桜井市の東に位置する外鎌山の麓に位置する忍坂と朝倉
■ 二つの谷に挟まれた要に位置する外鎌山は、別名を朝倉富士とも磯城(しき)富士とも呼ばれる秀麗な山である。その外鎌山の周辺には、縄文時代以来の各時代の遺物が濃密に分布している。特に、桜井市の忍坂(おっさか)、慈恩寺、脇本を含む範囲には、約90基の古墳が見つかっていて、「外鎌山北麓古墳群」と呼ばれている。
■ 特に筆者が忍坂に惹かれるのは、第30代敏達天皇と皇后広姫の間に生まれた押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の名前に、押坂という地名が冠されているからだ。用明天皇亡き後、皇位継承の最有力候補だった皇子は、おそらくこの地で育てられたのであろう。残念ながらバックに強力な支援豪族がいなかったばっかりに即位できず、最後は馬見古墳群の中にある牧野古墳(ばくやこふん、成相墓(ならいのはか)ともいう)に埋葬されている。
■ 北麓にある朝倉は、三輪山と外鎌山に挟まれた初瀬谷の谷口にあたる慈恩寺、脇本、黒崎一帯の地名である。雄略天皇の朝倉宮はこの地にあったとされている。その所在については、黒崎集落の北斜面の天の森や黒崎白山神社付近とする説がある。また、武烈天皇の泊瀬列城宮(はつせなみきのみや)も初瀬谷の出雲にあったと推定され、欽明天皇の泊瀬柴籬宮(はつせしばがきのみや)も脇本付近にあったとされている。
【コース】 近鉄大阪線大和朝倉駅 → 忍坂8・9号墳 → 栗原カタソバ遺跡 → 越塚古墳 → 赤坂天王山古墳 → 石位寺 → 忍坂段ノ塚古墳 → 忍坂遺跡 → 慈恩寺跡 → 脇本遺跡 → 大和朝倉駅 (解散) ■ 赤坂天王山古墳や石位寺、舒明天皇陵に比定されている忍坂段ノ塚古墳などは以前に訪れたことがあるが、その他は詳しく知らない。気象庁の梅雨明け宣言は出されていないが、近畿地方は昨日で梅雨が明けたようだ。本日も35度の炎天下になるという。猛暑の中を約10キロを歩くのは大変だが、覚悟を決めて参加することにした。 ■ 集合時間の数分前に大和朝倉駅の南口に出た。天を仰ぐと、文字通り紺碧の空を飛行機雲を吐き出しながらジェット機が横切っていた。すでにほとんどの参加者が到着していて、駅前広場の木陰などで日差しを避けている。やはり予想通り暑い一日になりそうである。それでも、主催者側の発表によると、本日の参加者は170名とのこと。ほとんどは高齢者である。
■ その地域開発の象徴的な場所が、駅前に誕生した朝倉台団地である。昭和52年(1977)に近鉄不動産(株)によって開発された広大な住宅地だ。
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朝倉台団地の大規模宅地造成で移築された忍坂古墳群 (桜井市忍坂)
■ 近鉄「大和朝倉」駅の東南には,標高292.5mの外鎌山(とがまやま)が聳えている。その周辺には多くの古墳が営まれており、総数は約90基に達するという。 ■ 外鎌山の北半分を中心とした朝倉台団地の大規模宅地造成に伴って、昭和47年(1972)から昭和50年(1975)にかけて発掘調査が実施された。調査の対象とされたのは、外鎌山の北麓に延びる7つの尾根に分布する36基の古墳だった。これらの古墳は、東から竜谷(りゅうたに)支群、慈恩寺(じおんじ)支群、忍坂(おっさか)支群に分けられ、外鎌山北麓古墳群と総称されている。
