2010/07/21

藤原四兄弟を死に追いやった疫病の伝染源

梅雨明けの飛鳥川
梅雨明けの飛鳥川 (撮影 2010/07/17)

当時は俗に裳瘡(もがさ)と呼ばれて恐れられていた疱瘡(ほうそう)(天然痘)

■ 昨年は、メキシコのある農村で生まれた新型インフルエンザ(A/H1V1)が、北米各国のみならず世界的に流行した。我が国では、海外旅行者の熱センサーチェックで流行を水際で阻止しようとしたが、5月5日に国内で最初の発症が確認された。やれ手の洗浄だ、マスクの着用だ、抗インフルエンザウイルス薬(タミフル・リレンザ)の投与だ、と大騒ぎしたのは、まだ一年前のことである。外出者のほとんどがマスクをしている異様な光景を、今ではどこでも見かけられない。

おふさ観音の風鈴まつり
おふさ観音の風鈴まつり
■ 代わって今年は、宮崎県で発生した口蹄疫(こうていえき)が世間の注目を浴びてきた。宮崎県では2000年にも97年ぶりに口蹄疫が発生がみられた。今年は流行を食い止めるために、感染もしていない大量の牛や豚を殺したり、家畜の移動制限したりして宮崎県は対応に大わらわだった。家族同然に大切に育ててきた種牛まで殺さなければならなかった牧畜業者の経済的・精神的被害は大きい。

■ 感染者6億人、死者4千万から5千万人を出したとされる20世紀初めのスペイン風邪を例に出すまでもなく、医学が発達した現代に生きる我々にとっても、伝染病の流行は実に怖い。まして神仏に祈る以外に頼るべき手段を持たなかった古代人には、我々の想像を絶する恐怖だったにちがいない。そうした伝染病の蔓延として、我が国の歴史上もっとも良く知られているのは、天平7年(735)から天平9年(737)にかけての疱瘡(現代の天然痘)の大流行である。

■ 天平7年(735)8月に太宰府管内の西海道諸国で、疱瘡が大流行し始めた。8月23日には、太宰府から「管内の諸国で瘡(そう)のできる疫病が大流行し、人民は悉く病臥しているため、今年度の調の貢納を停止していただきたい」と奏上してきたので、聖武天皇はこれを許している。

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■ 当時は疱瘡を豌豆瘡(えんとうそう)、俗に裳瘡(もがさ)と言った。流行は山陰道、山陽道を北上する気配を見せた。そのため、聖武天皇は疫病の進入を阻止すべく長門国から東の諸国に道饗(みちあえ、悪鬼の侵入をふせぐため街道で行なう祭祀)を命じている。こうした措置が効を奏したのか、この時の流行は年末までに一応小康を得た。それでも9月には一品の新田部(にいたべ)親王が、11月には知太政官事・一品の舎人(とねり)親王が相次いで死去した。二人とも天武天皇の皇子で、藤原不比等没後の政界において、皇親として重きをおいた人物である。

■ 天平9年(737)になると、一応の小康を得ていた疫病の流行が勢いを盛り返した。4月には太宰府管内で疱瘡でまた多くの人民が死んだ。聖武天皇は管内の諸社に幣帛を捧げ祈願を命じたが、この年は疫病に加えて干ばつも発生して、田の苗も枯れしぼんでしまう始末だった。4月17日には、参議・民部卿の藤原房前(ふささき)が他界してしまった。

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■ 6月に入ると、朝廷での執務を取りやめた。諸宮司の官人が疫病にかかって業務を遂行できなくなったためである。疫病は庶民ばかりでなく政府要人にも容赦なく牙をむいて襲いかかった。6月11日には、太宰大弐の小野老(おゆ)が、23日には中納言の多治比県守(あがたもり)が他界した。7月には、13日に参議・兵部卿の藤原麻呂(まろ)、17日には従四位下の百済王郎虞(ろうぐ、百済王敬福の父)、25日には右大臣の藤原武智麻呂がそれぞれ死去した。8月に入ると、1日に中宮大夫兼右兵衛卒(うひょうえのかみ)の橘佐為(たちばなのさい)が、5日には藤原四兄弟の最後の一人である参議・式部卿兼太宰帥の藤原朝臣宇合(うまかい)が薨じた。

