続報が伝える石板発見の経緯
本日の朝日新聞の朝刊は、昨日の夕刊の石板発見記事の続報として、石板発見のいきさつを文化面に載せていた。朝日新聞も粋な計らいをするものである。
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| 石板が見つかった法王寺(*) |
記事の内容を要約すると、次のようになる。法王寺は中国でも最も古いとされる寺の一つだが、10年ほど前に唐代の塔が盗掘の被害にあった。地面が掘り起こされ、石板などが多数出土した状態で放置されていたという。その後、堂の周りの塀を修理したとき、飾りとしてそれらの石板をはめ込んだ。問題の石板は塀の門の入口から右側2番目の上段にはめ込まれていた。
その石板に刻まれた文章を読んだ僧の一人が、「円仁」と記された人物に興味を持った。調べてみても、唐代の中国僧には円仁と名乗る該当者は見あたらない。その僧が今年の1月、栃木県の岩舟町にある大慈寺を訪ねてきて、林慶仁住職に円仁の説明を求めたという。大慈寺は栃木県生まれの円仁が9歳のとき仏道修行を始めた寺であり、15歳のとき比叡山に登って最澄の弟子になるまで少年期をこの寺で過ごした。法王寺の僧がどの様にして、円仁ゆかりのこの寺にたどり着いたのかは、新聞記事は伝えていない。あるいは大慈寺が円仁の縁で西安市の大興善寺と交流があり、2005年6月に、高さ約180cmの円仁座像を大興善寺に奉納したことを知っていたのかもしれない。
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| 石板がはめ込まれていた塀付近の門(*) |
来訪を受けた林住職は驚いて、國學院大學の栃木短期大学で日本史の教鞭をとる酒寄雅志(さかよりまさし)教授に相談した。酒寄教授は早速研究を開始し、書家の飯島太千雄(いいじまたちお)氏からは、書道史の見地から石板に刻まれた文体は「唐代の楷書として疑問はない」との評価を得た。また文体についても、明治大学の気賀沢保規(けがさわやすのり)教授から「日本人の書いた漢文特有の雰囲気」があるとの指摘を受けた。だが、発見の経緯が今ひとつ分からない。そこで、國學院大學の鈴木靖民(すずきやすたみ)教授や洛陽理工学院大の宇都宮美生(うつのみやみお)副教授とともに、今月現地に飛んで調査された。
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| 石板から取った拓本(*) |
その結果、上記のような発見の経緯を確認し、石板の左端の2行に「円仁」「大唐会昌五年」と刻まれているのも確かめられた。そのうえで、酒寄教授は「廃仏の嵐の中、寺の宝の舎利を地中に隠すことになり、事情を記す文を円仁が求められて書いたのでは・・・」と推測されているとのことだ。
想像するに、円仁の一行が 東都洛陽に6月1日に到着して2泊したとすれば、鄭州に向かう途中で6月5日か6日には法王寺に立ち寄っているはずである。そこで、円仁は寺僧たちが寺の宝である仏舎利を地中に隠そうとしている現場に行き会わせた。寺僧たちは、作業を手伝ってくれた身長5尺7寸(約172cm)という当時としては大柄な体躯の持ち主が、海東の島国の比叡山延暦寺という天台宗の高僧と知って、仏舎利を地中に隠すに至った事情を記す一文を依頼したのであろう。
円仁は快くその依頼を受け入れて一文を書き上げた。それが、後日石板に刻み込まれ、塔の壁にはめ込まれていたのであろう。新聞紙上には石板からとった拓本の写真が掲載されていたが、残念ながらその内容については触れていない。酒寄教授による現地調査報告会が今月16日の午後4時半から渋谷区にある國學院大學の若木タワーで開かれる。あるいはその報告会で明らかにされるかもしれない。
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| 慈覚大師帰朝図 |
円仁一行は、法王寺で一晩か二晩の宿を借り、また苦労の多い旅を続けて6月28日に揚州に到着している。しかし、揚州では帰国する船の幸便が得られず、山東半島の登州に逓送され、さらに文登県に送られた。そこで、総管の張詠(ちょうえい)大使に歓待され、法華院の庄院に寄住できるようになった。張詠はもと張保皐(チャン・ボゴ、ちょうほこう)配下の武将だった人物である。張保皐は、朝鮮半島西南海域にある莞島(ワンド)を拠点に新羅、日本、唐3国の海上権を掌握し、新羅の海上交易に大きく貢献した人物で、当時の中国に数多く居住する新羅人とも交易ネットワークを築き上げていた。円仁が9年半にもおよぶ長期の求法巡礼の旅を実現できたのは、張保皐の交易ネットワークの支援が背後にあったためとされている。
翌会昌6年(846)3月、武帝が崩じ、5月に新天子の宣宗が登極すると、大赦を行い仏教復興の勅が下された。 円仁は大中元年(847)8月15日、剃髪してふたたび僧侶の黒衣をまとった。そして、9月2日、赤山浦を出航して日本に向かう新羅船に乗船することができ、9月10日の夜、肥前国鹿島(しかしま)に無事安着することができた。こうして9年半におよぶ円仁の入唐求法巡礼の長旅は終わった。
朝日新聞は、円仁を遣唐使とし、石板の発見は2004年に西安郊外で見つかった井真成の墓誌に続いて、遣唐使の足跡を示す金石文発見の2例目としている。だが、正確な言い方をすれば、円仁は遣唐使ではない。最後の遣唐使となった承和5年(838)の遣唐使船で唐に渡った短期留学の請益僧(しょうやくそう)だった。だが、唐の朝廷は彼の留学を認めなかった。そのため、円仁は不法滞在を覚悟の上で唐に留まる決心をしている。
当時の天台教団は重要な課題をかかえていた。承和2年(835)に空海が公式に真言宗を立ち上げ、密教部門で天台宗の劣勢が明らかになった。そのため天台宗の密教部門の充実が求められていた。さらに、密教の導入によって法華経の教えと大日経の教えをどう整合させるかという教義上の課題もあった。そのため、円仁の兄弟子で第2代天台座主だった円澄は、当時42歳の円仁を請益僧に推薦し、遣唐使節たちとは別行動をとり、天台山に赴いて円密優劣論をはじめ、さまざまな教義上の疑問を解決してくることを命じた。
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| 円仁の旅行図 |
遣唐使船は、承和5年の7月2日に揚子江河口の揚州海陵県白潮鎮桑田郷東梁豊村に到着し、運河を遡って揚州に導かれた。しかし、円仁の滞在期間が短いことを理由に天台山巡礼は許可されなかった。そればかりか、遣唐大使とともに帰国せよとの命令まで下された。承和6年(839)3月、天子との謁見を済ませた遣唐使の一行は新羅船に分乗して楚州を出発し、帰国の途に着いた。しかし、当初の目的を果たせなかった円仁は、不法滞在を覚悟の上で山東半島の東端で下船した。そして五台山を始めとする彼の長い求法巡礼の旅が始まった。したがって、彼のその後の足取りを追う限り、円仁を正式の遣唐留学僧あるいは請益僧と見るのは当たっていない。
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