橿原日記 平成22年7月23日

韓国研究者が新説:伎楽伝来の地は明日香の豊浦

「伎楽伝来の地」の記念碑
向原寺の南にある難波池(なんばいけ)のほとりに建てられた「伎楽伝来の地」の記念碑

推古天皇20年(612)、百済の味摩之(みまし)が伝えた伎楽(ぎがく)

■ 明日香村の豊浦に、太子山向原寺という浄土真宗本願寺派の寺がある。寺の縁起によれば、創建は仏教伝来の頃まで遡るというから恐れ入る。

太子山向原寺
太子山向原寺
■ 『日本書紀』は欽明天皇13年(552)、百済の聖明王が金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上して仏法のかぎりなき功徳を説き、その弘通を勧めたと記す。だが、多くの群臣たちは、異国の神を祀れば国神の怒りを買う恐れがあると反対した。それで、天皇は蘇我稲目(そがのいなめ)に仏像を与え、試みに個人的に崇拝させることにした。

■ 稲目はオハリダの向原(むくはら)にあった自宅を寺に改造して、その仏像を祀った。それがが向原寺の創起であり、我が国の最初の仏教霊場であるという。現在の向原寺の寺号は、当時の向原の寺に由来している。

■ 寺といっても、稲目の寺は伽藍といった大きな建物ではなく、単なる草堂程度に過ぎなかったにちがいない。しかし、物部尾興(もののべのおこし)ら廃仏派が予感したように、まもなく国中に疫病が流行した。そこで、彼らは「仏神」のせいで国神が怒っているためであると奏上した。欽明天皇もやむなく彼らによる仏像の廃棄、寺の焼却を黙認したという。尾興たちは、聖明王がもたらした金銅仏を百済に帰れと「難波(なにわ)の堀江」へ流したとされている。

難波池
向原寺の南にある難波池
■ 現在の向原寺の南に、難波池(なんばいけ)と呼ばれている小さな池がある。池の中央に祠を安置しただけの、一見しただけでは何の変哲もない池だが、池のほとりに以前にはなかった説明板がいつの間にか立てられた。そこに、意外なことが書かれている。この場所が「難波の堀江」であるとの伝承をもち、後世の記録には、難波の堀江に捨てた仏像が信濃の善光寺に祀られたと、善光寺縁起には語り伝えれてているという。

■ 物部尾興たちが金銅仏を捨てたのは、間違いなく「難波の堀江」だった。彼らは百済からの蕃神が百済に帰れるようにわざわざ難波の堀江に捨てたのである。ちなみに難波の堀江とは現在大阪市内を流れる大川のことで、仁徳天皇が洪水や高潮を防ぐために難波宮の北に水路を掘削させ、河内平野の水を難波の海へ排水できるようにした水路とされている。

■ したがって、向原寺の脇の小さな池がなぜ「難波池」と呼ばれるようになったのか良く分からない。そもそも「池」と「堀江」では、概念が全く異なる。『善光寺縁起』の伝えるところによれば、推古天皇10年(602)、信濃の国の本田善光が国司に伴って都に参った折、たまたま難波の堀江にさしかかると、「善光、善光」と呼ぶ声がどこからともなく聞こえてきたという。そして、驚きおののく善光の目の前に、水中より燦然と輝く尊像が出現したので、善光はそれを持ち帰った。それが現在善光寺で祀られている秘仏本尊の一光三尊阿弥陀如来像だという。

■ いつの間にか難波の堀江が難波池に代わり、釈迦如来像が阿弥陀如来像にされていて、どうも理屈に合わない話である。それはともかく、その難波池の畔に本日、新しい記念碑が建てられることになった。

韓国の世宗大学の李応寿教授
韓国世宗大学校の李応寿教授
■ 7月15日付けの奈良新聞の報道によると、ここに碑を建てることを思い立ったのは、韓国の世宗大学校日語日文学科教授の李応寿(イウンス)教授(56)だそうだ。聖徳太子が築いたとされる日本初の伎楽教習所ついて、教授はその所在地は現在の明日香村豊浦であるとする新説を2年前に発表された。そして百済人・味摩之(みまし)が伎楽を伝えた場所に、そのことを顕彰する記念碑を建てるなら、現在の向原寺の境内に立ててみたいと思われたそうだ。そうした願いを実現されたことになる。

