2010/07/15

奈良大の東野教授が反論、井真成は「長期留学生」

やっと出された日本側研究者からの反論

■ 今年の1月27日付け朝日新聞夕刊は、復旦大学(上海)の韓昇(Han Sheng)教授が「井真成は長期留学生ではなく遣唐使の随員だった」とする説を、文化欄で紹介していた("同日付け橿原日記参照)

井真成墓誌の蓋
井真成墓誌の蓋
■ この朝日新聞の記事は、専修大学社会知性開発研究センターが2009年12月に発行した「東アジア世界史研究センター年報」第3号への寄稿論文「井真成墓誌の再検討」の中で、韓昇教授が提唱された説の要旨だった。

■ 韓昇教授は、論文の中で『唐六典』を引用し、唐朝の六学(国子・太学・四門・律・書・算)に学ぶ学生の在学期間は最長でも9年を越えることはできず、また在学中は必ず規定の試験(貢挙試)を受けなければならなかった”と規定されていることを明らかにされた。ちなみに『唐六典』とは、738年に成立した玄宗皇帝の勅撰で、唐代の官制の体系を記しその歴代の沿革および当時の法制を説明した書である。

井真成墓誌銘の拓本
井真成墓誌銘の拓本
■ さらに、韓昇教授は『新唐書』百官志の崇玄署の条にも「新羅・日本僧入朝学問、九年不還者、編諸籍」という規定があることにも言及された。この規定では、新羅と日本からの留学僧が9年以上滞在することを認めていない。留学僧に対してこのような修業の年限がある以上、一般の留学生が仕官もせず任意に長期滞在できるはずがない。そこで、教授は”井真成が唐朝に17年間に亘って留学し、貢挙試をうけることもなく、仕官することもなかったというのは、唐朝の学制に符号せず、また常識とも一致しない”とされた。そして、井真成は養老元年(717年)の第8次遣唐使船で入唐した長期留学生ではなく、天平5年(733年)の第9次遣唐使で来朝した上席准判官つまり官吏だったと結論づけられた。

■ 日本の研究者たちは、2004年10月に井真成墓誌が発見された当初から、井真成は19歳のとき第8次遣唐使に随行して唐土に渡った長期留学生との見方で一致していた。同じ時に入唐した留学生に阿倍仲麻呂(19歳)、下道真備(22歳、後に吉備真備と改名)、大和長岡(29歳)、さらに学問僧の玄ム(げんぼう)、理鏡(りきょう)などがいる。井真成の本名は葛井真成(ふじいのまなり)または井上忌寸真成(いのへのいみき・まなり)と推定されているが、唐土で客死したため、その名が正史に残らなかったのでは、と推察されている。

奈良大学の東野治之教授
奈良大学の東野治之教授
■ 中国側の研究者から当時の学制根拠に、井真成は日本からの長期留学生ではなかったと指摘されて、日本側の研究者はどのように反論するのか興味が持たれた。日本側の研究者からの反論はなかなか出てこなかった。半年も過ぎた6月18になって、やっと奈良大学の東野治之教授の反論をまとめた記事が朝日新聞の夕刊に掲載された。その記事を読んでみて、思わず首をかしげた。論点がずれているのだ。

■ 韓昇教授は『唐六典』や『新唐書』の記述、および井真成の墓誌銘を根拠に井真成=遣唐使随員説を展開された。だが、東野教授が疑問を投げかけられたのは、韓昇教授が補足的に言及された『新唐書』の規定に対してのみである。すなわち、この規定には新羅と日本の留学僧に言及しながら、百済や高句麗の国名がない。そのため、東野教授は新羅が朝鮮半島を統一した7世紀後半以降に制定されたものと推測される。しかし、ある年限に達すれば留学生が帰国できるようになるためには、交通制度が整っていることが前提となる。

6月18日付け朝日新聞夕刊の記事
6月18日付け朝日新聞夕刊(関西版)の記事
■ 9世紀になると日本と唐を結ぶ交通網はそれなりに整備されるが、8世紀の奈良時代の段階では様相がまったく異なり、9年たったから日本に帰れと言われても不可能だった。そのため、東野教授は『新唐書』の規定がそのまま適用されたとも思えず、井真成はやはり長期留学生として17年間唐に滞在したと反論されている。

■ 実際には、第8次遣唐使に随行して唐土に渡った下道真備や学問僧の玄ムなどが帰国したのは、天平7年(735)である。したがって、彼らも井真成と同じく17年間唐土に滞在している。そうした実情を見ても、『唐六典』や『新唐書』の規定がそのまま杓子定規に適用されたとは思われない。だが、夕刊の記事を読む限り、東野教授は『新唐書』の規定に言及されながら、韓昇教授が指摘された『唐六典』と日本人留学生の長期滞在がどのように抵触するかは、いっさい触れておられない。