■ 『続日本紀』はその他にも主要な人物の疫病死を記録しているが、藤原不比等の息子である四兄弟が相次いで死去したことで、彼らが牛耳ってきた政権はあっけなくついえることになった。9月に入ると、さしもの疱瘡の猛威もようやく下火になり、藤原四兄弟の欠員を補う人事が行われて、ようやく橘諸兄(たちばなのもろえ)を首班とする政権がスタートした。


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■ 疱瘡は、免疫性が強い、伝染性を持つウイルス性感染症で、経気感染によって流行する。症状としては8日から14日の無症状潜伏期間後に高熱と全身の皮膚に現れ痕の残る発疹が特徴である。古くから知られている疾患で、発源地としてはインドが有力とされている。古代民族の移動や交流でシルクロードによって世界各地に伝搬したようだ。現在は存在せず、1980年にはWHOが根絶宣言をしている。

■ 疱瘡は海外の風土病であり、もともと日本に常に存在した病気ではない。したがって、日本で疱瘡が流行した際には、当時交流のあった他の国や地域から持ち込まれた可能性が極めて高い。史書には奈良時代以前にも疱瘡が流行した記録を残している。例えば敏達13年(584)、百済から鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒石像一体と、佐伯連(さえきのむらじ)が仏像一体を持ち帰った。大臣の蘇我馬子(そがのうまこ)はこれらの仏像を譲り受け、翌年には飛鳥の大野丘の北に仏塔を建てたが、このとき国内で疫病が流行し、死ぬ者が多かった。

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■ そこで、大連の物部守屋(もののべのもりや)ら廃仏派が仏法を絶つことを奏上し、天皇の許可を得ると、塔と仏像と仏殿を焼いた。すると、疱瘡がさらに蔓延し、人々は仏像を焼いた祟りだと噂したという。敏達14年(585)8月には敏達天皇が疱瘡にかかり大殿で病死した。この時の疱瘡の流行は、伝染源が百済だった。

■ 奈良時代になると、疱瘡は新羅国に起源をもち移り来るものと認識されていたようだ。その背景には、朝鮮半島を統一し我が国との対等な外交関係を主張しだした新羅への国民の反感もあったにちがいない。確かに、天平6年(734)12月6日、新羅の朝貢使の金相貞らが太宰府に到着し、翌天平7年(735)2月17日、一行は平城京に到着している。2月27日、朝廷が新羅入朝の趣旨を尋ねたところ、今までの国号を改めて王城国の使者を名乗った。宗主国を自認する我が国の許可なしに国号を軽々しく改めたのは礼を失するとして、朝廷は即刻一行を追い返している。

■ 上記のようにその年の8月には太宰府管内の西海道諸国で疱瘡は大流行し始めているため、この新羅の朝貢使が疱瘡の病原菌を持ちこんだと見なされても不思議ではない。しかし、この通説に疑問を感じた女性がいる。専修大学大学院文学研究科の修士課程に在学中の小田愛(おだめぐみ)さんだ。『三国史記』や『三国遺事』を調べてみても、金相成を団長とする朝貢使が本国を出発した頃、新羅本国で疫病が流行していたという記述は見あたらないのだ。

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■ さらに、天平の疱瘡大流行は、天平7年の疫病と同じものが天平9年にも流行したとも、天平7年に太宰府管内で流行した疫病が一時下火となり、再び天平9年に勢いを盛り返して太宰府から全国に流行したとも考えられている。だが、小田さんは従来のこうした専門家の説にも疑問を抱いた。

■ 小田さんは『文徳実録』の疱瘡流行の記事にも注目した。2月に発生した疱瘡の流行は5月まで及んでいるが、その後はずいぶんと数を減じ翌年には疱瘡に関する記録は全くなくなる。その他にも、天延2年や文明9年の疱瘡も、翌年にかかって流行し続けたという記録はない。つまり、疱瘡は短期間に爆発的に広がり、しかもその流行期間はあくまで1年以内で、複数年にわたることはないようだ。そうであるならば、天平7年の流行と天平9年の流行は別々の伝染源によるものではないのか。

