2010/07/12

神武東征伝承の背景を考える

橿原神宮拝殿
神武天皇が即位したとされる「畝火の白檮原(かしはら)の宮」の跡に建つ橿原神宮

神武東征伝承の終着点で過ごした10年

日香村で亀形石遺跡が発見され一般見学会が催されたのは、2000年の春である。その時飛鳥に来て、現在の賃貸アパートの一室を借りる決心をした。還暦の節目の年を迎えて、これからの余生をどのように生きていこうか考えていた時期だった。その時、歴史上のある人物のことが脳裏に浮かんだ。時間があれば彼の生まれ育った環境を少し調べてみたいと思った。

発掘当時の亀形石遺跡
発掘当時の亀形石遺跡
のためには、明日香村に住んでみるのが一番である。だが、不動産屋にあたっても適当な物件がなかった。たまたま八木駅前の不動産屋が紹介してくれたのが、現在のアパートである。以後、一月おきにアパートに来て、明日香村を散策したり、趣味で近辺の歴史探訪を行なうようになった。

パートは県立橿原考古学研究所に近く、その附属博物館の情報コーナーでは、古代遺跡発掘調査の最新情報がいつでも入手できて便利である。また、橿原神宮や神武天皇陵も近いし、広大な敷地に常緑樹が繁茂する橿原森林遊園は、のんびりと散策するには最適の場所だ。そして、考えてみれば、この場所は『古事記』や『日本書紀』に記された神武東征伝承の終着点でもある。

秋の橿原神宮境内
秋の橿原神宮境内
代天皇のカムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して「畝火の白檮原(かしはら)の宮」で即位したのは、神武紀元元年春の1月1日とされている。明治6年(1873)から西洋のグレゴリオ歴を採用するにあたって、旧暦のその日が新暦の何時に相当するのか計算してみたら、紀元前660年2月11日であることが判明した。そこで明治政府はこの日を祭日(紀元節)と定めた。ちなみに、紀元節は昭和23年(1948)に廃止されたものの、昭和42年(1967)には建国記念の祝日とされ現在に至っている。

者は昭和15年(1940)に北陸の田舎で生まれた。その年は、神武天皇の即位から数えて2600年目にあたる。そのため、昭和15年の11月10日には宮城前広場で内閣主催の「紀元2600年式典」が盛大に開催された。街には奉祝の花電車 が走り、提灯行列や旗行列で盛り上がった。関連行事は11月14日まで5日間繰り広げられ、国民の祝賀ムードは最高潮に達したという。もとよりこうした馬鹿騒ぎは、昭和13年の国家総動員法、昭和14年の大政翼賛会の流れを受け、長引く戦争に国威発揚を目的として国家が企画したイベントだった。

橿原神宮の深田池
橿原神宮の深田池
考までに付け加えると、日本政府は皇紀2600年の祝典曲を世界の主要6カ国に委嘱した。採用されたのは、ドイツの大御所リヒャルト・シュトラウスが作曲した『皇紀2600年奉祝楽曲』である。この曲は、昭和15年12月7日に東京歌舞伎座で初演され、その後関西でも大阪歌舞伎座で演奏された。演奏したのは、ヘルムート・フェルマー指揮の新交響楽団 (現・NHK交響楽団)だった。

らに付け加えると、この年に製造した我が国の戦闘機は、「ゼロ戦(零式戦闘機の略)」と命名された。皇紀2600年の年号にゼロが2つも含まれていたためである。そして、昭和16年製造のものに一式、昭和17年が二式、...と名付けられていった。子供の頃、家にあった奉祝行事の提灯行列や旗行列のアルバムを見せられ、「お前は皇紀2600年の生まれだ」とよく母親から聞かされた。だが、そのことに何の意味があるのかはよく分からなかった。

深田池に群れる鴨と白鳥
深田池に群れる鴨と白鳥
者は戦中生まれだが、中学2年のとき初めて受けた日本史の教科書は、新石器時代から始まっていた。その意味では、戦後教育を受けた世代に入る。戦前なら、当然記紀神話の中の神武東征などが、史実として頭にたたみこまれただろうが、幸か不幸か、そうした教育は受けなかった。皇国史観に毒された先入観念を植え付けられなかったのは幸いだったが、逆に記紀神話の詳細に何も知ることなく育ったのは不幸だったかもしれない。