韓昇教授が井真成は遣唐使の随行員と推論された根拠

■ 東野教授の上記のような反論には大きな欠陥があるように思われる。韓昇教授がその寄稿論文で「井真成が長期留学者ではなかった」と推論された根拠は、なにも『唐六典』や『新唐書』に示された年限規定だけではない。むしろ、井真成の墓誌に示されている次の3点に着目されて、井真成は第9次遣唐使節の「准判官」だったとされている。

@開元22年正月某日、井真成は長安の官第(官舎)で死亡したこと
A井真成に贈尚衣奉御(従5品上)の官が授与されたこと
B死亡して一ヶ月ほどして、萬年県東郊のサン水原に埋葬されたこと

@ 官第(官舎)での死亡が意味すること

■ 韓昇教授は、井真成が長安の官第で死亡したとする墓誌の記述から、彼は唐朝にとって”客”であったと指摘される。唐の時代、長安在住の官人は自宅から通勤するのが通例であり、官舎・官第に住むのは短期滞在の唐朝の客、すなわち外国の使節に限定されていた。阿倍仲麻呂のように井真成も科挙に合格して唐朝に仕える官人だったなら、官第に住むことはなかったはずである。これが、井真成を遣唐使節の一員であると教授が見なされた根拠の一つである。

A井真成に授与されたのは尚衣奉御ではなくて贈尚衣奉御(従5品上)の官

■ 唐朝では、周辺諸国の使節が朝貢してきた場合、慣例として官を授与していたことが唐代の文献から判明している。しかも、韓昇教授によれば、外国人に官を授与する場合、遠路の労を斟酌して本国の官位よりも高い官位を授与することを原則としたとのことだ。これを借位の制度という。例えば、第9次遣唐使の大使・多治比真人広成(たじひのまひとひろなり)の日本での官位は従四位上だった。しかし、入唐時に唐朝が彼に与えた借位はは正四位だったという。その差は4階であり、このため、第九次遣唐使節全員に4階の借位があったと、教授は推定しておられる。

井真成墓誌の釈文
井真成墓誌の釈文
■ 唐朝は井真成に「尚衣奉御」という従5品上の官位を授けている。このことから、井真成の死亡が唐朝に報告され、皇帝に奏聞され、贈官の制に基づいて「尚衣奉御」の官が授けられたと、教授は推測される。そして、このことからも井真成が無官の白丁(公の職を持たない無位無冠の良民の男子)ではなかったことが分かると言われる。単なる留学生が死亡したくらいでは、その死が唐朝に報告され、官位が追贈されることはない。

■ なお、井真成の墓誌にある「詔贈尚衣奉御」を日本では「尚衣奉御を贈るを詔す」と読んでいるが、教授はその読み方は間違いで、正しくは「詔して贈尚衣奉御とす」または「贈尚衣奉御を詔す」であると指摘されている。この場合、井真成に授与された贈官名は「尚衣奉御」ではなく「贈尚衣奉御」になる。

■ 教授は「贈太僕卿」や「贈光禄少卿」など頭に「贈」の付く官名を例としてあげておられる。どうやら教授は、実際の官名と外国人に与える官名を区別するために、「贈」の字を付けて名詞となっていたと指摘されているようだ。しかし、漢文としては動詞として「○○を贈る」と読んでも差し支えないような気がする。教授の指摘が正しいかどうかを判断できる漢文の素養は残念ながら筆者にはない。

B井真成が2月4日に萬年県東郊のサン水原に埋葬された背景

■ 墓誌は井真成が開元22年(734)正月某日に死亡し、葬儀は2月4日に行われたと記す。墓誌の一部が欠けていたため、死亡日を示す一字が欠損になっている。韓昇教授はその日付を「七日」から「十日」と推定される。なぜこのような推定が可能なのかは、次の理由による。

玄宗皇帝
玄宗皇帝
■ 『通典』の鴻臚寺・典客署の規定では、外国使節の3等官以上が唐の領土で死亡した場合、皇帝に奏聞し、葬儀費用は唐朝が負担することになっていた。井真成の死亡が正月6日以前に報告されていれば、贈官の辞令は3日もあれば発給できるが、当時はそれができない事情があった。前年の秋に関中地方が大飢饉に見舞われ、年が明けた正月6日、玄宗皇帝は就食のために洛陽に向けて行幸に出かけてしまった。当時の記録によると、約850里(450キロ)の道程を20日を要して、玄宗皇帝は正月26日に洛陽に到着している。

■ 皇帝が正月6日以前に死亡報告を聞いたのであれば、贈官の辞令は即日にも宰相から発給されたかもしれない。だが、行幸が出発した後では、後を追いかけて皇帝の裁可を得なければならない。さらに、贈官名を記した墓誌の作製にも数日を要す。仮に正月廿日(20日)に死亡したのであれば、洛陽往復の日数を加算すると、とてもではないが2月4日には埋葬できないことになる。したがって、韓昇教授は欠損の一字は玄宗皇帝が行幸に出た後の「七日」から「十日」の間と推定された。

