橿原日記 平成22年7月18日

友史会の遺跡見学会「忍坂・朝倉周辺を探訪」に参加

桜井市の東に位置する外鎌山の麓に位置する忍坂と朝倉

大和朝倉駅周辺
大和朝倉駅周辺
■ 国道165号線で桜井市の市街地を西から東へ向かうと、最近何かと話題の多い茶臼山古墳を過ぎた先にある「外山(とび)」交差点で、道が二つに分かれる。標高292.5mの外鎌山(とかまやま)に行く手を阻まれるたためだ。国道165号線はそのまま北東方向へ進み、初瀬(はつせ)川に沿った谷を長谷寺(はせでら)方面に向かう。一方、外山交差点を起点とする国道166号線は、南東方向に進み、粟原(おおばら)川に沿った谷を女寄(みより) 峠方面に向かう。

■ 二つの谷に挟まれた要に位置する外鎌山は、別名を朝倉富士とも磯城(しき)富士とも呼ばれる秀麗な山である。その外鎌山の周辺には、縄文時代以来の各時代の遺物が濃密に分布している。特に、桜井市の忍坂(おっさか)、慈恩寺、脇本を含む範囲には、約90基の古墳が見つかっていて、「外鎌山北麓古墳群」と呼ばれている。

忍阪古墳群から見た外鎌山
忍阪古墳群から見た外鎌山
■ 外鎌山の南麓にある忍坂や北麓の朝倉といった地名は、古代史に慣れ親しんだ者にはなじみが深い。忍坂は古くは「押坂」で、新しくは「忍阪」と書く。地名学者の池田末則氏によると忍坂(オシサカ)のオシは「大」の意味で、忍海(オシミ)、押熊(オシクマ)のオシと同じだそうだが、神武東征伝承の中にも登場する古い地名である。『日本書紀』には、神武天皇が宇陀から粟原谷沿いの道を通って奈良盆地へ進出したが、その時「道臣命に命じて忍坂に大室を作らせ饗宴を催した」と記されている。垂仁紀には、天皇の第二皇子の五十瓊入彦命(いにしきいりびこのみこと)が河内の茅淳(ちぬ)の川上宮で一千口の剣を造って忍坂邑の藏に納めたという。そのことから、ここには当時の王権が所有する重要な武器が集約されていたと推察されている。

隅田八幡神国宝人物画像鏡
隅田八幡神国宝人物画像鏡
■ 隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡には「忍坂」に関わる銘文が刻まれていて、紀年の「癸未(みずのとひつじ)年」を443年と解釈すれば、允恭天皇の皇后・忍坂大中姫の宮室「意柴沙可宮(おしさかのみや)」があったところとなり、503年と解釈すれば、大中姫の兄の孫にあたる後の継体天皇が、武烈天皇の時代に居住していた場所となる。

■ 特に筆者が忍坂に惹かれるのは、第30代敏達天皇と皇后広姫の間に生まれた押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の名前に、押坂という地名が冠されているからだ。用明天皇亡き後、皇位継承の最有力候補だった皇子は、おそらくこの地で育てられたのであろう。残念ながらバックに強力な支援豪族がいなかったばっかりに即位できず、最後は馬見古墳群の中にある牧野古墳(ばくやこふん、成相墓(ならいのはか)ともいう)に埋葬されている。

牧野古墳の開口部
牧野古墳の開口部
■ 牧野古墳は、築造当時としては最大級の墓である。敏達天皇の財産を引き継いだ皇子は、相当な財力を備えた皇族だったと思われる。だが、聖徳太子や蘇我馬子の蔭に隠れて、その実像は闇の中だ。推古天皇の後を継いだ舒明天皇は、押坂彦人大兄皇子の嫡子であり、その墓は忍坂に築かれている。ちなみに、天智天皇や天武天皇は彼の孫世代である。この王統のルーツは忍坂に何らかの関係があったものと思われる。

