橿原日記 平成22年7月4日

藤原宮の中枢部から見つかった我が国最古の大嘗宮(だいじょうきゅう)

藤原宮朝堂院跡から次々と見つかる当時の遺構

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5月21日時点の発掘調査現場


藤原宮中枢部の復元図
藤原宮中枢部の復元図(*)

原宮の大極殿跡の南側には、かって宮城の正庁にあたる朝堂院が存在した。過去の発掘調査によって、12の庁舎が東西2列に並んで築かれていたことがすでに確認されている。その中央に位置する広場は、朝庭(ちょうてい)と呼ばれ、元日朝賀などの儀式が行われる重要な場所だった。奈良文化財研究所(以下、奈文研)の都城発掘調査部は、その一画に新たに調査区を設定して、この4月から第163次発掘調査を実施していた。

調査区は、一昨年の第153次調査で憧旛の支柱跡運河の斜行溝が発見された場所のさらに南側である(平成20年6月30日付け橿原日記平成20年9月27日付け橿原日記参照)。その場所が発掘されていると聞いて、5月21日に散歩の途中に現場を訪れたことがある。発掘作業の真っ最中で、大勢の作業員が礫敷きの石を除去する作業に専念していた。

文研は今月の1日、その発掘現場から大嘗祭が行われた可能性が高い建物跡を検出したとマスコミに公表した。大嘗宮跡は平城宮跡では複数確認されているが、藤原宮跡では初めてである。実際に大嘗宮跡ならば最古の発掘例となる。昨日は午後1時半から現地説明会が行われた。あいにくの雨模様の天気だったが、423人の熱心な考古学ファンが説明会に参加したとのことだ。

発掘現場
「大嘗宮」の跡(*2)
念ながら、筆者は埼玉の自宅に戻っており、現地説明会には参加できなかった。だが、6年前に奈文研が実施した平城第367調査の現地説明会に参加したことがある。そのときは、称徳天皇(在位 764〜770)が天平神護元年(765)11月22日に行った大嘗祭で使用した大嘗宮跡の説明を受けた。今回検出された建物跡は藤原宮のものだが、その遺構の位置や配置が、平城宮跡で確認されている6人の天皇に関する大嘗宮跡とほぼ一致しているというので、現場を見なくても当時の様子がほぼ想像できる。

回見つかった建物跡は、掘立柱式の建物1棟だけで、大嘗宮を構成する建物跡のすべてではない。東西12m、南北3mのこの建物は、平安時代の儀式書「儀式」などに照らすと、大嘗宮の北東部に位置する膳屋(かしわや)だったと見られる。調査区を広げれば、その他の大嘗宮を構成した建物跡も発見されるようだ。今回の調査区では、さらに建物を囲んでいたと思われる塀の柱穴(直径50〜60センチ)約40個や、建物跡の西と北西で門の遺構とみられる大型柱穴(1辺90〜195センチ)4個も出土している。



大嘗祭は宮中の秘儀。それでも、その式次第は再現できる

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平城宮の大嘗宮配置
嘗祭とは、天皇が即位して初めて新穀を神に供え、神と共に食する儀式のことである。在位中一度だけ行われる重要な儀式で、11月の末の卯(う、ぼう)の日(十二支の第4番目)に行われることが決まっていた。即位が7月以前であれば即位した年の11月の末の卯の日に、即位が8月以降であれば翌年の11月の末の卯の日に実施され、官人立ちに対する叙位賜禄は未(ひつじ、み)の日(十二支の第8番目)に行われたという。

れに対して、天皇が毎年新穀を神に供えて共食する儀式は、新嘗祭(にいなめさい)と呼ばれている。新嘗祭と区別して大嘗祭の儀式が整備されたのは、天武〜持統朝(673〜697)頃のようだ。「新嘗」と区別した語としての「大嘗(おおにえ)」は、『日本書紀』の天武天皇2年(673)12月の記事に見え、これが大嘗祭の文献上の初出と考えられている。

嘗祭の祭場となる場所を大嘗宮(だいじょうきゅう)という。大嘗宮は東の悠紀院(ゆきいん)と西の主基院(すきいん)からなり、朝堂院の朝庭などに仮設された。大嘗の儀が行われる7日前に地鎮祭が行われ、悠紀院と主基院が5日間で造営され、大嘗の儀が終了すると、再び鎮祭の儀式を行なって建物は解体された。

悠紀院の推定復元イメージ
悠紀院の推定復元イメージ
紀院と主基院は東西対照の空間で、それぞれ正殿(大嘗殿)、御厠、臼屋、膳屋などの建物で構成され、周囲に柴垣を巡らす。臼屋は大嘗祭に供する稲を臼でひいて精白する建物、膳屋は臼屋でひいた米を炊飯し、お膳とともに配膳する建物である。