いうのは、各地の神社巡りをしていて祭神の名前がなかなか覚えられない、あるいは、その神が祀られている背景が今ひとつよく理解できない、といったことがたびたびある。これなど、若い頃から、古代の神々の名前に親しむ機会がなかったせいかもしれない。

深田池の主の白鳥
深田池の主の白鳥
とえば、橿原神宮は神武天皇とその后の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を祀っているが、その后の出自や結婚した経緯などをいちいち記紀を参照しなければならない。こうしたことは古代史を趣味として史跡探訪している筆者のような人間には、すごいハンディキャップのような気がする。

んなわけで、橿原に来るようになって手始めに調べたのが、橿原神宮や神武天皇陵が作られた経緯である。そして知ったのが意外な事実である。

神武天皇陵築造の経緯

近鉄電車の「畝傍御陵前」駅
近鉄電車の「畝傍御陵前」駅
鉄電車の「畝傍御陵前」駅は、神武天皇陵への参拝の便を考えて、大正12年(1923)3月に開業した。今ではすっかり様変わりしてしまったが、以前は駅前通りに面して旅館が軒を並べていた。その駅前通りを西に向かって400mほど歩くと、橿原森林公苑の縁を南北に走る車道との交差点にぶつかる。

差点に立って右手前方を見ると、すぐ近くにフェンスに囲まれた一画があり、フェンスの内側に神武天皇陵の標識が建っている。そこが、正式には畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのみささぎ)と宮内庁が呼んでいる神武天皇陵の墓域の入口である。

神武天皇陵の標識
フェンスの内側にある神武天皇陵の標識
日本書紀』によれば、神武紀元76年春3月11日、神武天皇は127歳で橿原の宮で没した。そして翌年の秋9月12日に、畝傍山の東北の陵に葬ったとされている。『古事記』も似たような記述をしていて、天皇は137歳で没し、畝傍山の北の方の白橿(かし)の尾(お)の上に陵を築いたとある。年齢に10歳の違いはあるが、墓が築かれた場所は、畝傍山の東北または北に位置していたようだ。

72年の壬申の乱の際には、高市県主許梅(たけちのあがたぬし・こめ)が7月7日に神懸かりして、神武天皇陵に馬と種々の兵器を奉れと言ったという。そこで、倭古京(やまとこきょう)の防衛を任された大伴連吹負(おおとものむらじ・ふけい)は、許梅を神武天皇陵に参拝させて、馬と兵器を奉った。この許梅の言葉を載せた『書紀』の記事が、神武天皇の名を記した最初の確実な史料とされている。

神武天皇陵の参道
神武天皇陵の参道
良時代の初めに編纂された『古事記』や『日本書紀』は、いずれも神武天皇の陵のことを記載している。平安時代の927年に編纂された『延喜式』も、その中の「諸陵寮」に陵墓の一覧表を載せていて、天皇陵の位置がほぼ分かっていたようだ。その後は、平安末期から鎌倉、室町、戦国時代と時代が移るにつれ、皇室の権威が失われ、国は乱れ、天皇陵の位置も不明になってしまった。

戸時代の初め頃、徳川幕府は天皇陵を立派にすることで、幕府の権威をより一層高めようとした。元禄時代になると陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われた。その時神武天皇陵に比定されたのが、畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在はその場所が第2代綏靖天皇陵に治定されている)。

末にると、勤王思想が高まり、国内は尊皇攘夷で大きく揺れた。文久2年(1862)1月には、桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺され、8月には横浜で生麦事件が起きている。さらに12月には高杉晋作らがイギリス公使館を襲撃している。こうした風潮の中で、幕府は朝廷対策の一環として天皇陵の補修を決定し、文久3年(1863)から3年をかけて、再び天皇陵の修復を行なった。これを「文久の修陵」という。

