当時は俗に裳瘡と呼ばれて恐れられていた疱瘡((天然痘)
■ 昨年は、メキシコのある農村で生まれた新型インフルエンザ(A/H1V1)が、北米各国のみならず世界的に流行した。我が国では、海外旅行者の熱センサーチェックで流行を水際で阻止しようとしたが、5月5日に国内で最初の発症が確認された。やれ手の洗浄だ、マスクの着用だ、抗インフルエンザウイルス薬(タミフル・リレンザ)の投与だ、と大騒ぎしたのは、まだ一年前のことである。外出者のほとんどがマスクをしている異様な光景を、今ではどこでも見かけられない。
 |
| おふさ観音の風鈴まつり |
■ 代わって今年は、宮崎県で発生した口蹄疫(こうていえき)が世間の注目を浴びてきた。宮崎県では2000年にも97年ぶりに口蹄疫が発生がみられた。今年は流行を食い止めるために、感染もしていない大量の牛や豚を殺したり、家畜の移動制限したりして宮崎県は対応に大わらわだった。家族同然に大切に育ててきた種牛まで殺さなければならなかった牧畜業者の経済的・精神的被害は大きい。
■ 感染者6億人、死者4千万から5千万人を出したとされる20世紀初めのスペイン風邪を例に出すまでもなく、医学が発達した現代に生きる我々にとっても、伝染病の流行は実に怖い。まして神仏に祈る以外に頼るべき手段を持たなかった古代人には、我々の想像を絶する恐怖だったにちがいない。そうした伝染病の蔓延として、我が国の歴史上もっとも良く知られているのは、天平7年(735)から天平9年(737)にかけての疱瘡(現代の天然痘)の大流行である。
■ 天平7年(735)8月に太宰府管内の西海道諸国で、疱瘡が大流行し始めた。8月23日には、太宰府から「管内の諸国で瘡(そう)のできる疫病が大流行し、人民は悉く病臥しているため、今年度の調の貢納を停止していただきたい」と奏上してきたので、聖武天皇はこれを許している。
■ 当時は疱瘡を豌豆瘡(えんとうそう)、俗に裳瘡(もがさ)と言った。流行は山陰道、山陽道を北上する気配を見せた。そのため、聖武天皇は疫病の進入を阻止すべく長門国から東の諸国に道饗(みちあえ、悪鬼の侵入をふせぐため街道で行なう祭祀)を命じている。こうした措置が効を奏したのか、この時の流行は年末までに一応小康を得た。それでも9月には一品の新田部(にいたべ)親王が、11月には知太政官事・一品の舎人(とねり)親王が相次いで死去した。二人とも天武天皇の皇子で、藤原不比等没後の政界において、皇親として重きをおいた人物である。
■ 天平9年(737)になると、一応の小康を得ていた疫病の流行が勢いを盛り返した。4月には太宰府管内で疱瘡でまた多くの人民が死んだ。聖武天皇は管内の諸社に幣帛を捧げ祈願を命じたが、この年は疫病に加えて干ばつも発生して、田の苗も枯れしぼんでしまう始末だった。4月17日には、参議・民部卿の藤原房前(ふささき)が他界してしまった。
■ 6月に入ると、朝廷での執務を取りやめた。諸宮司の官人が疫病にかかって業務を遂行できなくなったためである。疫病は庶民ばかりでなく政府要人にも容赦なく牙をむいて襲いかかった。6月11日には、太宰大弐の小野老(おゆ)が、23日には中納言の多治比県守(あがたもり)が他界した。7月には、13日に参議・兵部卿の藤原麻呂(まろ)、17日には従四位下の百済王郎虞(ろうぐ、百済王敬福の父)、25日には右大臣の藤原武智麻呂がそれぞれ死去した。8月に入ると、1日に中宮大夫兼右兵衛卒(うひょうえのかみ)の橘佐為(たちばなのさい)が、5日には藤原四兄弟の最後の一人である参議・式部卿兼太宰帥の藤原朝臣宇合(うまかい)が薨じた。
■ 『続日本紀』はその他にも主要な人物の疫病死を記録しているが、藤原不比等の息子である四兄弟が相次いで死去したことで、彼らが牛耳ってきた政権はあっけなくついえることになった。9月に入ると、さしもの疱瘡の猛威もようやく下火になり、藤原四兄弟の欠員を補う人事が行われて、ようやく橘諸兄(たちばなのもろえ)を首班とする政権がスタートした。