■ 北麓にある朝倉は、三輪山と外鎌山に挟まれた初瀬谷の谷口にあたる慈恩寺、脇本、黒崎一帯の地名である。雄略天皇の朝倉宮はこの地にあったとされている。その所在については、黒崎集落の北斜面の天の森や黒崎白山神社付近とする説がある。また、武烈天皇の泊瀬列城宮(はつせなみきのみや)も初瀬谷の出雲にあったと推定され、欽明天皇の泊瀬柴籬宮(はつせしばがきのみや)も脇本付近にあったとされている。


初瀬谷と粟原谷周辺の主な遺跡(*)
初瀬谷と粟原谷周辺の主な遺跡(*)
■ 友史会の会報第524号が届いた。7月の例会は7月18日の午前10時に近鉄大阪線「大和朝倉駅」に集合して、橿考研附属博物館館長・松田真一氏の案内で、忍坂・朝倉周辺の古墳や遺跡を探訪するという。行程は次のようになっている。

【コース】 近鉄大阪線大和朝倉駅 →  忍坂8・9号墳 → 栗原カタソバ遺跡 →  越塚古墳 → 赤坂天王山古墳  →  石位寺 →  忍坂段ノ塚古墳 → 忍坂遺跡 →  慈恩寺跡 →  脇本遺跡 →  大和朝倉駅 (解散) 

■ 赤坂天王山古墳や石位寺、舒明天皇陵に比定されている忍坂段ノ塚古墳などは以前に訪れたことがあるが、その他は詳しく知らない。気象庁の梅雨明け宣言は出されていないが、近畿地方は昨日で梅雨が明けたようだ。本日も35度の炎天下になるという。猛暑の中を約10キロを歩くのは大変だが、覚悟を決めて参加することにした。

■ 集合時間の数分前に大和朝倉駅の南口に出た。天を仰ぐと、文字通り紺碧の空を飛行機雲を吐き出しながらジェット機が横切っていた。すでにほとんどの参加者が到着していて、駅前広場の木陰などで日差しを避けている。やはり予想通り暑い一日になりそうである。それでも、主催者側の発表によると、本日の参加者は170名とのこと。ほとんどは高齢者である。

大和朝倉駅の南口に集まった参加者たち 紺碧の夏空を横切るジェット機<
大和朝倉駅の南口に集まった参加者たち 紺碧の夏空を横切るジェット機

案内役の松田館
案内役の松田館長
■ いつものように友史会会長の挨拶があり、その後本日の案内役を務められる松田館長が探訪個所の概略を説明された。友史会としては、この地域を訪れるのは1991の秋以来19年ぶりとのことである。周辺は近年開発が著しく進んで昔ののどかな風景は一辺してしまっているという。

■ その地域開発の象徴的な場所が、駅前に誕生した朝倉台団地である。昭和52年(1977)に近鉄不動産(株)によって開発された広大な住宅地だ。

 
2号公園の入口に掲げられた案内板
2号公園の入口に掲げられた案内板
■ 駅前のロータリー横にあるスロープを登ると、朝倉台団地を取り巻くように築かれた広い通りに出る。その通りを右に進むと、やがて道路より一段高いところに築かれた2号公園が見えてくる。この公園の中に最初の探訪地である忍坂1・2・8・9号墳がある。



朝倉台団地の大規模宅地造成で移築された忍坂古墳群 (桜井市忍坂)

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移築された忍坂9号墳(手前)と8号墳(奥)


■ 近鉄「大和朝倉」駅の東南には,標高292.5mの外鎌山(とがまやま)が聳えている。その周辺には多くの古墳が営まれており、総数は約90基に達するという。

■ 外鎌山の北半分を中心とした朝倉台団地の大規模宅地造成に伴って、昭和47年(1972)から昭和50年(1975)にかけて発掘調査が実施された。調査の対象とされたのは、外鎌山の北麓に延びる7つの尾根に分布する36基の古墳だった。これらの古墳は、東から竜谷(りゅうたに)支群、慈恩寺(じおんじ)支群、忍坂(おっさか)支群に分けられ、外鎌山北麓古墳群と総称されている。

