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| 向原寺の南にある難波池のほとりに建てられた「伎楽伝来の地」の記念碑 |
向原寺南の難波池のほとりで行われた記念碑の除幕式
■ その後、除幕のセレモニーが行われた。一緒にテープを引いたのは、「韓国文学を憶う会」の創立者と会長、大韓民国総領事館の副総領事、明日香村の関村長、および向原寺住職の蘇我原氏の5名である。幕が取り除かれた石碑の大きさは、高さ約1.35m、幅約1mで、そこには次のような碑文が刻まれていた。
■ 伎楽伝承の地
■ 祝辞は明日香村村長の関氏ほか4名が述べられた。その中には、奈良県立図書情報館館長の千田稔氏もおられた。千田氏は李応寿氏を案内して土舞台など関係個所を案内されたそうだ。ただ、明日香村豊浦を伎楽伝来の地とすることには、どうやら異論もお持ちのような口ぶりだった。
■ 李応寿教授の表彰理由は、伎楽に含まれる五色の獅子舞は1400年前に初めて伝来したが、教授の研究で伝来地「桜井」がこの明日香の向原寺付近と考証されたことは、獅子舞研究の上で顕著な功績であるとするものだった。その後、記念撮影があって、碑を建立した韓国の研究者らを含め約150人が出席した除幕式は、日韓交流の今後の発展を願って無事終了した。 |
向原寺境内での特別公演「百済伎楽」
■ 伎楽の仮面劇は「行道」に始まり「行道」に終わるといわれるが、今回の韓国の「百済伎楽伝承保存会」による特別公演は、「おねり」で始まった。それぞれの仮面と衣装をつけた役者が、さきほど除幕式が行われた難波池方向からゆっくりと歩いてきて、向原寺の山門へ向かった。先頭の役者がしっかりと胸にいだいているものを見て驚いた。韓国で国宝第287号に指定されている百済金銅大香炉のレプリカである。
■ そのとき、博物館を見学した想い出に、大香炉のレプリカを買ってきた。それが現在も小生の横に置いてある。「おねり」の先頭にこの大香炉が登場したのは、伎楽が仏教寺院の法要の後に上演される歌舞劇であることを象徴しているのだろう。 ■ 東京国立博物館の法隆寺宝物館には、法隆寺から献納された32個の伎楽面が展示されている。師子児をはじめととする古色蒼然とした面と比べると、百済伎楽の役者たちがかぶる面は、飛び抜けて明るく陽気だ。
■ ようやく西に傾きかけた太陽が向原寺本堂の屋根にかかる頃、おねりを終えた役者一同が本堂正面に勢揃いしし、例の大香炉のレプリカが参道の中央に置かれた。最初の舞楽は獅子舞である。獅子舞で場を清めた後、仙界の姿をあらわす扇と笛を吹く呉公の舞と、幻の鳥とされる迦楼羅の舞が続いた。
■ 伎楽で演じられるのは一つの物語である。この後人間の世界に話が移って、呉女に懸想する崑崙を金剛力士が退治するも、呉女は破戒僧の婆羅門に騙される。上機嫌の婆羅門と酔胡王が酒宴を開いて醜態を演じているところに、仏心の深い大孤父が登場して彼らを蓮の下で仏に帰依させる。こうしたストーリを演じた後、役者一同はまた「おねり」で退場する。「おねり」で登場し「おねり」で退場することで、仏教の輪廻を表しているとのことだ。 |
李応寿教授が伎楽伝承地として明日香村豊浦に到達された背景■ 伎楽教習所を桜井市の土舞台とする「保田」説を排して、李応寿教授はあらたに明日香村豊浦説を打ち出された。その論文が2008年秋の「日本演劇学界紀要47」に掲載された『伎楽の「桜井」考』である。コピーを会場で貰い、アパートに戻って読んだが、なるほどと首肯する内容だった。
■ 保田がこの地を比定した根拠として、自著の中で次の理由を挙げている。
■ そこで李応寿教授は保田説が比定の根拠とした二つのキーワード「土舞台」と「櫻井」について徹底的に古文献を検証された。まず、土舞台の地名であるが、1736年刊行の『大和志』にも1762年刊行の『日本書紀通証』にも、それぞれ『通釈』の土舞台の場所を表す部分がそのまま載っている。したがって、この二つの本が出版された18世紀には土舞台が桜井に存在していたことが分かる。
■ 李教授は、さらに『聖徳太子伝暦』の記録の信憑性にも目を向けられた。『伝暦』は聖徳太子に関するさまざまな伝説を集大成したものだが、その中にも伎楽伝承の記録がある。しかし、歴史学の見地からすれば、『伝暦』はその信憑性に信がおけない書籍である。保田説では聖徳太子の誕生地とされる上宮の近くに「味摩之をはべらせた」と断言し、宮の近くに土舞台があったとしているが、肝心の上宮の所在地に関しては複数の説がある。桜井の上宮とする説以外に橘寺付近、坂田寺付近とする説などもあり、まだ所在は確定していない。
■ 結局、保田説の誤謬は『聖徳太子伝暦』に出てくる「桜井村」をそのまま技楽の「桜井」に当てはめてしまったことにある。そのことに気づいた李教授は、次に桜井という地名の由来について分析された。 ■ 湧き水があふれ出る井戸や泉のほとりに桜の木があったことから、桜の木によってシンボル化された清水に因む地名として「桜井」の名は日本各地に存在する。また、荘園の開拓などで、桜井の地名が他から移植された土地も多くある。ちなみに、『桜井町史』は中世初頭の多武峰領桜井庄の経営によって当地を表示する地名になったと分析している。そうであれば、伎楽の桜井をなにも現在の桜井市にムリに当てはめる必要はない。
■ 『和名類聚鈔』には、大和に残っているだけでも桜井の地名として、明日香村大字豊浦の桜井(榎葉井
葛城寺の前なるや 豊浦寺の西なるや おしとど おしとど
■ この童謡は光仁天皇即位(770年)前紀に載っているもので、桜井の「井」は井上内親王を、「白壁」は白壁王つまり後の光仁天皇をそれぞれなぞらえて、皇位につく可能性が低かった白壁王が聖武天皇の皇女・井上内親王と結婚できたので、地位が向上し王座につくことを噂したものである。似たような童謡は『日本霊異記』や平安初期に成立した催馬楽
■ 現在豊浦にある向原寺は、上記のように6世紀半ば蘇我稲目が仏像を安置するため向原
■ 一方、この童謡から葛城寺は豊浦寺の西にあったことになる。現在の橿原市和田町の北の外れに和田廃寺跡がある。その田んぼの中に小さな土壇があり、蘇我馬子が大野の丘の北に建てた塔の跡ではないかとされている。この和田廃寺跡を、葛城臣烏那羅
■ 現在の向原寺の裏手に甘樫坐神社 |