3つあった神武天皇陵の候補地
3つあった神武天皇陵の候補地(*)
文久の修陵」を行なうにあたって、元禄時代に比定された福塚(塚山)に異論がだされた。福塚は畝傍山からいかにも遠い上に、山の上ではなく平地に立地している、というのがその理由である。新しい説では、福塚よりも畝傍山に少し近いミサンザイあるいはジブデン(神武田)というところの小さな塚が神武陵に比定された。また、それとは別に、さらに畝傍山に近い丸山に比定する説も出された。

傍山の頂上から見ると、塚山もミサンザイも丸山も東北の方角にあるが、ミサンザイの方が塚山より畝傍山に近い。丸山はさらに近く、しかも畝傍山の北の”尾根”の上にあり、『古事記』に記された所在地にも合致する。そのため丸山説が最有力の説となったが、文久3年(1863年)何故か神武天皇陵の位置はミサンザイに決まった。 

築前のミサンザイ塚は、東西7m、南北7.6m、高さ1.1mの小丘と、直径5.3m、高さ60cmの土饅頭で構成されていた。この古墳とも言い難い小さな墓を、文久の修復では1万5000両を投入して、一町×二町の墳墓に作り替えた。『延喜式』に示された大きさに合わせたわけである。

神武天皇陵のの遙拝所
神武天皇陵の遙拝所

治になると、政府は文久年間に修復された神武陵があまりに貧相であるとして、明治20年から30年ころに墓を六角形の石垣で囲い、その周りに何重もの垣を巡らして、立派なものに作り直した。しかし、円墳ではなかった。古い時代の古墳は円墳であることがわかってきた大正時代には、さらに改良を加えて直径30メートル、高さ2.5メートルの円墳に作り替えた。こうしてできあがったのが、現在の神武天皇陵であり、東西500m、南北400mの広大な領域を占有している。

橿原神宮創建の経緯

橿原神宮の表参道
橿原神宮の表参道
在、神武天皇が即位した宮の跡とされる場所に築かれているのが、橿原神宮である。しかし、『古事記』や『日本書紀』は神武天皇が「畝火の白檮原(かしはら)の宮」で即位したと記すのみであり、明治の中頃までは、その宮跡が特定されることはなかった。ところが、明治22年(1889)になって、明治政府は前述の神武天皇東北(うしとら)陵の考証と並行して、橿原の宮跡を治定するための調査を行ない現在の場所が宮跡に定められた。

時の政府は、明治天皇制を制度的に保証する大日本帝国憲法の制定を準備していた。新しい憲法のもとで国作りに邁進しようとする明治政府にとって、万世一系の象徴ともいうべき初代神武天皇の存在は不可欠である。そのことを具体的に証明するものとして、神武天皇が即位した宮も神武天皇を葬った陵も実在しなければならなかった。そのため、畝火の白檮原の宮の位置をなかば強引と思われるやり方で治定した。この場所に宮が存在したことを示す考古学的な証拠があった訳ではない。

橿原神宮の北参道
橿原神宮の北参道
日本帝国憲法は明治22年(1889)2月に発布された。その年の7月、京都御所の温明殿(賢所)が本殿として、また神嘉殿が拝殿としてそれぞれ下賜された。これらの建物を移して、翌明治23年(1890)3月に神宮の造営が完成した。当時の神域はそれほど広大ではなかった。そこで、明治45年(1912)に橿原神宮講社が設立され、広く浄財を集めて境域の拡張や神宮施設の整備が行われた。

橿原神宮の南門
橿原神宮の南門
らに、昭和13年(1938)から15年(1940)にかけて、皇紀2600年記念事業として第二次神域整備拡充が行われた。その結果、境域は約15万坪になり、付属建築も約1800坪に拡大された。またそれまでの拝殿を神楽殿として移建し、現在の外拝殿が新たに建築された。こうした整備事業は軍国主義の高揚が目的だった。全国から延べ120万の国民が労力奉仕に参加し、8万本もの樹木が献納されたという。

橿原神宮の境内
橿原神宮の境内

まり、神武天皇陵にしても橿原神宮にしても、史的事実に基づいて整備されてきた歴史的遺産ではない。戦前の政府が国威発揚という次元の違う目的で作り上げられたモニュメントにすぎない。そのことが分かってしまうと、神武天皇陵の遙拝所や橿原神宮の拝殿で、すなおに合掌する気にはなれなくなった。