フェンスに囲われた忍坂9号墳
フェンスに囲われた忍坂9号墳
フェンスに囲われた忍坂8号墳
フェンスに囲われた忍坂8号墳
発掘時の忍坂8号墳と9号墳の位置関係
発掘時の忍坂8号墳と9号墳の位置関係(*)
■ そのうちの忍坂支群は、ほぼ西にのびる尾根上および南斜面に築かれた最もまとまりのある支群である。 12基の古墳で構成され、7世紀後半から末葉にかけて築造された多角形墳の可能性もある8号墳と9号墳を除いて、他は6世紀の初頭から後半にかけて造られた8〜15m程度の円墳である。

■ 出土遺物としては、4号墳の第二次埋葬から鉄鏃・鉄鎌・須恵器のほかに優秀な鉄製轡一式が見つかっている。3号墳の石室内に遺存した土器類は、埋納時の状能を良好にとどめ,古墳時代後期の葬送儀礼を知るうえで極めて貴重な資料となっている。

■ 忍阪1・2・8・9号墳は団地内の2号公園に、3号墳は桜井市立文化会館前に移築されたが、その他はすべて調査後に消滅してしまった。2号公園の端に立つと、移築された古墳が左から9号墳、8号墳、2号墳、1号墳の順に並んでいる。いずれも金網のフェンスに囲われ、内部は夏草が繁茂していて、9号墳と8号墳では遺構がほとんど分からない。

■ 忍坂9号墳は発掘調査時すでに墳丘はなく、石室も大半が失われていたが、直径18m程度の円墳または多角形の墳丘をもっていたと考えられている。かろうじて周溝内から土師器の甕が一点出土し、その年代から7世紀中葉から後半にかけて築造された古墳であると推定された。この古墳の特徴は、磚(レンガ)を模した榛原石を積み上げた六角形の磚槨式石室と呼ばれる特異な石室構造にある。8号墳の石室の技法と共通点が多く、同一の工人集団によって築かれたと考えられている。

夏草に隠された磚槨式石室の磚(レンガ)
夏草に隠された磚槨式石室の磚(レンガ)
■ 忍坂8号墳は9号墳の東側約12mに隣接して築かれた直径約18mの円墳または多角形墳と考えられている。調査時には墳丘はなく,石室もその半分が既に失われていた。石室内部からは多量のガラス玉・銅釘などのほかに少量の須恵器・土師器が出土し,7世紀中葉から後半にかけての築造と考えられている。この古墳の石室も榛原石を積み上げた磚槨式石室と呼ばれる特異な構造をしている。

■ 忍坂2号墳も、発掘調査時にはすでに墳丘の盛土は流失していた。しかし、周濠の痕跡から径13mの円墳であることがわかっている。埋葬施設は両袖式の石室で,羨道は既に失われていた。石室内部からは鉄刀・金環・瑪瑙製丸玉・刀子・金銅製金具・鉄釘などのほかに須恵器・土師器が出土し,6世紀末〜7世紀初頭にかけての築造と考えらている。

■ 忍坂1号墳は、発掘調査で調査された直径7mの円墳である。墳丘の殆どが流失しており,羨道も既に失われていた。石室内部からは馬具・鉄鏃・鉄製飾金具のほかに、須恵器・土師器が出土し,土器や石室の形態から六世紀中頃の築造と考えられる。その後、7世紀中葉に新たに床を敷き再利用し,なおかつ9〜10世紀に室内を三度整備し,埋葬が行われたようだ。

忍坂2号墳< 忍坂1号墳
忍坂2号墳の移築石室 忍坂1号墳の移築石室



粟原川を臨む左岸斜面に築かれた栗原カタソバ遺跡 (桜井市粟原字下り尾)