■ 伎楽伝来については、『日本書紀』に有名な記述がある。仏教伝来から60年後の推古天皇20年(612)、百済の味摩之が帰化し、自分は呉に学んだので伎楽の歌舞ができると言った。そこで、桜井に住まわせ、若者を集めて伎楽を習わせた、という。伎楽とは、古代チベットやインドの仮面劇のことであり、西域を経て中国に伝わった。味摩之が伝えた伎楽は呉楽(くれのうたまい)とも呼ばれ、当時の為政者だった聖徳太子に奨励されて、飛鳥寺に伎楽団が置かれたという。味摩之は真野首弟子(まののおびとでし)新漢済文(いまきのあやのさいもん)の2人に教えた。

土舞台の碑
桜井市の桜井小学校の校庭を見下ろす場所に建つ土舞台の碑
■ 伎楽は奈良時代に栄えたが平安時代末期以後は途絶えてしまう。戦後、桜井市出身の評論家・保田與重郎(やすだ よじゅうろう)(1910 - 1981)は、味摩之が伎楽を若者たちに教習させた場所を考証した。そして、江戸時代の『大和名所図絵』に土舞台が描かれているのを知り、そこが伎楽教習所だったとし、これだけの史蹟地を顕彰しないことはないと、有志を募って「土舞台」と刻した標石を昭和47年11月3日に建てた。翌日にはその標石の前で市が後援する盛大な顕彰式典が挙行された。それ以来、土舞台顕彰会主催の顕彰式典が毎年行なわれ、土舞台が我が国演劇史上の大切な史蹟地であることを喧伝している。

■ 李教授の研究は、従来の「保田説」を真っ向から否定することなり、その論拠に興味が持たれる。教授の論文は後で拝読させて頂くとして、本日は午後4時から李教授が代表を務める韓国の研究者グループ「韓国文学を憶う会」が、「伎楽伝来の地」の記念碑の除幕式を行なうそうだ。その後韓国の「百済伎楽伝承保存会」による百済伎楽の復元特別公演が、向原寺の境内で行われると聞いた。

■ 遙かな時空を越えて蘇る「伎楽」とはどんなものか興味が湧いた。伎楽は仏教の法会の後に上演されるものであり、聖徳太子も存命中、豊浦寺や飛鳥寺、斑鳩寺などでの法要の度にこの外来の仮面劇を鑑賞されたはずである。その時の光景を頭の中で想い描きながら、明日香村まで自転車を駆った。しかし、いつも通い慣れた道がいつもとは違った。正面からいつも受ける爽やかな明日香風が、本日は熱風のように暑かった。



向原寺南の難波池のほとりで行われた記念碑の除幕式

挨拶される向原寺住職の蘇我原敬浄氏
挨拶される向原寺住職の蘇我原敬浄氏
除幕のテープを引く五人
除幕のテープを引く五人
除幕された記念碑
除幕された記念碑
■ 韓国からの招待者の到着が少し遅れたため、午後4時にスタートする予定の除幕式も開始が若干遅れた。それでも、同徳女子大の蘆英姫教授の司会で滞りなく行われた。まず歓迎の挨拶に立ったのは向原寺住職の蘇我原敬浄(そがはらけいじょう)氏である。続いて、李応寿教授から祈念碑を建立するまでの経過報告があった。

■ その後、除幕のセレモニーが行われた。一緒にテープを引いたのは、「韓国文学を憶う会」の創立者と会長、大韓民国総領事館の副総領事、明日香村の関村長、および向原寺住職の蘇我原氏の5名である。幕が取り除かれた石碑の大きさは、高さ約1.35m、幅約1mで、そこには次のような碑文が刻まれていた。

■ 伎楽伝承の地
『日本書紀』六一二年に、百済の味摩之が歌舞劇の伎楽を日本に伝えるや、聖徳太子が桜井に学校を設け、それを伝授させた旨がみえる。その「桜井」が、韓国の李応寿の調査研究(日本演劇会紀要四七)により、新たにこの付近に比定されたので、碑を建て、韓国と日本の演劇交流の始原を記憶するものとする。
二○一○年七月二三日
韓国文学を憶う会

■ 祝辞は明日香村村長の関氏ほか4名が述べられた。その中には、奈良県立図書情報館館長の千田稔氏もおられた。千田氏は李応寿氏を案内して土舞台など関係個所を案内されたそうだ。ただ、明日香村豊浦を伎楽伝来の地とすることには、どうやら異論もお持ちのような口ぶりだった。