■ 出土遺物としては、4号墳の第二次埋葬から鉄鏃・鉄鎌・須恵器のほかに優秀な鉄製轡一式が見つかっている。3号墳の石室内に遺存した土器類は、埋納時の状能を良好にとどめ,古墳時代後期の葬送儀礼を知るうえで極めて貴重な資料となっている。 ■ 忍阪1・2・8・9号墳は団地内の2号公園に、3号墳は桜井市立文化会館前に移築されたが、その他はすべて調査後に消滅してしまった。2号公園の端に立つと、移築された古墳が左から9号墳、8号墳、2号墳、1号墳の順に並んでいる。いずれも金網のフェンスに囲われ、内部は夏草が繁茂していて、9号墳と8号墳では遺構がほとんど分からない。 ■ 忍坂9号墳は発掘調査時すでに墳丘はなく、石室も大半が失われていたが、直径18m程度の円墳または多角形の墳丘をもっていたと考えられている。かろうじて周溝内から土師器の甕が一点出土し、その年代から7世紀中葉から後半にかけて築造された古墳であると推定された。この古墳の特徴は、磚(レンガ)を模した榛原石を積み上げた六角形の磚槨式石室と呼ばれる特異な石室構造にある。8号墳の石室の技法と共通点が多く、同一の工人集団によって築かれたと考えられている。
■ 忍坂2号墳も、発掘調査時にはすでに墳丘の盛土は流失していた。しかし、周濠の痕跡から径13mの円墳であることがわかっている。埋葬施設は両袖式の石室で,羨道は既に失われていた。石室内部からは鉄刀・金環・瑪瑙製丸玉・刀子・金銅製金具・鉄釘などのほかに須恵器・土師器が出土し,6世紀末〜7世紀初頭にかけての築造と考えらている。 ■ 忍坂1号墳は、発掘調査で調査された直径7mの円墳である。墳丘の殆どが流失しており,羨道も既に失われていた。石室内部からは馬具・鉄鏃・鉄製飾金具のほかに、須恵器・土師器が出土し,土器や石室の形態から六世紀中頃の築造と考えられる。その後、7世紀中葉に新たに床を敷き再利用し,なおかつ9〜10世紀に室内を三度整備し,埋葬が行われたようだ。
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粟原川を臨む左岸斜面に築かれた栗原カタソバ遺跡 (桜井市粟原字下り尾)
■ その後、粟原川に沿って築かれた国道166号線の狭い歩道を南西に向かって黙々と歩いた。風がピタリと止んだ谷筋のアスファルト道は、夏の日差しの照り返しですでに30度を超えている。容赦なく噴き出してくる汗ですでに着衣はびっしょりと濡れてきた。歩くことおよそ20分で、「下尾口」の三叉路から倉橋溜め池方面に向かう脇道へ入った。 ■ 上り坂の途中で道が二股に分かれた。右へ進めば赤坂天王山古墳に向かう。左へ進めば、集落の一番奥にある越塚古墳に向かう。その分岐点で、松田館長はそれぞれの古墳の概略をあらかじめ説明された。というのも、二つの古墳では石室の内部を見学するが、なにぶんにも170名の参加者は多すぎる。そこで2班に分けてそれぞれ2つの古墳を順次見学することになった。
■ 説明の最後に、松田館長は粟原川の上流方向を指さして、左岸の斜面に存在した粟原カタソバ遺跡について説明された。1992年に土取工事に先立って発掘調査を実施したところ、斜面から11基の横穴式石室墳が見つかったとのことだ。6世紀末から7世紀前半にかけて造営された古墳で、石室内に凝灰石の石棺を納めたものもあったという。さらに北斜面からは飛鳥時代を前後する頃の20棟の竪穴住居や、直線的な石列を伴う大型掘立柱建物からなる住居跡も見つかっている。 ■ これらの建物群に先行して、北斜面から土器溜まりが出土し、臼玉や手捏(こ)ねのミニチュア土器が須恵器とともに出土した。そのため、5世紀代には祭祀の場として利用された可能性が高い。現在は、土取された後に民家が建ち、わずかに往事の粟原川左岸の斜面の一部がその民家の後ろに顔を覗かせていた。
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6世紀末に築かれた越塚古墳 (桜井市粟原字越塚)
■ 塚越古墳は赤坂天王山古墳の東約700mの、越塚集落の最東端に位置する円墳である。粟原川に向かって西北に伸びる丘陵上に営まれ、鳥見山方面へ展望が開ける見晴らしのよい傾斜地に位置しているが、アクセスするのはそれほど楽ではない。松田館長は、古墳の説明を行なった場所から歩いて15分ほどと言われたが、道は傾斜地を長々と続く登坂である。