「忍阪」交差点から見た朝倉台のメインストリート
「忍阪」交差点から見た朝倉台のメインストリート
炎天下、国道166号線の歩道を行く参加者の列
炎天下、国道166号線の歩道を行く参加者の列
■ 忍坂古墳群を出発して朝倉台団地のメインストリートを南東方向に下って行くと、国道166号線の「忍阪」交差点に出る。交差点を渡った空き地で、松田館長から近くの忍坂ヲムロ古墓赤尾熊ケ谷古墳群に関する簡単な解説があった。忍坂ヲムロ古墓は奈良時代前半の火葬墓で、骨蔵容器を出土している。その容器は橿考研附属博物館で常設展示されている。

■ その後、粟原川に沿って築かれた国道166号線の狭い歩道を南西に向かって黙々と歩いた。風がピタリと止んだ谷筋のアスファルト道は、夏の日差しの照り返しですでに30度を超えている。容赦なく噴き出してくる汗ですでに着衣はびっしょりと濡れてきた。歩くことおよそ20分で、「下尾口」の三叉路から倉橋溜め池方面に向かう脇道へ入った。

■ 上り坂の途中で道が二股に分かれた。右へ進めば赤坂天王山古墳に向かう。左へ進めば、集落の一番奥にある越塚古墳に向かう。その分岐点で、松田館長はそれぞれの古墳の概略をあらかじめ説明された。というのも、二つの古墳では石室の内部を見学するが、なにぶんにも170名の参加者は多すぎる。そこで2班に分けてそれぞれ2つの古墳を順次見学することになった。

道路の分岐点での説明
強い日差しが降り注ぐ道路の分岐点での説明

■ 説明の最後に、松田館長は粟原川の上流方向を指さして、左岸の斜面に存在した粟原カタソバ遺跡について説明された。1992年に土取工事に先立って発掘調査を実施したところ、斜面から11基の横穴式石室墳が見つかったとのことだ。6世紀末から7世紀前半にかけて造営された古墳で、石室内に凝灰石の石棺を納めたものもあったという。さらに北斜面からは飛鳥時代を前後する頃の20棟の竪穴住居や、直線的な石列を伴う大型掘立柱建物からなる住居跡も見つかっている。

■ これらの建物群に先行して、北斜面から土器溜まりが出土し、臼玉や手捏(こ)ねのミニチュア土器が須恵器とともに出土した。そのため、5世紀代には祭祀の場として利用された可能性が高い。現在は、土取された後に民家が建ち、わずかに往事の粟原川左岸の斜面の一部がその民家の後ろに顔を覗かせていた。

粟原カタソバ遺跡の石列を伴う掘立柱建物跡 発掘調査地の現在の様子
粟原カタソバ遺跡の石列を伴う掘立柱建物跡(*) 発掘調査地の現在の様子



6世紀末に築かれた越塚古墳 (桜井市粟原字越塚)

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集落の外れの民家の裏に築かれた越塚古墳


■ 塚越古墳は赤坂天王山古墳の東約700mの、越塚集落の最東端に位置する円墳である。粟原川に向かって西北に伸びる丘陵上に営まれ、鳥見山方面へ展望が開ける見晴らしのよい傾斜地に位置しているが、アクセスするのはそれほど楽ではない。松田館長は、古墳の説明を行なった場所から歩いて15分ほどと言われたが、道は傾斜地を長々と続く登坂である。

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アクセス途中の山道に
咲いていたヤマユリ
■ 集落の縁を這うように続く坂道は、心臓破りの丘を登るように傾斜がきつい。参加者のほとんどは60歳を越えた高齢者だが、よくもこのような坂道を登り切れるものだと感心する。やっと山陰の平坦な道に出たと思ったら、その先に民家が一軒建っており、背後に杉の植林が生い茂る小山があった。そこが越塚古墳だった。

■ 越塚古墳は丘陵の端を切断して盛り土をした直径43m、高さ約7mの二段築成の円墳である。南南西に開口する両袖式の横穴式の石室をもち、石室は花崗岩の自然石を利用して、持ち送り式に積み上げている。巨石を三段に積み上げた玄室は長さ5.3m、幅2.75m、高さ3.85mを測り、羨道は長さ10.7m、幅1.8m、高さ1.8mであるという。