れらの建物とは別に、大嘗宮の北側の東西中軸上に廻立殿(かいりゅうでん)という建物が建てられる。天皇が湯を浴びて潔斎を行なうとともに、大嘗の儀の間に御斎所とする建物で、東二間の御湯殿と西三間の御所に仕切られている。


嘗祭は天皇家における秘儀であって、一般にはその詳細は外部からうかがい知れない。しかし、平安時代に作られた『貞観儀式』『延喜式』『江家次第』などの有職故実の書が残されており、専門家は大嘗祭の式次第がほぼ再現できるという。それを紙上で再現すると、次のようになる。

(1)4月に、大嘗祭の神饌(しんせん)の新穀を奉る国として、悠紀国(ゆきのくに)と主基国(すきのくに)がそれぞれ亀卜によって選ばれる。悠紀国は京都以東以南の地方から、主基国は京都以西以北の地方から選ばれることになっていた。
(2)8月上旬に、悠紀・主基両国に抜穂使を派遣する。抜穂使は造酒児(さかつこ)という少女と神官で構成される。
(3)9月に、稲穂を抜いて収穫し、抜いた稲穂を車に載せて都に運ぶ。
(4)11月にはいって、末の卯の日の7日前に大嘗宮の地鎮祭を行い、黒木(皮つきの丸木)造りの悠紀院と主基院、廻立殿を5日間で造営し、外側を芝垣で囲む。
(5)11月の末の卯の日、悠紀・主基正殿で大嘗の儀(*)を行う。

(a) 当日、天皇は午後7時頃内裏から廻立殿に出御し、ここで御湯殿の儀(潔斎)を行った後、着替えをする
(b) 午後8時半ごろ、悠紀院の正殿に向かい大嘗の儀をおこなう。
(c) 午後11時ころ、廻立殿に戻り、再び御湯殿の儀を行なう。
(d) 午前2時半ごろ、祭服に替えて主基院の正殿に向かい、再び大嘗の儀を行なう。
(e) 午前5時ごろ、天皇は廻立殿に戻って着替えを行い、内裏に還御する。

(6)大嘗祭が終了した翌日辰の日午前5時半ごろ、鎮祭の儀式を行い、悠紀・主基両国の人夫によって大嘗宮を解体し、地鎮を行う。
(7)翌日から3日間、節会を行う。

(*)大嘗の儀では、女官がご飯を入れた器と、御綱柏(みつながしわ)の葉で作った杯に酒を入れて、天皇に渡す。天皇はご飯の上に酒をかけ、柏の葉を開いて覆い、箸を突き刺して供える。これが神に対する新穀の供え方で、こうして神と共食することで、今年の収穫に感謝するとともに来年の豊作を願うとされている。


上の式次第から、天皇一代に一度の大祭として行われる大嘗祭は、天皇の廻立殿における「湯浴み」、悠紀殿・主基殿における「聖餐」と「就寝」という基本的な三つの行事が中心になっているのが分かる。「湯浴み」は禊ぎであり、湯によって心身をきよめることで、祭りをおこなう当事者が穢れをさけるための行為である。

聖餐」は、神と人との共食のことだが、大嘗宮では天皇と天皇の祖先の霊であるアマテラスとの共食をいう。「就寝」とは篭もりのことで、記録にれば大嘗宮の悠紀と主基のあいだにマドコオスフスマという寝具が用意されていて、天皇はこの寝具にくるまって休まれるという。このマドコオスフスマの儀礼は、子宮の羊膜につつまれた胎児の状態にもどり、新生児として誕生しようとする模擬行為だそうだ。

まり、大嘗祭では新しい天皇は大嘗宮に来臨している皇祖神・天照大神(あまてらすおおかみ)と初穂を共食し、かつ祖霊と合体して再生する所作を行う儀式である。聖別された稲を食することで天皇は国土に豊饒を保証する穀霊と化し、さらに天照大神の子としての誕生によって天皇の新たな資格を身につけるものと考えられていた。

世紀以後の大嘗祭は、次第にその儀礼性を高め荘厳化されていった。しかし王権の衰退で、16世紀初頭の後柏原天皇のときに中絶し、17世紀末の東山天皇の際に復活した。更にその後の中絶をへて、18世紀中葉の桜町天皇のときに再興され、明治、大正、昭和、平成と現代に受け継がれている。