李応寿教授に博物館賞の授
李応寿教授に博物館賞の授与
■ 祝辞の後、埼玉県白岡町にある獅子博物館館長の高橋裕一氏から、李応寿教授に博物館賞が授与された。獅子博物館は獅子舞に関する頭や衣装の実物、獅子の模型、全国各地の獅子舞のビデオ映像、郷土玩具など獅子に関する各種資料を集めた博物館として、獅子にちなんで平成4年4月4日に開館した。

■ 李応寿教授の表彰理由は、伎楽に含まれる五色の獅子舞は1400年前に初めて伝来したが、教授の研究で伝来地「桜井」がこの明日香の向原寺付近と考証されたことは、獅子舞研究の上で顕著な功績であるとするものだった。その後、記念撮影があって、碑を建立した韓国の研究者らを含め約150人が出席した除幕式は、日韓交流の今後の発展を願って無事終了した。



向原寺境内での特別公演「百済伎楽」

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特別公演「百済伎楽」のチラシ
■ 筆者は今までに一度だけ伎楽の上演を見たことがある。6年前に桜井市民会館で上演された天理大学雅楽部の「伎楽」である。(平成16年11月20日付け橿原日記参照)。伎楽は752年の東大寺の大仏開眼供養で最高に花開いたとされるが、その後は衰退して平安末期ごろには消滅してしまった。その幻の天平芸能の復元に取り組んでいるグループが天理大学雅楽部である。桜井市民会館での「幻の古典芸能伎楽へのいざない」では、昭和55年(1980)の東大寺昭和大修理落慶法要で初演した演技を中心に、一部を再演してくれた。

■ 伎楽の仮面劇は「行道」に始まり「行道」に終わるといわれるが、今回の韓国の「百済伎楽伝承保存会」による特別公演は、「おねり」で始まった。それぞれの仮面と衣装をつけた役者が、さきほど除幕式が行われた難波池方向からゆっくりと歩いてきて、向原寺の山門へ向かった。先頭の役者がしっかりと胸にいだいているものを見て驚いた。韓国で国宝第287号に指定されている百済金銅大香炉のレプリカである。

扶餘博物館前に飾られたモニュメント
扶餘博物館前に飾られた
モニュメント
■ この百済金銅大香炉は、扶餘の陵山里(ヌンサンリ)寺址の工房址から1993年に発掘されながら、一度も日本の博物館に貸し出されたことがない。この韓国国宝を見たければ、百済の古都だった扶餘を訪れなければならない。本物もさることながら、扶餘博物館前に飾られた巨大なモニュメントが太陽光線を受けて燦然と輝く姿に魅せられて、3年前に韓国史跡探訪ツアーに参加したことがある。

■ そのとき、博物館を見学した想い出に、大香炉のレプリカを買ってきた。それが現在も小生の横に置いてある。「おねり」の先頭にこの大香炉が登場したのは、伎楽が仏教寺院の法要の後に上演される歌舞劇であることを象徴しているのだろう。

■ 東京国立博物館の法隆寺宝物館には、法隆寺から献納された32個の伎楽面が展示されている。師子児をはじめととする古色蒼然とした面と比べると、百済伎楽の役者たちがかぶる面は、飛び抜けて明るく陽気だ。

おねり@ おねりA

おねりB おねりC

おねりD おねりE

■ ようやく西に傾きかけた太陽が向原寺本堂の屋根にかかる頃、おねりを終えた役者一同が本堂正面に勢揃いしし、例の大香炉のレプリカが参道の中央に置かれた。最初の舞楽は獅子舞である。獅子舞で場を清めた後、仙界の姿をあらわす扇と笛を吹く呉公の舞と、幻の鳥とされる迦楼羅の舞が続いた。

本堂の縁側にスタッフ一同勢揃い 獅子舞(獅子と獅子児)

ああああ ああああ
扇笛舞(呉公) 瑞鳥舞(迦楼羅)

■ 伎楽で演じられるのは一つの物語である。この後人間の世界に話が移って、呉女に懸想する崑崙を金剛力士が退治するも、呉女は破戒僧の婆羅門に騙される。上機嫌の婆羅門と酔胡王が酒宴を開いて醜態を演じているところに、仏心の深い大孤父が登場して彼らを蓮の下で仏に帰依させる。こうしたストーリを演じた後、役者一同はまた「おねり」で退場する。「おねり」で登場し「おねり」で退場することで、仏教の輪廻を表しているとのことだ。