の反動として、我が国の成り立ちについてもう一度自分なりに勉強してみたいという気になった。わさわざ橿原まで出かけてきて史跡探訪にはまっているのは、実はそうした好奇心のためである。しかし、まとまったことを何も勉強できないうちに10年という歳月が流れ去った。



神武東征伝承とその矛盾

武東征とは、一口で言えば、初代天皇のカムヤマトイワレビコ(神日本磐余彦、後の神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話である。『古事記』にも『日本書紀』にも大同小異の説話が掲載されている。第二次世界大戦で敗戦するまでの日本人は、その内容が史実であると教えられてきた。『日本書紀』に記された神武東征伝承を要約すれば、次のようになる。


月岡芳年が描いた神武天皇
月岡芳年が描いた神武天皇
ワレビコが45歳のとき、潮路に詳しい塩土老翁(シオツチノオジ)から次のような話を聞かされた。
「四方を青垣の山々に囲まれた良い土地が、東にある。その土地は広く、統治しやすく、天下を臨むにふさわしい」
そこで、イワレビコは兄弟たちと図り、そこに東遷して都にする決心をした。そして、イワレビコみずから、皇子たちと水軍を率いて日向の国を出発し東征の途についた。時に、神武紀元前7年だったという。

中、豊後の宇佐や北九州の筑後に立ち寄り、その年の暮れにイワレビコの軍は安芸の国に到着した。そこで3年留まり、船をととのえ武具と食糧をたくわえて、神武紀元前3年の春2月11日、東に向かった。

行が難波に到着すると、淀川を遡り、河内の国の草香村の白肩の津に停泊した。この地方には豪族のナガスネヒコ(長髄彦)がいた。ナガスネヒコの軍は孔舎衛(くさえ)の坂で待ち伏せして、イワレビコの軍をおおいに破った。このとき、兄のイツセ(五瀬)がナガスネヒコの放った矢に当たり深い傷を負った。

ツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門(おのみなと)に着いた所で亡くなってしまった。

ワレビコの軍は熊野に上陸すると、地元の荒ぶる神や土着の豪族にさんざん悩まされるが、天から下された太刀やヤタガラス(八咫烏)の土地案内の助力を得て、宇陀のエウカシ(宇迦斯)や忍坂の土雲のヤソタケル(八十建)を滅ぼし、その後にナガスネヒコと戦った。

ニギハヤヒのミコト
物部氏の始祖
ニギハヤヒのミコト
の時、イワレビコよりも先にこの地に降臨していたニギハヤヒ(饒速日)がナガスネヒコを斬ってイワレビコに恭順した。こうして大和の荒ぶる神たちを服従させたイワレビコは、コトシロヌシ(事代主)とタマクシヒメ(玉櫛媛)の間に生まれたヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)を皇后に迎え、神武紀元元年春の1月1日に「畝火の白檮原(かしはら)の宮」で初代神武天皇として即位した。

武紀元2年2月2日、即位した神武天皇は論功行賞を行なった。神武紀元42年の正月3日には皇子のカムヌナカワミミ(神淳名河耳)を皇太子に立てた。そして、神武紀元76年春3月11日、橿原の宮で没した。時に、127歳だったという。翌年の9月12日、神武天皇は畝傍山の東北の陵に埋葬された。


の神武東征伝承には、さまざまな矛盾がある。思いつくままに列挙してみよう。

 1.神武天皇の即位時期

ワレビコが神武天皇として即位したのは、神武紀元元年とされている。この年は、西暦に換算すれば、紀元前660年にあたる。我が国の考古学では、この時期は古くは縄文時代晩期とされていた。最近の考古学の年代観でも弥生時代前期とされている。現在(2010年)からは2670年も以前のことであり、部族国家も成立していないに時代に、大規模な東征があり橿原の地に天皇家の始祖が王宮を定めたとは、現代人の常識からはとても考えられない。