古墳の石室に多くの見学者が一度に入ることはできない。数人ずつグループに分けて、先発グループが見学を終えてから次のグループが石室に入り込む。したがって、長い行列ができた。順番を待つ山道の脇で、一本のヤマユリが豊かに咲き誇っていた。

南南西に開口した石室の入口 長々と続く羨道部
南南西に開口した石室の入口 長々と続く羨道部

■ 出土品は知られていないが,自然石の花崗岩の積み方などから、この古墳は6世紀末葉の築造とと考えられている。玄室の床面には、礫石が敷き詰められ、中央に凝灰岩製の組合せ敷き石棺が置かれている。粟原谷を見下す丘陵中腹部に築かれており、また1kmほど東に行った集落のはずれに粟原廃寺跡があることから、粟原寺造営に関連した人々につながる豪族の奥津城であろうと推測されている。

巨岩を三段に積み上げた玄室の内部 玄室の床に置かれた組合せ式石棺
巨岩を三段に積み上げた玄室の内部 玄室の床に置かれた組合せ式石棺

■ 石室の中に入ってみて驚かされた。内部は漆黒の闇だが、参加者たちが照らすライトの光でずいぶん広い内部の様子がうかがえる。巨大な自然石を積み上げただけの玄室は、明日香村の石舞台古墳を一回り小さくしたような規模だが、何処から、どの様にして、これらの巨岩を運び積み上げたのか興味を持った。先ほど歩いて登ってきた急坂を考えれば半端な人海戦術ではすまない。しかも6世紀末の築造であれば、被葬者は蘇我馬子と同時代を生きた人物ということになる。史書に登場する人物に該当者はいないのだろうか。   



明治以前は崇峻天皇陵とされていた赤坂天王山1号墳 (桜井市倉橋字赤坂)

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国道166号線から見た丘陵の尾根の先端付近。ここに赤坂天王山1号墳が築かれている


■ 国道166号線から倉橋溜め池方面を見ると、音羽山の山塊から北西方向にのびる丘陵が、その先端付近で鬱蒼と生い茂る森を形成している。まことに存在感を感じさせる森であるが、この森の中に複数の古墳が形成されている。その中の1号墳はそれぞれの側辺を東西方向と南北方向にほぼ一致させている三段築成の大型方墳で、1辺が約45m、高さが約9mを測る。

南に開口した入口
南に開口した入口
羨道の内部
羨道の内部
玄室から見た羨道部
玄室から見た羨道部
■ 江戸時代の元禄年間に、南都奉行所は地元倉橋村の覚え書きに基づいてこの古墳を崇峻天皇の倉橋岡陵に比定した。崇峻天皇は、西暦592年に蘇我馬子が放った刺客によって暗殺された大王である。『日本書紀』は、殺された天皇の亡骸をその日のうちに倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に葬ったと記す。明治22年になって、宮内庁が現在の崇峻天皇陵を決定するまで、長い間この古墳が崇峻天皇陵とされてきた。

■ 墳丘や石室、石棺の実測は行われていて、墳丘の規模は上記の通りである。埋葬施設は全長15mの両袖式横穴式石室で、南に開口している。玄室の規模は長さ6.4m、幅3.0m、高さ4.3m。石室全体に礫が敷かれ、羨門部には閉塞石の跡が残っている。玄室のほぼ中央に、二上山産の凝灰岩を刳り抜いた家型石棺が安置されている。

■ しかし、発掘調査は実施されていないために出土品は明らかでない。石棺内部も盗掘によって遺物も残されていない。石室構造や石棺の形式などから判断すると、この古墳の築造時期は6世紀末から7世紀初頭と見られている。その推定範囲には崇峻天皇が暗殺された時が含まれる。それに加えて、この古墳の石室はこの地域では最大であることから、歴史学者・考古学者の間では、今なお崇峻天皇陵として有力視されている。