原宮で即位した天皇は、文武(もんむ)天皇元明(げんめい)天皇の二人だけである。したがって、今回発掘された遺跡はどちらかの天皇の大嘗宮跡だったとされている。

瑠(かる)皇子または軽(かる)皇子と呼ばれた草壁皇子の遺児は、持統天皇11年(697)8月22日に祖母・持統天皇から譲位されて文武天皇として即位した。当時はまだ15歳という若さの初々しい新帝だった。しかし即位が8月だったので、この新帝の大嘗祭は翌年の文武天皇2(698)年11月己卯(23日)に実施された。一方、天智天皇の第四女で、草壁皇子の正妃だった阿陪皇女(あへのひめみこ)は、我が子・文武天皇の崩御の後を継いで慶雲4年(707)7月17日、第43代の元明(げんめい)天皇として即位した。『続日本紀』には、和銅元年(708)11月己卯(21日)に、この女帝が大嘗祭を挙行したと記している。


く知られているように、藤原京は日本史上最初の条坊制(じょうぼうせい)を採用した本格的な中国風都城である。しかし、平城京遷都までのわずか16年の短い都城だったにすぎない。平城京遷都によって宮城や寺院の主要建築は平城京に移築され、廃都はまたたくまに田園地帯となってしまった。一方、大嘗祭の儀式を行うために建設された大嘗宮は、わずか1日儀式のための仮設住宅にすぎず、儀式が終わればすぐに撤去されてしまった。その大嘗宮の跡がよく判別できたものと感心する。

っていたのは、門とみられる1辺約1・8〜2メートルの大型柱穴4基と、塀とみられる直径0・5〜1メートルの柱穴約20基、それに東西12メートル、南北3メートルの建物跡だけだった。あるいは朝堂院朝庭という場所は、本来は建築物など何も無いはずの礫敷きの広場だったからこそ、大嘗宮跡と判断されたのかもしれない。

文研は、「藤原宮の大嘗宮が後の時代の原型になった可能性もある」として、今後は「調査区の下層や南側の発掘を進め、建物配置や時期などを検証したい」としている。

れにしても、天皇家の秘儀にも等しい大嘗祭を行なう場所として、なぜ朝堂院の朝庭のような場所が選ばれたのであろうか。現代流に言えば、霞ヶ関の官庁街のど真ん中で、神事を挙行するようなものである。当然、一週間にわたって官人たちの朝堂院での勤務も差し控えられたであろう。多忙な官人たちにとっては迷惑な話だったはずだ。周囲には天香具山の山麓などもっと神聖な場所はいくらでもあったであろう。


(*1) 2010年7月2日付け読売新聞インターネット版より転記
(*2) 2010年7月2日付け朝日新聞インターネット版より転記


2010-07-04作成 by pancho_de_ohsei

追記:藤原宮跡「大嘗宮」はなかった!

(産経新聞 2010 11月18日(木) インターネット配信より転記)

良文化財研究所は11月18日、奈良県橿原市の藤原宮(694〜710年)跡から今年7月、天皇が即位儀礼を行う大嘗宮(だいじょうきゅう)の可能性がある建物跡などが見つかったとの発表内容が「全面的に誤り」とする異例の訂正発表を行った。

所2年目の若手研究員を中心とする3人が作業にあたったが、誤認したといい、考古学の信頼性に疑問が投げかけられる事態となった。

月の発表では建物跡や四方を囲う塀跡、門跡を確認したとし、「平城宮(奈良市)の大嘗宮跡と類似した構造」と説明。建物や塀を構成する柱穴が42基あるとしたが、藤原宮があった時代の柱穴は1基だけだった。

表時は後世の水田耕作による溝の断面部分の土の色の違いなどを手がかりに「柱穴」と特定したが、石敷きを外して確認しておらず、奈文研は「異なる土が複雑に混ざり合っていたことなどで確認しづらかった」と“釈明”。発表前に幹部らがチェックしたが、確認できなかった。

「入土の中から出てくるものこそが原点」といわれる考古学で、架空の建物跡が“発掘”される事態が奈良文化財研究所で起こった。今回は訂正されたが、担当者のさじ加減で歴史がゆがむことになりかねない危険性を示した。奈文研という全国の発掘調査をリードすべき研究機関が、こうした「誤認」を引き起こしたこと衝撃は大きい。

題の調査では、現場担当者らが、平城宮跡の発掘成果などをもとに「建物跡があるはず」と思いこんだ可能性も否定できない。

掘では、過去の調査成果を参考に、さまざまな予測をしながら土を観察し、柱穴を検出するのがセオリー。だが一方で、「知識が先行しすぎると、存在しないものまで見えてしまい、架空の遺跡を作ってしまいかねない」(研究者)という危うさもはらむ。研究者の過信と、チェックできなかった組織の甘さが今回の事態を招いたといえる。

十万年前の地層に石器を意図的に埋めた旧石器捏造(ねつぞう)事件が発覚し、考古学への信頼が揺らいでから10年。信頼回復に努めてきた考古学への不信感は再び高まりかねず、今回のケースを教訓に発掘への慎重さがさらに求められる。(小畑三秋)



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