■ 越塚古墳は丘陵の端を切断して盛り土をした直径43m、高さ約7mの二段築成の円墳である。南南西に開口する両袖式の横穴式の石室をもち、石室は花崗岩の自然石を利用して、持ち送り式に積み上げている。巨石を三段に積み上げた玄室は長さ5.3m、幅2.75m、高さ3.85mを測り、羨道は長さ10.7m、幅1.8m、高さ1.8mであるという。 古墳の石室に多くの見学者が一度に入ることはできない。数人ずつグループに分けて、先発グループが見学を終えてから次のグループが石室に入り込む。したがって、長い行列ができた。順番を待つ山道の脇で、一本のヤマユリが豊かに咲き誇っていた。
■ 出土品は知られていないが,自然石の花崗岩の積み方などから、この古墳は6世紀末葉の築造とと考えられている。玄室の床面には、礫石が敷き詰められ、中央に凝灰岩製の組合せ敷き石棺が置かれている。粟原谷を見下す丘陵中腹部に築かれており、また1kmほど東に行った集落のはずれに粟原廃寺跡があることから、粟原寺造営に関連した人々につながる豪族の奥津城であろうと推測されている。
■ 石室の中に入ってみて驚かされた。内部は漆黒の闇だが、参加者たちが照らすライトの光でずいぶん広い内部の様子がうかがえる。巨大な自然石を積み上げただけの玄室は、明日香村の石舞台古墳を一回り小さくしたような規模だが、何処から、どの様にして、これらの巨岩を運び積み上げたのか興味を持った。先ほど歩いて登ってきた急坂を考えれば半端な人海戦術ではすまない。しかも6世紀末の築造であれば、被葬者は蘇我馬子と同時代を生きた人物ということになる。史書に登場する人物に該当者はいないのだろうか。 |
明治以前は崇峻天皇陵とされていた赤坂天王山1号墳 (桜井市倉橋字赤坂)
■ 国道166号線から倉橋溜め池方面を見ると、音羽山の山塊から北西方向にのびる丘陵が、その先端付近で鬱蒼と生い茂る森を形成している。まことに存在感を感じさせる森であるが、この森の中に複数の古墳が形成されている。その中の1号墳はそれぞれの側辺を東西方向と南北方向にほぼ一致させている三段築成の大型方墳で、1辺が約45m、高さが約9mを測る。
■ 墳丘や石室、石棺の実測は行われていて、墳丘の規模は上記の通りである。埋葬施設は全長15mの両袖式横穴式石室で、南に開口している。玄室の規模は長さ6.4m、幅3.0m、高さ4.3m。石室全体に礫が敷かれ、羨門部には閉塞石の跡が残っている。玄室のほぼ中央に、二上山産の凝灰岩を刳り抜いた家型石棺が安置されている。 ■ しかし、発掘調査は実施されていないために出土品は明らかでない。石棺内部も盗掘によって遺物も残されていない。石室構造や石棺の形式などから判断すると、この古墳の築造時期は6世紀末から7世紀初頭と見られている。その推定範囲には崇峻天皇が暗殺された時が含まれる。それに加えて、この古墳の石室はこの地域では最大であることから、歴史学者・考古学者の間では、今なお崇峻天皇陵として有力視されている。 ■ 実際に崇峻天皇を埋葬した墓ならば、内部が見学できる数少ない天皇陵であり、考古学ファンなら誰しも内部を見てみたい。しかし、長年に渡って流入した土砂が堆積して、開口部が傾斜し天井が低くなっている。そのため、腹這いにならないと石室内に入れ込めない。せっかく潜り込んでも、雨水で湿った羨道から抜け出すことは容易ではない。入口から投げ込まれているロープは、それに捕まって脱出するためのものである。< /p> ■ 筆者は、4年前に一人でこの古墳を探訪したことがある。ライトを忘れたので、どうしょうか迷ったが、思い切って中へ滑り込んだ。入口からのわずかな明かりだけでは、内部の様子は良く分からなかったので、あたり構わずデジカメのシャッターを切った。石棺を撮った写真に、円形の浮遊物体が多く写っていた。おそらく石室内のホコリだと思うが、何となく気味が悪かった。
