年ほど前、政府は国名の読み方を「にっぽん」に統一しようとした。しかし、「にほん」と「にっぽん」がごく一般的に並存して使用されているため、統一を断念した。したがって、現在は「にほん」も「にっぽん」もいずれも正しい国名の読み方とされている。ただし、国際表記は”NIPPON”としている。そのため、国の関連の名前の呼び名は「にっぽん」で統一している。日本銀行を「にっぽん銀行」と呼ぶのは、その例の一つだ。

■ ところで、筆者が関心を抱いている飛鳥時代、我が国は「倭」または「倭国」が国号だった。それが何時ころから「日本」に変わったのか調べたことがある(平成20年4月23日付け橿原日記参照)。どうやら701年の大宝律令で正式な国号としたようだが、それ以前の飛鳥浄御原令の頃から使われ出したとする説もあり、素人にはどちらが正しいのか分からない。

奈良大学の東野治之教授
奈良大学の東野治之教授
■ 去る7月17日、明日香村の祝戸荘で開かれた「あすか塾」に久しぶりに参加した。第193回目を迎えた「あすか塾」では、奈良大学の東野治之教授を招いて『日本国号の成立』というタイトルで講演いただくと聞いたからである。東野教授も日本国号は大宝律令で制定され、周の武即天の承認を得て国際的な称号として認知されたとする説に荷担しておられるようだ。

■ 講演は、レジメに示されたさまざまな文献からの抜粋を根拠に、それぞれの時代で国号の呼称が変わっていく様子を懇切丁寧に解説されて、非常に有意義だった。それにもまして、筆者の興味を引いたのは、教授が示された国号に関係した様々なエピソードである。 備忘録を兼ねて、その中の幾つかを以下に紹介しておこう。



日本という国号に関するさまざまな話題

 聖徳太子からの国書を読んだ煬帝は最初はほくそ笑んだ?

■ 日本という国号の成立が話題になるとき、いつも引き合いに出されるのは、推古天皇15年(607)聖徳太子が隋の煬帝(ようだい)に送ったとされる国書の一部である。『隋書』によれば、その書き出しは次のように始まっていたとされる。

日出(い)ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや。

隋の煬帝
隋の煬帝
■ この文面では、我が国を日出る国に、隋を日没する国にそれぞれなぞらえ、大国に対して凛然として渡り合う姿勢を聖徳太子が見せたとして、従来から高い評価を得てきた。従属外交ではなく対等外交を標榜する太子の、毅然とした意気込みが読み取れるというのだ。一方、日没する国と言われた隋の煬帝は、烈火のごとく怒り、鴻臚卿(外務大臣)に対して、今後は野蛮な国がこのような無礼な国書をよこしても取り次ぐなと命じたという。

■ だが、最近の学説では、煬帝は日没する国と言われたのに怒ったのではなく、東夷の小国の王が「天子」と称していることに怒ったのだとされている。中華思想を標榜する中国の歴代王朝では、天命を受けて世界を統治するのは天子のみであり、天子は中国皇帝の唯一無二の称号だった。煬帝の怒りは、そのことを知らずに厚かましくも天子を名乗ってきた倭国王に向けられたものだというのだ。

■ 「日出ずる国」「日没する国」とは、仏典の「大智度論」に説かれた方向を示す文言であることを指摘されたのは、東野教授である。「大智度論」には次のような一節がある。

経の中に説くが如くんば、日出ずる処は是れ東方、日没する処は是れ西方、日行く処は是れ南方、日行かざる処は是れ北方なり。

■ 隋の第二代皇帝は、煬帝と追謚されるほど後世では評判の悪い暴君だが、実は隋代を代表する文人であり詩人だった。そればかりではない。彼は晋王になった頃から天台宗の開祖・智(ちぎ、538-597)と親交を結び、深く仏法に帰依した。智より菩薩戒と「總持」の法名を授かったほどだ。したがって、東野教授は煬帝が倭国の国書を最初に開いたとき、ほくそ笑んだにちがいないと想像される。煬帝は「大智度論」の一節を当然知っており、それを国書の中で東と西を表すのに用いた倭国王も「なかなかやるなぁ」と感心したはずだ、と言われる。