李応寿教授が伎楽伝承地として明日香村豊浦に到達された背景

■ 伎楽教習所を桜井市の土舞台とする「保田」説を排して、李応寿教授はあらたに明日香村豊浦説を打ち出された。その論文が2008年秋の「日本演劇学界紀要47」に掲載された『伎楽の「桜井」考』である。コピーを会場で貰い、アパートに戻って読んだが、なるほどと首肯する内容だった。

土舞台の碑が立つ公園a
土舞台の碑が立つ児童公園
■ 『日本書紀』の推古20年(612)の記録には、たしかに百済から帰化した味摩之という人物を「桜井」に住まさせ、若者を集めて伎楽を教習させた、とある。保田與重郎はその施設を聖徳太子が設置した当時の国立演技研究所と国立劇場ととらえ、その場所を大和櫻井村の「土舞台」に比定した。比定された場所は、JR/近鉄「桜井」駅から800mほど南に位置する桜井小学校の隣りにある。現在、その小高い丘は児童公園となっていて、片隅に保田自身の撰文と揮毫による「土舞台」の標石が立っている。

■ 保田がこの地を比定した根拠として、自著の中で次の理由を挙げている。
・現在も「土舞台」という(あざな)が土地台帳に出ており、『聖徳太子伝暦』(917年に藤原兼輔が撰述)にも、この研究所の所在を櫻井村に置かれたと記している。
・『日本書紀』を注した『日本書紀通釈』(1899年刊)や『通解』など代表的な著述は土舞台の所在を大和国十市郡櫻井村にあてている。
・聖徳太子の誕生地は櫻井の上宮(うえのみや)であり、土舞台とは地つづきの隣り合う数町の近さである。太子は上宮に近い櫻井に味摩之をはべらせたのである。

■ そこで李応寿教授は保田説が比定の根拠とした二つのキーワード「土舞台」と「櫻井」について徹底的に古文献を検証された。まず、土舞台の地名であるが、1736年刊行の『大和志』にも1762年刊行の『日本書紀通証』にも、それぞれ『通釈』の土舞台の場所を表す部分がそのまま載っている。したがって、この二つの本が出版された18世紀には土舞台が桜井に存在していたことが分かる。

現在のクドゥレの渡し場
現在の扶余のクドゥレ渡し場。
1400年前、味摩之もここから我が国へ旅たった
■ 同じく『大和名所図絵』(秋里籠島、1791年)にも『大和名所記』(林宗甫、1681年)も、伎楽伝来の「桜井」を「土舞台」に想定している。問題は、『大和名所記』に引用された『詮要抄』にあった。『詮要抄』は日蓮宗の教義を書き記したものを学僧の日求(1576 - 1655)が筆写したものだが、李教授はその全文を調べてみたが「土舞台」云々という個所は見あたらなかった。そこで、教授は土舞台の文献上の記録は17〜18世紀以前にはさかのぼれないことを確信された。

■ 李教授は、さらに『聖徳太子伝暦』の記録の信憑性にも目を向けられた。『伝暦』は聖徳太子に関するさまざまな伝説を集大成したものだが、その中にも伎楽伝承の記録がある。しかし、歴史学の見地からすれば、『伝暦』はその信憑性に信がおけない書籍である。保田説では聖徳太子の誕生地とされる上宮の近くに「味摩之をはべらせた」と断言し、宮の近くに土舞台があったとしているが、肝心の上宮の所在地に関しては複数の説がある。桜井の上宮とする説以外に橘寺付近、坂田寺付近とする説などもあり、まだ所在は確定していない。

味摩之顕彰碑
クドゥレ公園の味摩之顕彰碑
■ 2001年の8月、李教授は除幕式で祝辞を述べられた千田稔氏とともに土舞台の現地を訪れ、古老から貴重な話を聞かれた。古老の記憶では、子供のころ児童公園でよく遊んだとき、足を強く踏むと足下から鳴る音がし、まるで舞台の上に立っているようだったそうだ。能の舞台では役者の足踏みがよく響くように舞台の下に壺を埋めておく。そのことに気づいて現地のことを調べたら、児童公園あたりは5世紀後半の古墳の密集区域であることが分かった。墓は奈良時代の8世紀半ばころまで存在したという。そうであれば、聖徳太子がこの場所に味摩之を侍らせ伎楽の道場を開いたとは考えにくい。

