神武東征伝承の終着点で過ごした10年
明日香村で亀形石遺跡が発見され一般見学会が催されたのは、2000年の春である。その時飛鳥に来て、現在の賃貸アパートの一室を借りる決心をした。還暦の節目の年を迎えて、これからの余生をどのように生きていこうか考えていた時期だった。その時、歴史上のある人物のことが脳裏に浮かんだ。時間があれば彼の生まれ育った環境を少し調べてみたいと思った。
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| 発掘当時の亀形石遺跡 |
そのためには、明日香村に住んでみるのが一番である。だが、不動産屋にあたっても適当な物件がなかった。たまたま八木駅前の不動産屋が紹介してくれたのが、現在のアパートである。以後、一月おきにアパートに来て、明日香村を散策したり、趣味で近辺の歴史探訪を行なうようになった。
アパートは県立橿原考古学研究所に近く、その附属博物館の情報コーナーでは、古代遺跡発掘調査の最新情報がいつでも入手できて便利である。また、橿原神宮や神武天皇陵も近いし、広大な敷地に常緑樹が繁茂する橿原森林遊園は、のんびりと散策するには最適の場所だ。そして、考えてみれば、この場所は『古事記』や『日本書紀』に記された神武東征伝承の終着点でもある。
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| 秋の橿原神宮境内 |
初代天皇のカムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して「畝火の白檮原(かしはら)の宮」で即位したのは、神武紀元元年春の1月1日とされている。明治6年(1873)から西洋のグレゴリオ歴を採用するにあたって、旧暦のその日が新暦の何時に相当するのか計算してみたら、紀元前660年2月11日であることが判明した。そこで明治政府はこの日を祭日(紀元節)と定めた。ちなみに、紀元節は昭和23年(1948)に廃止されたものの、昭和42年(1967)には建国記念の祝日とされ現在に至っている。
筆者は昭和15年(1940)に北陸の田舎で生まれた。その年は、神武天皇の即位から数えて2600年目にあたる。そのため、昭和15年の11月10日には宮城前広場で内閣主催の「紀元2600年式典」が盛大に開催された。街には奉祝の花電車 が走り、提灯行列や旗行列で盛り上がった。関連行事は11月14日まで5日間繰り広げられ、国民の祝賀ムードは最高潮に達したという。もとよりこうした馬鹿騒ぎは、昭和13年の国家総動員法、昭和14年の大政翼賛会の流れを受け、長引く戦争に国威発揚を目的として国家が企画したイベントだった。
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| 橿原神宮の深田池 |
参考までに付け加えると、日本政府は皇紀2600年の祝典曲を世界の主要6カ国に委嘱した。採用されたのは、ドイツの大御所リヒャルト・シュトラウスが作曲した『皇紀2600年奉祝楽曲』である。この曲は、昭和15年12月7日に東京歌舞伎座で初演され、その後関西でも大阪歌舞伎座で演奏された。演奏したのは、ヘルムート・フェルマー指揮の新交響楽団 (現・NHK交響楽団)だった。
さらに付け加えると、この年に製造した我が国の戦闘機は、「ゼロ戦(零式戦闘機の略)」と命名された。皇紀2600年の年号にゼロが2つも含まれていたためである。そして、昭和16年製造のものに一式、昭和17年が二式、...と名付けられていった。子供の頃、家にあった奉祝行事の提灯行列や旗行列のアルバムを見せられ、「お前は皇紀2600年の生まれだ」とよく母親から聞かされた。だが、そのことに何の意味があるのかはよく分からなかった。
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| 深田池に群れる鴨と白鳥 |
筆者は戦中生まれだが、中学2年のとき初めて受けた日本史の教科書は、新石器時代から始まっていた。その意味では、戦後教育を受けた世代に入る。戦前なら、当然記紀神話の中の神武東征などが、史実として頭にたたみこまれただろうが、幸か不幸か、そうした教育は受けなかった。皇国史観に毒された先入観念を植え付けられなかったのは幸いだったが、逆に記紀神話の詳細に何も知ることなく育ったのは不幸だったかもしれない。
というのは、各地の神社巡りをしていて祭神の名前がなかなか覚えられない、あるいは、その神が祀られている背景が今ひとつよく理解できない、といったことがたびたびある。これなど、若い頃から、古代の神々の名前に親しむ機会がなかったせいかもしれない。