 中国文化圏では、国号は中国の承認を必要とした

■ 7世紀後半以降、緊迫する東アジアの国際情勢の中で、当時の倭国は、政権を安定させ国家としての独立を保つために、唐や朝鮮半島の統治制度を参照しながら国家づくりを進めてきた。その集大成が大宝律令の完成である。律令の選定は、刑部親王・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂らが中心になって進められ、大宝元年(701)8月3日にようやく完成した。それまでの倭に代わる日本という国号は、大宝令公式令詔書式において初めて制定されたとされている(神野志隆光著『「日本」とは何か』(講談社現代新書、2005年))

■ しかし、冊封体制が敷かれていた当時の中国文化圏では、国号は宗主国である中国の承認を受けるものであり、勝手に決めて勝手に使うことなど許されなかった。東野教授の解説によると、時代は下るが、1392年に李成桂が朝鮮半島で国を建てた時、国名を「和寧」にすべきか「朝鮮」にすべきかを、宗主国の明に伺いを立てている。そして明朝の指示で翌1393年、「朝鮮」を国号とし「李氏朝鮮」が誕生したという。

武即天
武即天
■ 大宝2年(702)、時の政府は第7次遣唐使を派遣することにした。その際、遣唐大使の上に、大宝律令の選定者の一人だった粟田真人(あわたのまひと)を執節使として任命した。この遣唐使は663年の白村江の戦いで倭と唐が敵対して以来初の本格的な使節の派遣であり、国交回復の意味を持った重要な遣使だった。それと同時に、国号の変更承認を求める使節でもあった。しかし、遣唐使たちは唐王朝が690年に武即天の武周に代わっていることを知らなかった。彼らは実質的には遣唐使ではなく、遣武周使だった。

■ 粟田真人は周の女帝・武則天に好感をもって迎えられたようだ。麟徳殿の盛宴に招かれたのみならず、司膳卿という名誉職まで授けられた。また、武則天は粟田真人を評して「属文を解し、容止は温雅である」と言ったと伝えられている。そんなこともあってか、武則天はこころよく国名変更を承認したようだ。唐の張守節が開元24年(736)に撰した『史記正義』には「武后、倭国を改めて日本国となす」とある。

 和語の国号「ヤマト」と漢語の国号「日本」

■ 我が国の固有の国号は「ヤマト」だった。「倭」とか「大倭」と表記した時代でも、これらの漢字を”やまと”と読んできた。大宝律令が制定され正式な国号として「日本」と称するようになっても、”やまと”と読む時代が続いた。その例を『万葉集』に収録された歌の万葉仮名表記にみることができる。

・山上憶良が大唐にあるとき故郷を憶って作る歌
 去来子等 早日本辺 大伴乃 御津乃浜松 待恋奴良武 (いざ子ども 早く大和(やまと)へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ) (巻1−63)
・高市連黒人の歌
 去来児等 部早 白菅乃 真野乃榛原 手折而将帰 (いざ子ども 大和へ早く 白菅の 真野の榛原 手折りて行かむ)(巻3−280)

■ なお、ヤマトを「大和」と漢字表記するようになるのは、天平宝字元年(757)以降のことである。「大倭」の代わって用いるようになったことが、平野邦氏の研究から分かっている、また、「日本」を「ヒノモト」と読むのは、日本と漢字表記するようになってからの訓読みのようだ。

 奈良県の呼称が変わるたびに姓を変えた大和宿禰長岡(やまとのすくねながおか)

■ 現在の奈良県を表す名称は、奈良時代にはコロコロと変わった。大宝元年(701)の大宝律令の施行で「大倭国(やまとのくに)」と書くようになった。大倭(やまと)は日本列島の名称であると同時に、奈良地方を表す名称でもあった。橘諸兄(たちばなのもろえ)政権下の天平9年(737)12月27日、「大倭国」から「大養徳国(やまとのくに)」へ改称されるが、諸兄の勢力が弱まると、天平19年(747)3月16日には再び「大倭国」へ戻された。天平勝宝9年(757)7月に橘奈良麻呂の乱が勃発し、8月18日に年号を天平宝字と改元した。それ以後、大倭国に代わって「大和国(やまとのくに)」という表記が正式に用いられるようになった。