 2.神武天皇の年齢

に、神武天皇の年齢である。在位76年で没した時、『日本書紀』では127歳、古事記』では137歳だったとされている。医学が発達し食糧事情が良くなった現在でも、そんな長生きできる日本人などいない。そのため、現在の一年が上古代では二年として数えられた“二倍年暦”を主張する専門家がいるが、十分な根拠はない。

 3.東征の出発地点

神武天皇軍の東征経
神武天皇軍の東征経路(*)
所の問題もある。イワレビコが皇子たちと水軍を率いて東征の途についたのは日向の国とされている。日向の国といえば現在の宮崎県である。国生み神話では熊襲(くまそ)族が住んでいた未開の土地であり、とてもではないが天孫族が盤踞していたとは思えない。

 4.不明瞭な東征の目的

征の目的もよく分からない。塩土老翁(シオツチノオジ)から東に広くて統治に適した土地があると聞いて、イワレビコは東征を決意したことになっている。しかし、そんな単純な理由で、現在住んでいる土地を捨てて集団で新しい土地への移住を決意するだろうか。しかも、橿原の地を王都と定めるまでに7年を要したという。当然のことながら、兵士だけを引き連れた船団による移動だったとも思えない。女、子供も引き連れた氏族単位としての移動だったはずだが、伝説からはそうした遠征の苦労は見えてこない。

 5.神武天皇は実在の人物か

して、最大の謎は、イワレビコは果たして実在の人物だったのか、どうかである。九州にあった勢力が長年をかけて大和地方に侵略した歴史を一人の人間に仮託して聖戦としてまとめ上げたにすぎないのではないか、とする説がある。

 6.ヤマトはすでに天孫が降臨していた土地

の疑問もる。天孫ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)が日向の高千穂峰の降臨する以前に、その兄のニギハヤヒノミコト(饒速日尊)が、アマテラスオオミカミ(天照大御神)から10種の神宝をさずかり、三十二人の伴緒(とものお)を率いて、天磐船(あめのいわふね)で河内の哮峰(いかるがのみね)に天下ったとされている。すなわち、大和地方はすでに皇孫が正当に支配している地域だった。ニギハヤヒはそのことを知りながら、あえて長駆の遠征の果てに征服戦を挑んだことになる。天皇家の万世一系を標榜する記紀神話としては、これは矛盾する内容になっているのではないか。


のような矛盾があるにも拘わらず、戦前の歴史教育では神武東征は歴史的事実として国民に教え込んできた。もちろん神武東征伝承は史実ではないと批判した津田左右吉のような歴史学者もいた。だが、徹底的な弾圧を受け、研究論文の発表も禁止された。戦後、神武東征伝承に対する評価は逆転した。皇国史観から解放され津田学説を信奉する歴史学者たちは、この伝説が記紀の編纂者が奈良時代の初めにでっち上げた創作にすぎないと、一顧だにしなくなった。

深田池の睡蓮
深田池の睡蓮
かし、記紀神話が、ある目的のために記紀の編纂者によって作られた机上の創作と言い切れるのだろうか。何らかの過去の事実を反映している可能性はないのだろうか。 人間は誰しも自分たちのルーツを知りたいという願望をもっている。そうした根元的な願望を満たすために、文字のない時代から人々は、世界が現在の形をなす前の過去の出来事を物語として長い間口承してきた。人類が文字を持つようになって、そうした口承を紙という記録媒体に書き残した。それが神話であろう。

名な話がある。ドイツの考古学者ハインリッヒ・シュリーマンは、紀元前8世紀末のギリシャの吟遊詩人ホメーロスが書いた『イーリアス』を幼少のころに読んで感動し、トロイア発掘を志した。『イーリアス』はギリシア神話上のトロイア戦争を題材にした叙事詩である。当時の人々は神話の世界の出来事など歴史的事実ではないと、シュリーマンの努力をあざ笑った。だが、1873年、長らく伝説上の古代都市とされてきたイーリオスの遺跡をシュリーマンが発見し、ホメーロスが書き残したトロイヤ戦争が歴史上の事実だったことを明らかにした。