■ 結局、保田説の誤謬は『聖徳太子伝暦』に出てくる「桜井村」をそのまま技楽の「桜井」に当てはめてしまったことにある。そのことに気づいた李教授は、次に桜井という地名の由来について分析された。

■ 湧き水があふれ出る井戸や泉のほとりに桜の木があったことから、桜の木によってシンボル化された清水に因む地名として「桜井」の名は日本各地に存在する。また、荘園の開拓などで、桜井の地名が他から移植された土地も多くある。ちなみに、『桜井町史』は中世初頭の多武峰領桜井庄の経営によって当地を表示する地名になったと分析している。そうであれば、伎楽の桜井をなにも現在の桜井市にムリに当てはめる必要はない。

■ 『和名類聚鈔』には、大和に残っているだけでも桜井の地名として、明日香村大字豊浦の桜井(榎葉井(えのはい))、五条町大字五条須恵の桜井、葛城村朝妻の桜井(榎葉井)、磯城郡桜井町大字谷の桜ノ井など四つをあげているという。そこで、李教授は『続日本紀』に記載された次の童謡に着目された。

葛城寺の前なるや 豊浦寺の西なるや おしとど おしとど
桜井に白壁沈くや 好き壁沈くや おしとど おしとど
然しては国ぞ昌ゆるや 吾家らぞ昌ゆるや おしとど おしとど

■ この童謡は光仁天皇即位(770年)前紀に載っているもので、桜井の「井」は井上内親王を、「白壁」は白壁王つまり後の光仁天皇をそれぞれなぞらえて、皇位につく可能性が低かった白壁王が聖武天皇の皇女・井上内親王と結婚できたので、地位が向上し王座につくことを噂したものである。似たような童謡は『日本霊異記』や平安初期に成立した催馬楽(さいばら)にも伝わっていて、催馬楽の注釈には「豊浦寺あたりで催された歌垣で謡われた民謡だろう」としている。

現在の豊浦寺(向原寺)
現在の豊浦寺(向原寺)
和田廃寺の塔基壇跡
和田廃寺の塔基壇跡
■ この童謡では、桜井の位置を「葛城寺の前、豊浦寺の西」としている。したがって、葛城寺と豊浦寺の位置、および建物の方向が分かれば、桜井の井戸の位置も特定できる。

■ 現在豊浦にある向原寺は、上記のように6世紀半ば蘇我稲目が仏像を安置するため向原(むくはら)の家を寺としたのが創起であると伝えられている。その寺は別名を豊浦寺といったが、もともとは桜井寺と呼ばれ、その脇には桜井、別名榎葉井(えのはい)という井戸があった。『上宮称徳法王帝説』には「庚戌(589年)春3月、学問尼の善信尼ら百済から還り桜井寺に住す。今の豊浦寺なり。初め桜井寺といい、後の豊浦寺という」とある。

■ 一方、この童謡から葛城寺は豊浦寺の西にあったことになる。現在の橿原市和田町の北の外れに和田廃寺跡がある。その田んぼの中に小さな土壇があり、蘇我馬子が大野の丘の北に建てた塔の跡ではないかとされている。この和田廃寺跡を、葛城臣烏那羅(おなら)が氏寺として建立した葛木尼寺に当てる説が多い。そうであれば、聖徳太子が味摩之に伎楽の道場を開かせた「桜井」は、豊浦寺や葛城寺を含む地域の中にあったと考えることができる。

甘樫神社の背後の丘に広がる畑
甘樫神社の背後の丘に広がる畑
■ こうした推論の結果、李教授は伎楽の桜井はまさしく桜井寺そのものだったのでは・・と想定しておられる。当時の寺院の道場は、仏法を修行する場所だが、同時に仏に奉納する芸能を教授し、練習する場所だったはずだからである。だが、教授も指摘しておられるように、当時の桜井寺は善信尼らが住する尼寺だった。実際の伎楽の教習は寺の周辺の別の適当な場所で行われたかもしれない。

■ 現在の向原寺の裏手に甘樫坐神社(あまかしにいますじんじゃ)がある。その背後が小高い丘になっている。神社の横から坂道を登ると、その丘の上に出る。一帯は現在は畑地になっているが、教習所が置かれていても良いような場所にみえた。




2010-07-25作成 by pancho_de_ohsei return