■ こうした疑問を解くために小田さんはいろいろと調べて、その成果を「天平7年・9年の疱瘡流行について」と題する研究ノートに書き上げた。その論文が専修大学社会知性開発研究センター発行の「東アジア世界史研究センター年報」第3号(2009年12月刊)に載っている。遣唐使に関係する論文なので、筆者は興味深く読ませていただいた。その内容の骨子を以下に紹介しておこう。



小田さんが推測する天平7年の疱瘡流行の伝染源

■ 上で述べたように、疱瘡は海外の風土病で、もともと日本には存在しない病気である。この病気が日本で大流行したのであれば当時交流のあった国や地域から持ち込まれた可能性が極めて高い。これが疱瘡という病気の特徴である。この点に着目された小田さんは、当時日本から派遣された遣唐使、遣新羅使、遣渤海使、および新羅と渤海から来日した使節のいずれかに伝染源があると、推測された。

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■ 小田さんはまた、『続日本紀』には天平8年には疫病の発生を物語る記事は非常に少なく、疫病によってなんらかの被害が出たという報告もない事にも着目された。疫病の流行に関して触れているのは、10月22日に出された聖武天皇の詔の中で、昨年の冬に太宰府管内で疫病が流行したため男女全てが農作業に従事できなかったことに触れ、今年の田租を免除すると述べている点だけだ。そうであれば、天平7年と天平9年の疱瘡の流行は、別の伝染源による可能性も出てくる。

■ 小田さんは、天平7年(735)の疱瘡流行の伝染源として2つの可能性に着目された。一つは天平6年(734)12月6日に太宰府にやってきた金相貞を大使とする新羅の朝貢使節、もう一つはその年の11月20日に種子島に帰着した第9次遣唐使(第10次とする考え方もある)の入唐大使・多治比広成(たじひのひろなり)が乗った第一船である。

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■ 新羅の朝貢使の到着に少し遅れて、この遣唐使船は種子島から筑紫の大津浦に回送され、多治比広成らは帰国の挨拶に太宰府に赴いたはずである。両使節の入京時期もほぼ20日ほどずれている。新羅の金相貞らは年が明けた天平7年(735)2月17日に入京しているが、上記のごとく礼を失したとして、10日後には追い返されている。一方、第9次遣唐使の第一船で帰国した入唐大使・多治比広成らは3月10日、唐国からの帰朝を報告し、節刀を返上している。

■ 新羅の朝貢使も第9次遣唐使の第一船の乗船者も、天平6年の暮れから天平7年の正月ころには太宰府管内に滞在していたとみて間違いない。したがって、いずれかの使節の構成員が管内の住民と接触したことで、最初の発症者を生み、それがその年の夏頃には大勢の人間に感染して多数の死亡者を出すに至ったと考えられる。しかし、新羅の朝貢使が本国を出発する前後に新羅で疱瘡が流行していたとする記録は『三国史記』や『三国遺事』を調べてみても見あたらないのだ。そこで、小田さんは第9次遣唐使の帰国船に疑いの目を向けられる。

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■ 小田さんが第9次遣唐使が怪しいとされる理由は後で述べるとして、”天平の遣唐使”と呼ばれるこの使節団について少し触れておこう。第9次遣唐使の派遣が計画されたのは天平4年(732)であり、その年の8月に遣唐大使・多治比真人広成(たじひのまひと・ひろなり)、遣唐副使・中臣朝臣名代(なかとみのあそん・なしろ)以下遣唐判官、録事らが任命され、9月には、近江、丹波、播磨、備中の4カ国に4隻の船の建造が命じられた。

■ 天平5年(733)4月3日、総勢594名からなる使節団は4隻の遣唐使船に分乗して難波を出航した。4月の終わりに筑紫の大津浦を発って外洋に乗り出した4つの船は、南路を取って大陸を目指した。3ヶ月以上海上を漂ったが、8月にようやく4隻とも無事に蘇州に漂着した。一行の到着が蘇州刺史から中央に奏せられると、接待役として通事舎人(つうじとねり)の韋景先(いけいせん)が蘇州にやって来て一行を慰労し、一行の中の許可された者を唐の都長安に導いた。