■ その官人の名は当初大倭忌寸小東人(やまといみきおあずまひと)といった。若くして刑名の学を好み、霊亀3年(717)の遣唐使では、請益生として入唐したほどの専門家で、法令のことは小東人に聞けとさえ言われた。天平9年11月22日、聖武天皇が群臣を中宮に招いて宴を催したとき、神の託宣があったとして散位・正六位の大倭忌寸小東人に宿禰(すくね)(かばね)を授けている。

■ この人物の面白いのは、国の名称が変わるたびに、自分の姓も変えていることだ。天平9年に「大倭国」から「大養徳国」に改められると、姓を大養徳宿禰と改め、天平19年に「大倭国」に戻されると、自分の姓も大倭宿禰に戻し、天平宝字以降は姓だけでなく名前も変えて、大和宿禰長岡と名乗っている。



日本からジパングへ、そしてジャパンへ

■ 日本政府は国名の国際表記を"NIPPON"と定めているにも拘わらず、国際舞台では英語のJapan(ジャパン)が一般に使われている。国号の世界への広がりに関して、東野教授は面白い話をされた。よく知られているように、日本を黄金の国「ジパング」としてヨーロッパ世界に紹介したのは、マルコポーロ(Marco Polo)の『東方見聞録』である。

マルコ・ポーロ
マルコ・ポーロ
■ ヴェネツィアに生まれたマルコ・ポーロは1271年に父ニコーロと叔父マフェオに連れられてアジアへの旅に出発し、24年後の1295年、一行は富と宝を得て故国に戻ってきた。それから3年後、ヴェネツィアはジェノヴァと交戦状態になり、マルコ・ポーロは志願して従軍したが、捕らえられて投獄された。数ヶ月の収監中、彼は旅の詳細を口述し、これを同じく投獄されていた職業的著述家のルスティケロ・ダ・ピサが書き留めた。それが『東方見聞録』である。その中で、日本のことが黄金の国 Zipangu(ジパング)として紹介されている。

■ 実は、マルコ・ポーロが日本をジパングと呼んだ背景が良く分からなかった。しかし、東野教授の説明で長い間の疑問が氷塊した。13世紀の元の時代、日本国は「ジッポングオ」と発音され、マルコ・ポーロはそれを音写しただけだったのである。

■ 16世紀前半になると、ポルトガル人が明と接触するようになる。1514年頃、トメ・ピレス(Tomé Pires)が著した『東方諸国記』は『東方見聞録』に次ぐヨーロッパ人による網羅的な海のシルクロード地誌とされている。その中で、日本はJampon (ジャンポン)またはJapao (ジャポン)と表示されいる。そのJapaoが英語に入りJapanと表記されるようになった。

■ 蛇足ながら、『東方諸国記』の中で、トメ・ピレスは琉球人をレキオス(LequiosまたはLequeios)と読んでいる。レキオとは当時の呼び名である「琉球」をポルトガル語で表したものだ。

■ マルコ・ポーロより時代を遡ると、9世紀にイラン人のイブン・フルダーズビーが書いた『諸道路と諸国の書』にも日本のことが紹介されている。そこには「Sin(中国)の東にWaqwaq(ワークワーク)の地がある。この地には豊富な黄金があるので、その住民は飼い犬の鎖や猿の首輪を黄金で作り、黄金の糸で織った衣服を持ってきて売るほどである」と書いてある。Waqwaq(ワークワーク)の地とは倭国のことである。

■ 以前、日本人は中国のことを「支那」と呼んでいた。しかし、これは差別語であるという理由で「中国」と呼ぶことに決めた。しかし、東野教授はChinaのルーツは秦すなわちSinであり、なんら差別語に当たらないと指摘された。漢字の呼称が国名になっている例は多い。コリアは高麗から、ヴェトナムは越南から、キタイは契丹から来ているという。

■ 逆に、中国は中華思想に基づく世界の中心という意味の普通名詞であり、国名としてはふさわしくない。我が国でも小中華思想にかぶれた時代には自国のことを「中国」と呼んでいる例がある。教授はその例として『続日本紀』の文武天皇3年(699)の記述を示された。そこには、"その度感島(とかむのしま)、中国に通うこと、是に始まる"とあり、ここでの中国は日本を指しているとのことだ。




2010/07/26作成 by pancho_de_ohsei return