■ 実際に崇峻天皇を埋葬した墓ならば、内部が見学できる数少ない天皇陵であり、考古学ファンなら誰しも内部を見てみたい。しかし、長年に渡って流入した土砂が堆積して、開口部が傾斜し天井が低くなっている。そのため、腹這いにならないと石室内に入れ込めない。せっかく潜り込んでも、雨水で湿った羨道から抜け出すことは容易ではない。入口から投げ込まれているロープは、それに捕まって脱出するためのものである。< /p>

■ 筆者は、4年前に一人でこの古墳を探訪したことがある。ライトを忘れたので、どうしょうか迷ったが、思い切って中へ滑り込んだ。入口からのわずかな明かりだけでは、内部の様子は良く分からなかったので、あたり構わずデジカメのシャッターを切った。石棺を撮った写真に、円形の浮遊物体が多く写っていた。おそらく石室内のホコリだと思うが、何となく気味が悪かった。

今回撮影した石 4年前に撮影した石棺
今回撮影した石棺 4年前に撮影した石棺



三体の浮き彫り石仏で知られる石位寺 (桜井市忍坂)

石位寺へ続く参道
石位寺へ続く参道
石位寺のお堂
石位寺のお堂
本尊を安置する収蔵庫
本尊を安置する収蔵庫
■ 午後2時に再び国道166号線に戻り、逆方向に歩いて忍坂に集落に戻った。途中から集落を横切る旧街道に入り、標識に従って道を折れると、小さな高台に石位寺の境内があった。寺といっても、現在は小さなお堂と本尊を安置するコンクリートの収蔵庫があるだけで、境内も狭い。住職が亡くなって以来、現在は無住の寺であり、いずれの宗派にも属さず、融通念仏宗を標榜している。檀家や周囲の住民によって寺が維持管理されているという。

■ この小さな寺に、我が国最古の石仏とされる浮彫薬師三尊の石像(国の重要文化財)が本尊として安置されている。しかし、いつでも拝観できるという訳ではない。拝観できる時期は3月から5月および9月から11月と限定されており、また拝観できる時間も午前10時から午後4時までである。しかも、桜井市観光課にあらかじめ電話予約が必要である。

■ 見学者にとっては一見不便な拝観制度も、事情を聞いてみればやむを得ない部分がある。住職が居ない無住の寺であるのに、国の重要文化財を本尊として安置している。そのため、集落の関係者が収蔵庫の鍵を預かっていて、参拝希望者があるときだけ収蔵庫の扉を開くようにしている。関係者のほとんどは農作業に従事しているため、当番制で鍵を保管するようにしているという。

■ 拝観予約が入るたびに、指定時間に鍵を持ってきてお堂や収蔵庫の扉を開け、参拝者が引き上げるのを待ってまた施錠するシステムは、それなりに気苦労なことである。なぜ収蔵庫の扉を開いておいて誰でも拝観できるようにしないのか、と以前来たとき土地の人に聞いたことがある。ひとの良さそうな老人は、「金屋の石仏」のように環境の変化で石像が変色してしまうのは、なんとしても避けたい、と答えた。それが、この仏像を守っている人たちの総意のようだ。

薬師三尊と伝えられる石像浮彫像
薬師三尊と伝えられる石像浮彫像
■ 今回は拝観時期ではないが、友史会の史跡探訪ということで、集落の特別の配慮で拝観することができた。高さ1m余り、幅1.5m前後の板状砂岩を利用して三体の像を浮き彫りにした白鳳期の石仏である。天蓋の下に両手を膝前に揃えた如来形の中尊が倚座し。両側の脇侍立像は胸前で合掌している。作られたときは彩色されていたらしく今も主尊の唇や向かって右側の脇侍の着衣の一部に朱色を確認できる。三尊の蓮華座を斜めに作り出した表現技法が優れていると言われている。