■ 一行は、翌年の正月に長安城の大明宮含元殿で催される朝賀の式に参列するために、日本を発ってきたのだが、唐の開元22年(734)の朝賀の式は執り行われなかった。実は、関中は前年の秋に長雨による異常な飢饉に見舞われ、朝賀の式どころではなかったのである。玄宗皇帝は飢饉の窮状を緩和する目的で、開元22年正月6日洛陽に行幸し開元24年10月頃まで長安には戻らなかった。玄宗皇帝との接見は4月に洛陽城で行われるとの連絡が入り、遣唐使の一行はその年の2月急遽洛陽に向かっている。

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■ 開元22年4月、東都洛陽で玄宗皇帝に謁見して使命を全うした遣唐使たちは、帰国する下道真備(しもつみちのまきび)や僧玄ム(げんぼう)などを伴って蘇州に戻り10月に4隻同時に蘇州を発して帰航の途についた。しかし、4隻の船にはそれぞれ別々の運命が待っていた。

  • 大使の多治比広成の乗った第一船: 11月23日種子島に着き、上記のように翌天平7年(735)3月10日に平城京に帰着している。

  • 副使の中臣名代が乗った第二船: 海上での暴風雨に翻弄され一度は越州に押し返されたが、それでも一年後の春を待って渡航を試み、天平8年(736)5月に筑紫に帰国。8月23日には唐人三人・波斯人一人を率いて朝廷に帰朝を報告している。

  • 判官の平群広成が乗った第三船: 南に漂流し昆崙国(現在のベトナム)付近に漂着した。賊に襲われたり病に倒れたりして、広成ら4人だけが生き残り、昆崙国王に面会できた。天平7年(735)になって唐の役人が昆崙国に来たのを機会に唐に帰り着くことができた。折から来唐中の渤海国の使節に随行して、渤海国経由で天平11年(739)7月13日、6年ぶりに故国の土を踏むことができた。

  • 判官の田口養年富(やねふ)や紀馬主(うまぬし)らが乗った第四船: 帰国途中に遭難して沈没したと思われる。

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■ そこで、小田さんは第9次遣唐使が長安城に到着した前後の飢饉をもたらした長雨に注目される。『旧唐書』にも『新唐書』にも”疫”や”病”など疫病の流行を匂わせる文言は見あたらないが、長雨のせいで飢饉が起こると、それに連動して疫病が広がることはよくあることである。それ故、第9次遣唐使たちが長安に滞在していた時期に疫病がはやっていた可能性があるのではないかと推測される。

■ 小田さんの推測を支援する傍証がある。最近長安の東郊で墓誌が発見されて一躍有名になった中国名”井真成”は、長期留学生かあるいは第9次遣唐使の准判官かで研究者の間で意見が分かれているが、彼は遣唐使に随伴して帰国する直前の1月初旬に長安城で急死している。死因は特定されていないが、あるいは疱瘡による病死だったかもしれない。

■ 小田さんはもう一つの可能性も指摘しておられる。『冊府元亀』の開元22年4月の史料には、新羅突厥などの使節も玄宗皇帝と接見したことが記されている。突厥は疱瘡の伝搬経路になってもおかしくない国であり、その国の使節と何らかの接触をもったなら、彼らから疱瘡がもたらされた可能性は十分にありうるとのことだ。

■ 以上のことから、小田さんは天平7年の疱瘡流行の元となったのは、新羅からの遣使よりも第9次遣唐使の第一船の方が可能性が高いと推測しておられる。



小田さんが推測する天平9年の疱瘡流行の伝染源

■ では、天平9年に大流行した疱瘡の伝染源は何なのか? 天平8年(736)の春を待って5月に遅れて筑紫に帰国した副使・中臣名代が乗った第二船ではないのか? 『天平八年薩摩国正税帳』には戻ってきた中臣名代の一行に稲や酒を供給し、さらに148人の疾病人に薬酒を供したとも記載されている。疾病人の数の多さが気になるが、この遣唐使第二船が先の第一船と同様に疫病とともに戻ってきたのなら、再び流行しだした疫病の伝染源の可能性がある。

大台ヶ原-1
大台ヶ原-1
■ ところが、小田さんはここで面白い発想の転換をされる。天平9年の流行の大元はこの遣唐使の第二船にあったとしながら、流行のきっかけとなったのは天平8年(736)に派遣された阿倍継麻呂(つぎまろ)を遣新羅大使、大伴三中(みなか)を副使をとする遣新羅使らしいと言われるのだ。この遣新羅使は、天平8年4月17日に出発に臨んで天皇に拝謁したが、その後の足取りは天平9年(737)1月27日に新羅から帰国して入京するまで『続日本紀』には記載がない。