橿原公苑の中の遊歩道
橿原公苑の中の遊歩道
者は記紀に記された日本の神話がまったく架空の物語だったとは思っていない。その物語の背後には、何らかの歴史的事実があり、それが神話として語られてきたと推測している。すくなくとも、何らかの歴史的事実の断片は反映していると思う。したがって、我が国の成り立ちを考えるとき、記紀神話は重要な研究対象であり、現代の考古学的知見だけでは、日本国家の成立が究明できるとは思っていない。

うした意味から、神武東征伝承は筆者の重要な関心事である。皇国史観などという色眼鏡を排してみれば、この伝説は、後の大和政権の礎を築いたのは、九州から移り住んだ集団だったことを物語っているように思われる。



邪馬台国東遷説と神武東征伝承

魏志倭人伝の書き出し
魏志倭人伝の書き出し
国の歴史家・陳寿(ちんじゅ、233年 - 297年)が3世紀末に編纂した正史『三国志』の中の魏書東夷伝倭人条は、現在「魏志倭人伝」と通称されている。そこには、全文で2000文字で当時の倭国の様子と倭国を束ねる邪馬台国までの行程が記されている。だが、その行程記述が現実と合わず、我が国の歴史学界では邪馬台国の所在地について長い間論争を続けてきた。いまだに決着をみていない。

が国の国家としての成り立ちを考えるとき、邪馬台国の存在は重要である。魏志倭人伝は、邪馬台国とほぼ同時代に編纂された。その中で、邪馬台国の女王・卑弥呼が帯方郡を介して魏の王都・洛陽に景初3年(239)親善使節を派遣してきたと記している。その意味するところは大きい。3世紀の前半から後半にかけて、邪馬台国は間違いなく日本列島の中で存在した国である。しかも、30国余りからなる倭国連合の盟主であった。

たして邪馬台国は何処に存在し、その後どうなったのか。従来から、邪馬台国の所在に関する代表的な説として、九州説と畿内説がある。いずれの説を採用するかで、我が国の国家としての成り立ちが大きく変わってくる。邪馬台国畿内説では、弥生時代後期に現在の桜井市纒向地方に存在した邪馬台国が発展して大和王権を作り、全国的な国家統一を図ったことになる。だが、邪馬台国九州説を採れば、弥生時代後期に北九州にあった勢力が東遷して大和に入り大和王権を築き上げたことになる。

京都府椿井大塚山古墳出土の三角縁神獣鏡
京都府椿井大塚山古墳出土の
三角縁神獣鏡
馬台国畿内説のキーワードは2つある。三角縁神獣鏡と前方後円墳だ。魏志倭人伝は卑弥呼が遣使してきたとき銅鏡100枚を下賜したと記す。卑弥呼は権威の象徴、服属の証としてこれらの鏡を地方の豪族に分かち与えた、とされてきた。だが、三角縁神獣鏡を根拠とする邪馬台国畿内説はすでに破綻している。

墳から出土した三角縁神獣鏡の枚数は、2010年545枚に達し、卑弥呼に下賜された100枚を大幅に上回っているのだ。この矛盾に対して、論者は邪馬台国からの遣使は、景初3年(239)だけではなく、その後も数回派遣されていて、その都度三角縁神獣鏡が下賜されていれば、枚数は100枚を超えて当然だと反論する。確かに、卑弥呼は正始4年(243年)や正始8年(247年) にも使節を派遣している。また卑弥呼の後を継いだ壹與(いよ)も国内争乱の後に魏に使節を派遣しているし、晋書には泰始元年(265年)に 倭の使節が重ねて入貢したことを伝えている。

かし、三角縁神獣鏡には別の問題がある。まず、三角縁という特殊な形態の鏡は中国本土から一枚も出土していないのだ。現代中国を代表する考古学者の王仲殊(おうちゅうしゅ)氏や徐苹芳(じょへいほう)氏によってその事実が確認されている。したがって、三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏からもらった鏡ではなく、国産品ということになる。