■ この石仏は粟原寺(おおばらでら)から遷されたという説がある。粟原寺は塔後や金堂後に礎石が残され、白鳳期の軒丸瓦などが出土している。談山神社には和銅8年に露盤をあげたことを記した塔の覆鉢が所蔵されている。また、石仏の願主は万葉歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)だったとの伝承がある。額田王の念持仏として作られ、もとは栗原寺にあったが、栗原川の氾濫で流されてきたというのだ。栗原寺は、和銅8年(715)に比売朝臣額田(ひめあそんぬかた)によって川上の粟原集落に建立された寺だが、比売朝臣額田が額田王であるとする言い伝えが古くからある。



舒明天皇陵に比定されている忍坂段ノ塚古墳 (桜井市忍坂)

忍坂段ノ塚古墳
忍坂集落の奥に築かれた段ノ塚古墳


段ノ塚古墳の墳丘
段ノ塚古墳の墳丘(*)
■ 段ノ塚古墳は忍坂集落の奥まった場所に築造された古墳である。外鎌山の南西麓に派生した尾根からさらに南に分岐した支尾根の先端に位置する。この古墳は特異な形をしている。南側に幅10.5mの前面部を最下段とした方形壇を3段に重ね、背後の上部には2段の八角形をした墳丘を築いている。八角形をした上部の墳丘の高さは約12m、対角線距離は約42mを測る。

■ 方形壇の最下段の前面は花崗岩製の列石が並べられている。忍坂集落の石垣にはこの列石から抜き出した室生安山岩の礫状平石が散見している。これらは古墳の上部の墳丘の裾に重ねて並べられていた列石であると言われている。

■ この古墳の内部構造は不明であるが、文久年間に谷森善臣が著した『山陵考』には石室内に主軸を直交させた2基の石棺が置かれていたとあり、大型の横穴式石室の存在が想定されている。

段ノ塚古墳の遙拝所 3段重ねの方形壇
段ノ塚古墳の遙拝所 3段重ねの方形壇

■ 押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の子・田村皇子は、推古女帝没後9ヶ月目の629年1月、第34代・舒明天皇として即位した。しかし、その12年の治世で見るべきものはほとんどない。舒明13年(641)10月9日、天皇は新装なった百済宮で崩御された。10月18日、宮の北に殯宮(もがりのみや)が設けられた。殯宮で誅(しのびごと)を読んだのは、若干16歳の中大兄皇子だったという。その年の12月、遺体は滑谷間岡(なめはさまのおか)に葬られたが、皇極2年(643)大和朝倉の忍阪の押坂陵に改葬された。その押坂陵が段ノ塚古墳とされている。



王権の武器庫(?)だった忍坂遺跡 (桜井市忍坂)

忍坂遺跡のあった付近
忍坂遺跡のあった付近
■ 段の塚古墳から再び旧街道に戻り、市街地の中の曲がりくねった道を「忍坂」交差点の近くまで来ると、住宅地の中に小さな公園があった。その公園で松田館長は忍坂遺跡について説明された。

■ 忍坂遺跡は、外鎌山の西麓から低く延びる舌状台地と、粟原川が形成した沖積平野の一帯に広がる遺跡である。宅地造成に伴う発掘調査が昭和61年4月から6月にかけて実施され、弥生時代と古墳時代の遺構の存在が初めて明らかにされた。

■ 弥生時代の遺構としては、庄内式の手焙形土器などを多数出土した溝と、方形周溝墓の可能性がある溝が2条、および同時代の土抗が見つかっている。

■ 古墳時代の遺構としては、調査地の東半分の所で、5世紀後半から6世紀後半にかけて営まれた建物や柵が見つかっている。建物の一棟は、北に対して少し西に振れているが、東西5.3m、南北4.5の3間四方の掘立柱建物で、柱の径も20cmと比較的太い材が使われていた。建物の西側では建物に平行して築かれた柵が見つかった。また東側には約150基の柱穴が見つかっており、遺構群の西を区画する施設だったと考えられている。6世紀後半に造られた土抗は、直径約5m、深さ1mで、その中から須恵器などの遺物以外に、鉄滓や鞴(ふいご)の羽口が出土している。