■ しかし、『万葉集』巻15に掲載された遣新羅使歌群から遣新羅使の動きを知ることができる。一行は天平8年6月に難波を出航して、瀬戸内、玄海などを経て新羅に至り、翌9年正月に帰朝報告している。万葉歌はその間、主として対馬までの往路と、播磨の国の家島付近の帰路の歌を編修したもので、全てで145首ある。その中に往路の壱岐で雪宅麻呂(ゆきのやかまろ)という人物が鬼病で死んだ時の歌がある。鬼病とはなにかははっきりしないが、疱瘡である可能性は少なくない。

大台ヶ原-2
大台ヶ原-2
■ 一行の帰朝報告によると、大使の阿倍継麻呂は対馬に停泊中に卒し、副使の大伴三中も病気に感染して入京できなかった(三中の入京は3月28日)。彼らは新羅がこれまで通りの礼儀を無視し、遣新羅使を受け入れなかったため、使命を全うできなかったと報告したため、一行の帰国をきっかけに新羅征討論が生じた。それはともかくとして、小田さんはこの使節が新羅に向かう往路で発生した疫病で病人や死者が出、また帰国の途中でも道々で疱瘡を置きみやげにしていったと推理する。

■ そのためには、遣新羅使は疱瘡の感染者と何処かで接触したことを想定しなければならない。一行は筑紫で七夕の歌を残しているため、天平8年7月には九州に到着している。その頃には遣唐使の第二船がたらした疱瘡がある程度広がっていて、筑紫に滞在していた遣新羅使が感染したものと推察される。そして、天平9年の流行について、都やさまざまな地域で流行の原因となったのは遣新羅使であると結論される。

大台ヶ原-3
大台ヶ原-3
■ 確かに、天平9年(737)1月に遣新羅使が帰国し、3月28日には入京が遅れていた遣新羅使の副使の大伴宿禰三中ら40人が天皇に拝謁した頃から、平城京でも疱瘡が猛威を振るうようになる。4月17日の藤原朝臣房前(ふささき)の死去を皮切りに8月までに政府の要人も次々と死んでいる。

■ 薩摩に到着した時点で多くの疾病者が出ていた第9次遣唐使の第二船は、天平8年(736)5月には筑紫に着いている。その後瀬戸内海を経由して難波に到着した副使の中臣名代は、8月23日に唐人三人波斯人一人を率いて朝廷に帰朝を報告している。もし彼らの中に疱瘡患者がいたなら、平城京の疱瘡はその年の9月頃には発生していなければならない。だが、『続日本紀』には、上記のように天平8年の疫病流行の記録はない。


■ ただし、小田さんの推論にもいささか気になる点がある。天平7年(735)の疱瘡が太宰府管内の諸国で大流行するのは、その年の8月である。一方、小田さんが伝染源と見なされた第9次遣唐使の第一船は、前年の11月に種子島に帰着し、入唐大使らは天平7年3月には平城京に戻っている。そうであれば、遣唐使船が種子島から筑紫の大津浦に回送されてくるのは、天平6年の暮から天平7年の1月頃と見なければならない。

■ この場合、遣唐使船が太宰府管内に到着してから、半年以上も過ぎてから疱瘡が流行しだすというのは、いかにも間隔が空きすぎているような印象を受ける。確かに、疱瘡は外国の風土病であり、疱瘡をもたらすのは外国人か外国帰りであろう。しかし、史書に記された外交使節だけが伝染源と見るのはいかがであろうか。奈良時代も天平期ともなれば、北九州と朝鮮半島南部で民間人の交流もかなりあったのではなかろうか。



[参考・引用文献]
・小田愛著「天平7年・9年の疱瘡流行について」(専修大学社会知性開発研究センター発行の「東アジア世界史研究センター年報」第3号(2009年12月刊)所収)
・渡辺晃宏著「平城京と木簡の世紀」(講談社刊日本の歴史04)


2010/07/22作成 by pancho_de_ohsei return