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| 深田池の主の白鳥 |
たとえば、橿原神宮は神武天皇とその后の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を祀っているが、その后の出自や結婚した経緯などをいちいち記紀を参照しなければならない。こうしたことは古代史を趣味として史跡探訪している筆者のような人間には、すごいハンディキャップのような気がする。
そんなわけで、橿原に来るようになって手始めに調べたのが、橿原神宮や神武天皇陵が作られた経緯である。そして知ったのが意外な事実である。
神武天皇陵築造の経緯
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| 近鉄電車の「畝傍御陵前」駅 |
近鉄電車の「畝傍御陵前」駅は、神武天皇陵への参拝の便を考えて、大正12年(1923)3月に開業した。今ではすっかり様変わりしてしまったが、以前は駅前通りに面して旅館が軒を並べていた。その駅前通りを西に向かって400mほど歩くと、橿原森林公苑の縁を南北に走る車道との交差点にぶつかる。
交差点に立って右手前方を見ると、すぐ近くにフェンスに囲まれた一画があり、フェンスの内側に神武天皇陵の標識が建っている。そこが、正式には畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのみささぎ)と宮内庁が呼んでいる神武天皇陵の墓域の入口である。
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| フェンスの内側にある神武天皇陵の標識 |
『日本書紀』によれば、神武紀元76年春3月11日、神武天皇は127歳で橿原の宮で没した。そして翌年の秋9月12日に、畝傍山の東北の陵に葬ったとされている。『古事記』も似たような記述をしていて、天皇は137歳で没し、畝傍山の北の方の白橿(かし)の尾(お)の上に陵を築いたとある。年齢に10歳の違いはあるが、墓が築かれた場所は、畝傍山の東北または北に位置していたようだ。
672年の壬申の乱の際には、高市県主許梅(たけちのあがたぬし・こめ)が7月7日に神懸かりして、神武天皇陵に馬と種々の兵器を奉れと言ったという。そこで、倭古京(やまとこきょう)の防衛を任された大伴連吹負(おおとものむらじ・ふけい)は、許梅を神武天皇陵に参拝させて、馬と兵器を奉った。この許梅の言葉を載せた『書紀』の記事が、神武天皇の名を記した最初の確実な史料とされている。
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| 神武天皇陵の参道 |
奈良時代の初めに編纂された『古事記』や『日本書紀』は、いずれも神武天皇の陵のことを記載している。平安時代の927年に編纂された『延喜式』も、その中の「諸陵寮」に陵墓の一覧表を載せていて、天皇陵の位置がほぼ分かっていたようだ。その後は、平安末期から鎌倉、室町、戦国時代と時代が移るにつれ、皇室の権威が失われ、国は乱れ、天皇陵の位置も不明になってしまった。
江戸時代の初め頃、徳川幕府は天皇陵を立派にすることで、幕府の権威をより一層高めようとした。元禄時代になると陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われた。その時神武天皇陵に比定されたのが、畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在はその場所が第2代綏靖天皇陵に治定されている)。
幕末にると、勤王思想が高まり、国内は尊皇攘夷で大きく揺れた。文久2年(1862)1月には、桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺され、8月には横浜で生麦事件が起きている。さらに12月には高杉晋作らがイギリス公使館を襲撃している。こうした風潮の中で、幕府は朝廷対策の一環として天皇陵の補修を決定し、文久3年(1863)から3年をかけて、再び天皇陵の修復を行なった。これを「文久の修陵」という。
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| 3つあった神武天皇陵の候補地(*) |
「文久の修陵」を行なうにあたって、元禄時代に比定された福塚(塚山)に異論がだされた。福塚は畝傍山からいかにも遠い上に、山の上ではなく平地に立地している、というのがその理由である。新しい説では、福塚よりも畝傍山に少し近いミサンザイあるいはジブデン(神武田)というところの小さな塚が神武陵に比定された。また、それとは別に、さらに畝傍山に近い丸山に比定する説も出された。