に、三角縁神獣鏡は、布留式土器を伴うため確実に3世紀に築造されたとされる墓からの出土例はない。出土するのは、いずれも紀元300年以降に築かれた古墳からである。以前は、その理由として、鏡を権威の象徴として受け取った被葬者と共には埋葬されず、その子孫に何世代か伝世された後に古墳に納められたと説明されてきた。しかし、これは遁辞だ。三角縁神獣鏡以外の魏晋鏡は300年以前の北九州の墓からは数多く見つかっている。

箸墓古墳
箸墓古墳
うしたことで、三角縁神獣鏡が邪馬台国畿内説の根拠にならないことが明らかになってくると、それに代わって登場してきたのが前方後円墳を根拠とする説である。前方後円墳というのは、我が国独自の墳丘形態であるが、この形式が倭国連合の象徴として考案され、そして最初に採用されたのが卑弥呼の墓とされる箸墓古墳だというのだ。従来、箸墓古墳の築造時期は3世紀末から4世紀初頭とされてきたが、周辺部での発掘調査によって、墳丘の裾の幅10メートルの周濠の底から布留0式(ふるぜろしき)土器が出土し、古墳時代前期初頭の築造であることが確定した。しかし、築造時期は3世紀中頃、3世紀中葉過ぎ、3世紀後半の第4四半期と研究者によって異同がある。

馬台国畿内説と違って、九州説には多くの比定地があり、ほとんど九州全土に点在すると言って良い。しかし、最近では北部九州にあったとする説が有力である。代表的な説としては、古田武彦氏の博多湾岸説、安本美典氏の甘木・朝倉説、奥野正男氏の吉野ヶ里説などが興味深い。

部九州ななんと言って大陸や朝鮮半島に近く、その文化的影響を受けやすいことは誰の目にも明らかである。建武中元2年(57年)に後漢の光武帝に遣使して金印を授与された奴国は北部九州に実在した国である。永初元年(107年)、後漢の安帝に生口160人を献じて謁見を請うた倭国王帥升もおそらく北九州の国王だったであろう。こうした弥生時代の大陸との通交の歴史の延長上に邪馬台国を考えるならば、その所在はやはり北九州でなければならない。

「10種の魏晋鏡」の数
卑弥呼が貰った可能性が大きい「10種の魏晋鏡」の数(*)
本美典氏の研究によれば、魏志倭人伝に記されている事物で、考古学的に検証できるものは全て福岡県のほうが奈良県よりも何倍も多く出土している。例えば、西暦300年以前の遺物を比較してみても、鉄鏃(てつぞく)の出土数は、福岡県が398個に対し奈良県は僅かに4個、鉄刀は福岡県が17本に対し奈良県は0本、その他の鉄剣、鉄矛、鉄戈といった鉄製武具も福岡県では多数出土しているが、奈良県ではほとんどゼロである。こうした考古学的知見から、奥野正男氏は九州北部は畿内よりも一段階早く鉄器社会に入ったことを指摘されている。

た、魏(220 - 265)および西晋(265 - 316)の時代に作られたとされる10種類の銅鏡で比較しても、福岡県では37面も出土しているのに、奈良県ではわずかに2面のみである。その中には三角縁神獣鏡は含まれていない。三角縁神獣鏡が出土するのは、ほぼ西暦300年以後に造られた古墳からで、出土数は福岡県で49面、奈良県で100面と、この段階に至って両県での立場が逆転する。

aaaaa
平原(ひらばる)遺跡出土の内行花文鏡
国の考古学者・徐苹芳も「考古学的には、魏および西晋の時代に中国の北方で流行した銅鏡は、方格規矩鏡、内行花文鏡、獣首鏡、■(さ)鳳鏡、盤竜鏡、双頭竜鳳文鏡、位至三公鏡、鳥文鏡などである」と述べておられる。これらの鏡は、安本氏の言う「10種の魏晋鏡」に含まれる。つまり、魏帝から卑弥呼に下賜されたのは、当時洛陽で入手できたこれらの後漢鏡であったことになる。

本氏は、数理文献学という独自の手法に基づいて日本古代史を研究し、30数年来「邪馬台国=甘木・朝倉説」および「大和への東遷説」を主張してこられた特異な日本史研究家である。さまざまな異論はあるが、安本氏の推論は素人に分かりやすく、特に統計的手法を用いた古代天皇の在位期間の推定は、従来の一年2歳論よりも説得力がある。