■ 葬儀費用は唐朝が負担することになり、開元22年(734)2月4日の早朝、白土を塗った霊柩車が井真成の棺の載せて長安城を出ると、東に向かった。棺の前には、葬儀用の赤い旗印が掲げられていた。旗には玄武を描き、死者の官職と姓名が白字で記されている。この旗は棺を埋葬するとき、棺の上に置かれるものである。官費で挙行される葬儀だけに、霊柩車の前後には規定された人数の鼓笛隊が続いたことであろう。

■ 葬儀に参加したのは、井真成と共に長安に到着した第9次遣唐使の大使・丹治比広成(たじひのひろなり)、副使の中臣名代(なかとみのなしろ)、その他の姿もあった。それだけではない。17年間唐で生活してきた阿倍仲麻呂や、下道真備、玄ムの姿もあったかもしれない。遣唐使節の一行は、4日後の2月8日には、玄宗皇帝に拝謁するために旅装を整えて洛陽城に向かわなければならなかった。


■ 韓昇教授の推測が正しければ、井真成が従5品上の尚衣奉御を贈官されたことで、生前は従五品下の借位を有し、そこから一階進められたと思われる。さらに、唐での4階の借位の結果として従五位下を名乗っていたのであれば、日本での井真成の官位は従六位下であったことになる。律令制度では遣唐使は4等官(大使、副使、判官、録事)で構成されるのが通例でった。第9次遣唐使では3等官の判官には4名が任命されているが、いずれも正六位以上である。したがって、従六位下の井真成は判官ではなかった。

■ では、井真成は4等官の録事として遣唐使節の一員として任命された官人だったのか。第9次遣唐使では4人の録事が任命されたが、録事は7位官から任命されるのが通例であった。だが、井真成の死が唐朝に報告され贈尚衣奉御の官が授与されたからには、彼は遣唐使録事ではない。なぜなら、唐の規定では唐の領域で3等官以上の外国使節が死亡した場合に限って皇帝に奏聞することになっていた。

■ そこで、韓昇教授は記録にはないが、井真成は第9次遣唐使の判官と録事の中間に置かれた「准判官」ではなかったかと推定された。第9次遣唐使は総勢590名という大型の使節団であり、下部組織を管理するため特別に准判官を置いたと思われる。記録では准判官として大伴宿禰首名の名がある。彼の日本での官位は従七位であり、教授が推定されている井真成の官位の従六位下よりは低い。そこで、井真成は准判官の中では上席の准判官であり、唐朝に対しては、判官に準じる扱いで構成員名簿が提出されたと結論づけられている。

■ このように韓昇教授は井真成の墓誌に示された記述に基づいて、彼が遣唐使の一員の准判官だったと推論された。何も外国人留学生に対する終業年限だけで、長期留学生だったとする日本側研究者に異を唱えられたわけではない。教授の説に反論するには、これらの根拠の矛盾を指摘してはじめて議論がなりたち、井真成の人間像が新しく展開されることになる。

6月18日付け朝日新聞(関東版)夕刊の記事
6月18日付け朝日新聞夕刊(関東版)の記事
■ 韓昇教授の論証には一定の評価をあたえながらも、日本側の研究者からは今まで國學院大學の鈴木靖民教授が「上席准判官のような高級官吏だったなら、日本の史書に該当する人物の名が残っていてよいはずだが、一切伝えられていない」点を指摘された程度だ。今回は奈良大学の東野治之教授から新しく反論が出されたが、新聞記事を読んだかぎりでは残念ながら韓昇教授の論証に対する反論にはなっていないようだ。

■ なお朝日新聞の記事では、”東野治之教授の反論をまとめた”となっている。あるいは韓昇教授の説を論駁された論文を何処かで発表されておられるのかもかもしれない。そうであるなら、是非拝読したいものだ。

■ 余談だが、6月18日付けの朝日新聞夕刊に掲載された記事を、筆者は7月10日に専修大学生田校舎で開催された「遣唐使外交の終演と東アジア・日本」と題する公開講座まで知らなかった。公開講座のレジメと一緒に新聞の切り抜きのコピーを渡され、初めて東野教授が反論しておられるのを知った。

■ だが、同じ新聞記事のコピーを本日橿考研の情報コーナーから入手してみて驚いた。関東版と関西版では、本文は同じでも、見出しの付け方が違うのである。関東版では「井真成は「長期留学生」」というタイトルに、「中国の「短期」説に反論」というサブタイトルが付いていた。だが、関西版のタイトルは「遣唐使「井真成って?」新展開」、サブタイトルは「中国の「滞在期間に制限」説に反論」、「短期留学「交通制度上ムリ」となっている。そのため、本文を読まずにタイトルだけを見ただけの読者には、かなり違った印象を与える。参考までに、関東版に掲載された記事を右に示しておく。




2010/07/15作成 by pancho_de_ohsei return