忍坂遺跡の主要遺構
忍坂遺跡の主要遺構と空中写真(**)

■ 忍坂遺跡は、大和盆地東南部から東へ延びる初瀬谷と粟原谷の分岐点近くに位置し、これらの谷を通る2つの交通路を押さえる要衝の地でもあった。発掘調査によって、この遺跡は付近の遺跡の中で最大規模であり、また、弥生時代の遺構が認められるものの、特に古墳時代中・後期を中心として集落が営まれていることが判明した。その遺構は掘立柱建物を主体とし、建物の中にも鉄滓や鉄鉾が見られるなど、一般集落とは異なる性格を持っていたようだ。『日本書紀』の垂仁紀には、皇子の五十瓊入彦命(いにしきいりびこのみこと)が一千口の太刀を作って石上神宮に納められる前に忍坂邑に一時保管していたとの記述があり、当時の王権の武器庫だった可能性が指摘されている。

■ その他に、允恭天皇(いんぎょう)の皇后・忍坂大中姫(おしはかのおおなかつひめ)の意柴沙加宮(おしさかのみや)の場所としても有力視されている。しかし、残念ながら、発掘調査後の宅地造成で遺跡は破壊されてしまった。


■ 実をいうと、筆者にとっては段の塚古墳からこの小公園まで歩いてくるのがやっとだった。途中から筆者の両足の筋肉が攣(つ)りだして、歩行もままならぬ状態になってしまった。35度を超える暑さとアップダウンの激しい見学地の連続で、あまり鍛えていない体力の限界に達したようだ。ちなみに気象庁が発表する予想温度は、百葉箱など日陰で測定した温度だそうだ。直射日光があたる場所では、それより4〜5度高くなる。したがって、気象庁発表の最高気温の予想が35度だとすると、日差しの強い屋外では実際には40度の熱気に当てられていることになり、体力が極度に消耗して当然だ。

■ 忍坂遺跡の後には、奈良時代の慈恩寺跡とヤマトの中央政権にかかわる重要な施設があった脇本遺跡の見学がまだ残っていた。慈恩寺は三輪山から初瀬谷に向かう丘陵の末端に位置する慈恩寺集落の北側に存在した。伽藍配置など主要な遺構がまったく分かっていないが、東京国立博物館には慈恩寺出土とされる複弁蓮華文軒丸瓦が所蔵されている。脇本遺跡は脇本集落の南側に広がる沖積地に位置し、西に流れる初瀬川に沿って東西に広く広がっている遺跡である。

■ 脇本遺跡の発掘調査はこれまで数次にわたって行われ、戦前には国道工事の際に縄文時代や古墳時代の建物跡が見つかっている。戦後は、1981年に脇本にある朝倉小学校の敷地の調査では、5世紀から6世紀にかけての掘立柱建物や溝の跡が見つかった。1984年の発掘調査では、集落に近い灯明田地区で、5世紀後半の掘立柱建物跡2棟や、石敷き遺構、石組み排水溝などが見つかっている。今年実施された道路拡幅工事に先立つ発掘調査では、あらたに古墳時代後期から飛鳥時代にかけての遺構が発見された。これらの発掘調査の成果から、『古事記』や『日本書紀』に記載された泊瀬の諸宮や、中央政権に関わる重要施設がこの地に継続して営まれていたと推定されている。

■ いずれの遺跡も、松田館長の説明を聞きながら見学してみたい場所である。だが、動かなくなった足ではどうしようもない。残念ながら、これらの遺跡の見学は別の機会にまわすことで、今回は途中でリタイヤすることにした。


(*) 友史会作成「友史会報第5214号」から転記
(**)「奈良県遺跡調査概報第一分冊 1986年度」より転記


2010/07/21作成 by pancho_de_ohsei return