■ 疱瘡は、免疫性が強い、伝染性を持つウイルス性感染症で、経気感染によって流行する。症状としては8日から14日の無症状潜伏期間後に高熱と全身の皮膚に現れ痕の残る発疹が特徴である。古くから知られている疾患で、発源地としてはインドが有力とされている。古代民族の移動や交流でシルクロードによって世界各地に伝搬したようだ。現在は存在せず、1980年にはWHOが根絶宣言をしている。
■ 疱瘡は海外の風土病であり、もともと日本に常に存在した病気ではない。したがって、日本で疱瘡が流行した際には、当時交流のあった他の国や地域から持ち込まれた可能性が極めて高い。史書には奈良時代以前にも疱瘡が流行した記録を残している。例えば敏達13年(584)、百済から鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒石像一体と、佐伯連(さえきのむらじ)が仏像一体を持ち帰った。大臣の蘇我馬子(そがのうまこ)はこれらの仏像を譲り受け、翌年には飛鳥の大野丘の北に仏塔を建てたが、このとき国内で疫病が流行し、死ぬ者が多かった。
■ そこで、大連の物部守屋(もののべのもりや)ら廃仏派が仏法を絶つことを奏上し、天皇の許可を得ると、塔と仏像と仏殿を焼いた。すると、疱瘡がさらに蔓延し、人々は仏像を焼いた祟りだと噂したという。敏達14年(585)8月には敏達天皇が疱瘡にかかり大殿で病死した。この時の疱瘡の流行は、伝染源が百済だった。
■ 奈良時代になると、疱瘡は新羅国に起源をもち移り来るものと認識されていたようだ。その背景には、朝鮮半島を統一し我が国との対等な外交関係を主張しだした新羅への国民の反感もあったにちがいない。確かに、天平6年(734)12月6日、新羅の朝貢使の金相貞らが太宰府に到着し、翌天平7年(735)2月17日、一行は平城京に到着している。2月27日、朝廷が新羅入朝の趣旨を尋ねたところ、今までの国号を改めて王城国の使者を名乗った。宗主国を自認する我が国の許可なしに国号を軽々しく改めたのは礼を失するとして、朝廷は即刻一行を追い返している。
■ 上記のようにその年の8月には太宰府管内の西海道諸国で疱瘡は大流行し始めているため、この新羅の朝貢使が疱瘡の病原菌を持ちこんだと見なされても不思議ではない。しかし、この通説に疑問を感じた女性がいる。専修大学大学院文学研究科の修士課程に在学中の小田愛(おだめぐみ)さんだ。『三国史記』や『三国遺事』を調べてみても、金相成を団長とする朝貢使が本国を出発した頃、新羅本国で疫病が流行していたという記述は見あたらないのだ。
■ さらに、天平の疱瘡大流行は、天平7年の疫病と同じものが天平9年にも流行したとも、天平7年に太宰府管内で流行した疫病が一時下火となり、再び天平9年に勢いを盛り返して太宰府から全国に流行したとも考えられている。だが、小田さんは従来のこうした専門家の説にも疑問を抱いた。
■ 小田さんは『文徳実録』の疱瘡流行の記事にも注目した。2月に発生した疱瘡の流行は5月まで及んでいるが、その後はずいぶんと数を減じ翌年には疱瘡に関する記録は全くなくなる。その他にも、天延2年や文明9年の疱瘡も、翌年にかかって流行し続けたという記録はない。つまり、疱瘡は短期間に爆発的に広がり、しかもその流行期間はあくまで1年以内で、複数年にわたることはないようだ。そうであるならば、天平7年の流行と天平9年の流行は別々の伝染源によるものではないのか。
■ こうした疑問を解くために小田さんはいろいろと調べて、その成果を「天平7年・9年の疱瘡流行について」と題する研究ノートに書き上げた。その論文が専修大学社会知性開発研究センター発行の「東アジア世界史研究センター年報」第3号(2009年12月刊)に載っている。遣唐使に関係する論文なので、筆者は興味深く読ませていただいた。その内容の骨子を以下に紹介しておこう。
|