藤原宮朝堂院跡から次々と見つかる当時の遺構
藤原宮の大極殿跡の南側には、かって宮城の正庁にあたる朝堂院が存在した。過去の発掘調査によって、12の庁舎が東西2列に並んで築かれていたことがすでに確認されている。その中央に位置する広場は、朝庭(ちょうてい)と呼ばれ、元日朝賀などの儀式が行われる重要な場所だった。奈良文化財研究所(以下、奈文研)の都城発掘調査部は、その一画に新たに調査区を設定して、この4月から第163次発掘調査を実施していた。 調査区は、一昨年の第153次調査で憧旛の支柱跡や運河の斜行溝が発見された場所のさらに南側である(平成20年6月30日付け橿原日記と平成20年9月27日付け橿原日記参照)。その場所が発掘されていると聞いて、5月21日に散歩の途中に現場を訪れたことがある。発掘作業の真っ最中で、大勢の作業員が礫敷きの石を除去する作業に専念していた。 奈文研は今月の1日、その発掘現場から大嘗祭が行われた可能性が高い建物跡を検出したとマスコミに公表した。大嘗宮跡は平城宮跡では複数確認されているが、藤原宮跡では初めてである。実際に大嘗宮跡ならば最古の発掘例となる。昨日は午後1時半から現地説明会が行われた。あいにくの雨模様の天気だったが、423人の熱心な考古学ファンが説明会に参加したとのことだ。
今回見つかった建物跡は、掘立柱式の建物1棟だけで、大嘗宮を構成する建物跡のすべてではない。東西12m、南北3mのこの建物は、平安時代の儀式書「儀式」などに照らすと、大嘗宮の北東部に位置する膳屋(かしわや)だったと見られる。調査区を広げれば、その他の大嘗宮を構成した建物跡も発見されるようだ。今回の調査区では、さらに建物を囲んでいたと思われる塀の柱穴(直径50〜60センチ)約40個や、建物跡の西と北西で門の遺構とみられる大型柱穴(1辺90〜195センチ)4個も出土している。 |
(*1) 2010年7月2日付け読売新聞インターネット版より転記
(*2) 2010年7月2日付け朝日新聞インターネット版より転記
追記:藤原宮跡「大嘗宮」はなかった!(産経新聞 2010 11月18日(木) インターネット配信より転記) 奈良文化財研究所は11月18日、奈良県橿原市の藤原宮(694〜710年)跡から今年7月、天皇が即位儀礼を行う大嘗宮(だいじょうきゅう)の可能性がある建物跡などが見つかったとの発表内容が「全面的に誤り」とする異例の訂正発表を行った。 入所2年目の若手研究員を中心とする3人が作業にあたったが、誤認したといい、考古学の信頼性に疑問が投げかけられる事態となった。 7月の発表では建物跡や四方を囲う塀跡、門跡を確認したとし、「平城宮(奈良市)の大嘗宮跡と類似した構造」と説明。建物や塀を構成する柱穴が42基あるとしたが、藤原宮があった時代の柱穴は1基だけだった。 発表時は後世の水田耕作による溝の断面部分の土の色の違いなどを手がかりに「柱穴」と特定したが、石敷きを外して確認しておらず、奈文研は「異なる土が複雑に混ざり合っていたことなどで確認しづらかった」と“釈明”。発表前に幹部らがチェックしたが、確認できなかった。 「入土の中から出てくるものこそが原点」といわれる考古学で、架空の建物跡が“発掘”される事態が奈良文化財研究所で起こった。今回は訂正されたが、担当者のさじ加減で歴史がゆがむことになりかねない危険性を示した。奈文研という全国の発掘調査をリードすべき研究機関が、こうした「誤認」を引き起こしたこと衝撃は大きい。 問題の調査では、現場担当者らが、平城宮跡の発掘成果などをもとに「建物跡があるはず」と思いこんだ可能性も否定できない。 発掘では、過去の調査成果を参考に、さまざまな予測をしながら土を観察し、柱穴を検出するのがセオリー。だが一方で、「知識が先行しすぎると、存在しないものまで見えてしまい、架空の遺跡を作ってしまいかねない」(研究者)という危うさもはらむ。研究者の過信と、チェックできなかった組織の甘さが今回の事態を招いたといえる。 数十万年前の地層に石器を意図的に埋めた旧石器捏造(ねつぞう)事件が発覚し、考古学への信頼が揺らいでから10年。信頼回復に努めてきた考古学への不信感は再び高まりかねず、今回のケースを教訓に発掘への慎重さがさらに求められる。(小畑三秋)
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