畝傍山の頂上から見ると、塚山もミサンザイも丸山も東北の方角にあるが、ミサンザイの方が塚山より畝傍山に近い。丸山はさらに近く、しかも畝傍山の北の”尾根”の上にあり、『古事記』に記された所在地にも合致する。そのため丸山説が最有力の説となったが、文久3年(1863年)何故か神武天皇陵の位置はミサンザイに決まった。
修築前のミサンザイ塚は、東西7m、南北7.6m、高さ1.1mの小丘と、直径5.3m、高さ60cmの土饅頭で構成されていた。この古墳とも言い難い小さな墓を、文久の修復では1万5000両を投入して、一町×二町の墳墓に作り替えた。『延喜式』に示された大きさに合わせたわけである。
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| 神武天皇陵の遙拝所 |
明治になると、政府は文久年間に修復された神武陵があまりに貧相であるとして、明治20年から30年ころに墓を六角形の石垣で囲い、その周りに何重もの垣を巡らして、立派なものに作り直した。しかし、円墳ではなかった。古い時代の古墳は円墳であることがわかってきた大正時代には、さらに改良を加えて直径30メートル、高さ2.5メートルの円墳に作り替えた。こうしてできあがったのが、現在の神武天皇陵であり、東西500m、南北400mの広大な領域を占有している。
橿原神宮創建の経緯
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| 橿原神宮の表参道 |
現在、神武天皇が即位した宮の跡とされる場所に築かれているのが、橿原神宮である。しかし、『古事記』や『日本書紀』は神武天皇が「畝火の白檮原(かしはら)の宮」で即位したと記すのみであり、明治の中頃までは、その宮跡が特定されることはなかった。ところが、明治22年(1889)になって、明治政府は前述の神武天皇東北(うしとら)陵の考証と並行して、橿原の宮跡を治定するための調査を行ない現在の場所が宮跡に定められた。
当時の政府は、明治天皇制を制度的に保証する大日本帝国憲法の制定を準備していた。新しい憲法のもとで国作りに邁進しようとする明治政府にとって、万世一系の象徴ともいうべき初代神武天皇の存在は不可欠である。そのことを具体的に証明するものとして、神武天皇が即位した宮も神武天皇を葬った陵も実在しなければならなかった。そのため、畝火の白檮原の宮の位置をなかば強引と思われるやり方で治定した。この場所に宮が存在したことを示す考古学的な証拠があった訳ではない。
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| 橿原神宮の北参道 |
大日本帝国憲法は明治22年(1889)2月に発布された。その年の7月、京都御所の温明殿(賢所)が本殿として、また神嘉殿が拝殿としてそれぞれ下賜された。これらの建物を移して、翌明治23年(1890)3月に神宮の造営が完成した。当時の神域はそれほど広大ではなかった。そこで、明治45年(1912)に橿原神宮講社が設立され、広く浄財を集めて境域の拡張や神宮施設の整備が行われた。
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| 橿原神宮の南門 |
さらに、昭和13年(1938)から15年(1940)にかけて、皇紀2600年記念事業として第二次神域整備拡充が行われた。その結果、境域は約15万坪になり、付属建築も約1800坪に拡大された。またそれまでの拝殿を神楽殿として移建し、現在の外拝殿が新たに建築された。こうした整備事業は軍国主義の高揚が目的だった。全国から延べ120万の国民が労力奉仕に参加し、8万本もの樹木が献納されたという。
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| 橿原神宮の境内 |
つまり、神武天皇陵にしても橿原神宮にしても、史的事実に基づいて整備されてきた歴史的遺産ではない。戦前の政府が国威発揚という次元の違う目的で作り上げられたモニュメントにすぎない。そのことが分かってしまうと、神武天皇陵の遙拝所や橿原神宮の拝殿で、すなおに合掌する気にはなれなくなった。
その反動として、我が国の成り立ちについてもう一度自分なりに勉強してみたいという気になった。わさわざ橿原まで出かけてきて史跡探訪にはまっているのは、実はそうした好奇心のためである。しかし、まとまったことを何も勉強できないうちに10年という歳月が流れ去った。
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