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三体の浮き彫り石仏で知られる石位寺 (桜井市忍坂)
■ この小さな寺に、我が国最古の石仏とされる浮彫薬師三尊の石像(国の重要文化財)が本尊として安置されている。しかし、いつでも拝観できるという訳ではない。拝観できる時期は3月から5月および9月から11月と限定されており、また拝観できる時間も午前10時から午後4時までである。しかも、桜井市観光課にあらかじめ電話予約が必要である。 ■ 見学者にとっては一見不便な拝観制度も、事情を聞いてみればやむを得ない部分がある。住職が居ない無住の寺であるのに、国の重要文化財を本尊として安置している。そのため、集落の関係者が収蔵庫の鍵を預かっていて、参拝希望者があるときだけ収蔵庫の扉を開くようにしている。関係者のほとんどは農作業に従事しているため、当番制で鍵を保管するようにしているという。 ■ 拝観予約が入るたびに、指定時間に鍵を持ってきてお堂や収蔵庫の扉を開け、参拝者が引き上げるのを待ってまた施錠するシステムは、それなりに気苦労なことである。なぜ収蔵庫の扉を開いておいて誰でも拝観できるようにしないのか、と以前来たとき土地の人に聞いたことがある。ひとの良さそうな老人は、「金屋の石仏」のように環境の変化で石像が変色してしまうのは、なんとしても避けたい、と答えた。それが、この仏像を守っている人たちの総意のようだ。
■ この石仏は粟原寺(おおばらでら)から遷されたという説がある。粟原寺は塔後や金堂後に礎石が残され、白鳳期の軒丸瓦などが出土している。談山神社には和銅8年に露盤をあげたことを記した塔の覆鉢が所蔵されている。また、石仏の願主は万葉歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)だったとの伝承がある。額田王の念持仏として作られ、もとは栗原寺にあったが、栗原川の氾濫で流されてきたというのだ。栗原寺は、和銅8年(715)に比売朝臣額田(ひめあそんぬかた)によって川上の粟原集落に建立された寺だが、比売朝臣額田が額田王であるとする言い伝えが古くからある。 |
舒明天皇陵に比定されている忍坂段ノ塚古墳 (桜井市忍坂)
■ 方形壇の最下段の前面は花崗岩製の列石が並べられている。忍坂集落の石垣にはこの列石から抜き出した室生安山岩の礫状平石が散見している。これらは古墳の上部の墳丘の裾に重ねて並べられていた列石であると言われている。 ■ この古墳の内部構造は不明であるが、文久年間に谷森善臣が著した『山陵考』には石室内に主軸を直交させた2基の石棺が置かれていたとあり、大型の横穴式石室の存在が想定されている。
■ 押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の子・田村皇子は、推古女帝没後9ヶ月目の629年1月、第34代・舒明天皇として即位した。しかし、その12年の治世で見るべきものはほとんどない。舒明13年(641)10月9日、天皇は新装なった百済宮で崩御された。10月18日、宮の北に殯宮(もがりのみや)が設けられた。殯宮で誅(しのびごと)を読んだのは、若干16歳の中大兄皇子だったという。その年の12月、遺体は滑谷間岡(なめはさまのおか)に葬られたが、皇極2年(643)大和朝倉の忍阪の押坂陵に改葬された。その押坂陵が段ノ塚古墳とされている。 |
王権の武器庫(?)だった忍坂遺跡 (桜井市忍坂)