本氏は、在位期間が明確な古代天皇のうち、30代敏達天皇から42代文武天皇までの在位数の平均が10.2年であることに着目され、それ以前の天皇の在位期間はこれより若干短い「一代=平均十年」が妥当であろうとされた。そして「宋書」で在位時点がはっきりしている21代雄略天皇の西暦478年を起点にして、雄略天皇より20代前の神武天皇の活動時期は、200年前の西暦278年頃と算定された。

斎庭(ゆにわ)の稲穂
今野可啓作「斎庭(ゆにわ)の稲穂」
(天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に稲穂を渡す天照大御神)
本説のさらに特異なのは、神武天皇から5代前の天照大御神の活動年代は228年頃となることから、記紀神話の天照大御神は卑弥呼であり、高天原は邪馬台国の投影であるとされている点だ。もし安本説が正しいならば、神武天皇は邪馬台国の女帝・壹與の後を継いだ男性ということになり、3世紀の末には彼の率いた軍団が東征の旅に出たことになる。そして大和地方を平定した後、拠点を北九州から大和に移し、それが古墳時代の幕開けを告げる初期ヤマト政権を打ち立てたとも言える。

古学的に見ても、大和を中心とする銅鐸文化圏の突然の消滅や、弥生後期に近畿とその周辺に築かれた高地性集落など、邪馬台国が東に移動して大和王権を築いたことを伺わせる傍証はある。また、東アジアは3世紀末から4世紀の初めにかけて激動の時代に入る。大陸では西晋の国家権力が衰え、華北は五胡十六国の時代を迎える。朝鮮半島でも高句麗が南下し、公孫氏の勢力下にあった楽浪郡や帯方郡を313年に滅ぼしている。それを契機に、朝鮮半島南部では、百済や新羅が誕生する。そうした歴史的な動きに連動して、邪馬台国がその拠点を東に移したことは、可能性としてあり得る。

唐古・鍵遺跡の大環濠集落復元イメージ
唐古・鍵遺跡の大環濠集落復元イメージ
良盆地では、弥生時代を代表する集落遺跡として、唐古・鍵遺跡と坪井・大福遺跡がある。唐古・鍵遺跡では、弥生時代前期に最初の3つの集落は出現し、中期になるとこれらの集落は一つに統合され周囲に大環濠が築かれた。しかし、中期後半には洪水で周濠がいったん埋没してしまう。弥生時代後期には、埋没した周濠を掘り起こしてムラが再建されるが、集落の規模は徐々に縮小していったとのことだ。橿原市から桜井市にまたがる坪井・大福遺跡も弥生時代前期から後期まで継続する国内屈指の弥生時代集落跡および墓域である。集落は直径約400mの大環濠でかこまれ、その外側に3〜5条の多重環濠がめぐらされていた。だが、その最盛期は弥生中期頃だったとされている。

纒向遺跡の範囲
纒向遺跡の範囲
近では桜井市の纒向遺跡が、邪馬台国畿内説を立証する遺跡として注目を浴びている。しかし、この遺跡からは、弥生時代の集落は見つかって居らず、3世紀前半の遺構も少ない。纒向遺跡が最盛期を迎えるのは3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてであるという。こうした発掘成果から、後の初期ヤマト政権の核となる政治勢力が纒向の地で生まれ、そして成長したと断定するには、いささか抵抗を感じさせる。だが、神武東征が歴史的事実だったと仮定した場合、邪馬台国が北九州からこの地に遷ってきた頃と時代的にうまく合致する。

のように「邪馬台国東遷説」に立てば、邪馬台国問題も大和王権成立に関する基本的な問題も、ほとんど解決するように思える。だが、戦後の考古学界は『古事記』や『日本書紀』の史料としての価値をほとんど無視して、出土遺物を合理的に解釈することでなんとかつじつまを合わせようとしている。そうした姿勢を貫く限り、国家成立の謎はいつまでたっても霧が晴れてくれないのではないか。



(*) 安本美典著『大和朝廷の起源』より転記


2010/07/13作成 by pancho_de_ohsei return