■ 忍坂遺跡は、外鎌山の西麓から低く延びる舌状台地と、粟原川が形成した沖積平野の一帯に広がる遺跡である。宅地造成に伴う発掘調査が昭和61年4月から6月にかけて実施され、弥生時代と古墳時代の遺構の存在が初めて明らかにされた。 ■ 弥生時代の遺構としては、庄内式の手焙形土器などを多数出土した溝と、方形周溝墓の可能性がある溝が2条、および同時代の土抗が見つかっている。 ■ 古墳時代の遺構としては、調査地の東半分の所で、5世紀後半から6世紀後半にかけて営まれた建物や柵が見つかっている。建物の一棟は、北に対して少し西に振れているが、東西5.3m、南北4.5の3間四方の掘立柱建物で、柱の径も20cmと比較的太い材が使われていた。建物の西側では建物に平行して築かれた柵が見つかった。また東側には約150基の柱穴が見つかっており、遺構群の西を区画する施設だったと考えられている。6世紀後半に造られた土抗は、直径約5m、深さ1mで、その中から須恵器などの遺物以外に、鉄滓や鞴(ふいご)の羽口が出土している。
■ 忍坂遺跡は、大和盆地東南部から東へ延びる初瀬谷と粟原谷の分岐点近くに位置し、これらの谷を通る2つの交通路を押さえる要衝の地でもあった。発掘調査によって、この遺跡は付近の遺跡の中で最大規模であり、また、弥生時代の遺構が認められるものの、特に古墳時代中・後期を中心として集落が営まれていることが判明した。その遺構は掘立柱建物を主体とし、建物の中にも鉄滓や鉄鉾が見られるなど、一般集落とは異なる性格を持っていたようだ。『日本書紀』の垂仁紀には、皇子の五十瓊入彦命(いにしきいりびこのみこと)が一千口の太刀を作って石上神宮に納められる前に忍坂邑に一時保管していたとの記述があり、当時の王権の武器庫だった可能性が指摘されている。 ■ その他に、允恭天皇(いんぎょう)の皇后・忍坂大中姫(おしはかのおおなかつひめ)の意柴沙加宮(おしさかのみや)の場所としても有力視されている。しかし、残念ながら、発掘調査後の宅地造成で遺跡は破壊されてしまった。 ■ 実をいうと、筆者にとっては段の塚古墳からこの小公園まで歩いてくるのがやっとだった。途中から筆者の両足の筋肉が攣(つ)りだして、歩行もままならぬ状態になってしまった。35度を超える暑さとアップダウンの激しい見学地の連続で、あまり鍛えていない体力の限界に達したようだ。ちなみに気象庁が発表する予想温度は、百葉箱など日陰で測定した温度だそうだ。直射日光があたる場所では、それより4〜5度高くなる。したがって、気象庁発表の最高気温の予想が35度だとすると、日差しの強い屋外では実際には40度の熱気に当てられていることになり、体力が極度に消耗して当然だ。 ■ 忍坂遺跡の後には、奈良時代の慈恩寺跡とヤマトの中央政権にかかわる重要な施設があった脇本遺跡の見学がまだ残っていた。慈恩寺は三輪山から初瀬谷に向かう丘陵の末端に位置する慈恩寺集落の北側に存在した。伽藍配置など主要な遺構がまったく分かっていないが、東京国立博物館には慈恩寺出土とされる複弁蓮華文軒丸瓦が所蔵されている。脇本遺跡は脇本集落の南側に広がる沖積地に位置し、西に流れる初瀬川に沿って東西に広く広がっている遺跡である。 ■ 脇本遺跡の発掘調査はこれまで数次にわたって行われ、戦前には国道工事の際に縄文時代や古墳時代の建物跡が見つかっている。戦後は、1981年に脇本にある朝倉小学校の敷地の調査では、5世紀から6世紀にかけての掘立柱建物や溝の跡が見つかった。1984年の発掘調査では、集落に近い灯明田地区で、5世紀後半の掘立柱建物跡2棟や、石敷き遺構、石組み排水溝などが見つかっている。今年実施された道路拡幅工事に先立つ発掘調査では、あらたに古墳時代後期から飛鳥時代にかけての遺構が発見された。これらの発掘調査の成果から、『古事記』や『日本書紀』に記載された泊瀬の諸宮や、中央政権に関わる重要施設がこの地に継続して営まれていたと推定されている。 ■ いずれの遺跡も、松田館長の説明を聞きながら見学してみたい場所である。だが、動かなくなった足ではどうしようもない。残念ながら、これらの遺跡の見学は別の機会にまわすことで、今回は途中でリタイヤすることにした。 |
(*) 友史会作成「友史会報第5214号」から転記
(**)「奈良県遺跡調査概報第一分冊 1986年度」より転記